天の園 地の楽園 第2部 第21話
佐藤邸は相変わらず沢山の人が過ごしていて賑やかだった。寮がわりに暮らしている社員達の話題は、もっぱら圭吾の愛人についてだ。
「今回はえらくもってるなー。九ヶ月だとよ、最新記録じゃね?」
「この間ちらりと見たよその人。すっごい平凡なの。でもなんつーかな……完全に男好きするってタイプだわあれ」
皆、言いたい放題で、あといくらもつか賭け事がされている始末だ。しかしその噂話も、プライベートスペースで勤務しているメイド達になると大分変わる。
「圭吾様もずいぶんひどいんではないの? 貴明様がお気の毒」
「恋人だった人が父親の愛人なんてね……。しかも今回は特別にナタリー様の許可が降りて、こちらでお住まいなんてのがとんでもない話よ。このまま無事で終わるとは思えないわ」
あすかは休憩所でひそひそと話をしている彼女達の横で、貴明の為にお茶を淹れていた。貴明付きの彼女は羨望の的だが、貴明についてあれこれ聞いてもあすかの口が固すぎるため、もう誰も貴明について聞いてこなくなった。
「恵美様がああなってから、圭吾様は手放しよ」
「ああいうタイプが好みだったんなら、今まで誰も長続きしなかったのがわかるわ。でも恵美様って本当に優しくて明るい方なのよね。この間なんか私、思わず人生相談しちゃった」
「ええ?」
「そしたらそれものすごく当たってたの」
楽しげにきゃっきゃと若い彼女達は笑いあう。あすかは黙って休憩所を出て、貴明の部屋のドアをノックした。しかし起きている時間帯なのに貴明の返事は無く、嫌な予感に駆られたあすかはそのままドアを開けた。すると何故か母親のナタリーが貴明をつれて出てきた。
「あら……、ちょうどいいわ、貴女もいらっしゃい」
「あの、どちらへ?」
「圭吾の部屋よ」
「…………」
事情を知っているあすかは唇を強く噛んだ。自分にその権限があったなら絶対に貴明を圭吾の部屋になど連れて行かない。しかしあすかは黙って貴明の後ろについた。
貴明はナタリーに言った。
「……恵美は元気なんですか?」
「ええ、とても元気よ。貴方は実際に見ないと納得しないと思ったから連れて行くの。ああ、貴女はここで待っていなさい」
あすかだけが部屋の外に待たされた。一体何を企んでいるのだかと貴明はいささか警戒しながら、入りたいと一度も思った事の無い圭吾の私室に入った。やはりメイド達のうわさどおり、どこの王侯貴族だと言うような過度の装飾と調度品に満ちている。モダンで質素なものが好きな貴明は部屋に入っただけで気分が悪くなった。貴明の姿にメイド達が驚いたが、ナタリーの姿を見ておとなしく貴明を通した。
「圭吾……、恵美さんは起きていて?」
開いているドアにノックしながら、寝室の方へ入っていくナタリーを貴明は見送った。寝ている部屋など入りたくも無い。
「本を読んでいるが」
相変わらず嫌に低い声だ。貴明は入りたくなかったがナタリーが手招きをするので仕方なく足を踏み入れた。そして信じられないものを目にし、棒立ちになった。
「な……」
圭吾が恵美を自分の膝に座らせてテーブルにつき、大きな画集を見ていた。長い腕が恵美の細い腰を回り込んでしっかりと抱き、その腕に恵美の小さな手が乗せられている。
「貴明を連れてきたのよ。いくらなんでもこのままというわけにはいかないわ」
「ああ、そうだな……」
冷たく言うナタリーに、圭吾は恵美を膝から下ろした。
「貴明、こんな事は言いたくないのだけど……あ!」
「貴明様!!」
怒髪天を衝いた貴明はナタリーを押しのけ、恵美の腕をがしりと両方掴んだ。
「恵美、どうしてこんなところに戻ってきたんだ! ここを出るよ」
「あ……の」
貴明の鬼のような形相に恵美が戸惑っている。異常な状況を打破しようとしない恵美の暢気さに貴明はいらいらした。
「こいつらが今の恵美の境遇の元凶だよ!」
「離してっ!」
恵美に突き飛ばされた貴明は、一瞬何が起きたのかわからなかった。恵美は貴明を汚らわしい物を見る目つきで睨み、圭吾の腕にしがみついた。
「め……」
「圭吾、ナタリー様この人誰ですか?」
伸ばしかけた手を貴明はそれ以上伸ばせなかった。今何かおかしい言葉を聞いた気がする。呆然としている貴明の前で圭吾が恵美を抱き寄せ、あの長い黒髪を優しく撫でた。
「これは私の義理の息子だ」
「あ、ではナタリー様の……」
「すまんな、最近まで病気療養をしていたんだ。ちょっと興奮しているのだろう」
どう見ても、目の前の恵美は圭吾に甘えている。何故あんなに怖がっていたのにこんなふうに接しているのかわからない。ナタリーが小声で貴明に囁いた。
「彼女、記憶障害になってしまったの。貴方の事だけ綺麗に忘れて、どういうわけか圭吾を恋人だと思い込んでいるわ」
「どうしてですか」
「事故だったのよ。医者はそのうち記憶は正常に戻ると言ったけど、もう一ヶ月近くもこのままだわ」
ナタリーはそう言いながら、恵美に向かって圭吾と貴明を二人にしてやろうと言い、恵美の手を引いて部屋を出て行ってしまった。残された圭吾に貴明は怒りを露にした。
「事故とはどういう事だ」
「……軽いものだったんだが、悪い場所を打ったようだ」
「そうじゃなくてどうして事故に遭ったりしたんだ!」
突っかかる貴明の前で、圭吾は煙草に火をつけて燻らせた。貴明は煙草の火を見て、その先を圭吾の目に押し付けてやりたい気分に駆られる。
「私から逃げようとしたんだ。しかし、失敗して、何故かお前を忘れて私を愛するようになった」
「お前らは一体何をしているのかわかっているのか! 会社の人間じゃなかったらどう扱ってもいいってのか、ふざけるな!」
貴明は圭吾の口から煙草を奪い、そのままテーブルの上に押し付けて火を消した。するとその瞬間に圭吾が貴明の足を払った。まだ足をひきずっている貴明はそれを避け切れずに床を転がり、まだギプスが巻かれている左腕を靴の裏で踏まれた。
「……っ!」
貴明は痛みに歯をくいしばった。
「やはりお前は廃人にしたほうが良かったのではないか……。このまま腕をつぶしてやってもいいんだぞ」
「貴様……ぐあっ!」
ゴンゴンと靴裏で叩かれて振動で痛みが走り、貴明の額に脂汗が浮いた。先ほどまで恵美に見せていた笑顔を消し、酷薄な冷たい顔になった圭吾が言った。
「恵美の事はずっと私が生涯面倒を見るから、お前の存在は不要だ。確かにこうなった原因は私とナタリーにあるのだからな、これで満足か?」
「そんなわけ……あぐっ……!!」
腹を蹴られて貴明は床の上を転がった。左腕の痛みがひどくて声を出すのも困難だ。
「恵美を連れ出そうとしても無駄だ。お前は傷を治すのに専念して、がんばってこの佐藤グループの後継ぎになるべく励むのだな。そうでなければお前はただの負け犬だ」
「く……」
喘いでいる貴明に圭吾の嘲笑が降ってきた。
「無様なものだな。こんな馬鹿が跡継ぎとは先が思いやられる」
部屋を出て行く圭吾に殴りかかりたくても、貴明はすさまじい痛みに身動きすらできなかった。軽い足音共に医師とあすかがやってきて、医師が貴明の左腕を診察した。
「……これは痛かったろう」
「…………」
恵美も診ていたその医師は、じっと痛みに耐えている貴明に痛み止めを注射してくれた。少し悪化したようだと言い、ギプスを新しくはめなおし、汗がひどいから落ち着いたら身体を拭いてもらうようにと言い置いて部屋を出て行った。