天の園 地の楽園 第2部 第22話

 あすかに介助されて自分の部屋に戻った貴明は、左腕の痛みは治まったが心の痛みは激しくなっていく一方だった。

 汗びっしょりになっている貴明にあすかが気遣わしげに言った。

「貴明様、落ち着かれたご様子ですのでお身体をお拭きしましょうか?」

「……そうする」

 本当はこのまま寝てしまいたかったが、あすかがあまりに不安そうなので笑顔を無理に作って言う事を聞く事にした。ベッドで服を脱いだ貴明の身体をあすかが蒸しタオルでせっせと拭いてくれると、さっぱりとして気持ちが良くなった。

 服を手伝ってもらって着た貴明は礼を言った。

「ありがとうあすか」

「いいえ。それよりお茶をどうぞ」

 好きな温度の少しぬる目のお茶に、あすかの心遣いが温かく胸に染み入った。思えばあすかは不思議な女だ。貴明を狙ってメイドになったのなら、大抵身体を重ねたらもっとわがままになってああだこうだと束縛するはずだ。しかしあすかは常に一歩引いた態度を崩さない。あきらかにあすかは貴明を愛しているのに、決して気持ちや待遇を要求しないのだった。

「あすか」

「なんでしょう?」

「僕の傷が治ったら……、もうメイドは辞めて実家へお帰り。借金の事はもう解決したんじゃ無かったかな」

「貴明様……」

 貴明は恵美の為にあすかを利用しただけだ。そんな自分の為にあすかの人生を縛るようなまねはしたくない。今回も貴明のせいで多数の男達に乱暴されそうになったのだから。

 しかし、あすかは首を横に振った。

「いいえ。家に戻ってもまたどちらかに行かされるだけですから。一から覚えるのは面倒ですので、数年はここにいる予定です」

「あすか、でもね……」

「今回の件は貴明様が私を庇われたせいです。それだけでも心苦しいのに、今の傷ついた状態の貴明様を置いてはいけません」

「…………」

 

 一瞬遠い目をした貴明は、あすかにまた礼を言ったが顔を背けた。ひどく自分がみっともなく惨めでたまらなくて恥ずかしかった。

「……ごめん。今は優しくする自信が無いから一人にしてくれる?」

「はい……」

 ぱたんとドアが閉まった後、貴明は右手の拳で思い切りベッドを叩いた。やりきれない怒りと激情で全身が震え、どうにかなってしまいそうだ。そんな貴明をあざ笑いに来たのか、母親のナタリーがノックも無しに部屋に入ってきた。

「貴明」

 その呼びかけを貴明は無視した。めずらしくナタリーはおろおろしているようだったが、貴明の知った事ではない。

「貴明、恵美さんの事はもう圭吾に任せましょう」

「……貴女は馬鹿ですか。社員達の前で愛人をのさばらせてどうするんです」

「そうね。でも私も圭吾も責任を感じているの。恵美さんを追い詰めたのは私達なのよ」

「へえ……、そしてあの二人に子どもが生まれてもいいんですか」

 痛烈な貴明の皮肉に、ナタリーはいつもの調子を取り戻したようだ。

「……構わないわ。それで圭吾が幸せだというのなら」

 貴明はまじまじと母親を見上げた。自分にそっくりな美しい母の顔は、いつもと全く同じで感情が読めなかった。

「……人の犠牲の上に幸せがあるのだと思ってるんですか?」

「誰しもそうよ。恵美さんはしばらく愛人待遇になるけれど、きっと幸せになれるわ」

「本気で言っているのなら、貴女は……恐ろしく冷たい人だ」

 少しは母親であると信じていたかった貴明は、大きな失望にうなだれてうつむいた。唐突に恵美の母親の房枝を思い出す。明るくて朗らかで、一緒の部屋に居るだけで安心して眠ってしまいそうになるあの母親が居る恵美を、貴明はどれだけうらやましく思っただろう。そしてそれは恵美に確実に受け継がれていて、勝気な中にある確かな温かさに貴明は猛烈に焦がれていた。

 佐藤ナタリーは母親である前に企業家なのだ。その体面を保つためなら息子ですら犠牲にする。貴明は抑えていた怒りが爆発しそうになり、かすれた声で言った。

「出て行ってください」

「貴明、恵美さんの事は忘れなさい、貴方にはもっと貴方にふさわ……」

「黙れ!」

 貴明はサイドテーブルに置いてあった茶碗を床に叩きつけた。茶碗は木っ端微塵に砕け散り、ナタリーは感情を剥き出しにした貴明に怯えて口をつぐんだ。貴明はいつも冷静で落ち着いた息子だった。

 その息子が、今初めてその牙を剥き出しにする。

「僕はあんたたちのロボットじゃない。どこまで支配すれば満足するんだ! どこまで心に土足で入り込んでくるんだ、いい加減にしろ!」

「貴明聞きなさい、私は……」

 貴明は足を引きずって部屋を出た。もうこんな家に居るのは真っ平だった。ナタリーが何かを言いながら必死で後を追いかけてきたが、無視して執事に車を出すように命じた。しつこくナタリーが愚にもつかない正論を述べても聞きたくない。車がつけられる正門前まで行こうとした貴明は、ふと足を止めた。

 サンルームに居る恵美と圭吾だった。腰に腕を回された恵美が、花に囲まれて幸せそうに笑っている。圭吾だけが貴明に気づいて優越感に満ちた笑みを浮かべ、恵美の頭に口付けた。

「…………っ!」

 そして気づいた。恵美の手にあのダイヤの指輪が無い事に。

 ふらふらと貴明はその場を離れ、再び表玄関へ向かった。ナタリーはもう何も言わず貴明の後をついてくる。

(裏切られた……奪われた……完全に)

 表玄関へ着くのと同時に車が回されてきて、運転手が後部座席を開けた。貴明は乗り込んでドアが閉まる寸前にナタリーに言った。

「……ご心配なく。大学にも行きますし、秘書も続けます。どこへ回されてもきちんと仕事をします。これで満足でしょう?」

「貴明……私は…………」

 まだ何か言いたげなナタリーを残し、貴明はドアを閉めさせて車を発進させた。

 恵美の指に煌めいていたエメラルドの指輪が脳裏をよぎる。自分のプレゼントした指輪は捨てられてしまったのだろう。それが貴明の心をこれ以上はないというほど傷つけた。 

(結局は僕だけが蚊帳の外か……)

 車の窓越しに差し込む冬の太陽は、ひどく弱い陽射しで貴明を照らした。透明な涙は水晶のように輝き貴明の頬を滑っていく。雲がやがて太陽を完全に覆い隠し、再び雪が舞ってきた。

 貴明はマンションへ着くと、一ヶ月近く留守にしていたため篭っている部屋の空気を換気するために、窓をすべて開け放った。ベランダに出ると身体全体が冷たい空気に冷やされていく……。

「この上はね、佐藤グループの跡取りが住んでるのよ」

「へえ」

 下の階から瑠璃の話し声が聞こえてきた。自分ではあるまいし、この寒いのに窓を開けて何をしているんだろうと貴明は耳を澄ませる。相手の声は低く、男と話しているらしかった。

「テレビで観た事あるぜ。お前、確か見合いしたとか言ってなかったっけ?」

 はすっぱな瑠璃の笑い声が聞こえた。

「つきあってなんかいないわ。ただのカムフラージュ。彼の本命はチビでさえない平凡な女よ。女の趣味が最悪だったわ」

「瑠璃より美人なんて、そうそういないって」

 静かになった。貴明がそのまま聞き耳を立てていると、瑠璃の笑い声がまた聞こえた。

「だから私、佐藤社長に言ってやったの。貴明さんは恵美さんって女とマンションにいますよって。そりゃあもうお怒りになったらしくって、御曹司は今、大けがで表に出られたもんじゃないんですって! きゃはははは」

「ワルだなあお前。佐藤社長っておっかないで有名じゃないか」

「構いやしないわ。佐藤貴明みたいな男をめちゃくちゃにするのって、気分爽快。あの女もね」

「知らないぞ? 御曹司の方だって、そうとう恐い奴だって聞いたけど」

「ふん、何が出来るの? 私は鹿島瑠璃。私のパパの会社は佐藤グループより格が上だわ」

 貴明は静かに窓を閉め、リビングに置かれている大きな鏡を見た。鏡の向こうで自分が見つめ返してくる。その茶色の瞳は凍てついたまま、冷たい炎で燃えていた。恵美が恐れていた冷たい心の闇が、そっくりそのまま浮かび出ている。

 貴明はその目をそっと指先でなぞった。

「あの女……どうしてやりたい? それ相応の報復は当然だよね? ええ?」

 自分は愚かだった。瑠璃の様な他人に、恵美との計画をばらすべきではなかったのだ。

「お前の父親の会社がなんだって? ……恐くないよそんなものは」

 貴明はくすくす笑って、鏡の中の自分を撫でた。

「全て復讐してやる。全て」

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