天の園 地の楽園 第2部 第28話
「……何の用だ?」
社長席についている圭吾に貴明が冷たく言った。圭吾は椅子の背もたれに背中を預けているが、決してリラックスしていない。二人の間にはぴりぴりとした空気が走っていた。
「お前は、恵美を愛しているはずだな?」
「ああ」
「何故殺そうとした?」
その言葉に貴明はくすくす笑い出し、同じ部屋に居たナタリーがぎょっとして仕事から顔をあげた。
「恵美、生きてたんだ。残念だね」
圭吾は机を右拳で叩いた。
「お前、本気で言っているのか?」
「本気だよ。消えてなくなってしまえばいいって思った。そうか死んでなかったのか、残念だよ本当に」
笑いをおさめると貴明は恐ろしく凍てついた瞳になり、それを見た圭吾は春だというのに冷気を感じてぞっとした。
「お前は当分屋敷に帰るな。今日中に部屋の荷物をまとめろ。そしてこれからはマンションからこちらへ来い。お前の息のかかったメイド長は首にしたが、石上あすかは、恵美が妊娠しないように手配をしていたから許してやる」
「…………」
貴明は二度目のあすかの裏切りを知ったが、目を細めただけで何も言わなかった。何故そこまでして自分を救おうとするのかわからない。あすかの聡明さの前に貴明はいつも無力だ。
「今日から総務二課に転属させる。もっとも、当分は学業に身を入れてもらわなければならないがな」
そこは佐藤グループ内では閑職とも窓際ともいわれる部署だった。傍目には惨めな左遷と言えたが、貴明は黙って頭を下げて部屋を出て行った。
静かにドアが閉まると、圭吾は椅子の背もたれにぐったりと凭れた。
二人はお互いを嫌いぬいている。恵美を挟んで、憎しみの炎の勢いは激化した。
貴明は圭吾を父親として認めていない。年の差もさながら、あきらかな成り上がりぶりが気に入らないのだ。さらに母を差し置いて女を渡り歩いた上、最愛の恵美を奪った、殺しても殺し足りない程憎い男だろう。
圭吾は最初から貴明を会社の駒にしか見ていない。その蔑む目が目障りで、結婚後すぐにアメリカに貴明を追いやった。ナタリーの要請で仕方なく日本に呼び戻したが、冷たい表情で何を考えているのか分からない不気味な存在だ。
弱点の恵美が現れるまで、圭吾は貴明が感情的になった所を見た事も聞いた事も無かった。
「恵美さんは大丈夫なの? 貴方と同行していたせいで知らなかったわ」
それまで黙っていたナタリーが、自分の机から圭吾に言った。
「妊娠なら問題ない、昨日月のものが来たらしい。それより……記憶の事を気にして始終ぼんやりとするようになった」
「…………」
圭吾はどうしても冷たくなりきれない自分がはがゆかった。どうすればいいのかわかっている。それは無視して押し通せばいい。記憶がない状態が続くほうが、自分の想いも崩れずにすむ。しかし……。
「近いうちに滋賀へ行く」
「貴方!」
驚いて立ち上がったナタリーに、圭吾はうなずいた。
「元から報われる見込みの無いものだ。それなら自分で何とかしようと思う」
「……圭吾」
「私を愛してくれる人間は居ない。それだけの事を私は沢山してきた。だから、もういい」
よろよろとナタリーが椅子に座ったのを訝しんだ圭吾は、初めてナタリーが涙を流すのを見た。それはほんの一筋だけで、ナタリーはすぐにハンカチで自分の涙をぬぐったが、圭吾は本人以上に動揺した。彼女が会社と貴明の事以外で感情的になった事は一度も無い、まして泣いた事も無かった。
「私が貴方を愛せたなら、貴方がそんなふうに苦しまずにすんだのよ」
「今更何を言う」
「ええ、そうよ。私は有能な貴方が欲しかった。だから私を慕う貴方を利用した。何度も受け入れようかと思ったけど、どうしてもできなかった。だって仕方ないじゃない……、貴方に手を伸ばそうとするたびに死んだ雅文が出てきて睨むのだもの」
目頭をハンカチで押さえたままナタリーが俯いた。
「死んだら恋が終わるんだと思ってたわ。でも終わるどころかひどくなるの、叶わない想いほど辛くなるの……。だからあの子の気持ちは良くわかるし、貴方の気持ちもわかるわ」
「…………」
「どうして神様は一組ずつを恋人にされないのかしら。殺したり引き裂いたりしてあぶれる者を作るのかしら 」
「貴明と恵美を引き裂くように言ったのはお前だ」
「ええそうよ。でも、あれしきの事で引き裂かれるような縁なら無いのも同じよ」
「ずいぶんと自分勝手な理屈だ」
圭吾が苦笑すると、ナタリーは自分自身に吐き捨てた。
「……それが私の実家のシュレーゲルの血よ。弱い者をあの一族は決して認めない」
ナタリーの会社を思う気持ちは純粋で、その鉄のような意志に圭吾は応え続けてきた。一緒にいたいと思ったからこそ、身体の関係が無い結婚も了承した。初めて見たナタリーの弱さに、彼女を抱きしめたい衝動に圭吾は駆られたがじっと耐えた。
「私は幸せだ。恵美に出会えたのだから」
そしてこのような時間を持てたのだからと言う言葉は、声にならないまま圭吾の口の中で消えた。
「それは彼女が思い違いをしているからよ。馬鹿だわ貴方は、自ら恋を破滅させるなんて……」
「……それでもだ」
そう言って穏やかに笑う圭吾は、ナタリーが初めて見る圭吾だった。
「貴明様」
「…………」
待っていた自分を無視して部屋に入る貴明を、あすかは必死に追いかけた。
「貴明様!」
ソファに座った貴明に、あすかはにっこりと笑いかけられた。でもその笑顔が作り物である事をあすかは知っている。貴明は今、その純粋な天使の微笑みを向ける相手を持たない。相手を欺く時を除いては……。
「貴明様、何故恵美様を! ひどいです。貴方は恵美様の記憶を取り戻したいとおっしゃいました」
「恵美はもう二度と記憶なんて戻らない」
微笑みを浮かべたまま貴明が静かに言った。あすかは首を横に振る。
「そんなはずはありません! 必ず戻る日が来ます! ですからあきらめては……っ」
「戻る日が来たら……そんな日が来たら、僕は最高に笑ってやるよ。思い知ればいいんだよ恵美も親父も。憎み合うべきのお互いが、愛し合ってたって事になってた残酷さをね」
貴明はソファに寝転がり、右腕を腕枕にした。
「今の幸せが砂のように崩れて消え失せる……。その瞬間をあの二人に味わってもらいたいのさ。だから今はせいぜい愛し合ったらいいんだ。子供もできてしまえばいい。昨日気付いたんだ、僕の子供を産むよりその方が僕の復讐は成り立つ。だから殺すのは止めたんだよ」
あすかはあまりの恐ろしさに声が出ない。なんと言う事を……と思う。どこまで貴明は自分を傷つけたら気がすむのだろう。恵美が傷つけば傷つくほど、貴明も同じように傷ついているのに。
「あすか、おいで」
優しい声で貴明があすかに手招きをしたが、あすかは動かなかった。こんなに壊れてしまった貴明を見ているのは辛い。しかし貴明に腕をつかまれてソファに組み伏せられた。
「あすか、お前だけだよ。僕を裏切らない人間は」
はっとするような寂しい声だった。あすかは貴明の胸に顔を押し付けられたまま、じっと次の貴明の言葉を待った。
「……僕には、もうお前しか居なくなった」
「いいえ、ご存知でしょう? 私は恵美様にお薬を渡していました」
「知ってる……でも、いい。僕にはわかってるんだ、僕と恵美は……」
貴明の言葉が唐突に途切れた。
「貴明様?」
抱きしめた腕を緩められ、貴明の顔を見たあすかは切ない思いに胸が痛くなった。天使の微笑みは消え、寂しい悪魔だけがそこに居る。
「しばらくこっちには帰らないよ。でも、呼んだらマンションまで来てほしい」
おそらく呼ばれる事はないだろう。次に貴明が屋敷に戻ってくる時は、彼の恋が完全に終わる時だ。そして自分の恋も終わる……。だからせめて、この愛しい人を自分に焼き付けよう。
もう外は暗く、貴明が照明を消すと部屋は真っ暗になった。貴明はひょっとして今、恵美とあすかを重ねているのかもしれない。でもそれでもあすかは構わない、どちらにしても貴明が自分を抱いているのは現実なのだから
あすかは貴明の愛撫に身を委ね、甘い快楽に落ちていった。