天の園 地の楽園 第2部 第32話

 妊娠七か月に入ったお腹は大きくせり出してきて、恵美はたっぷりと布幅がある妊婦服を着るようになった。しかし、圭吾の趣味でレースがたっぷりのワンピースばかり着せられて人前に出るのが恥ずかしくなり、人影を避けてこそこそと行動している。メイドや屋敷の使用人達が、『恵美様のお姿を見られた日はラッキーな事が起こる』と言う程だ。
 そんな恵美のお気に入りの場所が、中庭に面したサンルームだった。外へ出る事なく四季折々の花が咲き誇る庭を見る事ができ、なおかつ人が殆ど居ないから今の恵美にとってはオアシスだ。しかし今日は先客がいた。半年以上会っていない貴明と、見知らぬ美しい女だった。漂う気品と着ている服がとても上品で洗練されていたので、すぐに上流階級の女だとわかった。貴明より女の方が先に恵美に気づいた。
「可愛い方ね。こんにちは」
 貴明がいるのですぐに部屋を出て行きたかったが、恵美はしかたなく挨拶をかえした。冷たい表情の貴明とは正反対に女は嬉しそうに微笑み、鈴を転がすような美しい声で名乗った。
「わたくし、小野寺初美と申します。先月から貴明様とおつきあいさせていただいておりますの」
 それを聞いた瞬間、恵美の心の中で何かがはっきりと断ち切られた。
(貴明の……新しい恋人?)
 訝し気な顔を初美がしたので、恵美ははっとした。
「そ、そうですか。私は小川恵美です」
 名前を聞いた初美は驚いた顔をして恵美を見た。視線が膨らんだ恵美の腹部に落ちていく。
「まあ……貴女が圭吾様の……」
 その視線は、恵美がこの屋敷でどういう位置に居るか知っているものだった。愛人風情が我が物顔に歩いていると思われたのに違いないと思い、恵美の胸はきりきり痛んだ。
「とてもお若く見えますのに、ねえ貴明様」
「ええ、貴女より四つ下ですよ。……恵美、今日の午後は、サンルームに誰も入るなと言ってあったはずだ」
 
 貴明は初美には優しく言ったが、恵美には冷たい口調になった。恵美はそのような言伝は聞いていない、メイドが恵美に伝え忘れたのだろう。だが貴明が怒っているようなので黙って頭を下げた。
「すみません。花が見たかったものですから」
「花なんて部屋にたくさん飾ってあるだろうが。やたらと屋敷の中うろつくな」
 あまりに冷たい貴明の物言いに、初美がとがめた。
「貴明様、そんなにおっしゃらなくても。きっと恵美様はご存じなかったのよ。そうですよね?」
 初美は本当に優しい性質らしく、言葉の端々に恵美に対する思いやりが溢れている。貴明の新しい恋人のやさしさに触れて、恵美はホッとしながら頭を下げた。
「いいえ、私が配慮が足りず、すみませんでした。どうぞごゆっくりなさってください」
「はやく帰れ。そんな格好でうろつくな、みっともない」
 貴明に言われるまでも無く、恵美は急いでサンルームから出た。一割の寂しさと九割の喜びでなんだかうきうきした。
(これでいい、これで良かったんだ。やっと貴明は貴明にふさわしい女性とおつきあいしている……)
 記憶を失う前の自分だったら、辛くて苦しくてどうにかなっていただろう。でも今は圭吾がいる。恵美は足早に自分の部屋へと続いている廊下を歩いた。そして今日はやけに廊下で出会う人間が、自分を物珍しそうに見るのに気付いた。
(隣の本社の人達? 今日催し物が屋敷内であったのね。知らなかったわ)
 舌打ちしたい気持ちだった。不愉快なものを自ら引き寄せてしまったと後悔したがもう遅い。それは直ぐに恵美の耳に届いた。 
「ほら、あの子よ……社長の愛人!」
「へえ、妊娠してる」
「やるわねえ、子供まで作るなんて」
「不倫しているくせに堂々としてるなんて、厚かましいんじゃないの? 何よあのえらそうな態度。会長がお気の毒よ」
 覚悟はしていたが直面すると傷ついてしまう。自分は仕方ないが子供に申し訳ない。今現在、圭吾はナタリーと婚姻していて、恵美は圭吾の配偶者になれない日陰の身なのだ。今度生まれる子供は恵美の戸籍に入るだけで、圭吾が認めたとしても『婚外子』として周囲に認知されるのみで、これから愛人生活が十五年続く……。
 仕方ないのだ。それでも圭吾のそばに居たいと願ったのは他ならぬ自分なのだから。
 恵美にサンルームの件を言い忘れたメイドが、慌ててプライベートスペースから出てきた。
「め、恵美様申し訳ありません。本日は」
「何かあったかな? 人が多かったわ。楽しかった」
 恵美が傷ついたと知ったら、圭吾はこのメイドを罰するだろう。だから恵美は何も無かった風に振舞った。メイドは申し訳なさそうにしながらも、安心した顔つきになる。これでいいと恵美も安心した。部屋に戻ると、休憩中の圭吾がソファで横になって眠っているのを起こさないように、静かに隣のベッドルームに入った。ここまでくればもう安心だ。どうしようもなく社員達の言葉に傷ついていた恵美は、やっと涙を零して俯いた。
(世間に反した行いなんだから言われて当たり前なの! いちいち泣いてどうするのよ。強くならないと駄目じゃない)
 自分を叱り付けても涙は止まらず、改めて自分の弱さにうんざりした。これでは圭吾に心配をかけるだろうし、許してくれているナタリーにも悪いだろう。
 ふと、さっきの貴明を思い出した。
(貴明、私がこんな目に遭うのがわかってたから、さっきあんなに怒ったんだ) 
 元の貴明に戻っているのだと気づくと同時に、こんな自分に注意を促してくれる貴明がありがたかった。結局貴明は恵美にはいつも優しいのだ。自分を捨てた女などもっとひどい目に遭わせてもいいだろうに、未遂に終わったが、殺されても文句を言えないくらい貴明を傷つけたのだ。
(ごめん……、ありがとう貴明)


 夕方、社員達が皆帰った後、恵美は圭吾と再びサンルームに行った。恵美は一日の時間で一番好きなのは夕方だ。なんともいえない懐かしさがひどく自分を幸福な気分にさせてくれる。隣に愛する圭吾が居たらなおさらだ。
「夕日が好きなの私」
「それはわかる。私もそうだ」
 隠し事もなくすべてを共有している二人に、穏やかな時間が流れていく。強く結ばれた圭吾と恵美は、傍目にも幸せそのものだった。


「あら、圭吾様と恵美様では?」
 外食に出かけようとしていた貴明は、初美の声でサンルームに居る二人に気づいた。一人で泣いた日から半年近く経っていて傷も癒されたと思っていたが、いざ目の前にすると未練がましく恵美を想っている自分に気づく。二人が幸せそうにしているのを見るのは、やはり胸が抉られる気分で、貴明の口調は自然冷たいものになってしまう。
「ああそうですね」
 初美は貴明を見上げた。どうも貴明の言動は、恵美に関わると妙な素っ気無さと熱が入る。彼女は生粋のお嬢様で瑠璃のようなはすっぱな物は持ち合わせておらず、無垢で繊細な心を持っていた。そして貴明以上に人の心の機微に敏感だった。ちらりと見る貴明の茶色の瞳は揺れていて、小さな怒りの炎が見える。
 お見合いをした時は、噂以上に綺麗で優しい貴明に有頂天になった。そんな初美に父親がそれとなく貴明の家庭の事情を耳打ちしたが、それすらも気にならないほどだった。時折見せる寂しそうな横顔が気になりはしたものの、貴明は初美をいろんな場所へ連れて行ってくれたし、新しい世界へ導いてくれた。まめに会ってくれるので仕事や大学は忙しくないのかと聞くと、課を移動したから大丈夫だと言う。
 その実、貴明は総務二課から今度は一課に異動になっていた。会長のナタリーは二課の実情を知る為に、社長の圭吾を通じて息子を二課に異動させたのだが、提出されてくるデータや書類が皆貴明の手によるものになり、さらに異動してからの貴明の連日の深夜残業を警備員から聞き、すぐに課の連中の怠慢を悟った。前々から存在を疑問視していた課だったので、ナタリーはそれぞれの尻尾を押さえてから行動に踏み切った。
 貴明をいじめ尽くした連中は全員クビになり二課は廃止された為、貴明は一課へ異動したのだがそれは初美の知るところではない。総務一課は二課と違う風通しのいい課で、仕事は格段に楽になった。だから貴明は表向きには元気に過ごせるというわけだった。
 車を運転している貴明に、初美が夕日に照らされながら言った。
「貴明様は……まだ恵美様を愛していらっしゃるのね」
「どうしてそう思うんです?」
 くすくすと初美は笑った。まるで母親が子供を笑うような優しい笑いだった。
「私は一途に貴明様をお慕いしておりますのよ? だけど……残念ですわね、貴方はお優しいけれどそれだけみたい……」
 それきり初美は黙り込んだ。貴明も何も言わず、二人は黙ってドライブを続け、車はやがて海沿いのレストランの駐車場に入った。その頃にはもう夕日はすっかり落ち、闇があたりを包みだしていた。貴明は車のエンジンを切ったが外に出ないまま、助手席におとなしく座っている初美に言った。
「優しいのは愛ではないのですか? 貴女と僕では結婚は成り立ちませんか?」
「私ではありませんね。貴方の天使のかたわれは。そしてそれはあの恵美さんでもないんですわ。貴方はそれをおわかりのはずです」
 たおやかで世間知らずな初美は、思ったより人間の観察眼に優れているらしい。少し遠くに見えるレストランの明かりを見つめながら、貴明は深く車のシートに沈み込んだ。
「あの義父が、恵美にふさわしいと?」
「貴方にとっては残念ながら……」
「命掛けて愛しても?」
「残酷ですわね。でも良かったと思いますわよ、結婚される前に気付かれたのですから」
 別の車が駐車場に入ってきて通り過ぎていく。明るいライトが貴明の傷ついた横顔を浮かび上がらせたが、すぐに見えなくなった。
「恵美は結婚にイエスと絶対に言ってくれなかった。条件をそろえてもやはり駄目でした。身体を重ねても心を全て捧げても、彼女は友達以上にはなれないといつも言いました。それがどうしてもわからない。彼女は僕の義理の父親に全てを奪われました。憎い相手を彼女は愛しているんです。憎い相手の子供を産むというんです……僕にはわからない」
 額に手を当てて俯く貴明に、初美が優しく言った。
「人を愛するのに良い悪いはないのだと、私は思います。強く惹かれたならそちらになびいてしまうのは当然でしょう」
「あの佐藤圭吾に彼女は強く惹かれたと?」
「ええ」
 深く深く貴明はため息をついた。
「まだ私も貴明様も若いんですもの。この先もっとふさわしい人が現れるんじゃないでしょうか?」
「そんなの、わからない」
 だだっ子のように、貴明は暗闇の中で顔を左右に振った。おおよそ付き合っている相手に見せるような態度ではないのだが、そうさせる何かが今の初美にはあった。初美はこの恋は始まる前に終わるのだと思いながら、自分に言い聞かせるように言った。
「本で読みましたわ。最高の運命の相手と思える人は、生きている限り何回も現れると。ですから……必ず」
 その初美の言葉は、今の貴明にはとても残酷に響いたのだった。