天の園 地の楽園 第2部 第37話
貴明は、圭吾の机で重役達と対峙していた。
「だから何度も言っているだろう。僕が社長の代理だと。早くその書類を……」
「こちらも何度も申し上げておりますよ。これは社長と会長以外にはお見せできませんよ。貴方ではとてもとても」
重役達の顔はだだをこねる子供をなだめる老人のようだった。さっきから三十分もこの問答をしている。同じ部屋にいる秘書達もひそひそと話しだした。今日は朝からナタリーも圭吾も外出している。だから貴明が社長代理をしているのだが、こんな態度の社員達がやってくるばかりで、ちっとも仕事が進まない。
終業時間が来ると貴明は早々に自分の部屋に戻り、ばさっと顔からベッドに倒れこんだ。精神的な疲れが凄まじく、頭痛がひどい。今日は朝から何ひとつ決済できないままだ。部下に持って来させればいい書類をわざわざ重役が持ってきて、ねちねちと貴明をいじめるのだからたまったものではない。
大学を卒業して二年が経とうとしていた。本格的に専務として勤め、ときどき圭吾の代理をしているのだが、全くうまく行かない。若くしていきなり次期社長候補として、専務になった貴明をよく思っていない重役達が足を引っ張っている。
若い社員達はそうでもないのだが、五十代の管理職達はあからさまに貴明の足を引っ張った。それは圭吾やナタリーが居ない時に限られていた。貴明がこの二人に言わない事を知っているからだろう。そんな連中が会社を左右する立場に居るのが、今の佐藤グループの現状だった。管理職と若手の間がいないせいかもしれない。それぞれが自分の仕事で手一杯で社員教育が行き届いていないのだろう。しかし何より必要なのは、この重役達の好き勝手を止めさせることだ。
明日からは適当にあしらおう。まともに相手していては疲れるばかりだ。
恵美はここ二年でやつれて見える貴明が心配で、たまに貴明の様子を見に行っていた。本当ならもっと頻繁に行きたいのだが、そんな事をするとあらぬ噂が立ちかねないので我慢している。今日も圭吾に許可をもらい貴明の部屋に行くと、貴明はベッドでだらしなく眠っていた。電気もテレビもつけっぱなしで、そこだけが妙にうるさい。
「寝てる……」
貴明は、何を考えているのか髪を伸ばしていた。肩くらいの長さまである。それでも女に見えないのはがっしりとした体格のせいで、もうすっかり大人の男になっている。そんな風にしていても貴明はとても美しい男だった。メイド達や女性社員達はなんとかして彼の気を引こうとやっきになっているらしいが、貴明はパーティーで出会ったというお嬢様を想っていて、一向になびいていないようだ。
傍に近寄って見ると、相変わらず疲労の色が濃かった。お茶でもいれてあげようかとポットのある場所へ向かおうとした恵美の腕を、唐突に眠っているはずの貴明の手が掴んだ。
「起きてたの?」
「今起きた」
「……なんか大変そうね」
労う恵美に貴明は寂しそうに笑いながら起き上がり、ベッドの端に腰をかけた。
「なんだかんだ言って、僕は大した苦労をしてないからな。仕方ない」
腕を離してもらった恵美は、ポットのお湯を急須に入れながら怒った。
「圭吾が何かやってるんじゃないかしら? 陰険だからきつく言っておかなきゃ」
「あいつは僕が嫌いだろうけど、仕事に私情を挟む馬鹿じゃない」
「でも貴明、とてもやつれたわ……」
恵美からお茶を受け取った貴明は、少しだけすすってサイドテーブルに置いた。
「……僕が迷っているから駄目なのさ。このまま社長になる事が良い事かどうかとね」
「良い事も何も、あんたが継がなきゃどうなるの?」
はっはと貴明は笑った。
「そう思ってたさ。だけど、もう迷いが止まらない。何か他にふさわしい道があるような気がして、本腰を入れられないんだ」
珍しく弱音を貴明が吐いている。自信満々の貴明は学生時代限定だったのだろうか。貴明が重役連中に、連日あれやこれや無理難題を出されているのを恵美は知らない。
疲れた。自由になりたい。貴明はそんな事を考えている。
二十四歳の貴明の両肩には専務職は重過ぎるのだ。例えばこれが自分で創立したベンチャー企業などなら、もっと貴明は自由にその采配がふるえるのだろうが、まだ創立されて十五年しか経っていないとはいえ、大企業の部類に入りつつある佐藤グループはとても息苦しい。年長の管理職たちには日本の縦型社会が色濃く残っている為、おそらく圭吾もナタリーも彼らを御するには相当の苦労があったと思われる。それを全て掌握している二人に、今の貴明は賛辞を送りたい位だ。同時に自分がいかに小さな世間知らずなのか思い知らされ、大学卒業まであった自信は影も形も無い。
(もう何もしたくない。好きな仕事をして、好きに生きたい。どうしてこんな目に遭わなきゃいけないんだ)
そんな暗い気持ちに囚われている貴明を、恵美は励ました。
「大丈夫だって、貴明はいつだってなんでもできたじゃない。今はまだ慣れていないだけだわ」
「……簡単に言うなあ。慣れの問題じゃないよ」
「どこにだって嫌な奴はいるわよ。貴明に必要なのはどっしりと腰を据える事よ! 言っとくけど、絶対貴明にサラリーマンなんて無理だから止めときなさいよ」
「なんでわかるのさ……」
「なんでかしらないけどわかるのよ。って、ん……っ!!」
いきなり抱き寄せられた恵美は、貴明の膝に座らされキスをされた。軽いものではなく圭吾と寝る時にするような濃厚なものだ。貴明は何度も何度も角度を変えて恵美の口腔内をむさぼる。以前と違うのは、あの熱情が感じられないところだった。息が上がりかけた頃、ようやく貴明は唇を離してくれた。
「やっぱり駄目だな。もう彼女じゃないと満足しないらしい……」
「もう! びっくりするでしょーが。私は貴明の一目惚れの相手じゃないんだってば!!」
「どこにいるんだろうな、あーあ」
貴明がベッド仰向けに倒れこんだ。もう何年も経つのに圭吾は貴明に言っていない。先方は余程娘が可愛いらしい。
「私も見てみたいな、貴明の一目惚れの相手」
「……最近、あれは夢だったのかなって思うよ。くそ。もうあらかた調べ尽くしたのに逢えないんだからな」
それは圭吾が口止めしているからだ。恵美は、そのお嬢様さえいてくれたら貴明はなんとか立ち直るのにと思う、貴明は自分のために野心を燃やすタイプではなく、誰かのために野心を燃やすタイプに思えるのだ。しかしそんな考えはそのお嬢様にとっては迷惑なだけだろう。
うまく行かないものだと、恵美はこっそりため息をついた。
仕事を終えた圭吾が、部屋に入ってくるなり恵美の首筋を撫でた。
「……これ、何だ?」
「は?」
「痣がついてる」
「あー、さっき美雪に引っ掻かれたかも……」
圭吾は何故か無言で恵美を抱き上げ、スタンドミラーの前に立たせた。目立たないように首筋についているそれは、まぎれもなくキスマークだった。さっき貴明がつけたのに違いない。
「え、いやだ……」
「油断大敵だな。お仕置きだ」
「ちょっとまって! キスしかされてないって。しかもなんか例のお嬢様の代わりにって」
切れ長の目でじろっと恵美は見下ろされた。
「余計に悪い……」
ベッドに押し倒されて恵美が焦っているところへ、天の助けか、隣の部屋で寝ているはずの美雪が目を擦りながら現れた。
「父様何してるの?」
二人とも慌てた。圭吾は恵美から離れて美雪の小さな身体を優しく抱き上げた。
「何にもしてない。どうした、寝ているのではなかったか?」
「なんか起きちゃったの」
美雪は一緒に寝たいとだだをこね二人の真ん中で笑った。助かったと恵美が思っていると、なんだか意地悪げな圭吾と目が合った。
「……続きは明日な? 覚えていろ」
「あら、明日はお休みでも美雪と買い物じゃなかったかしら?」
「……くそ。夜に覚えていろよ」
しかし美雪にはとても優しい顔になって寝転んだ。美雪はぎゅっと圭吾の腕にしがみつき、圭吾の頬にキスをした。
「父様、だーい好きっ!」
「明日は、美雪が欲しがっていたお道具セットを買うからな」
「うん! 母様、ケーキ焼いてほしい」
「いいわよ、楽しみにしてて」
「わーい」
美雪を間に挟んで三人で微笑み合いながら、その夜は更けていった。