天の園 地の楽園 第2部 第38話

 翌日、恵美は朝からケーキ作りに取りかかった。美雪は恵美にねだって簡単な作業を小さな手で一生懸命やっている。やがてケーキの生地をオーブンに入れていよいよ焼きが始まった。

「……ただいま」

 急用ができて外出していた圭吾が戻ってきたが、顔色が何故かすぐれなかった。圭吾はスーツの上着を自分でハンガーにかけてクローゼットに入れ、ソファにぐったりと横たわった。恵美は美雪と顔を見合わせ、静かに聞いた。

「……どうしたの? 気分でも悪いの?」

「いや、友人が亡くなってな。今夜は通夜だ」

「まあ……!」

「どうも不審な死に方でな。自殺……らしいが、納得がいかん」

 そこまで言って圭吾は顔をしかめたが、心配そうにしている美雪に気づいて優しく微笑んだ。

「用事は夜だから、約束通りこれから買い物に行くぞ」

「わーい! 父様大好き!」

「二人が帰ってくる頃にはケーキが完成してるわよ」

 恵美は圭吾と美雪を玄関で見送った。美雪は圭吾のリムジンが大好きで大喜びだ。圭吾は明るい微笑みで恵美に手を振り、やがてリムジンは出て行った。

 焼きあがったケーキに恵美チョコレートクリームで飾り付けを終えた頃、今日は休みになっている貴明が部屋に入ってきた。

「貴明、昨日とんでもないとこにキスしたでしょ! とんでもない目に遭いそうになったわよ」

 貴明は勝手にボールに入っているクリームを人差し指ですくって、美味しそうに指先を口に含んだ。

「その様子だと無事だったみたいだな、つまらん」

 貴明はおかしそうにくすくす笑った。やはりわざとやったのだろう。頬を膨らませて恵美がぷんすか怒っていると、ケーキを載せようとしていた絵皿がいきなりびしりと音を立てて割れた。

「……あら、やーね……ひびでも入ってたのかな?」

「僕が片付けてやるよ。お前ドジだから手を切る」

「一言余計よ!」

 恵美が掃除機を持ってきて、貴明が割れた皿のかけらをゴミ袋に放り込んでいるところへ、誰かがノックもなしにドアを乱暴に開けた。こんな事をする人間はこの邸には居らず、相手を確認しようとする恵美を制して貴明がキッチンから出た。部屋に入ってきたのは肩で息をしている執事で、顔が蒼白だ。二人は普段ならあり得ない態度の執事に顔を見合わせる。執事はぜいぜいと息を吐きながら、叫ぶように言った。

「大変です! 圭吾様と美雪様のお車に大型トラックが接触して、意識不明の重体だと……病院から連絡が」

 貴明の茶色の瞳に雷鳴が走る。恵美は気が抜けたようになってふらりとした所を貴明に支えられた。

「……とにかく病院へ……! ナタリーを呼んでくれ」

 貴明が大声で叫んだ。すぐにナタリーが現れ車が回された、恵美は貴明に励まされながら車の後部座席で祈っていた。どうか二人とも無事でいるようにと……。平日で車の交通量は少なくスムーズなはずなのに、病院までの距離が恵美にはとても遠く感じた。実際、その病院までは佐藤邸から二時間はかかる場所だった。

 三人が病院へ駆けつけると、看護師と共に待っていた美雪が恵美に抱きついた。

「おっきな車がぶつかってきたの! 怖かったよ! 怖かったよ!」

 恵美は美雪を抱きしめた、看護師が美雪は頬に傷ができただけで奇跡的に軽傷だった、検査でもなんの異常も見られないと説明した。恵美の目は圭吾を求めてさまよったが、目が合ったのは看護師の辛そうな顔だった。

「ただ、佐藤圭吾さんはお身体の損傷がひどくて……、今手術中ですが……お覚悟なさってください。おそらくはそのお子様を全身でかばわれたのでしょう」

「運転手はどうした?」

 貴明が聞くと、看護師は頭を横に振った。

「お気の毒ですが即死です。さっき、ご家族の方が参られましたが」

「ちょっと行ってくる」

 貴明がナタリーに言って廊下を歩いていった。それから数分後、手術中のランプが消えて扉が開き、執刀医が中から出てきて恵美とナタリーの前でマスクを外した。

「申し訳ありません……。手は尽くしましたが……」

「うそ……」

 恵美は執刀医に詰め寄ろうとしてナタリーに腕をつかまれた。双眸から透明な涙を行く筋も流している母を、美雪が不思議そうに見上げている。

「面会はできますか?」

 ナタリーが冷静な声で聞き、執刀医はうなずいた。その時に貴明が戻ってきた。貴明が泣いている恵美の肩を抱き、手術室から移動ベッドに乗せられた圭吾を追い掛けた。圭吾を乗せた移動ベッドが入ったのは小さな個室で、白い壁が窓から夕陽に照らされて赤く染まっていた。

 圭吾の顔は傷だらけで頭に包帯が巻かれていた。上掛けに隠されているが身体中にも巻かれているのだろう。

「恵美さん、声をかけてあげて」

 ナタリーが言った。恵美は傷だらけの圭吾の手を取って顔を近づけた。手はひどく冷たくいつもの温かさはなかった。

「圭吾、起きて……」

 でも圭吾は目を覚まさない。息は確かにあるのだが常にはない呼吸だった。なんとか元に戻って欲しくて、恵美は必死に圭吾に話しかけた。

「ねえ、頑張って治ろうよ。治ってお屋敷に帰りましょう?」

「父様っ! 玩具であそぼ!」

 美雪も言ったが、それでも圭吾は目覚めない。

「こんな怪我も治せないのヤブ医者って怒りなさいよ。ねえ、起きようよ! 治ろうよ! 美雪はどうなるの」

 ナタリーも貴明も、そんな恵美を痛ましそうに見たまま口を噤んでいる。あのどんな人間をも圧倒させる威圧感も、熱い燃え上がるような黒い瞳ももう無い。今の圭吾は燃え尽きて所々が赤く光っている灰のようだった。もうだめだ、圭吾はもう死ぬ。私たちを置いて逝ってしまうと恵美は思った。不意に心の奥底に封じ込めていた両親の死を思い出した。あの時もそうだった、いきなり家族は自分の前から消えたのだ。やくざの息子との接触事故で。自分に関わる人は皆こんな目に遭うのだろうか、そんな暗い気持ちに囚われかけ、恵美は頭を横に振った。縁起でもない、圭吾ならきっと甦ってくれる。そしてまた自分を優しく抱きしめてくれるのだ。

「ご主人はシートベルトをしっかりされていたらしいのですが、そちらのお嬢さんの方へ突っ込んできたトラックからお嬢さんを護る為に、ベルトをはずして上から覆いかぶさって庇われたようです。そのままにされていたらそちらのお嬢様が亡くなられていたでしょう」

 いつの間にか入ってきていた警察が言い、恵美は圭吾の深すぎる一途な愛情に切なくなった。圭吾は、どんな事をしても恵美と美雪を護ると普段から言っていた。でもだからといってここまでしなくても良いではないか。美雪が死ねば良いと言っているのではない、自分が死んでしまっては元も子もないではないか!

「……圭吾ならそうするわね」

 ナタリーが悲しそうにかすれた声で言った。圭吾はいつも恵美と美雪の前では別人のように優しく、まさしく命がけで愛しているように傍目には見えた。

 その時、圭吾が不意に大きく息を吸い込んだ。目が覚めるのかと一瞬恵美は思ったが、その視線の先のモニターの曲線は無情にも横に真っ直ぐ伸びる線になった。

「圭吾……」

 微かに動いていた胸は完全に止まった。恵美はふるえる手で自分の右の頬を触った。温かい……。その手に涙が流れて濡れていく。

「お願い、お願いだから、目を覚まして。何か話してよ……」

 ありえないとわかっていながら、恵美は息絶えた圭吾に言った。その両肩を貴明の両手が包み込んだ。

「恵美、辛いだろうけど。今は眠らせてやろう?」

 いつも圭吾をののしっていた声ではなく、その貴明の声にも何故か悲しみが滲んでいた。

 圭吾の遺体は霊安室に移され、処置された後白い服に着替えさせられた。そこも白い壁で何も無い部屋だった。いるのは担当の看護師と恵美と美雪と、遺体となった圭吾だけだ。

 嘘だ、悪い夢だと恵美は思いたかった。さっきまで貴明とナタリーがこれからの手続きをしている横で、恵美は真っ白に燃え尽きた灰のようになっていた。美雪は父の死を分かっていないらしく、警察から戻ってきた玩具を手にしてあたり一面に広げている。

「母様っ、これ父様が母様にって買ってた本よ」

「…………」

 それは一冊の歴史書だった。トランクに入っていたそれは綺麗な状態で、恵美は何気なくぱらぱらとめくり、最後のページに挟んであるメモに気づいた。

” いつもありがとう。

 あと十一年経ったら田舎に移り住んで親子三人で過ごそう  圭吾より”

 数時間前に書かれたばかりの筆跡に、恵美は喉が詰まった。圭吾はいつも何かを買うたびに必ず手紙をつけて渡してくれた。これが最後の手紙だ……。

「……十一年経ったって、圭吾はもう居ないじゃない!」

 恵美は声も無くそう口の中でつぶやいて、自分の両肩を抱きしめ俯いた。手配を済ませた貴明が部屋に入ってきてそんな恵美を優しく抱きしめてくれたが、本当に欲しい腕はもうこの世では得られない。

 穏やかな顔で眠る佐藤圭吾は、享年三十五歳だった。

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