天の園 地の楽園 第2部 第40話(完結)
恵美には会社の事はとんとわからない。ただ、元気を取り戻した貴明が緊急に臨時の株主総会を開き、専務の橋中を始め、この半年間で不利益を出した重役や社員を一網打尽にして、佐藤グループから追い出した事だけははっきりとわかった。横領した専務の橋中は刑事告訴までされているので、次の就職先もままならない。この先は転落人生が待っているのだろう。半年の間重役達に翻弄されていると見せかけて、実はこの時を狙っていたのだと分かった社員達は、初めてこの若い社長の容赦ない仕打ちに震え上がった。前社長の圭吾が追い出そうとしてできなかった連中をわずか半年で追い出し、社会的にも手痛い制裁を加えたのだから。
株主総会ではひと悶着どころか沢山の非難があがったらしい。しかし、それを貴明はひとつひとつ片付け、投資家達を納得させていったとの事だ。
「ふー……こんなもんかしらね」
沢山のダンボールの山ができている。恵美は、ほとんど住まなくなった貴明のマンションの引越しの手伝いをしていた。引越し業者にさせたらいいのだが、貴明は自分の本や書類などを見られるのが嫌なのだという。その点から言えば恵美は読んでもわからないから安心だと、なんともむかつく誘い方だった。意地でも読んでやると思ったが、書類には専門用語が多い英単語がずらりと並んでいて、そうそうにあきらめて箱詰めにかかった。
手作業で詰められる荷物は貴明の部屋とキッチンに集中していて、ものがあまりない貴明の部屋の荷造りはあっさり終わってしまった。屋敷で恵美が作ってきたお弁当を貴明と摂り、何気なくテレビを見ていると、佐藤グループのニュースが流れた。昨日の株主総会の模様が流れている。会場の緊迫した空気に恵美が驚いていると、貴明は笑った。
「うちの株って海外の投資者が多くてね。だから総会は時間がかかる。おまけに会社内をしっちゃかめっちゃかにして市場にも悪影響与えたし、なんの実績も無い若造だから叩かれるのも当たり前さ。数年後には三倍の値段になってるだろうからお買い得だよ。恵美も要る?」
「要らないわよ!」
「あー……そっか。親父から恵美は運用できないから代わりにしてやれって、預かってたっけ。まあいいじゃん、友達のよしみで安くしといてあげるからもっと要らない? さっきから株価がまたあがってるんだよね」
貴明のこれからの経営方針が信用を得始めているのか、総会後に株価が値上がりを始めているらしい。よく解任されなかったものだ。そのあたりも余程巧妙な戦略があったのは間違いない。
「……あんたね」
どこまでも抜け目がないんだなと恵美は呆れた。半年前に気弱な事を言っていた男とは思えない。
「社長を辞めるんだと思ってたわ」
「ナタリーがあんなふうに泣いたらね。それにナタリーの言っている事は正しかったから」
「……起きてたの?」
あの時寝ているとばかり思っていたのに、貴明は目覚めていたらしい。
「枕元でべらべら話されたら、うるさくて寝てられないよ」
貴明は食後のデザートのケーキを、大口を開けて食べた。相変わらず頬が膨らんで美形が台無しだ。あっという間に咀嚼して飲み込み、貴明はコーヒーに口をつけた。
「その癖いい加減に止めなさい。みっともないわ」
「ふふ、ナタリーってば株主総会で泣いちゃってさ、大変だった。眼福だとか喜んでる投資家がうじゃうじゃ。皆、美女の涙には弱いんだね。怖い女なのにさ。あれこそまさしく鬼の目に涙だよ」
貴明はだらしなく椅子にもたれ、頭の後ろで手を組んだ。
「そんでね、昨日、ベンに電話したんだ」
「ベンって貴明のアメリカの友達?」
「そう。何か隠している事はないか、特にボーディングスクール時代にってね。そしたらあっさりと白状したよ、毎日のようにナタリーから電話が入ってきて僕の様子を聞いていたんだって。手紙には厳しい言葉ばっかりだってのに、ね」
「…………」
そう言う貴明の目はとても優しい光が宿っていた。思えば貴明が柔和に家族の事を話せるようになったのは、いつからだったろうか。
「やっぱり親子なんだよ。愛すれば愛するほど不器用になって気持ちを上手く伝えられない。僕とお前を引き離す時だって回りくどい手を使わずに、正面から言えばよかったのに」
恵美は首をかしげた。
「どうかしら。正面から言ってもしつこかったじゃない」
「そーだっけかな。だからこっそり出て行こうってわけ?」
不意に隣に移動してきた貴明に腰を抱かれ、恵美はぎくりとした。覗き込む美麗な顔と異様に距離が近い、もう少しで唇の距離までゼロになりそうだ。
「僕が社長職を続けていく意志を固めたから、もう佐藤グループも佐藤邸も大丈夫だと思ったの? 僕は、恵美にずっと居てほしい」
恵美は目を伏せて、ちいさく頭を横に振った。
「……駄目よ。わかってるでしょう? 私は圭吾のものなの。それに貴明の恋の邪魔になるのよ私が居たら」
「元には戻れないって事だよね」
言っている言葉とは正反対に貴明は恵美を抱き上げ、ずんずんと寝室に歩いて恵美をベッドへ放り込んだ。びっくりした恵美が起き上がろうとすると、くすくす笑う貴明に押さえつけられてしまった。
「あ、あのね、何考えてるの?」
「引越し業者が来るのは明日。今、恵美を抱きたい」
冗談じゃない! と思うのに圭吾並に手際が良くなった貴明に、恵美はろくに抵抗できないまま裸にさせられ、抱きしめられた。怖くは無かったが、背徳感と恥ずかしさが半端ない。優しい愛撫にびくびくと身体が反応してしまう。
「お嬢様……どうするのよっ」
「好きだよ? 見つけたら絶対に逃さない」
貴明の唇が頬を滑った。
「じゃあなんで。私、圭吾以外じゃやだ」
「僕の中に親父を探しなよ。血は繋がってないけどどこか同じだよ」
「……やっ…………ってば! もうっ! 強引で我侭なとこしか似てないじゃないっ……あっ」
不謹慎だと恵美は思うし、やっぱり圭吾以外は嫌だ。でもどことなくこれは必要な交わりなのだと思った。おそらく自分達はこれから本当の他人になるのだ。愛人の恵美は今後も圭吾の法要には出席できないし、美雪も圭吾の子供には成れない。恵美が佐藤の姓になる事もない……。貴明が懇願するように恵美の耳元で囁いた。
「最後の僕の我侭を聞いて。綺麗に恵美と別れたいんだ」
ああやはり。恵美は目を閉じた。これは圭吾が居なくても、お嬢様がこの場に居なくても、お互いの心は動かないという事を知らしめるための儀式なのだった。
翌日、貴明は恵美が帰った後、突然ベンの来訪を受けて驚いた。あと数時間で引越し業者が来てここはもぬけの殻になるというのに、タイミングよく来れたものだ。
「お前はいっつも唐突に訪れるな」
「本当だな。厄介払いの見事さを聞いたよ。おめでとう」
「これから大変だけどな」
ベンはにやにや笑った。
「さっき佐藤邸で、お前の好きな女に出会ったよ。恵美さんて人」
「恵美に? ……いい女だったろ?」
「そうだっけな? わからないが」
そこへ慌しいインターフォンの音と共に、執事が部屋に走りこんできた。
「しゃ、社長っ。貴明様。恵美様が今荷物をまとめて出て行かれましたが! お止めになってください」
「いいんだ、これで」
「何をおっしゃってるんです。あれだけしてくださった方を!」
貴明には分かっていた。圭吾の死後すぐに出て行かなかった恵美。……恵美は圭吾の愛した会社や屋敷の為だけに屋敷に居たのだろう。ひと段落ついた今、もう恵美に手を借りてはいけないのだ。これからは自分の手だけで、未来を切り開いていかなければならない。
執事がさらに止めるように言っている間に、スマートフォンが着信した。その相手の話口に貴明は満足に微笑む。通話を切った貴明に執事が言った。
「本当にお止めにならないのですか? あの方は……」
「親父の大事な女だ。その親父はもういない。……恵美は佐藤邸に住む必要は無くなった。自由になったんだ」
「何をおろかな事を。美雪様もいらっしゃるのに、お一人で」
「大丈夫だ、恵美を護るナイトはまだいるからな。すぐに見つかると思うよ」
貴明は窓を開けて空を仰いだ。よく晴れて青空が広がっている。
……恵美……恵美。幸せにおなり…………。
「あ、そうだ忘れてた」
貴明はポケットをごそごそとした。そこには恵美に返してもらったダイヤの指輪が入っている。貴明はペアになっていた自分の指輪を抜き取り、二つともベンに手渡した。
「ベン。アメリカに帰ったら、これをお前の家の近くにあるあの泉に捨ててくれよ」
「ビクトリアの泉にか? いいのか? 思い出深い品なんだろう?」
「だからお前に託すんだよ。こいつらだけでもアメリカに行かせてやりたいんだ」
ベンはそれを大事に受け取って、スーツのポケットに入れた。
「わかった。必ずあの泉に放り込んでやるよ」
ビクトリアの泉とは、森の中の教会の隣に湧いている美しい泉だった。その辺りに住む者達は結婚式を挙げる時にその泉の水を飲んで永遠の愛を誓い合う。貴明は恵美をアメリカに連れて行ったら、そこで結婚式をあげるつもりだった。もう叶わぬ夢となったが……。
二人が出て行った後、貴明は明るい夏の日差しを受けた。
「待ってろよ。必ず、見つけ出すから……」
天使のように美しかったあの少女。今は美しい女性になっている事だろう。
だがそう思うのも一瞬で、今度は引越し業者が来訪を告げた。
一方、恵美は美雪の手を引いてざわめている街中を歩いていた。
「母様、どこに行くの?」
「お家に帰るの」
美雪は不思議そうに顔を傾げた。
「お家、お家ってあの大きなお家でしょ?」
「違うの……泊まってただけなのよ」
「そうだな」
恵美は背後から聞こえた懐かしい声に振り向いた。紺色のセダンの車が停まっていて、その横に正人が立っていた。
「正人……」
「ちょうどいい時に来たみたいだな。行こう」
「行くってどこに?」
「新居。結婚しよう?」
恵美はびっくりするのと同時に顔を赤くした。
「馬鹿! 何言ってるの。私は圭吾以外は愛せないわよ。正人って鈍感だったの?」
「他人を愛してるお前を放っとけないから。家族のお前が一人で苦労するのを見たくないから。男として愛してくれなくてもいいよ。ただお前を護りたい……それだけなんだ」
「正人」
優しい顔で正人は笑った。暖かな春のような安心できる空間が広がる。
「今度は俺にお前を護らせてくれ。佐藤と圭吾さんとの約束だったんだ」
「……馬鹿だわ。正人も圭吾も……貴明も」
うれしくて、恵美は涙が止まらない。うれしい涙はなぜこんなに熱くて胸が安らかになるのだろう。捨て子でずっと一人ぼっちだと思っていた。しかし、自分は一人ぼっちなどではなかった。こんなにも心配して愛してくれる人が居たのだ。家族が居たのだ。
恵美は美雪とともに正人の車に乗った。車は新しい未来に向かって走っていく。
九か月後、恵美は一人の男の子を産んだ。男の子は黄金の髪に茶色の瞳を持っていた…………。貴明がその事実を知るのは、それからさらに数年後、彼が十九歳の時に恋に落ちた少女と婚約した後だった。
【天の園 地の楽園】 終わり