囚われの神子 第04話

 私は質素なドレスを屋敷の侍女に着させられ、表玄関へ一番近い客室に連れてこられた。部屋には光の神子と国王、そして公爵がいた。神子と国王はソファに座り、公爵は腕を組んで華やかな模様で彩られている壁に凭れ掛かっていた。

「蘭さんっ」

 光の神子は私の姿を眼にするなり飛んできて、抱きしめてくれた。

「もう大丈夫よ蘭さん。これからは幸せになれるの。悪しき風習は陛下が止めて下さるそうよ」

「え?」

「貴女はこの国で私と同じように生きられるの。殺されたりなんかしないのよ」

 おそるおそる神子の肩越しに国王を見た。国王は一瞬顔を顰め、静かに頷く。

『ただ、お前はしばらく離宮に住んでもらう。このひと月の間でお前の扱いを決める。優しい光の神子に感謝するのだな』

 なんと言っているのかさっぱりわからない。ぼんやりしている私を見て、国王はあきれ返ったように肩を竦めた。トントンと扉をノックする音が響き、公爵邸の執事と思われる中年の男性が入ってきた。

『馬車が着きましてございます』

『早く影の神子を乗せろ。そしてユイは私と王宮へ帰るんだ。明日は早いのだから』

 光の神子が不満そうに口を尖らせた。

「蘭さんは結婚式には参列できないんですか?」

『廷臣達に説明もなしに参列は許されない、披露目は結婚式の後にする。第一その女は大人しそうだから拒否するだろう』

「グレゴール……」

 国王は光の神子の頬に優しくキスをする。

『そんな顔をするな。お前の気持ちは汲んでやりたいがどうしようもない。愛しているお前の言葉でも、出来ぬことはある』

 光の神子はそれ以上は何も言わず、私の手をぎゅっと握り締めるだけだった。見ているだけで光の神子が国王を愛しているとわかる。たった数日で人を愛せるこの人が、心底うらやましい。

 ふと公爵と視線が合いそうになりさっと横にそらした。目を合わせてはいけない、あの漆黒の闇は私を雁字搦めにしてしまう。

 外に出ると、馬を一頭だけ繋いだ馬車が停められているのが目に入った。世界が違うだけで動物も植物も建物も、そっくりそのままなものが多い。ただ馬と呼んでいるのか、馬車と呼んでいるのかはわからない。私にこの国の言葉は、まったくわからないのだから。

 初老の侍女の服を着た女が傍に立っていて、私達を見て頭を下げた。侍女と国王と公爵が話し始めた。一体何を話しているのだろう。そんな私に光の神子が通訳してくれた。

「蘭さん、この方は貴女つきの侍女。ずっとお世話してくれるらしいわ」

「あ、ありがとうございます」

 私は国王と侍女に頭を下げた。公爵は何も言わず、国王はゆったり微笑んでいるだけだったけど、侍女は軽く頭を下げた。

『こちらへ』

 私は侍女に手を取られて馬車に乗った。居心地が良さそうな広い座席に余計な装飾は無く、なんとなくほっとする。促されるまま座席に座り、馬車の窓から光の神子を覗くと、光の神子はにっこりと笑ってくれた。ああ、なんて綺麗な人なんだろう。

「また私のほうからお伺いしますね」

「…………っ」

 影の私にそんな優しさは必要無いのに。この世界に来て初めて純粋な優しさに触れて、涙が出そうになるのを必死に堪えた。泣いてはいけない、泣いたりしたらこの人は明日の結婚式で笑えない。

 私はなんとか笑って見せた。

「本当にありがとう」

 焼け付くような視線を感じたけれど、私は気づかないふりをした。

 すぐに馬車は動き出した。馬車の天井に小さな光り石が付いていたから、薄暗いけれど相手の顔は見えた。でも侍女は何も言わずに目を伏せていて、まるで自分を拒否されているように感じ、何も言えなかった。よく考えたら公爵と光の神子以外とは言葉が通じないから、これで正解だ。

 馬車の車輪が立てる音だけが響く中、ずいぶん長い間お互い黙り込んでいた。

 不意に馬車が止まった。着いたのだろうかと腰を浮かすと侍女が制した。

『ここは転移する魔法陣が描かれている所で、ここから離宮近くまで転移します。離宮を使う王族のみが使用できるようになっておりますが、今夜、陛下が貴女様に特別に許可されました』

 何を言っているのか分からなかったけれど、座っていろと言われているのはたしかだった。座り直すのを確認すると侍女が御者に声をかけた。

「……え?」

 いきなり浮遊感を感じた。まったく経験の無い感覚に動揺する私の手を侍女がしっかりと握る。

 とても気持ち悪くなった。例えるなら飛行機で空を飛んでいる時の、地に足が着かないあの緩やかな揺れ。ゆっくりと回るめまい。吐きそうになったから侍女の手を振り払って、両手で口を押さえた。嫌な汗が胸の中央を滴っていく。

 一体これは何?

 不意現れた虹色の光のトンネルを馬車は通過して行き、地面にごとりと車輪が着く音がした。

 浮遊感が消えた後吐き気はだんだんと治まってきた。大丈夫、もう気持ち悪い揺れは無い。感じるのは硬い地面を車輪が伝える振動だけだ。

 そして直ぐにまた馬車が止まった。窓から外を覗くと、離宮らしき建物が建っているのが見えた。いくらなんでも早く着きすぎではないだろうか。馬車の速度を考えると、公爵邸の周りの景色からかけ離れている風景が月夜に広がっている。

 離宮が飛んできて、いきなり目の前に現れたような錯覚を受けた。

 考えられるのはさっきの気持ち悪い浮遊感だ。この国は元の世界ではない交通手段があるみたい……。まるで瞬間移動した気分。

 御者の若い男が馬車の扉を開けて、私達を降ろした。御者の顔を見て嫌な予感がした。なんとなくだけど公爵に雰囲気が似ている。暗闇にギラギラ光るおぞましい目を持つ獣のような感じが……。

 離宮は公爵邸の半分ぐらいの大きさで、質素な建物だった。ただ敷地が広く庭は綺麗に整備されていた。適度に木が生い茂っていて過ごしやすそうな暖かさに満ちており、どんな所だろうと不安に思っていたのでとても安心した。

『足元にお気をつけください』

 侍女が事務的に言う。やはり言葉は分からないけれど目線や仕草で伝えたいことがわかる。石畳の上を緊張して歩き、侍女に続いて屋敷に入った。

 屋敷の中はひっそりしていた。侍女一人だけでこの大きな離宮を管理できるとは思えない、時間が真夜中なだけに皆眠っているのだろう。

『こちらです』

 私は、侍女が扉を開けた部屋に入った。

 光石に照らされた部屋は質素だけれど、感じはとても良かった。白い壁が目にやさしくて、寝台も机も磨きぬかれた木製でとても柔らかい茶色だった。

 きょろきょろと部屋を見回していると、

『挨拶が遅れまして申し訳ございません。私はベルと申します』

 と、好意のかけらも無い口調で侍女が言い、頭を丁寧に下げた。

 私は挨拶だと直感して頭を下げた。

「蘭です。よろしくお願いします」

『ラン?』

「そうです」

 侍女は頷き、自分を指して「ベル」と何度も言った。そうか……この人のお名前はベルと言うのね。私は「ベル」と言って頷いた。心なしかベルはほっとした様だ。そりゃそうだろう。見知らぬ異世界人の世話を申し付けられたのだから、不安でないはずが無い。

『では御召し替えを』

 ベルが寝台の上に置かれていた服を手に、私の服を脱がせようとするので焦った。私はお嬢様ではないので人前で脱ぐのは恥ずかしい。

「あのっ、自分でしますから」

『ラン様』

「あり……がとう。もう貴女も休んで下さい」

 顔を赤くしている私を前に、ベルはしばらく考えあぐねているようだったけど、自分で着替えるとジェスチャーをすると納得したように頷いて、着替えを私に手渡し部屋を出て行った。

 しんと静まり返った部屋で、自分を抱きかかえるようにしてそろそろと息を吐いた。久しぶりの安心するような静けさだ。

「……良かった」

 あの公爵から離れられて。

 あのままべったり貼り付かれていたら発狂したかもしれない。ストーカーじみたまとわり付く様な目つきがとにかく気持ち悪かった。顔は美しいかもしれないけれど、あの男に抱きしめられると身体が闇に染まっていきそうだった。

 肌に優しい木綿のような肌触りの夜着に着替え、白いシーツの清潔な寝台に潜り込んだ。寝台は程よい柔らかさで幸せな気分を与えてくれる。あの牢獄のシミだらけの湿気臭い寝台も、公爵の隠し部屋のやたらと豪華な寝台も、私に安らぎをもたらしてはくれなかった。

 光の神子のおかげだ。あの綺麗な女性に深い感謝がわいてくる。名前を聞かないままだったけれど、次に会えたならちゃんとお礼を言おう。

 私はその夜、異世界に来て初めて穏やかな気持ちで眠った。

 

 それから一ヶ月が過ぎた。

 国王の庭園に訪れたアレックスは、椅子に座っている国王の前に跪いた。隣には王妃になった結衣が、美しい水色のドレスの長い裾を引きずっている。二人はお茶の時間だったらしく、芳香を放つお茶のセットとおいしそうな焼き菓子が入っている皿が、白いテーブルの上に並べられていた。

 国王の庭園は、リエールと呼ばれる薔薇に似た白い花が美しく咲き乱れていた。

「久しいなアレックス」

 アレックスは影の神子を誘拐し自宅監禁していた罪を背負い、一ヶ月の自宅謹慎を命じられていた。当然国王夫妻の結婚式にも参加は許されなかった。

「お二人とも、お健やかな様子で安心致しました」

 グレゴールはお茶のカップを皿に戻した。そしてアレックスに向き直る。

「あれの様子が聞きたいか? 使いによるととても元気にやっているそうだぞ」

 面白そうにグレゴールが言った。アレックスは相変わらず乏しい表情を変えないまま、光の神子を眺めやる。しかしつまらなそうに目を眇めた後、国王に視線を戻して頭を垂れた。

「左様ですか」

 そこへ時を告げる鐘の音が三度鳴った。光の神子が、王宮に併設されている神殿で祈りを捧げる時刻だ。直ぐに女神官が二人現れ、結衣を恭しく連れて行った。

「残念であったな。私とユイの結婚式はそれはそれは華やかであったものを。あれに情けなどかけるから、一世一代の素晴らしい催しに参加できなかったのだぞ」

 アレックスは顔を上げた。

「影の神子は処刑されますか?」

「ユイが反対するので取りやめた。まあ、処刑も五代前の神子の素行があまりに酷かったゆえ始まったらしいからな。この事実を知らぬ者が多い故、どうとでもできる」

「では、何故あのように処刑を命じられたのですか?」

「前例に従えばよいと思っただけだ。しかし過去の詳しい文献を見ると、初代から今より五代前までの長い間、影の神子は臣下に下賜されていたらしい」

 アレックスは目をきらりと光らせる。グレゴールは知らない。アレックスがすでに影の神子の役割を知っている事実に。やはりグレゴールは、影の神子のもたらす富を自分と寵愛する家臣だけで独占するつもりなのだ。

「まあ、私はあれが生きていようが死んでいようがどうでもよい。特に役に立つ神子でもないのだからな」

 結衣が聞いていたら、グレゴールのいい加減さと冷酷さと貪欲さに愛想を尽かしそうだ。見掛けが美しく柔和な雰囲気がある男だけに、それが際立った。

「そうですか。ではいずれかに下賜され……」

「そなたにはやらぬ」

「…………」

 グレゴールの指先が、意地悪くアレックスの長い前髪を払った。

「一週間前に隣国アインブルーメから留学に来ている貴族、ヘッセル侯爵に下賜すると決定した。神子より一つ年下の男だが、見目麗しいゆえ神子も幸せであろう。人間の相手は人間であったほうがやはりよい」

 言外に人間に劣る竜族になどやらぬ、アレックスは影の神子よりも地位が下だとグレゴールは言っている。

 グレゴールの竜嫌いは有名だった。グレゴールの母親が正妃であった頃、側妃で竜族の娘だったアレックスの母親に国王の寵愛を奪われたことを根に持ち、グレゴールに毒を吐き続けたせいだ。前国王も側妃もすでにこの世にいないが、恨みだけは残っている。

「さようですか。それは残念です」

 アレックスの黒い目に感情による揺れは無い。反対にグレゴールが顔をわずかに歪めた。

(わが弟ながら不気味極まる。サヴィーネといいこいつといい、竜は感情が無いのか)

「もうよい、下がれ」

 グレゴールが左手を払い、アレックスは静かに立ち上がった。そしてそのまま、いつもどおり騎士の礼をして下がっていくかと思われたが、何を思ったのかアレックスが二、三歩歩きかけて止まり、国王を振り返った。

「……陛下のものにされれば良かったものを、もったいないことをされましたな」

 意外な言葉をアレックスが発したため、グレゴールは何度も目を瞬かせた。

「何を言っている。あのようにさして美しくも無い女は興味は無い」

「……何度も抱きましたが、あれは最高ですよ。肌理細やかな肌が吸い付くようで……、ふふ……」

「お前はあれを好いていたのであろうが」

「そう見えましたか? まあ、程度のいい玩具ですよ。あの身体はどの女よりも素晴らしい。陛下も光の神子に飽きたら影の神子の元へ通われるがいい。式はいつでしたか?」

「半年ほど後に決まっているが……」

「その間、弄ばれるのも悪くは無いでしょう」

 アレックスは、女性を魅了させる妖しい笑みを国王に向けた。

 不気味この上ない印象をグレゴールに残して、アレックスは王の庭園の出口に向かって歩く。ところどころで警備をしている近衛兵が敬礼してくるのに返礼しながら、誰もいない庭の奥深くまで足を運んだ。そして端に建っている物見の塔の最上階まで魔法で瞬間移動し、遠くに聳える山々を眺める。あの山の向こうに、ここから普通に行けば馬車で二日はかかる距離の離宮に、蘭は住んでいる。

「逃げおおせたと思っているでしょうね。すぐ貴女へ災難が襲い掛かるでしょう。罪の深さを思い知るがいい……、私の元から逃げた貴女が全て悪い」

 愛しい女。決してお前を逃しはしない……。

 暗い情炎を黒い瞳に湛え、アレックスは蘭に思いを馳せる。

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 私は離宮に移ってから、平穏な日々を満喫していた。

 侍女のベルと年老いた老夫婦管理人と私、四人だけのとても質素で静かな毎日。光の神子の王宮での華やかな暮らしに比べると余りにも差があるけれど、今のこの穏やかさこそ求めているものだったから、とても幸せ。満たされていると自然に笑顔が浮かんでくるから、人間って本当に不思議だ。

 ベルは暖かな人柄だった。言葉が通じない上に文字すら読めない私に、ベルはこちらの世界での刺繍や裁縫を教えてくれた。私は元々手先が器用だから手芸は得意だ。達まちベルの教えてくれるこの国の手仕事に興味を持ち、それをこなすことを日課にした。言葉が分からなくても心が通じているということが、心に安らぎを与えてくれたのだった。

 ベルに教わって完成した、花の刺繍が一面に広がっているクッションを手にとって眺める。正樹は園芸が趣味で自作の温室まで拵えていたから、これをあげたらとても喜んだだろう。……もう二度と逢えないのに正樹の笑顔に逢いたいと願ってしまう。

 でも、この穏やかさを手に入れるまでは大変だった。

 最初、私は言葉を習おうと必死になった。人とのコミュニケーションをとるには言葉や文字を知らなくてはいけない。ベルを教師に言葉を習おうとして、そこで初めて公爵が私にかけた姑息な魔法に気がついた。

 それはとても卑怯だといえた。

 名前以外、聞いた言葉が次々に変わっていく呪いの魔法。私がちゃんと話していても、向こうは意味不明の単語が並んだ違う言葉に聞こえる。そして私もそれは同じ。聞くたびに変わってしまっては覚えられない。

 書き取りで会話しようにも、私は書く物を持てなかった。持った途端、ペンが砕け散ってしまうのだ。刺繍で綴ろうとしたらそれは布ごと燃え落ちた。言葉や文字に繋がる行動を取ると、魔法が発動するようになっているらしい。

 ベルが青い顔をして、『グロスター……』と呟いたことから、公爵が仕掛けた魔法だと感づいた。なんて嫌な男なんだろう。どこまで私を縛り付ければ気が済むのだと憤りを覚えた。

 私の周囲に誰も近づけさせまいとする公爵の執念がひしひしと伝わってきて、竜という存在と、彼という存在が自分にとって害悪なものだと再確認した。

 落ち込む私をベルや管理人夫婦は優しく慰めてくれた。それで何か楽しくなる方法をと思いついたのが、この手作業だった。縫い取りや料理や園芸だと公爵の魔法は発動しない。私はやっと心の平穏を三人の協力で手に入れられた。

 この生活がいつまでもいつまでも続いてほしい。毎日そう祈り続けていた。

 ある日の朝、庭を散歩しようとしてベルに止められた。何故だろうと首を傾げる私の手を引っ張って、ベルは離宮の大広間へ連れて行った。

「わ……こんなに沢山」

 いつもは三人しかいないのに、男女十数名の召使達が掃除や敷物を変えたり、花を花瓶に活けたり忙しくしている。殺風景な離宮がどんどん美しい空間に変わっていた。

『グレゴール国王陛下と、ユイ王后陛下が今日いらっしゃるのですよ』

 ベルが何か言ったのかわからなかった。けれど、これほどの待遇をさせる貴族が来るのだろうと私は思い、静かにうなずいた。しばらくは部屋で大人しく過ごしていたほうがいいだろう。

 午後、外がざわざわしたなと思っていたら、そのざわざわがもっと大きくなり、突然部屋の扉が開いて光の神子が駆け込んできたから、私は編んでいたストールを床へ落としてしまった。

 美しいドレスを着た光の神子は、私に抱きついて嬉しそうに言った。

「蘭さんっ、お元気そうね!」

「え、えと……」

「あ、名前言ってなかったっけ。私は霜野結衣っていうのよ」

「霜野さん……」

 光の神子は私がおそるおそる名前を呼ぶと、くすくすとおかしそうに笑った。

「結衣でいいのよ。私達同じ日本人だし、神子なんだから」

「でも、王妃様になられたのでは」

「いいのよ。王宮では淑やかにしているけれど、こっちでは羽根を伸ばすことにしているから。陛下がいらっしゃる前におしゃべりしたいもの。それに蘭さんには名前で呼んで欲しいわ。王宮では王妃様でもいいけれど……。それにしても酷いわ、聞いてくれる? 転送の魔術がオーバーするからって、私だけ先に寄越されたのよ。本当ならサヴィーネ王女が先だと思うのだけれど」

「サヴィーネ王女?」

 会ったことは無いけれど、結衣さんはサヴィーネ王女という方が嫌いらしい。ベルが結衣さんにお茶を用意し、結衣さんは微笑みながら受けとった。

「この世界の人達、勝手に私達を召喚しておいてずいぶんな態度をとるの。グレゴールや一部の人は優しいけれど、あの王女を筆頭に難癖をつけてくるから嫌なのよ」

「結衣さん」

 結衣さんは辛そうに顔をゆがめ、零れ出そうになった涙を拭いた。

「くやしいわ。それに貴女まで悪く言うんだから、腹が立つの」

「……私はいいのよ。影なのだから」

「それは彼らの勝手な言い分でしょ。関係ないわよ私達には!」

 久しぶりに意思疎通が出来たけど、あまり幸せそうではない結衣さんを見て暗い気持ちを抱えた。結衣さんは大変そうなのに、私ときたら離宮でのんびり楽しく暮らしている。

 ベルと二人で顔を見合わせていると、結衣さんは「ああ湿っぽいのはやめやめ!」と笑った。

「ねえ? 何か不足して困って無い? 私には何の力も無いけれど、陛下にお願いしたら皆動いてくれるわ」

 そんなことを言われて、私はふと、言葉について聞いてみた。私の話を聞き終えた結衣さんは眉を顰め、私には分からない言葉でベルと話を始めた。二人の会話は長く、私は言葉が通じない忍耐を強いられた。

「……あの公爵。とんでもない男ね」

 結衣さんは深くため息をついて、そう吐き捨てた。

「結衣さん?」

 私は険しい顔をした結衣さんに、不吉なものをひしひしと感じた。

「蘭さん、貴女、公爵以外と話せないように、彼から血の魔法を受けているの」

「……血?」

「ええ、グロスター公爵は竜族でしょ。血の魔法とは彼ら独特の魔法で、それを解くにはかけた竜ですらできないのよ。解く唯一の方法は……かけた竜が死ぬことだけ。でも竜はとても長生きで何千年も生きると聞くわ」

「……そんな」

 それでは私が生きている間は絶対に無理……。

「あの男は相当な執着心を蘭さんに持っているようね。グロスター公爵はどんな女も抱くのは一度きり。それもそうそうその気を起こさないと聞いているわ。だからこそ貴族の女は皆彼の気を惹こうと夢中なのよ。でも、貴女にしでかしている行為を思うと、誰も幸せにはなれないと思うわ……」

 それは私も思う。好きな女を孤立させて閉じ込めるなど、正気の沙汰とはとても思えない。なんとかして公爵の執念から逃れたい。またあの闇に染まった目で見つめられるのかと思うとぞっとする。

「結衣さん。私、言葉さえなんとかなれば、働いて生きて行けると思うの。なんとか、血の魔法を解く方法が無いか、他の方に聞いていただけるかしら」

 結衣さんは大丈夫とうなずく。

「ええ、それは可能よ。私やベルが知らないだけかもしれないもの。宮廷魔術師長や陛下がご存知かもしれないから聞いてみるわ」

 私はそれを聞いてほっとした。可能性はあるらしい……。

 ふうと結衣さんは満足そうにため息を付き、ゆったりと椅子の背もたれに凭れた。

「私もこっちで寝たいわ。こういうシンプルなお部屋の方が好きなの」

「え? 結衣さんも?」

「ごてごてと装飾のある調度品は見飽きてるし、本当は好きじゃないの。でも王妃なんだからそれらに囲まれてあたりまえだと陛下はおっしゃるし仕方ないわね」

「そうですね」

 そこへ侍女が扉をノックして現れ、結衣さんに何かを告げた。結衣さんは頷いただけで侍女をかえした。

「どうしたの?」

「陛下とサヴィーネ王女が到着されたの」

「じゃあすぐに行かなくては」

「大丈夫よ」

「大丈夫って……」

「かまわないのよ。これはあの王女のための休暇なの」

「休暇?」

「サヴィーネ王女は来月隣国のアインブルーメに嫁ぐのよ。二番目の王子と結婚するんだって。だから少しだけでも自由をということらしいわ。彼女、陛下が好きらしくてね」

「……兄妹なのに?」

「まあ……ね。彼女、男兄弟にはべったりみたいなの。あのグロスター公爵にもそうよ。私はあの王女が一番苦手だから、彼女の侍女もろとも隣国へ行ってくれるかと思うとほっとするわ」

「……そう」

 もし結衣さんがあの蔑む視線を投げ続けられているのなら、いなくなってくれた方が確かにいいと思う。結衣さんは陛下を愛しているのだし、日常的に彼女と陛下がべったりしていたらたまらないだろう。

 結衣さんは嬉しそうに話す。

「それにお輿入れの時には、グロスター公爵が護衛として行くそうよ。私は彼も嫌いだから本当にすごしやすくなると思うわ」

「……彼も、……ここに来たりするの?」

 冷たいものが心に滴り落ちていくのを感じた。手が知らないうちに震える。結衣さんは慌てて両手を振った。

「まさか! 貴女がいる所には寄り付かせやしないわ! それに貴女には、陛下がお決めくださった優しいフィアンセがいるのよ?」

「ええ?」

 正樹というフィアンセがいるのに、新たなフィアンセなど有り得ない。驚いている私を見て結衣さんはころころ笑った。

「ヘッセル侯爵っていってね、とっても優しくていい人よ。何よりとても美しい方なの。貴女より年は一つ下だけど、公爵なんかより数倍良いわ」

「……で、でも、私は……」

 結婚なんてしたくない。でも結衣さんには正樹について言っていないから、彼女は純粋にこの結婚を喜んでいるようだ。

「大丈夫いきなり結婚ではないわ。あと半年ほどあるのだし、それまでこの離宮でのんびり過ごしたらいいと思う」

「私……、大丈夫なのかしら……」

 不吉な存在の影の神子を、異世界人の私と結婚してもその人に何の利益があるんだろう。結衣さんは馬鹿ねと笑う。

「大丈夫に決まっているでしょう。蘭さんはとてもきれいよ。貴女の花婿候補は沢山あがったらしいわ。それで陛下お気に入りの侯爵に白羽の矢が当たったわけ。グロスター公爵はその時謹慎処分で参加できなかったの。もちろん陛下はそれを狙われたの」

「そう……なの」

 突然湧いて出たような話に嬉しいのか悲しいのか分からない。結衣さんが言うには、ヘッセル侯爵という人はとても穏やかで好感が持てる人なのだそうだ。人柄はとてもよく結衣さんにも誠実に接するとの話で、幾分か恐れは消えたけれど、やはり結婚しなければここでは生活していけないのかと残念に思った。

 それもそうだ。得体のしれない異世界人を市井に放り出してくれるわけが無い。何をしでかすかわからないから監視の必要もあるのだろう。愛の無い結婚でも、命が助かっただけでもありがたいと思わなければいけない。それに公爵の魔の手から逃れられるのだから……。

「楽しみだわ結婚式が。私も式に出たいのに、身分が下の人間の式には出られないんですって。そういうのって居世界でも同じなのよね。つまらないわ」

「いいの。でもありがとう」

「グレゴールを愛しているわ。でもこの先がなんだか心配」

 この国とグレゴールについてばかり話す結衣さんが不思議だった。

「結衣さんは、元の世界へ帰りたくないの?」

「ぶっちゃけ言うと帰りたくないわ。デブの年寄りの気持ち悪い男と結婚させられそうになっていたから」

「ええ?」

 結衣さんはとある大企業の令嬢だそうで、婚約者は政略で決められてしまったのだそうだ。

「でも、好きな男性とか……」

「それがいなかったの。ずっと女子校だったし、温室育ちみたいで情けないわね。家のこと情もあってか若い男性は遠ざけられていたから」

 結衣さんは悲しい顔をした。

「親も似たような結婚だから愛なんてなかったの。だから私にもそう強いたのよ。あんな人達大嫌いだし、帰りたいとも会いたいとも思わないわ」

 孤児でも正樹が居た私は幸せだったのだ。お金持ちをうらやましいと思っていた自分が恥ずかしい。また湿っぽいわねと結衣さんは笑い、止めましょうと言った。

「今はとても幸せなの。グレゴールは素敵だし愛してくれてるもの。だから私はここで幸せになるの。蘭さんにもそうなって欲しい。押し付けられた婚約者だなんて思わないでね。本当にヘッセル侯爵はいい方よ?」

「……結衣さん」

 先ほどの侍女が現れ、結衣さんにまた何かを言った。おそらく国王が呼んでいるのだろう。結衣さんはもっとお話がしたかったのにとつぶやき、それでも国王には逆らえないようで部屋を出て行った。ベルは部屋に居らず、自分一人だけになった部屋は妙に寂しく感じた。

 私は、冷めたお茶を口にした。

 結衣さんは本当に素晴らしい女性だ。何事も前向きに捉えて、ひたすらしあわせになろうと努力している。

「ヘッセル侯爵……か」

 正樹を愛しているのに、申し訳ない気持ちが沸いてくる。でも、いつしか諦めてヘッセル侯爵を愛せるようになるのだろうか。

 わからない。

 夕陽が私の頬を射した。

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