囚われの神子 第06話

「ど……して」

「どうしてとはお言葉ですね、ラン」

 得体の知れない微笑を浮かべた公爵の手のひらが両肩に置かれ、恐ろしさに胸がつぶれそうになる。扉は開いていないし、この男はもともとこの部屋には居なかったはずだ。一体この男はどういう魔力をどれぐらいの範囲まで使えるのだろうか。魔法というものをお話の中でしか知らなかったから、どうしてもこの世界にまだ馴染めない。

 震えている私に公爵はうっとりと熱い吐息を零した。

「とても美しいです。でも貴女のこの肌にはどんなドレスも敵わないでしょう」

「さわら……ない……で」

 肩から腕へ滑っていく公爵の手のひらが気持ち悪い。身を捩じらせてもそのまま彼は私の身体に好き放題に触れてきた。

「は……あぁ!」

 ドレスの上から摘まれた胸の先は敏感に固く尖り、思わず息を乱れさせてしまう。そして公爵にうなじに口付けられた。

「やめて!」

「やめる……? どうして?」

 くくくと笑った公爵はソファの背もたれから一気に前へ飛んだ。それはまるで黒い大きな蝶が羽を広げて舞い降りたようで、芳しい筈の甘い香水の匂いも禍々しく思えた。

「結衣さんは……」

「サヴィーネや侯爵達と食事中です。国王は先に食事を済ませており、一人になりたいから部屋に来るなと言ってあります」

「食後にヘッセル侯爵が来るのよ!」

「それがどうしました?」

 そのままソファにどさりと押し倒され、近づいてくる公爵の顔を止めようと思い切り爪を立てて引っかいた。黒いうろこに覆われていないその部分は人間の皮膚と同じような固さだったのか、引っかき傷から血が流れていく。

「……なんです? 今頃このような抵抗をして?」

 公爵は自分の顔の傷に指を滑らせ、その血を舌を出して舐めた。思ったより深かったのか血はぽたぽたとドレスに落ちた。

「触らないで」

「おかしなことを。私の助けを借りずに生きていけるとでも?」

「貴方に助けられるくらいなら死んだほうがましだわ」

 いきなり公爵が笑い出した。

「ランは何もわかっていないのですね。ねえ? 昨夜貴女は私に抱かれた……それが何を意味すると思います?」

「……穢されたと思っているわ」

 昨夜を思い出すと黒真珠の涙が溢れてしまう。その黒真珠を公爵は一粒取って口に含み、私の顔を覗きこむ。

「貴女は、私が望まない限り死ねない身体になったのです」

 信じていた何かが砕け散った。目を見開いて凝視する私に公爵は続ける。

「竜は気の遠くなるほどの長い年月を生きるというのに、一生に一人の妻しか娶りません。だから愛おしい存在の命を、自分の寿命と同じくさせるために交わるのですよ」

「そ……んな」

「血の魔法だけでは不完全でした。貴女は人間の寿命で死んでしまう。それを交わることによって若さと寿命を延ばしたのです」

 恐ろしい話だ。同時に激しい憎しみが公爵に対して湧き上がってくる。どうしてここまで人の意思を無視できるのだろう!

「貴女は私を愛していると言ったわ。どうして私が望まないことばかりするの! そんなの愛じゃないっ」

「いいえ愛です。ランが死んだら生きてはいけないほど愛していますとも」

「私は貴方なんか大嫌いっ」

 意思に反して公爵に抱きしめられた私は、決壊した川のように感情の赴くまま詰った。

「嫌いっ嫌いっ大っ嫌い! 私の前から消えてよ! 元に戻してよ! ひぃっ…………」

 公爵のあの鋭い爪がドレスのスカートを下着ごと引き裂き、その威力に怯える私に公爵が爪をぬるりと舐め、微笑した。

「貴女は本当に何にもわかっちゃいない。その憎悪ですら私をたまらなく虜にするのですよ」

「はな……離してえっ…………あああ!」

 ビスチェも同じように裂かれ、飛び出した乳房に公爵が吸い付いて噛むと身体の奥深くがどくりと熱くなった。やだ、やだ。どうしていつも私の身体は言うことを聞いてくれないの?

「貴方がどれほど私を嫌っても、身体は私しか受け入れないんですよ。ためしにヘッセルを誘惑してみるがいい。絶望する貴女を想像するのは難くない。ほら……このように貴女の身体は……淫らだ」

 公爵の軽く曲げた指に蜜で濡れつつある肉の芽をゆっくりと押された。途端に身体がびくびくと撥ねて、新たな蜜が局部から滲み出して滴っていく。

「やああ……っ…………、ど……して!」

「正直におなりなさい」

 公爵に耳の下の柔らかな部分をきつく吸われた。かすかな痛みと唇の熱さがまた私を狂わせる。

「ああ……あ……んっ……んんっ」

 にやりと笑った公爵にろくに準備が出来ていない秘唇を熱く貫かれた。昨夜の痛みがぶり返して身体が一気に緊張する。でも昨夜と違うのは何か甘いものが混じっていること。これは……何?

「ふふ、こうやって犯されれば私の形を覚えていくでしょう」

 左腕を公爵に押さえつけられ、片方の胸を公爵に握りつぶすように揉まれて、彼の快楽に引きずり込まれていく……。公爵を食い締めた奥は熱く蕩けて、彼を歓待していさらに奥へと誘い込んでいる。

 嫌なのに。嫌なのに。私はどうしてしまったの。

「とんでもない淫乱神子だ。貴女は私に犯されて歓んでいるのですよ」

「いやあっ……言わないで……っ」

「何度でも言います。気持ちいいでしょう? もっともっと繋がりたいと思っているでしょう? くくく……」

「あああっ……いやあっ……あうっ!」

 結合部分がむず痒さで痺れておかしくなりそうだ。昨日の痛みは感じない。そんなにすぐに痛くなくなるものなのだろうか? 私は公爵の言うとおり淫乱な女なのかもしれない。粘りつくような水音がずっと続いているし、お尻の下に温かな滴りが濡れ広がっていくのも分かる。

「んんっああんっ……くっ……ああっ……ああっ!」

「破いたドレスは元に戻してあげるからご安心なさい。でもここは……」

 ぐぐっと公爵に奥まで突かれてたまらなくなって、かなきり声が出た。そのまま結合部分をかき回されて、さらに官能の度合いが深くなる。もうすぐヘッセル侯爵に会うというのに私は何をやっているの。

「私の欲を注がれたまま侯爵に会うんです。最高でしょう? はははははっ」

「やめてやめてぇっ」

 公爵の欲を抜こうとソファをずり上がったけど、笑ったまま公爵に腰を捕まえられてさらに激しく揺さぶられた。

「ああっああっ……ああああっ」

「いい声ですね。くくく……」

 べろりと公爵に顔を舐められた。そして……。

「さあ、存分に飲み干しなさい」

「や……あ! ……………っ」

 どくどくと注がれていく公爵の白濁に、狭いそこはあっという間に熱く満たされた。公爵はさらに奥に注ごうとして強引に腰を進め密着させる。どろりと足の間にそれが流れた時、くたくたに疲れきった私にはもう公爵に抵抗する気が失せていた。

 身を起こした公爵はドレスを魔法で元に戻した。でも局部は熱く蕩けたままでびくびく震え続けている。こんなの嫌だ。嫌なのに公爵は目を細めて私を視姦する。まるで私の中に自分の痕跡を探すかのように。

「さあ……もうすぐ侯爵が来る、私の愛撫に蕩けたまま存分に相手したらいい。光の神子が言ったように、今日貴女に手を出すような男ではないでしょうからご安心なさい。彼が帰ったらまた抱いて上げましょう。私なしでは我慢できなくなるほどにね……ふふふ」

 放心して脱力した私をソファに座らせた後、公爵は煙のように姿をかき消した。

 一度ならず二度までも。身体が変わってしまったかのように、流れ出てくる涙はもう私には残されていないのか、一粒も黒真珠は落ちてこなかった。

 トントンと扉をノックする音が響いた。

『ラン様、ヘッセル侯爵がおいでです……っ!? ラン様!!』

 ベルは部屋に入って来るなり、ぐったりとしている私を見て顔色を変えた。何も言わなくても、ベルは面会できるような状態ではないと気づいてくれたらしい。

『熱がおありだしとてもお疲れなのですね? わかりました、すぐにヘッセル侯爵に申し上げて……』

 ベルの手がとても優しくて心地いい。そんなベルにと安心した私はやっと涙を流せた。

「……ごめん、私、どうしたって無理なの」

『何をおっしゃっているんですか? さあとにかくこちらへお移り下さい』

「だって、私、汚いの。本当にとても汚いの」

『ラン様?』

 ベルに肩を貸してもらって寝台に移動しようとして、下着の中でどろりと伯爵の欲が流れ出したのを感じた。最低な私はそれだけで腰が痺れてしゃがみこんでしまう。

「やだ、本当に私は汚い。…………っうう……え…………」

 涙を流すだけだったのに、今度は子供みたいに声をあげて私は泣き始めた。社会人が人前で泣くなんて情けないけれど泣きたくて仕方ない。もうどう思われたって構いやしない、私なんてどう取り繕ったって綺麗な身体には戻れないんだから。

「わあああああっ……!」

 ベルの肩にしがみ付いて思い切り泣く私に、ベルはおろおろとしている。

 許さないから、絶対許さないから! グロスター公爵アレックス。

『ラン様……』

「帰りたいよお……。こんなところもう嫌だぁ……ううう……っ」

 どんなに嫌がっても、公爵の手のひらで踊っているしかないなんて嫌……!

 正樹に逢いたい。

 正樹に逢いたい。

 汚くなってごめんなさい、戻れなくてごめんなさい。

「蘭」

 男性の声が部屋に響いて私は辺りを見回し、戸口に立っている貴族を見上げた。その声にも姿にも覚えがある。逢いたい逢いたいと思ったから幻影まで見るようになったのかな? そうか疲れすぎてあのまま寝ちゃったんだ。

『ヘッセル侯爵。申し訳ございません、ただいまラン様は取り乱しておいでで……』

 ベルが丁寧にお辞儀する。

『構わない。気にしないから』

 変なの、どうして異世界人の正樹に礼を尽くすのかな。ベルって本当に固い人……。

「蘭、俺だよ? 忘れちゃった?」

 後ろに下がったベルの代わりに前へかがみ込んだ正樹が、私の両肩を優しく包んだ。この温かさには覚えがあり、信じられないと思いながらその顔をじっと見つめた。髪と目の色は違うけれど……。

「……正樹?」

「そうだよ」

 黒髪黒目から金髪碧眼になった正樹が笑う。夢なら覚めないで欲しい。震える手を伸ばしたら正樹がしっかりと握ってくれた。

「少し、痩せたね」

 そうだ。ハッとしてその手を振り払った。いけない、私みたいに汚い女が夢の中でも正樹に触れちゃいけないんだ。

「どうした?」

「ごめん、私汚いから触らないで」

「汚いって……どこも汚くは見えないけれど」

 正樹は私を上から下まで眺め、私の腰の辺りに目を止めて凝視した。やっぱり分かるんだ……夢だもの、公爵にどんなことをされて今どんな状態なのかあっさり分かるくらい私は汚いんだ……。

 それなのに正樹は離れようとする私を抱きしめた。

「大丈夫だ。分かってるんだ、蘭がグロスター公爵に何をされていたかも知ってる」

「だったら……ほっといて」

「放っておけるわけがないだろう! ずっと探していたんだ。こんなところに居たなんて……、君が影の神子だなんて思わなかった。だからマリクの国王が君の配偶者を選んでいると聞いた時に、僕になるようにある人に仕向けてもらった」

 嫌に現実味を帯びた夢だと思った時には、私は正樹に抱き上げられて寝台に下ろされていた。ベルが後ろで慌てている。

 これは夢ではなくて現実?

 辺りを取り巻いていた霧が晴れていくように、夢から現実へ目覚めていく心地がした。

 夢じゃない。本当に正樹がここにいる……?

 本当に?

 私はおずおずと正樹を見上げた。

「……あの、まさか正樹が……、ヘッセル侯爵、なの? 誰かが変身しているんじゃなくて?」

 まさかあの公爵が私を空喜びさせるための罠かと思いつつも、正樹に上掛けを優しくかけてもらうと期待で胸がドキドキする。正樹は少しはにかんで笑った。

「竜族は人間には変身できるけれど、竜族の者の姿には変われない」

「…………」

「俺はたまたま遊びに行った君の世界で君に恋に落ちた。あの世界での経歴は皆偽物だ。ごめん、俺はずっと君に嘘ついてた。俺は君の居た世界の人間じゃない、この世界の白の竜族である貴族なんだ」

「竜族……?」

 公爵と同じだと思うだけで嫌な汗が背中に滲む。でも正樹……ヘッセル侯爵からはあの嫌な暗闇は全く感じない。正樹はベルの用意した椅子に腰掛けて、私の左手を両手で包み込んだ。

「こうしていると君のこの世界に来てからの記憶がなだれ込んでくるんだ。ああ、あの国王は本当にひどい男だ。グロスターも同じ血が流れているせいかとてもひどいね。蘭、君が消えてから俺がどれだけ探したかわかるか?」

「ごめんなさい……」

「君を愛してる……、蘭」

 正樹はまだ泣いている私に口付けてくれた。同じキスでも正樹からだと心からうれしい。もっとして欲しいと素直に思える。ベルはほっと安心したように微笑み、静かに部屋から出て行った。

 この異世界に来てから、私は本当に安心して心を開放できた。

 蘭が幸せを噛み締めている一方で、ヘッセル侯爵の正体を知ったアレックスが怒りを露わにしていた。

 花瓶が床に落ちて無残に砕け散る。

「これはどういうことだ……サヴィーネ」

「あ、兄上さ……っ」

 アレックスは鋭い爪が伸びた指先をサヴィーネの顎に食い込ませ、片手で宙に持ち上げた。重心が顎にかかっているサヴィーネは、痛みで苦しそうに顔を歪め涙を流している。

「何故ヘッセルが正樹だと私に言わなかった」

 サヴィーネの柔らかな肌に爪がさらに食い込み、それぞれの指先から赤い血がぽたぽたと床に滴り落ちた。

「……今、……おっしゃって……も、手遅れ……です」

「お前は知っていて何もかも黙っていたな。アインブルーメから留学しているヘッセル侯爵が白の竜族だと」

「…………ほほ、相手が……人間なら……殺せますものを……あぐっ!」

 アレックスに床へ乱暴に叩きつけられ、サヴィーネは身体がばらばらになったかのような激痛を浴びた。この男は男であれ女であれ決して情け容赦しない。その非情さこそがサヴィーネを近親相姦の想いを抱かせる原因だった。

 アレックスはサヴィーネの顎を掴んでいた手を離し、今度はカールされた髪を掴んで彼女を宙に引きあげる。彼女の着ているドレスはとても豪華なもので総重量がかなりあるが、アレックスは彼女を片手で持ち上げるのだ。

「白竜ならば、いかな私でもおいそれと手を出せない……」

「臆病なこと……将軍とも……あろうお方が……はぅうっ……」

 今度は壁に叩きつけられ、さすがのサヴィーネも頭から血を大量に流し、ぐったりとして気を失った。アレックスは小さく舌打ちをして髪を掴んでいた手を離し、ぼろきれの様に床に転がったサヴィーネの優美な肢体を蹴飛ばした。

「この女は……」

 忌々しげにサヴィーネを見下ろしていたアレックスだったが、サヴィーネに向かって手のひらを下ろして治癒魔法を掛け始めた。彼女と隣国の王子との結婚は間近であり、傷物のまま嫁がせてはマリク王国の格が下がると気づいたからだった。

 アレックスの手のひらから生まれる銀色の光の粒子がサヴィーネの傷ついた身体に吸い込まれていき、ほんの少しの時間でサヴィーネは元の美しい彼女に戻った。

 気を失ったままのサヴィーネを床の上に放置し、アレックスは国王の姿で部屋から出た。怯えて廊下に控えていた侍女達が慌てて部屋へ入っていく。

 ヘッセル侯爵がただの人間だと思っていたからこそ、アレックスは余裕でいられた。だが黒の竜族と相対する白の竜族の男であったとは、まったくの予想外だった。

 竜族は、竜族同士での争いを厳しく禁じている。その禁を犯した者には厳しい罰が待っているのだ。

 光石が照らしている夜の廊下は人影がなく、アレックスの靴音だけが響く。皆それぞれの寝台に潜り込み夢を見ている時間だ。

 遠視で蘭と語りあうヘッセル侯爵を見て、アレックスの心に爆風が吹き荒れた。

 何とかしなければ。このままでは蘭はあの男に奪われてしまう。かけた竜本人が死なぬ限り解けないと言われている血の魔法は、じつはたった一つだけ解く方法がある。それは竜族だけが知っている。蘭を心底愛している男ならその方法を取ってしまうかもしれない。そうなっては永遠に蘭は自分のものにならなくなってしまう。

 冷静なアレックスが珍しく焦れた。ヘッセル侯爵の出現は心底予想外だった。

 そのまま外に出たアレックスを、屋根の上にいたと思われる小さな灰色の竜が、小さな翼をはためかせながら舞い降りて出迎えた。アレックスの手のひらサイズの竜は小さな炎を吐いた後、彼の肩にちょこんと止まり翼をたたんだ。

「ガウネ、王宮の様子はどうであった?」

「国王が新しい寵妃に大盤振る舞いしてる。面白がってる奴ら、眉をひそめる奴ら、歓迎してる奴ら、いろいろさ」

「さもあらん。光の神子に及ばなくとも、妾妃になれれば女も女の実家もある程度の権力を持てる。しかし我々の帰還を国王は頭に入れているのか?」

 小さな竜はつんと鼻をそらしてひげをひくひくさせた。

「もちろん入れてるさ。貴方になんらかの面倒ごとをおっかぶせるつもりだよ。影の神子にも興味あるみたい」

「……そうだろうな」

 いつもアレックスは兄であるグレゴールから厄介ごとを押し付けられてきた。強国との戦い、面倒くさい外交、廷臣達の謀略の調査など。

「もうあの見掛け倒しの馬鹿を見限ったらいかがです? 頃合かと思われますが。貴方を支持する者も先のアインブルーメとの戦争を境に一気に増えましたし」

「そのアインブルーメの貴族が蘭の配偶者になりそうだ。しかも……」

「申し訳ございません、うまくごまかされてヘッセル侯爵が白竜の一族とは気づきませんでした」

「構わない、サヴィーネとヘッセルの二人が邪魔立てしていたのだから無理はない……」

 竜族の中で上位にあるアレックスでも見破れないことが多々ある。自分は蘭に溺れすぎていたようだとアレックスは自嘲した。

「またあの方ですが。実の兄であるアレックス様に懸想するのも程ほどにしていただかないと」

「あの女のお守りはアインブルーメへ嫁ぐまでだ。それよりもお前にやってもらいたいのだが……」

 アレックスは灰色の竜を自分の肩から掴みあげ、前へぽんと軽く放った。次の瞬間には粗末な服を着た十四歳位の灰色の髪の美少年がアレックスの前に立ち、右手を胸に置き優雅に前へかがんでお辞儀をする。

「なんなりと、アレックス様」

 不敵なガウネの微笑みは、アレックスが信頼を寄せるに値するものだった。

 

 結衣さんは出立の準備で忙しいというのに部屋へ来てくれて、ヘッセル侯爵が私の元の世界での恋人だった話を聞いて喜んでくれた。私としてはまだ夢のようで信じられない話なのだけれど、元の世界での内緒の話も知っていたし懐かしい笑顔もそのままだったので、やっぱりヘッセル侯爵は正樹なのだと強く信じられた。

「良かったわ。私もこれで安心して巡幸できるし」

 笑顔で言う結衣さんに私は複雑な気持ちだ。三ヶ月の巡幸を終えた結衣さんは、グレゴールの浮気相手の女と対峙する運命が待っているのだから。その時の結衣さんの心を思うと気が沈む。やはりこれは言った方が彼女のためではないだろうか。

「あ、あのね結衣さん……」

「何?」

 その時、開かれた窓からつんざく様な女の悲鳴が遠く聞こえた。

 私と結衣さんは顔を見合わせた。結衣さんは見てくると言って立ち上がったけれど、例のアメリアに止められた。侍女は何かを結衣さんに言い、足早に部屋から出て行った。彼女が結衣さんの代わりに様子を見てくるのだろう。

 離宮の中は騒然として来て、何か事件が起こったのは間違いなさそうだ。一体何が起こったのだろうか……。結衣さんもそわそわして落ち着かない様子で、私は言いかけた話を口に出来なくなってしまった。

 やがて戻ってきたアメリアの顔は真っ青だった。結衣さんに言葉少なく話す彼女の口調はすこし乱れていて、役目大事に気を保っている感じだった。結衣さんが侍女の言葉を聞いた途端に両手で口を押さえているくらいだから、余程の何かだろう。

「……結衣さん、何があったの?」

 二人が話し終えるのを待って、私は静かに結衣さんに聞いた。結衣さんは躊躇うように視線をさ迷わせる。

「言っていいものかどうか……。ああでもヘッセル侯爵が来てくれてよかったわ。直ぐにでもこんなところから彼の館に移動できるし」

「何の話ですか?」

 焦れた私に結衣さんは驚かないでね、と、念を押した。

「この離宮の北の庭に、頭がぐちゃぐちゃにつぶされて全身が引き千切られている女性の惨殺死体があったのですって」

「…………!」

「魔物はここには絶対に来ないから、精神的におかしい者の犯行じゃないかと思うわ……、その辺り一帯散らばった血液や砕けた骨や肉でひどい有様ですって……。引きちぎられた血塗れの乳房が草むらに落ちていて、それでかろうじて女性と分かる状態。女性の着ていた服は見つからないみたい」

「……それは」

「ごみ捨てに行こうとして庭を通りかかった離宮の端女が発見して、さっきの悲鳴をあげたの。彼女、かわいそうに寝込んでいるそうよ。精神的なショックがひどそうだから魔術師の治療が必要ね」

 身の毛もよだつような話で胸がむかむかしてきた。

「親衛隊の隊長が、予定を大幅に繰り上げてここを出立すると言って来たわ。この辺りは第三師団の管轄だから、彼らに引き継いですぐに行くのですって。だから蘭さんもこんな恐ろしいところにいつまでもいてはいけないわ」

「で、……でも犯人が誰かわからないのに」

「この国では身分の高い者の身柄保護が最優先なんですって。今、親衛隊が侍女や付き従ってきた者達を調べているみたい。今のところ全員白だそうよ」

 理解が出来ない。こんな短時間でどうしてそんなことがわかるのだろう。結衣さんは青い顔をしながらも少しだけ笑って説明してくれた。

「この世界は魔法の世界よ。魔術師が魔法の水を入れた皿に、疑われた人間が手を浸して嘘を言っているかどうかを調べるの。嘘を言ったら水が熱湯になってその者の腕が焼け爛れるそうよ。そのやり方を今やっているの。国王でさえもそれは同じ……ただ…………」

「ただ?」

 結衣さんは私の視線を受けて、ハッとしたように口をつぐんだ。慌てて明らかにつくりものとわかる笑顔を浮かべた。

「なんでもないわ。そんなことあるわけないもの。とにかく全員白とわかったら皆離宮を離れなくてはいけないわ。引き継ぐ者達の調査の邪魔になるもの」

「…………」

「蘭さんにも調べが来ると思うけど、気を悪くしないでね」

「……ええ」

 何か納得がいかないのだけれど、結衣さんが言いたくなさそうなのを強いて聞くわけにもいかない。それよりも私は結衣さんにグレゴールの浮気を言わなければ……。でもまたしても邪魔が入った。アメリアが結衣さんにまた何かを早口で言い、結衣さんが立ち上がってしまう。

 少し待ってもらおうと手を伸ばした私に、結衣さんは軽くバイバイをした。

「じゃあ私は行くわね。蘭さんとヘッセル侯爵の結婚式を楽しみにしているわ」

「待って、私、貴女に伝えたい話が、結衣さ……っ」

「ごめんなさい。時間が押していてもう無理なの。じゃあね、元気で」

「結衣さんっ」

 私はまだ体力が回復していないから結衣さんを引き止められず、結衣さんが部屋を出て行った後、寝台に横たわり深くため息をついた。これはもう正樹に相談するしかなさそうだ。彼なら何かいい手を知っていそうな気がした。

 暫く経って、正樹とベルと皿を手にした魔術師と兵士が二名やってきた。取調べをされるのだろう。言葉が通じないから正樹が質問をした。

「蘭は昨日の夜から今までこの部屋を出ていないね?」

「はい」

「じゃあ真実だという証に、この皿に片手をつけてくれる? 君なら大丈夫だから」

 何も起きないとわかっていても、その水がなんだか無気味だった。老齢の魔術師のくぼんだ目の陰鬱な視線も嫌だし、兵士二名の突き刺すような眼差しも不快だった。でもこの検査をしないとどうにもならないから、左手の手のひらを皿に湛えられている水につけた。

 刹那、真っ白な水蒸気が押し包み左手に衝撃が走った。同時に火に焼かれるような熱さと痛みが左腕を覆う。一体何が起こったのかわからなかった。

「ひっ…………ああああああああ!」

 蒸気が晴れて見えたものは焼け爛れた自分の腕だった。痛みと熱さに苦しむ私の前に兵士二人が剣を抜いて構える。

「まさかっ! 蘭は動けない身体なのに。これは誰かの罠ではないのか!」

 正樹はそう叫んだ後、私にはわからないこの国の言葉で兵士や魔術師に何か大声で訴えだした。私は壮絶な痛みで頭が一杯になっていて、身体中汗でびっしょりにしながら涙を流して痛みをこらえるしかない。

 だから私は、ベルが冷たい笑みを浮かべて部屋を出て行った所を見なかった。

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