囚われの神子 第09話

  幼い頃の夢はお嫁さんだった。どこかのお金持ちとか王子様とかじゃなくて、とにかく優しい男の人と結婚したいと思っていた。

 正樹の笑顔が浮かんで消える。その顔が浮かんでいる時は、とても温かな思いに身体もほっとするのだけれど、消えた途端に冷たい刃のような物がすうっと頭から爪先まで流れていく。

 死んだのだ……正樹は。

 私の夢が叶う日は、永遠に来ない。

 公爵は、王宮近くにある貴族達の居住地の一角に屋敷を与えられ、そこへ私と部下達を伴って移り住んだ。そこで公爵は国王のように振る舞い、彼らの部下もうやうやしい態度で公爵に接している。私はそれを他所事のように見ていた。だって他所事だ。彼がどんな境遇に変わったって、私は変わらない。変わりたくない。

 今日で正樹が死んで二日目だった。

 自分の部屋に隣接している浴室で侍女達に磨き上げられた後、私は一人で大きな白い石で出来た浴槽に浸かりながら、黒真珠を見つめていた。正樹の血を浴びた黒真珠は、黒いけれどどこか青みがかっていてとても綺麗だった。

 これを飲めば公爵の魔法から開放される……。

 二日前、御前試合で気を失った私は、悪いお酒に酔ったような気持ち悪さを胸に覚えながら目覚めた。見覚えのある天蓋の花の飾りを見て、アインブルーメの王宮の部屋に戻ってきたんだなと思った。ドレスは脱がされていて、下に着ていた下着のみで寝台で横になっていた。

「目覚めましたか、ラン」

 最悪な目覚めと言うべきだろう。寝台の隣で公爵が簡素な白い服を着て椅子に腰掛け、酒の入ったグラスを優雅な手つきで揺らしていた。外から入る陽は赤く、夕暮れ時のようだった。御前試合は午前中だったから、随分長い間気を失っていたようだ。

 公爵はお酒を一口飲んで微笑んだ。

「ラン。貴女の名前は、ラン・エルヴィーラ・カトリン・マリク・グロスターになりました」

「……私は百瀬蘭よ」

 そんなおかしな名前になりたくない。言いながら私は上掛けの中で下着のポケットを探った。固く丸い感触。大丈夫、奪われてない。正樹が残してくれた大事な物を奪われるわけにはいかない。

 公爵はそんな私を探るようにじっと見つめた。私は知らんふりをして、窓辺に置いてある綺麗な光石のスタンドに視線を逸らした。私は秘密から公爵を引き離すために、話したくもないけど話題を振った。

「……貴方はおかしいわ。どうして貴方はこちらの王様にそんなに信頼されているの」

「グレゴールが私を信頼してくれませんので」

 くすくす笑って公爵はグラスをテーブルに置いて立ち上がり、レースのカーテンの前に分厚い紺色のカーテンを引いた。たちまち部屋の中は暗くなり、光石の光源だけが頼りになった。戻ってきた公爵は寝台の上に腰を掛け、私の顎をゆっくりと撫でた。

 この右手は正樹のお腹を貫いた手だ。そんな血塗られた手に撫でられるなんて……気持ち悪い。

「……どうして自分の国よりも、この国を大事にしているの?」

「大事? まさか。利害が一致したに過ぎません」

 予想通りの答えに笑いがこみ上げてくる。こんな皮肉な笑いを自分がするようになるなんて、思ってもみなかった。

「貴方の行動は、国を裏切っているようにしか見えないわ。自分のためだけに行動しているみたい」

 公爵は頭を傾げ、さらさら流れる長い髪をかきあげながら訂正した。

「少し違いますね。私はグレゴールとその取り巻きを裏切っているのです。あのような輩は生きている価値さえない。現にあの兄は国政を全て王妃の一族に放り投げて、好き放題に遊んでいるだけだ。そのような国王に何故私が尽くさねばならないんです? このままではマリクは崩壊する」

 正論だ。でもこの男に清廉潔白な雰囲気などない。私はわずかに後ろにずれて公爵の手を躱し、キッと睨みつけた。

「それを正すのが臣下の仕事ではないの?」

「王たらぬ王に尽くす義理はありません。貴女もおかしな人だ、あれにどのように扱われたのか忘れたわけでもないでしょうに。私も何度死んでもおかしくない仕打ちを受けていますが」

「恨んでいるから、裏切るの?」

 はははと公爵は笑った。

 笑い声はとても陽気なのに、彼の目は仄暗く陰っていく。美しい男なだけに相反するその気配に狂気が混じると、恐ろしくてたまらなくなる。

「感情で動くなど無能者のする行動です。私はあの男を馬鹿にこそすれ、恨んだことなど一度たりともありませんよ」

 黒い目の呪縛が身体を縛った。また始まる。なんとか逃れようとしてもがいたけど、もがけばもがくほどそれは強く食い込み甘く痺れた

「お兄さんなんでしょう? 家族なんでしょう?」

「血のつながりなど一番信用ならないものです。特に王家における兄弟姉妹の関係など『敵』以外有り得ない」

 後ろに退こうとしたのに腰を抱き寄せられ、首筋に唇を押し付けられた。

「今日は……嫌!」

「正樹を殺したこの手で、貴女を愉悦の天国へ押し上げてあげましょう」

「嫌。貴方なんか嫌い! ああっ」

 ぴちゃりと公爵が耳を舐めて耳朶を軽く噛んだ。正樹を食べた唇が私も食べようとしている。

「父も兄も妹も疎ましい……。それなのに、私は貴女との間に子供が欲しいのです」

 ぞっとした。こんな男との子供など欲しくない。気持ちが悪い。愛せるはずもない。

 でも、公爵に操られている私の身体は、彼を拒絶出来なかった。

 

 湯気がもうもうと立つ浴槽で、青みがかった輝きだけを放つ黒真珠。

 これは正樹の命の一部だ。食べられた正樹を見た時、自分には何も残されないと思っていた私に、彼は幸せという思い出を残してくれた。

 ──公爵の魔法を打ち破る唯一の手段。

 公爵の手から逃れるには魔法を打ち破ることが第一だ。正樹のいない元の世界に未練はなかった。だから帰る方法が無くて、この世界でしか生きていけないのならそれで構わない。でも、あの男のものになって一生過ごすなんてまっぴらだ。

「結衣さんには真実を全て打ち明けないと」

 あと二ヶ月で巡幸が終わる。公爵もその頃マリクへ私を伴って帰るのだという。すべてはその時だ。

 私との子供が欲しいといった公爵。とんでもない話だ。あんな男の子供なんて悪魔に決まってる。そんな悪魔をどうして私が産まなきゃいけないの。絶対に嫌だ。一番嫌だ。

 今のところ生理は順調に来ている、でもこのままではいつかは妊娠してしまう。周りは私を公爵の妻だと思ってる。堕胎なんて許してくれないだろう。

 ……怖い。

 私はもう狂いだしているのかもしれない。堕胎なんて悲しい行動だとずっと思っていたのに。でも絶対にあの公爵の子供なんていらない。

 正樹のくれた希望で必ず公爵から逃げてみせる。

 翌朝、私は侍女達が来る前に目覚め、隠し持っていた黒真珠をそのまま飲み込んだ。熱くも痛くも無く、一瞬本当は何も変わってないのかとがっかりしたけど、部屋にある本棚の本を取り、その中に書かれている文字を宙で書いてみた。

「……うそ」

 何も起こらない。それどころか、日本語に直さなくてもその文字の意味を理解できた。言いようのない喜びが湧き上がり大声で叫びたくなった。同時に正樹に対する感謝が深く熱く浮かび上がった。苦しい死の間際で、彼は命を掛けて魔法を解く方法を教えてくれたのだ。

(ありがとう、ありがとう……正樹)

 でもこれは誰にも悟られたらいけない。バレたら公爵はさらなる魔法を私にかけるだろう……。とはいえ、公爵は忙しいらしくて夜しか居ないし、侍女達も呼べば来るけれどほとんど私の傍には居ない。バレる心配はない。

 扉をノックする音がしたので、慌てて本を本棚に戻して寝台に戻った。

「おはようございます、ラン様」

 アメリアが、今日も無愛想に部屋に入ってきた。耳から入ってくるのはこの世界の言葉なのに、頭はしっかりとその意味を理解している。

「こちらにお着替えください。今日も公爵様は夜までこちらにいらっしゃらないとのことです。貴女は公爵様をお嫌いでしょうから良かったですわね」

「…………」

 私が言葉が理解できないと知っていて、やっぱり毒づいていたんだなと吹きそうになり、懸命に堪えた。幸い彼女の関心は寝台のシーツに向かっていたから、私の表情の変化に気づかなかった。でも、彼女はサヴィーネ王子妃つきの侍女のはずなのに、なんでここで私の世話を焼いているのだろう……。

 彼女と一緒に来ていた侍女二人が、私に顔を洗わせてドレスを着せ、髪を綺麗に梳りはじめる。

「本当にこの方は綺麗ね」

「影の神子様だからかも。私、神子様の黒真珠を頂いたのよ」

「へえ。いいなあ」

「うふふ、とっておきの時に使うんだー」

「はいはい、ご馳走様」

 このよく喋る二人の侍女はこんな話をしていたのか。私の何処が綺麗なんだろう? あと黒真珠をとっておきの時に使うって、いつ使うのだろう? そう言えば公爵が、このアインブルーメでは私の流した黒真珠が、とても高価で価値のあるものだと言っていた。

「貴方達、何をべちゃくちゃ話しているの! ラン様のお支度が整ったらお食事でしょう? 用意がまだされてないじゃないの」

 アメリアが注意し、二人の侍女は慌てたように返事をして、私を窓際のテーブルへ誘った。私は給仕されながら、アメリアが何かを探している仕草をするのが気になった。一体何を探しているのだろう。

「ラン様、イアグの実のジュースをどうぞ」

 にこやかに侍女がいつものようにグラスを手渡してくれた。私もいつものようにお礼を言って受け取り、グラスを口元へ運ぶ。

 そこで、心が一気に冷えるような言葉が耳に入ってきた。

「おかしいわね。血まみれの真珠なんてないじゃない。公爵様、何か勘違いなさっているんじゃないかしら」

 グラスを落としかけ、私はその言葉を口にしたアメリアを全身耳にして注意する。震えそうになる手を懸命に押さえ、怪しまれないように朝食を口に運んだ。

 怖い男だ。油断がならない男だ。

 グロスター公爵アレックス。

 黒真珠を飲んで魔法を解いたのに、新たな罠にかかったような気がするのは何故なの?

 私は、本当にあの悪魔に勝てるのだろうか……。

 それからさらに月日が流れ、この世界は秋に入っていた。

 午後、公爵が王宮から帰ってきて、いつもの様に部屋に現れた。私は天気が良いのでテラスに出ていた。

「最近のランはとても大人しいですね。今日は庭の花を眺めているのですか?」

 私は庭の薔薇に似た花が咲き誇っているぼんやりと眺めていた。公爵は、相変わらずの黒い軍服と赤いマント姿だ。年中この姿だというから恐れ入る。夏場などよく倒れないなと思ったぐらいだ。

「あまり楽しくないわ。侍女に屋敷の使用人に貴方の部下が見張っているんだもの」

「以前のランなら、そんな中でも逃げる方法を探していると思いますが」

 私が座っている長椅子に公爵も座った。外用の物だから青銅っぽい金属でできていて、ちょっと冷たい。風も少し冷たかった。この世界も四季はあり、アインブルーメは日本に似たような気候だった。

 すぐ前のテーブルにあるお茶はすっかり冷め切っているのに、公爵がカップを手にとって静かに飲んだ。

「……ランが飲んだものだと、さらにおいしいですね」

「人のお茶を飲むものじゃないわ」

「貴女のものは私のものでもありますから。新しいものを用意させましょう」

 侍女を呼ぼうとする公爵を私は止めた。飲む気もしないお茶をいれてもらうのは気が引ける。

「それで、いつマリクに帰るの?」

「おや、そのことで王宮へ行ったのを何故知っているんです?」

 当てずっぽうに言ったのに当たっていたので内心冷や汗を流した。ひょっとすると公爵の魔法を解いたせいで、何らかの能力が芽生えているかもしれないと思っていたから。公爵にだけはバレるわけにはいかない。

「……知っているわけないわ。アインブルーメへ来て大分経つから聞いただけよ、私は誰の言葉もわからないんだから」

 言葉がわかるようになっていろいろ聞き取れると期待していた。でも侍女達は私の前でマリクについて口にしない。私が言葉を理解できないと思っていてもだ。話しているのはアインブルーメ関連の、たあいもない世間話だ。

「そうですか」

 公爵は腕を組み、にっこり笑った。

「マリクへ帰るのは四日後です。ヘッセルとグレゴールが作った転移陣を使用して、あの離宮へ一端寄ってから、王宮へ帰る手筈です」

「離宮?」

「ニセの国王と光の神子、この二人と合流するのです」

「……結衣さんと?」

 ドキリとした。何ヶ月ぶりだろう。彼女が今どうしているかといつも気になっていた。偽の国王と国のあちこちを馬車で移動して、庶民に手を振って声に耳を傾け、ゆく先々の神殿で神に祈りを捧げるなど大変な巡幸をした結衣さん。それに比べて私は、この屋敷で起きて寝て食べていたに過ぎない。情けない話だ。

 神子召喚と竜族に関する新しい情報を少しでも知りたくて、人目を盗んでは部屋にあった本を片端から読んだ。でもあの部屋の本棚には知りたい情報はなかった。できるものならこの国にある本を片端から読みたいのに、監視されてできない自分が歯がゆくて仕方ない。

 元凶の公爵は、私の葛藤も知らずに続けた。

「国王役が、うまく務めているようで安心しています」

「その人、結衣さんに手を出したりしていないでしょうね」

 国王を愛している結衣さんだ。私はそれが一番心配だった。

「さてどうでしょう? とにかく怪しまれないようにとしか言っておりませんので」

「貴方達兄弟は似ていないのに性格はそっくり。自分の計画の成功しか考えてなくて、巻き込まれる人間の気持ちなんて何も考えちゃいないんだわ!」

 どうってことはないと言う口ぶりが頭にくる。こんな男と二人一緒座ってるなんてまっぴらごめんだ。でも立ち上がろうとして公爵にさっと背後から抱きしめられた。振り払おうとしてぎょっとした。公爵の手が龍の手になり鋭い爪がお腹に食い込んでいる。

「グレゴールと一緒にしないで欲しいですね。あの男は誰も愛してはいないが、私はランを深く愛しているのですから……」

 意地悪く目を光らせた公爵に足をドレスの上からなぞられ、ぞわりと背中に妖しい何かが走った。身体だけは正直にこの男に応える。負けたくなくて、公爵の腕を押しやりながら身体を捻った。

「それなら開放して。愛って、愛する人の幸せを願うものじゃないの……?」

「そうです。ですが私から離れてランが幸せになれるとは思えませんね」

「私は貴方なんか大嫌い。幸せになんかなれるわけないでしょ……っ……ん」

 相変わらず人の気持ちなどこの男は全く考えていない。顎を取られてキスをされ、すぐにそれは激しいものに変わった。唇を割った舌がすぐに舌を捉えてやわらかく撫で、同時に流れ込む唾液が妙に甘い。駄目だ、このままではまた流されてしまう。公爵が胸を触った感触に身体が疼いた。

「いやっ……!」

 必死にもがいたら公爵の腕が緩んだ。細く引いた銀の糸がいやらしくて不快で、私はそれを手で払って立ち上がった。少し離れた木陰で、公爵の部下の騎士二人がこちらを伺っているのが見える。毎日毎日部屋の外に出ると必ず監視があって精神が参りそうだ。彼らは公爵の私に対する執着をなんとも思っていないのだろうか。それともこの国の男は気に入った女ができたら、常時監視するものなのか。

 皆、私が公爵を嫌がっているとわかっているはずだ。それなのにどうして誰もこの男を咎めないの? 召喚された神子には人権なんてないというの? 

「とにかく何もかも嫌……。気が狂いそうよ」

「…………」

 公爵は何も言わない。私はそのまま部屋に入った。

 

 アレックスは蘭が部屋に入るのを見届けた後、視線を転じた。

「将軍」

「……どうした?」

 木陰に居た騎士の一人が、取り残されたアレックスの元へやってきて姿勢を正した。

「マリクから報告が入りました」

「ガウネか?」

 風がざわざわと庭の草木を揺らした。雲が低く降りてきてもうすぐ雨が降り出すだろう、アレックスの頬を掠める風は湿気を含んでいる。

「はい。光の神子率いる巡幸一行は、予定通り離宮へ入ったとの報告です」

「そうか。ガウネみずからの報告のようだな」

 騎士の一人の手に、鈍く光る灰色の龍の鱗が光っていた。これは竜達にしかできない伝達方法で、伝えたい相手のみに思いを伝える手段の一つだ。この場合、アレックス以外に鱗に託されたメッセージは読めない。間者に奪われた場合を考えて、ガウネはこの方法を取ったのだろう。テレパシーでは、魔力のある人間に傍受される恐れがある。

 アレックスは騎士から鱗を受け取り、手を払って下がらせた。部屋を振り返ると、蘭は侍女に着替えをさせられているのか、カーテンが引かれていた。

 ぱきり。

 鱗を二つに割って口にする。その鱗は薄いものだったので、あっという間にアレックスの口の中へ消えた。置かれたままになっているお茶をすべて飲み干し、アレックスは長椅子に深く腰掛けた。

(光ノ神子ハ、巡幸先ノ民衆及ビ、神殿ノ神官達ノ心ヲ掴ンダ)

 鱗に託されたガウネの思念が、ゆっくりとアレックスの胸の中に満ちてきた。両目を閉じたアレックスの脳裏に、ガウネが見ている光の神子や周囲の人間、風景が映像となって広がり、彼の言葉では伝えきれないものが詳細に至るまでアレックスに伝えられた。なんと光の神子が全裸で寝台に横たわっているものまであり、その赤裸々な映像にアレックスは苦笑した。

 映像が消えた後、ガウネの思念がまた胸に満ちた。

(最後ニ……)

 その報告に、アレックスは静かに笑った。ポツリと雨粒が当たり、アレックスの頬を伝って流れていく。見上げた空は真っ黒な雲が深く垂れ込めており、やがてバラバラと音を立てて雨が降ってきた。立ち上がったアレックスはカーテンが開けられた蘭の部屋に入り、硬い表情で自分を見つめる蘭に微笑んだ。敵意に満ちた蘭の目はとても美しく、アレックスはすぐさま押し倒したい気持ちに駆られたが、夜のお楽しみだと我慢した。そして部屋の隅に控えていた蘭の侍女に、遅い昼食の支度を言いつけた。

 蘭は刺繍を始めた。張り詰めた空気を宥めるつもりで、アレックスは優しく蘭に話しかけながら窓際の椅子に腰を掛けた。

「使いが来ました。光の神子は無事に離宮に戻られ、とてもお元気だそうです。良かったですね」

「……そう、それは良かったわ。貴方にはどうでもいい知らせなんでしょうけど」

 刺繍糸を選びながら、蘭は冷たい口調で詰った。

「とんでもない。蘭にはどれだけ私が人でなしに見えているのでしょうか? 私はグレゴールとは違うと言っているでしょう?」

「まだ国王のほうがましよ。周囲が気づいているんだから」

 アレックスは椅子から立ち上がって蘭に近寄り、蘭が手にしている刺繍枠を覗きこんだ。刺繍されているのは異世界の花で、黄色の糸で太陽のような輝きの花が二輪刺繍されていた。緑色の糸をさっきから選んでいる蘭は、どうやらその花の背景を緑の野にしようとしているらしかった。

「蘭は手芸が得意なのですね」

「……貴女が殺したベルが教えてくれたのよ」

「それはそれは。彼女も良い生徒がその技術を引き継いでくれたから、嬉しい限りでしょう」

 どんな嫌味も全く通じないアレックスに、蘭は悔しそうに口元を歪めたが、静かに緑色の糸で針を刺し始めた。クリーム色の清楚なドレスを着た蘭は、茶色っぽい黒髪を後ろに束ねて背中に流している。美しいといえば美しいが光の神子には遠く及ばない。だが蘭の持つ感情とその姿の全てがアレックスを惹きつける。

 侍女達が昼食を載せたワゴンを押して部屋に入ってきた。テーブルに置かれた紫色のスープを見て、蘭が嫌そうに顔をしかめ、アレックスに文句を言った。

「これをどうして毎日毎食出すの? レバーみたいな味がして嫌だわ」

「レバーとはなんですか? ……ページャスープはとても高価な食材を使っているので、飲めるのは一握りの人間だけなんですよ」

 ページャは小さなスープ皿にスプーンを付けられて、蘭の席にだけ用意されていた。

「だったら皆にあげなさいよ。私だけが毎日毎食高価なものはいらないわ。それにどうして貴方は飲まないの?」

「女性しか飲めないのです。男性が飲むと副作用が起きますし」

「?」

 公爵は少し屈み、蘭の髪をさらりと手のひらで流した。露骨にそのアレックスに拒否を示した蘭は手元の刺繍に視線を戻し、公爵の両眼が妖しく揺れているというのに全く気づかない。アレックスは狂おしいほどの想いを抱えて蘭の髪に口付けた。蘭が嫌がれば嫌がるほど、アレックスの心は燃え上がっていく。

「……体力が落ちている貴女には必要なものですから、必ず飲んで下さい。くれぐれも侍女にあげたりしないように。それは貴女にだけ用意されたものなのですから、飲まないとせっかく戻ってきた健康もまた逆戻りですよ」

 やがて侍女が用意が出来たと告げ、二人は向い合ってテーブルを囲んだ。蘭は嫌そうな顔をしながらページャを一匙すくった。動物の身体の一部分がすりおろされて煮こまれていると思われるページャは、材料の臭いを消すためなのか香草がふんだんに振りかけられていて薬臭く、それが生臭さと混じり合って余計に食欲を減退させるようだった。

 侍女は不味そうに飲む蘭を羨ましそうに見ている、アレックスは全てが思い通りに進んでいると満足気に微笑む。蘭がそのアレックスに気づいて怯えるのがまた良かった。

(もうすぐ全てが私のものになる)

 自分の中に宿る正樹の一部分の心が、そうはさせないと声を上げた。しかし、正樹に半場心を支配されたヘッセル侯爵のように、アレックスの心は弱くない。将軍として常に戦場に立ち、前線で戦ってきたアレックスの精神は、鋼のように強く、重く、悪魔のような輝きで他の男達を圧倒し平伏させる。

 窓の外の雨は、まだ止みそうもない。

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