囚われの神子 第11話(完結)

「影の神子と光の神子は、国王と同等の権力を持てる。それが邪魔だった代々の権力者は、光の神子とは婚姻を結んで傀儡にし、影の神子は召喚時にすぐ殺して闇に葬り去ってきた。影の神子の流した血は、それはそれは美しい宝石になって高値で取引されるのだそうですね」

 グレゴールの顔は真っ青になっていた。罠にかけたつもりが自分が公爵の仕掛けた罠に完全に嵌っている。しかもこの場で秘密を暴露するとは思わなかったのだろう。

「何故……、何故一部の者しか知らぬそれをそなたが!」

「私を支持する輩が沢山おりましてね……その筋からと申し上げましょう。このような忠臣を貴方は私利私欲のために処刑しようとなさった。おまけに蘭に侍女殺害の罪まで着せて下さいましたね……」

 殺害の罪という言葉に、グレゴールは首を横に振った。

「馬鹿なっ。余は知らぬぞ侍女殺害など。余は、ヘッセル侯爵と影の神子との婚姻を認めただけだ」

 公爵は小さく笑い、竜の手になった手を大きく右に払った。黒光りするその尖い爪は何人もの血を吸ってもなお、新たな血を求めているのだ。

「そうしてアインブルーメをマリクに統合しようとなさったと? ヘッセル侯爵は貴方に与した罪で処刑されたのをご存じない?」

「処刑だと!?」

 あれから何ヶ月も経つのに、グレゴールはまだ正樹の死をしらなかったらしい。彼の計画の杜撰さが露呈した。

「へっセル侯爵も、本当に哀れなものだ」

 公爵は苦笑した。グレゴールは公爵から発射される殺気に後退りし、無様に階段の上で座り込んだ。後ずさりたくても、段差がそれを阻む。

 ゆっくりと階段を上がってくる公爵に、グレゴールが必死に叫んだ。

「兄を殺す気か! 余がいかにそなたを目にかけていたか忘れたのかっ。忌まれる竜の一族のそなたを弟と認め、将軍の地位につけた恩を忘れたのか!」

「貴方は兄の偽物だ……、本物は本物の光の神子とご一緒だ」

「お、愚か者がっ。余が本物のマリク国王なるぞっ……!」

 公爵の右腕が一閃し、偽の光の神子をしていた女の首が飛んだ。血をまき散らしながら首のない女の死体がしなだれかかってきて、グレゴールは絶叫しながら死体を階段の下へ突き飛ばした。ごろごろと下まで死体は転がっていき、騎士の足元で止まった。グレゴールの足元に落ちた女の素顔が露わになり、見ていた騎士達はそれを偽物であると認めた。それは例の皇太后の侍女だった伯爵令嬢だった。

「……完全な偽物ですね。と、なると、それを光の神子と言っていたお前も偽物に他ならぬ」

「ち……ちがう! そやつは偽物だったかもしれぬが、余は本物だっ! 目を覚まさぬかアレックス!」

 全身をおこりのように震わせ、グレゴールは威厳も何もかも無くして公爵に命乞いをする。なんとか尻で一段上がったグレゴールを、公爵も一段足を進めて追い詰め、今度は銀の剣を抜いた。

「目は覚めている。私はこの国の将軍の一人。国王を謀った不届きな輩を容赦なく排除するのが役目の一つ。兄はそう常日頃言っていた……」

 ギラリと光る刃を見て、グレゴールは階段を詰めている騎士に命令した。

「馬鹿者! そなたら、公爵が罪人であるのを忘れおったか! 公爵を……公爵を斬らぬか! ブ……ブーテナント! 早くせぬかっ……早く!」

 階段の上にいるブーテナントは凍りついたように動かない。彼も今まで仕えていた国王が偽物であったと衝撃を受けているのだろう。グレゴールは誰もが自分を冷たく見据えている中、懸命に命令する。でも誰ひとり動こうとしない。哀れなグレゴールに公爵は剣を振るった。

「国王役……、今までご苦労であったな」

「い……っ……ぎゃあああああっ!」

 なぶり殺しにするつもりなのか、見せしめにするつもりなのか、公爵はグレゴールの右腕だけを剣で切断した。鮮血が飛び散り、落ちた手がびくびくと動いている。グレゴールは恐ろしい悲鳴を上げながら泣き悶え始めた。

「腕がっ……腕がああっ」

「痛いであろう? 戦場ではこのような有様の少年兵士が沢山おりました。そうそう……」

 剣がまた走り、今度はグレゴールの両足首が切断された。階段は見る間に血なまぐさい舞台になった。気持ち悪くて見ていたくなどないのに、私は他の人同様目が離せない。恐ろしいから目を離せないのだ。

「ひ……ひぃ…………」

「目玉がえぐり取られ、内臓が飛び出て泣いている兵が居るというのに、おまえは一度も戦場に立たずに、厚かましくも王座に座って酒を飲んで遊び暮らしていた……。彼らの恨みはこんなものではないぞ……!」

「やめ……やめ。ぎいいっ!」

 鋭い爪がグレゴールの腹を貫き、グレゴールの口から滝のように血が流れた。目をこれでもかと見開いたグレゴールは、もう声も出せない。ずぼりと血まみれの右手をひきずり出した公爵は、グレゴールに剣を構えた。

「あの世で彼らに詫びるがいい……。何よりも毒殺した我が母と、滅ぼした黒の竜族達に!」

 グレゴールの首が飛び、階段の下に跪いていたエグモントの膝下に落ちた。その恐怖に歪んだ生首を見て、エグモントが呻く。

「なんと! 私はずっとだまされておったのか……」

 エグモントはその場によろよろと崩れ落ちて、石畳の上に這いつくばった。生首の顔はまったく別人のもので、無精髭が生えた黒髪の中年の男だった。

 歓声があがった。国王及び国を欺いた反逆者が、国の英雄であるグロスター公爵が屠ったのだから。公爵は涼しい顔をして階段を降りてきて、もう一人の国王に跪いた。

「お二人の前を血で汚した罪を、お許し下さい……」

 空を旋回して飛んでいたジークが、国王の隣に立っている結衣さんの肩に戻り、気高い鳴き声をあげた。同時に空から虹色の光の粒子が二人に舞い降りてきた為、場はあっという間に熱狂的な雰囲気に包まれた……。

 

 次から次へと押し寄せる人々で、ガウネの腕がわずかに緩み、私はそれを幸いに人混みに紛れて逃げた。

 沢山の騎士や群衆をかき分けてとにかく走った。この人混みだもの逃げられるはずだ。私はこの時をずっと待っていた。初めて走るマリクの街はやはりアインブルーメより劣り、土の道がむき出しになっていて舗装されていなかった。

 それでも街は賑やかで人でごった返している。彼らはまだ偽物が処罰を知らない。普通に国王夫妻の帰還を喜んでお祭り騒ぎをしているのだ。

「はあっ……はあっ」

 足が重くてたまらないけど、とにかく逃げなくては。出来る限り遠くどこまでも遠く。

 公爵はついにこの国の実権をすべて握った。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 どうして誰も気づかないの! グレゴールは正しかった、公爵こそが大反逆者であったというのに。それに私は、エグモントと公爵が人目を忍んで笑いあうのを見てしまった。エグモントはいつからかグレゴールを裏切って公爵についていたのよ。ううん、ひょっとすると神子召喚の前から公爵と繋がっていたに違いない。青光の塔への移動や公爵の手に私が渡ったのも早すぎたもの。絶対にそうだわ。彼も反逆者なのに……! 彼ら二人の手にかかったら偽物の鳥も、グレゴールと愛人の姿を変える魔法もお手のものだろう。

 私はまず目立つドレスを街の衣料店で売り払い、町娘の質素な服装に着替えた。店の主人におつりはいらないというと主人はおかしな顔をした。私は再び走った。

 正樹。

 ベル。

 お願いだから力を貸して。公爵の手から逃れられる力を。

 街を抜けた。

 走り疲れても私はよろよろと足を動かし続けた。この国から早く出なきゃ。アインブルーメは駄目、でもきっと他に国があるはず。そこへ行けばきっと公爵から逃れられる……。

 人が少なくなってきた。どんどん王都から離れているみたいだ。家が疎らになって農村風景がわずかに見え始めてきている。

 もうどれくらい逃げられただろう……。

 農家のレンガのような石の壁の角を曲がり、そこで足が凍りついた。

「いけませんねラン。一人で勝手に何処へ行こうとしているのです?」

 艶やかに微笑む公爵がそこに立っていた。背後に逃げようとして振り返ると、そこには数名の公爵の配下がいつの間にか私を取り囲んでいる。私は震えながら公爵に言った。

「……お願い。お願いだから、私をこのまま自由にして」

「おかしな人ですね。ランは十分に自由でしょう? これからは公爵夫人として思いのままに生きればよろしいのです」

「身分なんていらない。私は、自由になりたいの」

 すうと公爵は目を細めた。

「自由?」

「お願い。お願い」

 まるで子供のように公爵に願うと、

「しおらしい貴女も素晴らしい魅力ですね」

 と、公爵は言い、さも嬉しそうに私の頬を撫でた。

「一体どうしたら私を諦めてくれるの」

「さあ……、私にもわかりません。ただ、こうして時間が経つほど貴女への想いは深くなるばかりなのです。昨日より今朝、今朝から昼、昼から今……貴方が欲しくてたまらなくなる」

 それは私にとっては死刑宣告だった。

「や! 離してっ」

「大人しくなさい……」

 走り疲れた動けなくなった身体を公爵に抱き寄せられ、囚われた。そしてそのまま瞬間転移した先は見覚えがある場所だった。

「こ、こ……」

「私の領地にある城です。私の魔力を使えば王都から遠くはなれたこの城への移動などたやすい。さあどうですか? 貴女のためにずっと綺麗にしていたのですが」

 そう、あの悪夢の城だ。震え続ける私に背後から公爵が続けた。

「夢に現れた貴女を求めて、私はずっとこの城で貴女を迎える準備を続けていたのです。やっとこの日が来ました。ラン、貴女こそこの城の女主人にふさわしい……」

 公爵の顔が迫ってきて、その顔から懸命に自分の顔を背けて公爵の胸を突き飛ばした。呆気無く離れた公爵から逃げた。

 城の廊下は悪夢と全く同じだ。とてつもなく広く、人が居ない。

 夢と同じように足は疲れきっている。それでも心は悲鳴をあげて早く逃げろと私を急かした。今逃げなければお前は一生逃れられないのだと。

「ふ……」

 泣いている場合ではないのに、また子供のように泣きながら歩くよりも遅い速度で走った。ころころと黒真珠が転がっていくのにも慣れてしまった。

 窓の外は穏やかな昼下がりなのに、城の中は深夜のようにひっそりとして、ちょっとした影でも不気味に感じる。

 ああそうだ。不気味なのは黒が公爵のまとう闇色だからだ。

 角を曲がっても階段を上がっても出口はない。まるでどこかの部屋へ導かれるかのように。

 助けてくれる人影は何処にも見当たらない。

 私はこの世界でたった一人……。

 この国の人は誰もが公爵を讃えているから、彼を嫌う女は異端者だ。女性ならきっと公爵に望まれたら天にも昇る心地になれるのだろう。

そう思えないのは私が異世界人だからなのか。

 とうとう行き止まりの扉の前に辿り着いた。出口であればと望みながらも、私にはわかっていた。その向こう側にあるものが牢獄なのだと……。

「さすが私のラン。自分で部屋に案内もなしにたどり着けるなんて」

 背後から公爵が扉を開けた。

「どうです? 貴方にふさわしい美しい部屋でしょう」

 くくくと押し殺すように笑う公爵に部屋へ引きずり込まれた。逃げ出す力もない私はそのまま部屋の奥の寝台に押し倒され、公爵の熱い唇を押し付けられた。

「ラン。そんなに赤い顔をして、私を誘うんですね」

「家へ帰りたいの……。お願い」

「口を開けばそればかり。ここが貴女の帰る家だったんですよ」

「違う!」

 渾身の力を込めて公爵を押し返そうとしても、疲れ果てた私と、戦場を幾多も駆け抜けた公爵とでは力に雲泥の差があってとても敵わない。服を脱がせる公爵の手を止めようと腕を掴んでも、公爵は笑みを浮かべたままつぎつぎと剥ぎ取っていく。今朝抱いたばかりなのに今日すべてを入れた興奮が冷めないらしい。でもそんなの知らない。私には関係ない。

「いや……ぁ……、ん」

 軍服を着たままの公爵は、狂ったように私の肌に手を這わせ、形を確かめるように滑らせた。手はまだ竜の手になっていない。なる前なら諦めてくれるかもしれない。どこまでも甘い考えの私はそんな風に考えて、押し倒されて男の身体の重みで動けないのに、懸命に公爵を止めようとした。その抵抗こそが公爵を悦ばせるのだとわかっているはずなのに。

「そんなに正樹に逢いたいのですか? 死んだ男を求めてどうなるというのです?」

 首筋に顔を埋めた公爵が意地悪げに言った。軍服のスラックスの上から公爵の欲を押さえつけられてぞっとする。でも身体はそれを欲しがってお腹の奥がゾクリとうごめいた。

 察した公爵の手が嬲っていた乳房から離れ、脇腹から腰、内股へ移動し、蜜を滲ませ始めている恥ずかしい場所へ沈んだ。羽毛を触るようにいらわれるとたまらなくそこは疼いて熱くなった。

「は……あ」

「貴女より貴女の身体は余程正直だ。ああ、でもこれも私の魔法のせいなのでしょうか」

 そうだ。そうに決まってる。正樹を殺した殺人者に抱かれて悦ぶ女なんているわけない。

 でも。

「ン……あぁ……っ! ん」

 抱き寄せられる公爵の腕の固さに。頬を何度も口付ける公爵の唇に。蜜を塗り広げて柔らかな肉を熱くさせる指に悦んでる。

 おかしいよ。絶対におかしいのに。

 肌に擦れる軍服が気持ちいい。

「ラン、私を見なさい」

 閉じていた目を開くと、黒く濡れた目で公爵が見ていた。大嫌いな顔なのに胸はどきりと甘く鼓動を打った。その双眸が見覚えのある青い目に変わり、黒の髪が金色に解け、優しいヘッセル侯爵……、正樹の容貌になった。

「まさ、き?」

 正樹はにこりと微笑み、キスをしてくれた。似合わない黒の軍服を脱いで裸になる。

「結婚式、もう終わったからいいだろう?」

 結婚式なんてしたっけ? 悦楽に蕩かされた頭で考えた。ああそうか、寝ている間に公爵が勝手に式をあげたりしてたっけ。きっと正樹になってるヘッセル侯爵もそうやって式をあげたのかもしれない。式をあげないと寝たくないと言った時は、実は式をしていたのかしら? わからない……。

「うん……いいよ」

「良かった」

 正樹の欲がずぶりと貫いた。例えようのない悦楽が甘くとろけるように広がっていく。

 私、やっと正樹と結ばれたんだ。

 うれしい。

 ねえ正樹もそうよねと言うと、正樹は嬉しそうに微笑んだ。

 なんとなく横に会った鏡台を見た。するとそこには黒髪の公爵が私を組み敷いていた。でも実物は正樹だ。あれ……どうなっているんだろう?

 何が本当で何が間違っているの?

「ああアっ……うぁ……は!」

「ラン……っ!」

 淫靡な水音。快楽に支配されたお互いの吐息。獣のように私達はお互いを求めて、からみ合って貪りあった。

 大好きよ正樹。私には永遠に貴方だけ。

 私の心はずっと貴方だけのものだから。

 そんな私の想いが伝わったように、正樹の欲が固く大きくなった。

 ああ……来る。白い波がまたいつもみたいに……。

 見上げると公爵がぎらぎらとした目で見下ろしていた。

 ……やっぱり夢。

 そうね。正樹は死んだはずなのだから。ヘッセル侯爵も死んだ。

 ……私はもう、現実の世界で心の底から笑えるような幸福には、永遠に出会えない。

 

『公爵を誤解していたわ。彼はとってもいい人だから蘭さんにお似合いよ』

 違う。それは違うのよ結衣さん。

『竜の呪いも貴女を思ってかけていたのよね。だって影の神子である貴女の力が表目に出たりしたら、あの偽物の国王に即殺されてしまったのだもの』

 グレゴールは、正樹に私を託そうとしていたのよ。

『ヘッセル侯爵も最悪の男よ。ベルさんを殺した罪を貴女に着せたり、あの偽物と手を組んで権力を握ろうとしたんですもの』

 正樹は私を愛していたの。公爵の恐ろしさをよく知っていたの。それにヘッセル侯爵も私を最後には愛してくれていたわ。わかって、結衣さん。

『私、本物の陛下に愛されてとても幸せ。だから蘭さんも公爵と末永くお幸せにね。元の世界には戻れそうもないけれど、ここで幸せになりあいましょうよ』

 ……………………。

 

 アレックスは、ガウネ扮するグレゴールと酒を酌み交わしていた。場所はかつてグレゴールが使用していた国で一番豪奢な部屋だ。

「すべてアレックス様の思うとおりに運びましたね」

「……お前が頑張ったからだろう」

「これで我ら黒の竜族を虐げた連中に地獄を見せてやれますね」

「それはお前に任せる。好きにするがいい」

「アレックス様のご指示がありませんと、内政がうまくできるかどうか」

「エドモンドがいる。あれと相談してやれば間違いはない。外交は私に任せていればいい……後は」

 真紅の酒を飲み干し、わずかに酩酊の色を双眸に漂わせてアレックスは意味ありげに笑った。ガウネは承知したように笑い返す。

「ユイなら大丈夫です。私の本当の姿をグレゴールの本当の姿だと思い込んでおりますので。愛に飢えていた女らしく、少し強く押せば簡単でしたから」

「そうか」

「アレックス様はどうですか?」

「さあて……。まあ、つがいを得るというのはこのように気分を高揚させるものだとわかったからな」

「ユイが私にはそうでした」

 ぎらり、と、あんなに普段冷めているウネの茶色の目が情欲を帯びた。あの鱗の映像の中でガウネは執拗に結衣に愛を囁いていた。あれほどまでに求められたらどんな女でも落ちずにはいられまい。

 アレックスはそこまで考えて、グラスに酒を再び満たす。

 ラン・モモセ。

 他の男をずっと愛し続け、永遠に自分に振り向きそうもない女。だからこそ焦がれ、支配し、自分のものにしたいと願ったのだろうか。

 狂っている自分をアレックスは自覚していた。だがこの心の熱さを知った以上、絶対に蘭は手放せない。手放さない。命尽きるその時まで。

 いや、次の世も。その次の世に生まれ変わっても、永遠に蘭と自分は結ばれる。

 こんなにも愛している。こんなにも蘭を渇望している。こんなに深く、強く、熱く、己のすべてを捧げたいと思わせた唯一の女。いつでも欲しい。いかなる時も己の側に。愛しているこんなにも。

 蘭の自分を見返す瞳をアレックスは思い描き、その姿を思うだけで胸を熱くさせ、また冷たくもさせる。

「どうかなさいましたか?」

「……いや、光の神子と幸せに」

 ガウネは抜け落ちている何かを探すような素振りを見せたアレックスを訝しんだ。だがそれはすぐに消え、二人は酒を酌み交わし続けた。

 足りない何かを、アレックスは己の激情で埋めていくのだった。それが何なのかアレックスには永遠にわからない。

 

 穏やかな光が、誰もいない庭に優しく降り注いでいる。

 私は庭に面したテラスの椅子に深く腰掛けて、じっとひまわりの花に似た花を見つめていた。風はなく、暑いけれどそれでも木陰や屋内はとても涼しい。

 とても静かだ。

 ぱたぱたと小さな足音が近づいてきて、両開きの扉の片方が重そうに開く音がした。

「母さま」

 また来たわ。なんなんだろうこの子は。

「母さま。ジークフリードです。まだ僕がわかりませんか?」

 大嫌いな男に似た黒髪の少年が、背を屈めて私の顔を覗きこんだ。とても心配そうにしているけれど、こんな子は知らない。数年前から頻繁に現れては同じ質問を繰り返している。この子の母親は何をしているのかしら。

「父さまは、今日アインブルーメからお戻りだそうです。あ、言ってた傍からクララを抱いておいでです! 父さまっ……おかえりなさいませ」

「ただいま、ジークフリード」

 仄暗い艶のある声に胸に嫌悪感が広がる。また来た。ずっと静かにこの庭を眺めていたいのに……。

「母さま、今日はとてもお健やかにお過ごしですよ」

「それはよかった。お前の部屋におみやげを運ばせたから見ておいで」

「わあ、行こうクララ!」

「はぁい。お兄しゃまっ」

 騒々しい子ども達が部屋から出て行く。私も出て行きたいのだけど、男が望んだように動けないまま男の胸の中に抱かれた。

「ラン、貴女に会えない日々は寂しかったです。当分休暇を取りましたから、ずっと一緒に過ごせますね?」

 カタンと音がして窓が閉められた。公爵はいつだって私の邪魔する。そのまま部屋の隅にある寝台に寝かしつけられ、公爵に激しく口付けられた。心は拒絶を叫ぶけど、身体は悦んで受け入れて熱くなっていく……。

 ものの数十分で公爵に捕まった私は、マリクでもグロスター公爵夫人になった。ただ、病弱なため社交界には姿を現さず、ずっとグロスター公爵の領地で静養している。王都からとても離れた場所にあるけど、捕まった時に本人が言っていた通り、転移魔法が使える公爵には距離などあって無しの如しだ。

 最初から、私に逃げる道などなかった。悪夢に公爵が現れた時から、私は公爵のものになった。

 運命などこの世には存在しない。

 公爵が作り上げた世界で公爵が望むままに私が動いたから、人目には運命に見えるのだろう。元の世界で一人ぼっちだったことも、正樹と結ばれなかったことも。正樹を食べたヘッセル侯爵が竜達に食べられたことも。

 正樹の黒真珠が、公爵の黒真珠にすり替えられたことも……。

 あの時、すでに私のお腹には公爵の子供が居た。

 怪しい色のスープは、公爵の血がたらされた竜の子供への栄養食。

 黒真珠を飲んで開放されたのは、人と会話をする言語だけ。

 でも、私の言葉は、完全に公爵のものになった日に永遠に失われた。

 え? あれ……私、子供なんか生んでないわ。

 夢と現実がごっちゃになっているのかしら……。

 ともかく公爵は見事にグレゴールをこの世から抹消し、弊害となっていた貴族や役人達を、ガウネ扮する国王を操って一掃した。世の尊崇を集めている光の神子のもとで……。マリク王国はアインブルーメ王国と国交を盛んにし、とても民が豊かになり栄えているらしい。皆は公爵を英雄と讃えている。

 正樹、今貴方はどこにいるの……? 時々、公爵に貴方が見える時があるの。いるのでしょう? この卑劣な男の中に貴方は生きているのよね。

 貴方に逢えるから、私は生きていけるの。

 正樹は私を貫きながらも微笑み、私に優しいキスを落としてくれる。大好き、大好きよ正樹。貴方の腕の中は優しい春の微風のようで本当に好き。

 どうして中々現れてくれないの?

 ごまかすようにあちこちに口付けるのね。本当に困った人。でもそんな不器用さが大好きなの。

 ねえ覚えてる? 子供は男女一人づつがいいねって話し合ったクリスマスの夜。二人でいちごケーキを作ったわね。生クリームの作り方を知らない貴方は立てすぎてバターにしちゃったりしたっけ。でも、またお店まで買いに行く時に素敵なクリスマスツリーが見れてよかったって二人で立ち止まって眺めて。家へ戻って今度こそはって気をつけながら泡だて器をかき回す貴方の真剣な顔ったら、おかしくて私が笑っちゃったりした。

 ふたりでいちごをのせて完成して、食べるのがもったいなくて、部屋の灯りを消してクリスマスキャンドルの灯りでいちごがきらきらしてて、食べるのがもったいないねって言い合った。

 シャンパンがとても甘くて、ごちそうも美味しくて、婚約した後だったから本当に幸せだった。

 家を建てようっていろんな本を買っていたから、それを眺めていろいろ夢を膨らませたりした。

「幸せだから泣くのですね、子供を二人も産んで、ランはなんて可愛らしいのでしょうか」

 残念だわ。公爵に戻ってしまった。肌を合わせる時間がいつも苦痛だ。早く終わってくれないかしら。でも当分こんな生活。休暇なんかこの男に与えたりしないでほしい。

「ジークフリードが成人したら、爵位を譲って私もここに籠ります。ランと二人でもっと幸せになりましょう」

 ああ、早く夢が覚めないものかしら。

 明日早く出社して、作っておいた書類を早くプリントしなくっちゃ……。

 正樹と新しいマンションを買う計画を建てなくちゃ。

 あれ? 正樹って死んだんじゃなかったっけ?

 ううん、まさか。夢の中で死んだだけよ。

 変な夢見るなって怒られちゃう。

「寝てしまうのですかラン? まあいいでしょう、クララを産んでから貴女はまだ体力が回復していないのですから」

 大嫌いな男の腕の中で眠るなんて、嫌な夢。

 早く寝てしまおう。

 明日は、いつもどおりの一日が待っているのだから。

【囚われの神子 終わり】

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