雪のように舞う桜の中で 第04話

 それから数日が経った。

 逃亡しようとして惇長に捕まった珠子は元の局に戻されてしまい、嫌味女房に監視される毎日に精神的に参っていた。

 何をするにしても、嫌味女房があれは駄目、これは駄目と指図するのが気に入らない。姫君らしくないというのが主な理由で、かといって姫君の一般教養を教えてくれるわけでもない。

 路と一緒に裁縫をしたり、畑を手入れしたり、掃除をしたりする毎日がとても楽しかっただけに、何もすることがない姫君暮らしは地獄のような退屈さだ。

 夕餉が終わるとまた暇な時間が巡ってきた。

「暇すぎて頭が腐りそう」

 傍で顔をしかめている嫌味女房を無視して、もらった檜扇でばたばた扇ぐと、いつものように彼女は異気高に口を開いた。

「まったくなんて品のない! 静かに扇いでくださりませ」

「文句あるなら連れてきた人に言いなさいよ。そうつんけん言ってたらせっかくの山吹の襲が泣いてるわ」

 山吹の襲《かさね》とは、表が黄色、裏が紅になっている。それを袿の一番上に着ているわけだが一番下に着る一重が濃い緑で、その迫力ったらない。嫌味女房は誰が見ても気位が高そうな女だ。ちなみに珠子は桜襲《さくらがさね》で、表で表が白、裏が紅の若い姫君らしい色だった。

「だいたいそんなに私と居るのが嫌なら、早く褥の用意をしてくれたらいいのよ。私が用意しようとしたら姫君のすることじゃないっていうから……」

「惇長様がおいでになればそうさせていただきますとも、ええ」

「惇長様って、私をここへ連れてきた人? その人のためにわざわざ起きて待ってるわけ?」

「そうです」

 珠子は自分の邸で出会った惇長が最後で、ここに連れて来られた記憶も、連れ戻された記憶もないため会うのは久しぶりだ。退屈な毎日を送っていただけに何か起こるのは大歓迎だ。

 でもそれと、夜にわざわざ訪れるのと、どう関係があるのだろうと珠子は怪しく思った。

「そうそう!」

 いきなり嫌味女房はずずいと身を乗り出してきた。その美しい顔には思いつめたような凄みがあって、珠子は思わず後ろにのけぞった。

「戌の刻(午後八時)においでになりますから、その時はお静かになさりませ」

「……なんだってそんな夜に来るの? 気持ち悪いわ。それに退屈だから、お庭に降りててもいいかしら?」

「駄目です。よろしいですか? 今宵はこの局から絶対に出てはなりませんよ?」

「…はあ?」

 何の密談を持ちかけられるのだろうかと珠子は怪しんだが、とにかく惇長が来るまで待っているしかなさそうだった。一体何のためにここへ連れて来られたのかは、ずっと聞きたいと思っていたので好都合だ。

 女房は珠子が動かないのを安心したように見、忘れていたことを思い出して付け加えた。

「そうそ、歌は詠めますね?」

「詠めないわ」

「…………」

 子供の頃すでに貧乏だった珠子が、歌や琴、香の調合など教えてもらえるわけがなかった。思えば路はよくこんな自分を見捨てずに仕えてくれたものだ。改めて路の人柄とまごころに感謝が沸き上がって来た珠子は、がっかりとした女房に少しでも浮上して欲しくてこう付け加えた。

「でもお裁縫は得意だし、菜だって育てられるわ。簡単だけど御膳の用意もできるし」

 珠子の気持ちに反して、女房は口もきくのも嫌になったようで、扇で顔を隠して黙りこんだ。なんでこんな人間がここにいるのかと思っているのがありありと見て取れ、好きで来たわけじゃない珠子は膨れた。

(なによ、菜の育て方もご飯の作り方も知らないくせに)

 中途半端な姫君である珠子には、嫌味女房の嘆きはとんとわからない。

 予定の時刻を過ぎた頃、さらさらと衣擦れの音が近づいて来て、かたんと戸が開けられる音がした。

 重厚な香りと共に惇長が直衣姿で入ってきて、隔ててあった几帳を押しのけて珠子の居る側へ押し入ってきた。まるで親兄弟のような傍若無人ぶりに、珠子はびっくりして扇で顔を隠した。普通親兄弟でないと几帳や御簾内には入らないものなのだ。いくら貧乏で外で土起こしをしていた珠子でも、笠や袿をを被って人目は避けていた。

 惇長は、嫌味女房が用意した円座へずかっと座り、長い袖を払う。膝を突き合わせるほどの近い距離に、一体どういうことなのだろうと混乱している珠子を置いて、嫌味女房は退っていった。

(上達部って、無礼な人がおおいのかしら)

 彰親といい、この惇長といい、遠慮もなしに抱きついてくるわ押し倒してくるわ、頭がどこかおかしいのではないか……。

「珠子姫、顔は隠す必要はないのではないかな。もう私はとっくに顔を見ているし、そのお身体にも何度も触れていますが」

「…………」

「くっ……」

 笑い声がしたので扇をずらしてこっそり見ると、惇長が耐え切れぬといった感じで笑っていた。そしてさっと扇を取り上げてしまう。

「あ!」

「我々にはいかなる隔ても存在しません」

 必死に扇を取り返そうとする珠子はとても愛らしく、惇長はもう少し虐めてみたい気になった。あの嫌味女房が居たら、お人の悪いとたしなめそうだ。

「でも……」

「ここへ連れて来られた理由が知りたいのなら、こうやって向かい合って話す必要があります。それとも普通にやり直しますか? 歌から始まる文のやり取りは一日や二日では逢えそうもありませんが、我慢できますか?」

「それは……」

 この居心地の悪い邸から出て行きたい珠子には、わずか一刻でも我慢できそうもない。閉じた扇を惇長から返してもらい、顔を覆わないまま恐る恐る惇長を見上げ、ばちっと目が合うとたまらなくなって俯いた。

 初めて邸で会った時と同じで、扇で顔を隠せないのが恥ずかしい。

 あの彰親はそういう恥ずかしさを払ってくれる不思議な明るさがあったが、この惇長はいかにも上達部という雰囲気が満ちており、一般の姫君ではない自分を思い知らされてしまう。

「そう恥ずかしがらなくてもいい。素直になってくださったから、ここへお連れしたわけを話そう」

「はい……」

 珠子は消え入りそうな声で返事をした。

 惇長がかすかに笑ったような気がするのは、雛の女だと嘲っているのかもしれない。自分がもっと普通の姫君だったら、こんな心細い思いをせずに済むのにと、珍しく珠子は後ろ向きな考えに囚われた。あまりに惇長が堂々としているせいだ。

 珠子には何もない。

 邸は燃えて無くなってしまったし、身よりも、財産も、姫君として生きていくのに必要な物がなにもないのだ。

 この時代は女の家が男を養う母系社会で、何も持っていない姫君など、まず相手にはされない。

 珠子の武器と言えは若さと裁縫ぐらいなのだが、この大勢の人間がいる邸なら、珠子より上手に縫える者が幾人も居るだろうし、若くて美しい女房も揃っているだろう。

 両親も後ろ盾も財産もない珠子は、何をされても何も言えない弱い立場なのだった。

 その頼りなげな姿は、匂うように美しい珠子をより儚げに見せ、妙に惇長の男心をくすぐった。彼の数少ない恋の相手は宮中にいる者ばかりで、才気煥発な女房ばかりだ。珠子のように庇護欲を駆り立てる女はまず宮中ではやっていけないので、慈しむような優しい花の香が慕わしいものに思えた。

 静かに惇長が息を吐くのと同時に、じじ……と燈台の火が揺れた。

「私と結婚して欲しい」

「…………は?」

 珠子は、突飛すぎる惇長の求婚に頭の中が真っ白になった。

 今何を言われたのだろうか。多分結婚と言ったと思われるが、そんな雰囲気が今あるだろうか。

「……なんで……ですか?」

「必要があってね。ああ、別に養ってもらう必要はないし、何も心配はいらないよ」

 それは珠子にだってわかっている。あきらかに惇長は裕福だし、養って貰う必要はないだろう。

 だがそんな事が今問題なのではない。

 惇長は貴族だ。

 貴族の求婚とはいきなりこんなふうに切り出すものなのだろうか。

 珠子に歌は詠めないが、歌のやり取りがあって、それから求婚への流れになるのだと路が言っていた。歌が詠めないので、どうしたらいいのだろうと、それを聞くたびに珠子は心配だった……。

「……あの、歌、は?」

「は?」

 歌と珠子が言った途端、惇長が地を出したかのような声を出した。何を言っているんだお前はと言うような口ぶりだ。さすがにこれには我慢がならなくなり、珠子はかっとする。

「普通、結婚する相手には歌を詠むんじゃないんですか?」

「ああその歌ね。だって、珠子は詠めないんでしょう?」

 さっきまで珠子姫と呼んでいたくせに、いきなり呼び捨てにする惇長に厚かましさと傲慢さが透けて見え、これだから身分の高い人間は嫌いなんだと、珠子は胸がむかむかした。

 おそらくこの男は珠子など同じ人間に見えていない。

 路は本当にこんな類の男が、珠子にふさわしいと考えていたのだろうか。絶対に目の前にしたら、追っ払っていたに違いないと断言できる。身分があっても性格に問題がありすぎる。

 からかうように、にやりと笑われ、珠子は顔を赤くしながら惇長を睨んだ。

「私は詠めないけど、貴方は詠めるのでしょう?」

「まあほどほどには。でも貴女は詠めないのですからそれに合わせる必要がある」

 完全に馬鹿にされている。やっぱりこんな場所にいるのは耐え難い。

 いきなり結婚してほしいだの、お前は歌が詠めないんだから自分も詠まないだの、こんな言葉は同じ宮家の姫君には絶対に言えるはずがない。何も持っていない珠子だから軽んじて言えるのだ。

 珠子はすっと立ち上がり局を出ようとした。しかし、珠子の袿の裾を惇長が乱暴に掴んで自分の方へ引き寄せたため、思い切り後ろにつんめのり、そのまま惇長の胸の中に飛び込む形になった。

 こんな狼藉を働かれたのは生まれて初めてで、悔しさから自然目尻が涙で滲んだ。

「拒否はできません。決定事項ですから」

 いつぞやと同じように惇長の香が間近に香り、男との接触に慣れていない珠子は目が眩みそうになった。

「何なさるの!」

「やれやれ往生際が悪い姫だ」

「貴方は頭がおかしいのでは? 権力があるからってなんでも思い通りになると思わないでくださるかしら」

「権力をちらつかせたつもりはないが……。これは珠子にとってもいい話のはずなのだが」

「強制的に結婚させられるって話がいいわけないでしょう! もうっ、離してってば!」

 しきりに藻掻いて惇長の腕を振り切ろうとしたが、惇長は涼しい顔だ。幾重にも重ねられた服を通して硬い筋肉が感じられ、まるで荒くれの侍のようだと珠子は思った。叩かれたり殴ったりはされなくても、力づくで思いのままにされそうなのだから。

「まあお聞きなさい」

「物を聞かせるのにいちいち羽交い締めなさるの?」

「逃げないと誓われるのなら離しますが」

「……逃げません」

 しぶしぶ珠子が言うと、ようやく惇長は珠子を離した。

 珠子は震えながら乱れた袿をかき寄せ、わずかに惇長から離れた。あまり離れてまた羽交い締めにされたらたまらない、でもひっつくのは嫌だ。完全に惇長に呑まれているのが悔しいが、ここは惇長の邸だし珠子は非力な女人だからどうにもならない……。

「形ばかりの結婚をお願いしているのです。いわゆる契約結婚です。期間は一年……」

「期限付きの結婚?」

「ええ。必要にせまられておりましてね」

「どういう……」

「事情は貴女のためにも伏せておきます。一年間私の妻になっていただけるだけで、その後の面倒を一生見させていただきますがいかがです?」

「一生?」

「そう。結婚したいのならそれなりの家の者を。何処かへ仕えたいというのなら紹介させていただきます」

 それはなんの後ろ盾もない珠子には魅力的な提案だった。どうしたって今の珠子ではより良い境遇を求めるなど無理だった。

 今は病気もなく健やかに過ごしている。でも、いつ何時病や強盗などの災いが降り掛かってくるかわからない。そんな時に一人ではとても切り抜けられそうもない。

 縫い物の仕立てもいつまでもしていられるわけではないのだ。

 珠子も人並みに結婚して子供が欲しい。

 帝の妃とか、大臣の北の方とは言わない。むしろ苦労が増えるので嫌だ……。

「……お金持ちの方を紹介してくださいますの?」

「もちろん」

 乗ってきたなと惇長は微笑む。彰親から事前に知らされていた情報が役立った。

 信じられないが、本当に珠子は身分にこだわらない性格のようだ。あんな荒れ果てた邸で長年暮らしていれば、宮家の誇りもつきようもないのかもしれない。

 惇長にとって幸運だったのは、そういう落ちぶれた姫にありがちな悲壮感や、人を騙してでもずる賢く生きてやるという、したたかな計算高さを珠子が持ち合わせていないことだ。珠子はどこまでも素直で優しい心根の持ち主のようで、かなり扱いやすい。

 この邸にはさまざまな商人が出入りしており、また、それも羽振りがいい者だけしかいない。中途半端な人間は、惇長ほどの身分の邸には入ってこれないのだ。

 商人が嫌なら裕福な受領という手もある。惇長と繋がりを付けたい中流階級の貴族は山ほど居るからこれも簡単だ。

 見ると、行く末をいろいろと思い描いているうちに気分が高揚してきたのか、珠子の頬が艶やかに紅潮し、えも言われぬ美しさになった。

 これほどの美しさを持つ姫君を得られて、おまけに惇長と繋がりを付けられるのなら、どの男も大喜びだろう。

 そして……。

「返事は?」

「それならお受けします」

 狩りで美しい鳥を射落とした時の、あの血の騒ぎを惇長は覚えた。なるべく警戒されないようにそっと珠子を再び抱き寄せ、袿の中に手を差し込んだ。

「え? あの……」

「契りを結ばねば、約束ができかねるのです。貴族の間では当然なされている行為ですから安心なさい」

「あの、でも」

「大丈夫、何も怖くない」

 そうかき口説きながら惇長が珠子を完全に捕え、その場にゆっくり倒れていく。

 優しい所作でも有無をいわさぬ強引さがあり、それが珠子は怖かった。

 そっと唇が重ねられ、たちまちそれは深くなり、珠子は考える時間も与えられないまま惇長にすべてを委ねるしか無かった。

 出ていた月が隠れ、灯りが燈台のほわりとした薄暗いものだけになった。

 惇長が初めての珠子に容赦せず、心赴くままに蹂躙したため、疲れきった珠子は深く眠っている。つややかな黒髪が乱れて流れ、それを惇長はなんの気もなしに撫でていた。

 男を知らないがゆえの恥じらうさまがひどく可憐で、それでいてただひたすら惇長についてこようとする珠子に、惇長は愛撫の歯止めが効かなかった。

(反応にそそられただけの事だ。それ以外の思いなどない)

 どこかの局で、恋人と過ごしている女房がそめそめと語らっているようで、男の低い囁きに妙な熱情があるのに惇長は気がそそられた。

 かつての自分もそうであったのに、今は……と思わずに入られない。

 ほとほとと戸を叩く音がしたので、惇長は返事代わりに手元の扇をぱちりと閉じた。すぐに彰親が滑るように局へ入ってきた。

 惇長は横たわったまま、眠っている珠子に視線を向けた。

 二人の間で手筈はついていた。

 彰親が印を結び、呪を小さな声で唱える。すると彰親の手の中に小さな桃色の光が生まれてふわりと浮き、珠子の体内に吸い込まれていった。

 二人以外に見ている者がいれば、すわ妖の出現だと騒いだに違いない。

 一瞬だけ珠子の身体は桃色の光に包まれて発光したが、すぐに元に戻った。

 それを見届けた彰親は、さらりと袖を翻して局を出て行った。衣擦れの音も足音も立てないで歩いて行く辺りが、稀代の陰陽師だと思わせる。

 惇長はため息をつき、眠っている珠子に袿を被せ直した。

「これでうまくいく……。一年待てば……その時に……」

 つと珠子の無邪気な寝顔に視線を転じ、惇長は口を噤んだ。

 罪の意識が全くないわけではない。

 誰も足を踏み入れていない新雪の美しさを持っていた珠子を、自分は利用するためだけに汚した。

 美しく、頼りなげでいて、ひたすらそれでもまっすぐに生きようとする宮家の姫君。

 惇長は隣で眠る珠子に手を伸ばし、乱れている黒髪を髪箱にさらりと入れ、唇を優しく重ねた。

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