雪のように舞う桜の中で 第14話

 女房達は皆撫子の御方の所に集まっているため、寝殿の孫廂(まごのひさし)に人影はなく、珠子は一人で翠野を抱えて彰親からの合図を待っていた。

 外の廂まで一緒についてきてくれた美徳は、不安げな珠子に気楽にやるんだよと微笑んで帰ってしまい、惇長と彰親は撫子の御方の所へ行ってしまった。

 実のところ、何らかの邪魔が入らないように、惇長の従者の由綱が孫廂の影に控えているのだが、珠子本人には知らされていない。

 部屋の中には、女房たちに下賜された美しい屏風や几帳があり、美しいものに見慣れていたはずの珠子は格の違いを思い知らされた。女房の部屋でこれなのだから、撫子の御方のもとには、もっと美しい調度品で溢れかえっているのだろう。

 物で人の気持ちをはかりたくなどはないが、自分の時と違って、惇長がいかに今回の里帰りに心を砕いているのかが一目瞭然だ。美しいと思って使用していた品々が、皆色あせて見える。

(ああ! いやいや。物で人をうらやむなんて大嫌い。なんてことを考えるの、私は贅沢な暮らしをしたいんじゃないわ)

 そう。

 ただ……、惇長になんとも思われていないのが悲しいだけだ。

 火桶が置かれていない部屋は酷く寒く、珠子は心まで冷えていきそうな気がした。

 やがて合図の扇の音が聞こえ、珠子は翠野を弾き始める。するとざわめいていた女房達の声が静まり返り、翠野がいっそう透き通った音を響かせた。

 それは時間で計ると四半刻(三十分)にも満たない演奏だった。

 また扇の音が鳴り、珠子はそれを合図に弾くのを止めた。ひどく指先が冷え、爪の先が紫色になっていた。

 女房達のざわめきが蘇り、見知らぬ内裏の中の煌びやかな気配を珠子に知らしめる。

 たくさんの人が居るのにこの孫廂は誰も居ない。珠子は本当に落ちぶれた貴族で、ひとりぼっちなのだ。

 生まれが尊くともこれが現実だ。

 だが、大勢の人にかしずかれて生きるのは自分には向いていないだろう。珠子はなんとなくそう思った。

 冷え切った手に息を吹きかけ続けていると、やっと爪先に血色が戻った。

 迎えに来るといっていた彰親はまだ来ない。早く火桶に当たりたい珠子は一人で帰ろうとして妻戸を開けた。

「あら?」

 床の上にあの美しい貝殻の半分が置かれており、それがなんともいえない温かさを珠子の胸に植えつけた。

「お兄様……」

 そうだ、自分にはまだ家族が居る……。

 開けてすぐの場所に置かれた貝殻は、無用心な真似はしないようにという美徳の無言の忠告のように思われ、珠子はその貝殻を懐にしまうと開けた戸を再び閉めた。

 しばらく経ってから、裾さばきも鮮やかな中務がやって来た。

「あの、彰親様は……」

「こちらへ。部屋が変わりましたので」

「変わった?」

 中務の後を着いていきながら、珠子は戸惑った。一条より気位が高そうな彼女はとっつきにくい感じがしてどうも話しにくい。最初の頃の一条のようだ。袖で顔を隠しながら珠子は中務についていくしかなかった。

「姫が演奏されている間にとの、大将からのお話でした」

 そこでようやく珠子の中で合点がいった。惇長はさっそく珠子と共にいるための部屋を用意させたのだ。それにしては早すぎる気がしないでもないが、そのへんが惇長らしいと言えば惇長らしかった。

「さあどうぞ」

 今度の局は前の局より気持ち狭い気が、珠子はした。おそらく先ほどの孫廂を見たせいだろう。

 使い慣れている調度がきちんと並べられているのを確認して、珠子が中務に礼を言って局へ入ると、彼女は無駄口をきくこともなくすぐに帰って行った。

 当然ながら局は誰も居らずしんとしている。

 撫子の御方の所に比べ、こんなふうに珠子の周りは静かなのだった。

 やれやれとばかりに、珠子は袿を脱いで綿入れの衣に着替えた。

 火桶の火はまだついていたので温かかったが、綿入れの袿の中で包まっていたほうがもっと温かい。

 おまけに当分の間琴の練習はなしだ。

 自然に笑みが浮かび、珠子は琴の端をそっと指先で突いた。

「ちょっとは東宮妃様の病気……よくなったかなあ」

 彰親も惇長も戻ってきてくれないし、一条も何も言って来ないのでわからない。

 緊張が解けたせいか眠くてたまらなくなり、そのまま珠子は褥に入って横になった。

 次に気がついた時には夜になっていた。褥から綿入れの袿を担いで起き上がると、几帳の向こう側に灯りが灯っている。一条かなと思いながら這い出てた珠子はぎくりとした。

「起きましたか」

「あ、はい」

 大袿をかけただけの惇長が文机で書き物をしていた。静かに硯に筆を置き、用意されていた夕食の膳を珠子の前に押し出した。

「食べなさい。少し冷えているが」

「ありがとうございます……、あの、惇長様は?」

「とうに食べた。一条は撫子の御方のところへ詰めているからこない」

「そうですか……」

 お腹がすいていた珠子は箸を取った。惇長はまた筆を持って何かをさらさらと書き始めた。

 和気藹々とした雰囲気が皆無な中での食事は、なかなか辛いものがあった。一緒にいて欲しいと言ったのは自分なのに、その重い沈黙が辛く思われる。

 嫌がっている人間を無理にこちらに来させたりしたのは、やっぱり良くなかったようだ。

 一条か彰親がいてくれたら、少しは場が和らぐのだが……。

 そういえば惇長はいつ彰親と仲直りしたのだろうか。あのすべてが露見した日、あんなに惇長は怒っていたのに、今日は怒りの片鱗も見られなかった。

(やっぱり親友だから、仲直りも早いのかしら)

 それは珠子の視野の狭さを現す考え方で、一方からの情報のみで感情の赴くままに物事を捉えがちな女の欠点だった。女はある一点が気に入らないと、その人間すべてを否定する動きに捉え、排除する傾向にある。

 男は違う。

 男の視野は女より格段に広く、同じ人間を上からも下からもあらゆる方角から見る能力に優れている。従って、女子供のように一点が気に入らないからと言って、感情的にその人物すべてを否定したりしない。否定するような男は器が小さいとされ、嘲りの的になるのだ。

 惇長は公私混同するような愚か者ではない。詔子の事件と、今回の事件、親友の彰親への態度、公人としての彰親への態度などいくらでも変えられる。そこには迷いのない冷静な目があり、彼の政治家としての資質の一端が伺える。それでも一時的に感情的になってしまうのは若さゆえんで、もう少ししたら老獪な政治家としての器が完成するのだろう。

 もちろんそれは彰親も同様で、彼も惇長に要請されればいくらでも公人として協力するのだ。

 燈台の火がわずかに揺れた。

 食事を終えた珠子は箸を静かに置いたら、する事が無くなってしまった。

 二人の間に横たわる沈黙は、どうやら珠子がなんとかしないといけないようだ。

 完全に惇長が珠子に背中を向けていたら、話しかける勇気も出ないところだったが、幸い惇長は珠子の真横で何かをまだ書いている。

 いくらか躊躇った後、珠子は惇長に話しかけた。

「あの……」

「なんだ」

「と、東宮妃様は……もう大丈夫ですか?」

「今頃聞くのですか」

 珠子はしゅんとした。

 やはり以前のように優しくなどしてくれない。妹である東宮妃のために、惇長は珠子に逢いに来るという約束をしてくれたのだった。本当は嫌で嫌で仕方ないのだろう。

 惇長は筆を置き、しおれてしまった珠子に向き直った。

「……撫子の御方は持ち直された。後は彰親が上手くやるだろう。あと、この部屋に移動する際、不必要なものは一条がすべて処分した」

「不必要なもの?」

 何故か急ぐように惇長が言い、珠子は唐突に話の内容が変わって焦った。

「えっと、不必要なものって……」

「男どもから貢がれていたのであろうが」

 そういえば、あの文やら贈り物の山が消えている。

「貴女が寝ている間にもどうやって嗅ぎつけたのか、一人やって来たから追い返した。もう誰も来ないだろう」

「惇長様が追い払ってくださったのですか?」

「一条は忙しいですから」

 か弱い珠子に求愛しに来たのに、何故か大将惇長が出てきたのだから、さぞ相手はびっくりして逃げて行っただろう。

「ああいうふうに来ていたのですか? えらく尊大でしつこい輩でしたが」

「はあ……、まあ、何回か。夜も……」

 惇長の目がきらりと光った。

「……夜?」

「私が贈り物などに一向に靡かないので、腹を立てた人が何人か押し入って来た事があって……。さすがに恐ろしくて刀で脅しつけたら逃げてくれました」

「腕の立たぬ腰抜けばかりではない。そのような危険を冒すなどどうにかしている」

「そうで……すね」

 不意に惇長の顔が苦々しいものに変わった。

「東宮は……」

「東宮様?」

 こくりと惇長はうなずいた。

「東宮はなぜか武芸を好まれる。本来ならあるまじき事だ。だが、仕方が無いのかも知れぬ……、世の中はもうすでに末法(末法思想:釈迦が亡くなって千年経つと世界は滅びると言われていた)に入っている」

「…………」

「武家が蔓延ろうとしている。だからこそ私は武芸に励んでいるのですが、我らがお守りするだけでは心もとないと思われているのかもしれない。主上も案じておいでのようだ……」

 惇長は呟くように言った後、こんな話を貴女にしても仕方が無いかとぶっきらぼうに言い、再び筆を走らせ始めた。

 こんなふうに、惇長が内裏の中の話をしてくれたのは初めてだ。

 燈台が惇長にやさしい光を投げていて、それがなんとも悲しげで儚げなものに珠子の目に映った。

「……惇長様は、主上も東宮様も大事に思っておいでですのね」

「……お二人とも私が童殿上していた時から、親しくさせていただいている。それに姉と妹の婿君だ」

「お二人も惇長様がお好きなのでしょう。東宮様も、だから武芸を嗜まれるのですね、そうしたらいざとなった時一緒に戦えますし、皆も心強いでしょう。もっともそんなふうになったら天下の一大事ですが」

 筆を走らせ続ける惇長に、珠子は余計なことを言っただろうかと後悔した。でもここで言うのを止めると、いい加減な奴と思われそうだ。

「だ、だから心もとないとはお思いではあられないと……、思います」

 やはり惇長は何も言わない。

 ひょっとするとものすごく怒っているのかもしれない。

 惇長は誰よりも自意識が高い男だから、珠子のような身分もへったくれも無い人間……、それも女に言われたくなどなかっただろう。

 沈黙に耐え切れなくなった珠子は、これ以上墓穴を掘る前に退散しようと膝をいざらせた。

(馬鹿ね私は。殿方のお気持ちをこんなふうにどうこう言うなんて。きっと呆れておいでなのだわ)

 しかし、やりたくも無い失態はしてしまうもので、何故か床の上に置かれていた翠野の上に袿の裾が絡み、べりべりとおかしな音を立てた。

 さすがに惇長の筆が走る音が止まる。

 もう今の珠子に惇長を振り向く勇気はない。

(あ、あやまらなきゃ……。でも、怖い)

 一条でも中務でも良いから、今すぐ来てくれないだろうか。こんな事なら明日からと言えばよかった。

 傍に居たいと、逢いたいと思っていたのは間違いないが、こんなふうに惇長の機嫌を損ねたらそれこそ居づらいしいたたまれない。

 固まっていると、背後で衣擦れの音がしてあっという間に惇長の腕の中に包まれた。

 久しぶりの惇長の香りに、珠子は戸惑いながらもうっとりとする。腕は優しく、どうやら彼は怒ってはいないようだ。

「……貴女は、どうしてそんなに人を思える?」

 途方にくれたように惇長が言った。今度は珠子が何も言わない番だった。どうしてと言われてもわからない。

「裏切られた時を考えないのか? 私は貴女を裏切っていたというのに。私が愛しているのは詔子だけだ」

 珠子はそれに応えず、傍にあった翠野を引き寄せ、惇長に抱かれたまま弦を弾いた。

 言えない言葉の代わりに、無心に翠野に話しかける。

 翠野は珠子に共鳴したように透明で壊れそうな旋律を奏でてくれた。

 外は雪に変わったようだ。

 寝殿、北の対、東の対は東宮妃関連の人間が今住んでいる。この西の対は他の対に比べて半分の大きさほどしかない小さな建物だった。

 珠子はそれが惇長の答えだと強く思い知り、知らず涙が流れ落ちていく。背後から抱きしめている惇長にそれが見えないのを、珠子は幸いに思った。

(それでいいの。私は今一緒にいられたらそれだけでいいの……)

 どうせあと半年ほどの住まいだ。惇長は一年の契約として珠子を囲ってくれたに過ぎないのだから、来年の春にはここからも出て、市井のもっと狭くて汚くて不自由な生活が待っている。

 その半年の間、惇長が愛する心を戻してくれたら、どれだけ自分は幸せだろう……。

 珠子は自分に言い聞かせるように、美しい指で弦を爪弾いた。

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