アイリーンと美獣 第01話

 終業時間五分前、壱夜は定時で帰る手はずを整えている。今日は平日で客もまばらだからそれは可能だろう。のんびりと自分の仕事を全て終了し、同僚の仕事の伝票をまとめている壱夜に、チーフの畑中が搬入された家具の箱を担ぎながら声をかけてきた。

「おーいアイリーン、もうあがっていーぞ」

「僕は外人の女じゃないんですけど!!」

 壱夜はいやなあだ名に頬を膨らませて返事をする。しかし振り向いた瞬間、畑中の箱の持ち方が危なっかしくて見ていられなくなった。

「チーフ、山田さん、代わります」

「いいっていいって……、ったくお前はそんな小さな身体のくせに怪力だな」

「小さな身体は余計です! 男なんだから当たり前でしょう!」

 チーフと山田が二人がかりでひいふう運んでいた箱を、壱夜は一人でひょいと担いで運びはじめる。実際かなり重いがこういうものを運ぶコツを壱夜は心得ている。この開店したばかりの家具店、「イエローイエロー」に入社する前は引越し屋に勤めていたのだ。

 しかし、身長が160センチをわずかに超えるほどしかなく、華奢で可愛い外見をしている壱夜が大きな家具をひょいひょい運んでいる姿は、なんとなく大きなえさを運ぶ蟻に似ているため人の笑いを誘う。あだ名の「アイリーン」は蟻をもじってつけられたあだ名で(壱夜にとっては侮辱なため、ニックネームではない)、壱夜は面白くない。

「おいアイリーン、残業手当ては出ないんだからもう帰れ」

「了解です。チーフたちがへっぴり腰だからつい。情けない中年ですね! はは」

「うっせえ! 二十二歳の癖に生意気だぞ! 見かけは高校生のくせに」

「ふん! 僕が高校生ならチーフは老人ホームのご老人ですね!」

「アイリーンのくせに」

「僕は菅谷壱夜です! アイリーンじゃありません!」

 かわいいぬいぐるみを撫でるように頭を撫でられて、壱夜はくそうと内心で拳を握る。壱夜は少年っぽさが抜けない外見のせいで若く見られる。この職場で一番最年少は二十歳の山田なのに、彼は男らしいがっしりした身体つきをしているため、傍目にも壱夜より年上に見えるのだ。

 からかわれるのは嫌だが、それ以外では人間関係は円滑で仕事内容も給料もまずまずだったので、壱夜はここを続ける事にしている。

 帰り道、食材が切れていたのを思い出して夕方の混雑するスーパーで買い物をすると、壱夜は一人暮らしのアパートを目指した。以前の職場の時に住んでいた社員寮と違い、1DKでせまくて汚くて古いアパートだが、職場やスーパーや病院などの便が良かったので壱夜は今の住処のほうを気に入っている。

「あれは……」

 アパートの前に停まっている高級車を目にして、さあっと壱夜の微笑みが消えた。銀色のマセラッティに乗っている人間などそうはいない。

 くるりときびすを返した壱夜の背後には、すでに包囲網が仕掛けられていた。屈強そうな黒スーツの男が立っていたのだ、振り向いた壱夜の目に、マセラッティの方からも同じような格好の男が歩いてくるのが見えた。

「ひどいじゃないか壱夜。私を見て逃げるなんて」

 案の定マセラッティから、長身の美麗な男が出てきた。壱夜が世界で一番嫌悪していると言っても過言ではない……。

「っさい、てめえ……っ。よくも僕の前にそのこぎたねえ面出せたもんだ!」

「汚いかな? お洒落してきたのに」

 柔らかく微笑んではいるが、この男の本性は肉食獣だ。見事な紳士ぶりで周囲を欺いている事を、壱夜は痛いぐらいに知っている。逃げようと後ずさる壱夜の腕を背後の黒スーツの男がきつく捕らえたため、その痛みに壱夜は持っていたスーパーの袋をどざりと道路に落としてしまった。

「離せよ! 僕は明日も仕事なんだからな」

「わかってるよ。ちゃんと明日職場まで送ってあげる」

「っさい! 今ここでてめえらが帰れば済む話だろ!」

 壱夜は黒スーツの男を振り切ろうともがくがびくともしない。それどころかマセラッティへ強制的にずるずると引きずられていく。人を呼ぼうと壱夜は大声をだそうとしたのだが、察知した黒スーツの男に口を塞がれた。

「間島、傷つけないようにな」

「心得ております」

「っさい! もう十分僕は傷ついてるっての」

 もごもごと壱夜が言うと、男は不思議そうに言った。

「……どこが? 君はまっさらの新品だろう? ……逃げたんだから」

 男の目があの日のように得体の知れない色を帯びて、壱夜は恐ろしくてたまらないのを押し隠して、黒スーツの男の手が離れたのを幸いに懸命に毒づいた。

「離せってば」

「だから明日の朝には離してあげるよ、一時的だけどね」

 怪力のはずの壱夜は、逆らえないままなんなく黒スーツの男にマセラッティの後部座席に押し込まれた。もちろん横には大嫌いな男が座る。男はドアにすがり付いて嫌がっている壱夜を、大切な宝物に触れるように抱きしめてきた。

(くそ! なんでこいつらこんなに力つえーんだよ)

 職場では怪力を誇っている壱夜なのに、とても敵わない。まず体格で負けているし、男には手下まで居るしどうにもしようがない。

 そのまま男のマンションまで連れて行かれ、警察に連行されるかの如く黒スーツに両隣をはさまれて歩かされる。壱夜は隙を狙って逃げようと思っていたが、前回で学んだのか今回は男達に僅かな隙もない。

「あ、食材……」

 エレベーターの中で、壱夜は突然道路に落としてきた食材を思い出した。あれがないと今週は乗り切れない。唐突にそんなのんきな事を言い出した壱夜に男は吹き出して、壱夜の頭をぐりぐりと撫でた。

「心配するな、部下がアパートの冷蔵庫に入れているから」

「なんでお前の部下が冷蔵庫に入れてんだ、第一鍵もないのに……」

「合鍵なら持ってる」

 ……こいつなら屁でもないかと壱夜は脱力した。この男に壱夜のプライベートは調べつくされている。個人情報の保護などこの男は簡単に破る事ができるのだから。こんな野郎でも経営者になれるんだから世の中どこまで腐っているんだと、壱夜は世の中の構造にとことん疑問を持たざるを得ない。

 エレベータが目的の階につき、壱夜はやっぱりここに来るんだよな……と絶望した。見覚えのある茶色のドアが開かれると、男が壱夜の腰を抱き寄せた。完璧女扱いだ。

「お前達はもう帰ってもいい。明日の朝7時に来い」

「はい、では失礼します」

 ばたんとドアは閉じられ、壱夜は男とだだっ広い部屋に取り残された。うながされるままに靴を脱ぎ、シンプル極まりないリビングに追い立てられる。白い壁と黒い家具を見回して壱夜はため息をついた。

「壱夜はワインが好きだったかな」

「嫌いだよ」

「前はあんなに飲んでいたのに」

 くすくす笑いながら男は見覚えのあるロマネコンティと、グラスを二脚持ってきた。何から何まであの日の再現で壱夜はどんどん警戒心だけが強まっていく。今回も逃げられるだろうか。女みたいにされるのは真っ平だ。

 男は流れるような動作でワインを開けると高価そうなグラスに注いでいく。僅かに琥珀の色に滲むその透明な液体は前と寸分変わらない……。

「はい、壱夜」

 男が壱夜にグラスを手渡した。壱夜がおそるおそる受け取って覗き込んでいると男がからかうように言った。

「毒も何も入ってないよ。今回はね」

「信用できるか!」

「そうだね、ふふふ。前回は酔っ払った君が可愛くて楽しかったよ。私の腕の中で目を潤ませて顔を赤くしてね。理性なんて一気に吹き飛んだ」

「……あんたが変なもの入れたからだろうが!」

「変なものじゃないよ、媚薬だよ」

「十分変な薬だ!」

 壱夜は男の顔を目掛けてワインを引っ掛けた。一本何十万円する酒だろうがなんだろうが今の壱夜には関係ない、酒より自分の方が大事だ。男はぽたぽたと顔から胸にかけてワインを滴らせながら、壱夜に微笑んだ。

「おいしいね、だけどすこしもったいない気もする」

 ぺろりと赤い舌を出して、男は拭った指先に滴っているワインを舐めた。その様子は自分を組み敷いた時の妖しい雰囲気を漂わせていて、壱夜はぞっとした。冗談じゃない。冗談じゃない。ワイングラスを男に投げ捨てると、そのまま玄関へ突っ走った。とにかく前のようにこの部屋から出る事だ。

 しかし、玄関のドアは鍵を開けると簡単に開いたが、その先が問題だった。黒スーツの男がまだいたのだ。

「……前回みたいに、逃げ出そうたってそうはいかないよ……」

 ゆっくりと男が近づいてきて、壱夜は捕まってたまるものかとドアを開け放った。だがそのまま外へ飛び出そうとする壱夜を黒スーツの男が捕まえるより早く、男が壱夜の顎を背後から捉えて屋内へ引っ張り込むほうが早かった。ばたんと再び閉まるドア。壱夜は軋むほどの握力で顎を捕まれて身体中が震えた。くっくっくと笑いながら男が言う。

「ねえ? このまんま君の顎を砕くなんて簡単だよ?」

 男の唇がうなじに吸い付き、痛みが走った。さらに片方の手がシャツの裾を押し上げて平らな胸を弄ってくる。嫌なのに、顎を掴む手の強さがそれを壱夜にさせない。壱夜の身体中の力が抜けていく……。

「そうそう、そんなふうにおとなくしていれば乱暴な事はしない。だって、私は壱夜君が大好きなんだからね」

 腰が抜けた壱夜を横抱きにすると、満足そうに微笑んで男は壱夜を抱えて玄関からリビングへ運んだ。グラスは毛足の長いラグの上に落ちたおかげで、綺麗な形のまま転がっていたが、ワインは琥珀色のしみになっている。

 壱夜をラグの横の大きな黒革のソファに押し倒しながら、男が言った。

「おいしいワインだから、二人一緒に飲もうか?」

「いらない……」

 ようやく声が出せた声は情けないほど掠れていた。その壱夜を男は強く抱きしめ激しく口付けてくる。これがこの男の本性だと、壱夜はあきらめにも似た気持ちで受け入れるしかなかった。

「んん……、ん、ん……ふ……」

 せわしなく男の手が壱夜のズボンのベルトを外し、まだ萎えたままのそれを取り出して握った。男の手はとても熱く、その温度が壱夜の腰の芯になんともいえない愉悦を伝えた。

「あ……や……だ……っ」

「壱夜、……壱夜」

 猫がミルクを舐めるように壱夜の顔や首筋を舐めながら囁き、男は壱夜の立ち上がりつつあるそれをゆるゆると摩り始めた。壱夜のズボンは下着ごと膝に絡まり、覆いかぶさっている男の片膝が間に挟まっている。閉じられない膝は男の愛撫に細かく震え始めた。

 男が粘りつくような声で囁く。

「壱夜、私の名前を呼んで」

「ああ……っ、……ん、あ!」

「呼ばないと、いきなり挿れるけど」

 つきんとアヌスを指先でつつかれて、壱夜は戦慄した。冷や水を浴びたように身体の熱が失せ、逃げ出そうともがいたが、男は圧倒的な力と体格に物を言わせて壱夜をさらに強く組み伏せる。そして萎えそうになった壱夜を強く握り締める。

「あああああっ……つ! 痛い、止めて」

「だったら、呼ぶね?」

 べろりと顔を嬲るように舐められ、壱夜は降参した。痛みが体中を駆け巡って耐えられそうもない。

「あ……おと、……蒼人」

 痛みの余り、長い睫に涙を滲ませ始めた壱夜に、蒼人は含み笑いをしながら口付けていった……。

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