アイリーンと美獣 第2話

「お願い、お願い……手を……」
「手を?」

 蒼人は名前を呼んでもらってうれしいのか至極ご機嫌そうに返事をする。壱夜はそれが気に食わなかった。顔はお綺麗でいい。しかしやっている事は常識と大きくかけ離れている。蒼人の右手は執拗に壱夜のものを上下に扱い、左手が押し上げられたシャツの下の小さな乳首を摘んだり抓ったり、いやらしく身体中を這い回るのだ。

 いくら男っぽい外見でないからと、こんな事をされるのは嫌だ。自分は普通に女が好きなのだから!

「離せ……ってば!」
「断るね、半年もお預けだったんですから」
「知るかよ! ああっ……んン……も……やあ!」

 壱夜が力を込めて押しのけようとするたびに、蒼人の愛撫は激しさを増して力を奪い取っていく。浅い息を繰り返しながら壱夜は弱弱しく文句を言った。それがさらに蒼人の嗜虐心を高めていると気付かずに。

「僕は、女の方がいいんだって」
「私は壱夜なら男でも女でも構いません」
「僕が構うんだって! んん……っ ひ……あう!」
「身体は悦んでいますが?」

 壱夜のものの先端からは、先走りの蜜が先ほどから流れて開放を訴えかけている。絶対に嫌だ男にいかされるなんてと、壱夜はとろとろの愉悦に飲み込まれまいと声を押し殺した。しかしその分顔が艶やかに上気して睫が震え、二人の熱をあげていく……。

「はな……して……」

 壱夜の官能の囁きに、蒼人は激しいキスで応えてさらに愛撫を強めていった。


 蒼人と壱夜の出会いはこのマンションだった。なんて事はない、蒼人が壱夜の勤めていた引越し社に引越しを頼んだだけの事だ。

「今日のお客さんは、結構大きな会社の社長さんだとよ」
「へええ……、だからあの新築のセレブマンションに」

 4トントラックの中で、壱夜は先輩社員の若松と打ち合わせをしながら、もう目の前に見えている大きなマンションを見上げた。自分のような一般庶民には生涯縁のなさそうな高級マンションだ。トラックが止まると、大きなエントランスの隅の管理人室から初老の管理人が出てきて、引越しの手はずを軽く打ち合わせ、壱夜たち4人は引越し作業を開始した。

「お客様の二宮蒼人様は少し遅れていらっしゃるそうだけど、予定通り始めよう」

 リーダーの若松の指示のもと、順調に引越し作業は進んだ。壱夜は作業を進めながら、こんな広いマンションに住む人間とはどのような種類に属しているのだろうかと思っていた。

 作業も中盤に差し掛かり、壱夜が120キロはあろうかと思われる大きな冷蔵庫を一人で抱えてダイニングキッチンへ入ると、涼やかな男の声が後ろから聞こえた。

「凄いね、一人でそんなものを運べるなんて」

 ゆっくりと所定の位置に冷蔵庫を下ろして振り返ると、柔らかな雰囲気を持った長身の男が自分を見ていた。すぐに住人の二宮だとわかった。

「コツですよ、二宮蒼人様」

 壱夜は褒めてもらえたのがうれしくて、笑顔一杯で返した。蒼人は白のワイシャツを着崩した格好をしているのに動きが優雅で、だらしない感じがしない不思議な男だった。やっぱりお金持ちなんだなと壱夜は単純に思いながら、キッチン用品の荷解きを始めた。おまかせコースだったのだが、蒼人が手伝うと言って二人で作業をする事になった。

「お一人暮らしと伺っておりますが、料理がお好きなんですか?」

 大家族か余程の料理好きでない限り、こんな大きな冷蔵庫は要らないだろう。蒼人は次から次へと箱を開けながら笑った。

「そうだよ。でもあまり作れないのです、時間がなくてね」
「え……、じゃあ」
「部下が作ってます。私だけではなく他の者達の分も作るから、容量がいるんです」
「なるほどー、社長さんですもんね」

 感心したようにうなずく壱夜は、猛獣の気を引いてしまった事をこの時全く気付いてはいなかった。

「君は料理は好きなの?」
「大好きですよ」
「そう……、私は和食が得意だけど、君は?」
「そんな大層なもんじゃなくって、フツーの家庭料理しか作れませんよ」

 壱夜はまた運ばれてきた荷物を解き、手際よく黒の人工大理石のシステムキッチンの引き出しを開けて料理器具を入れていく。手伝う蒼人の目は、壱夜の男の割には妙に繊細な指先に吸い寄せられ、やがてその視線はゆっくりと腕から肩、襟足から覗くほっそりとした首筋に移動した。優しい眼差しが一瞬妖しさを帯びる。

(……吸い付いたらいい色が付きそうだな)

 ちらちらと欲望の炎が身体を侵食していきそうになるのを、蒼人は呼吸一つで押さえた。

 蒼人にとんでもない目つきで見られている事に気づいていない壱夜は、梱包されていたダンボールから出てくる調理器具に目をきらきらさせていた。どれもこれも自分が前から欲しがっていたものばかりだ。

「いいですね、この鍋。無水料理が手軽にできそう」
「ええ、私も最近無水料理に凝っていましてね……」

 この青年をおいしく食べるために、どうやって声をかけるかと蒼人が機会を伺っていると、壱夜が屈んだ拍子に尻のポケットからダークグリーンの手帳をぽとりと落とした。壱夜は落とした事に気づかずに、ダンボールの束を持って部屋から出て行く。

 そっと手帳を手に取り蒼人は薄く笑った。手帳の中に壱夜の社員証が挟まれている……。


 その日の夜、壱夜は蒼人の罠にも気づかずにマンションへ来ていた。何件もの引越し作業がすべて終了して会社に戻ったら、システム手帳ごと社員証が消えていて焦っている所に蒼人から預かっていると電話があったのだ。

 社員証は普段は首から下げて仕事をする決まりだったが、今日はその紐が切れてしまい、壱夜は仕方なくポケットにしまって作業をしていた。

「やっぱり胸ポケットの方がよかったかなー。でもごそごそして邪魔だったし……」

 私服の黒いシャツにジーパン姿の壱夜は、朝に来たばかりのマンションの前でため息をついた。夜は夜で美しい外観のマンションにひどく自分はそぐわない。恐る恐る広いエントランスに入った壱夜は、管理人室の男とばっちり目が合った。交代したのか朝の優しそうな初老の男ではなく、怖そうな中年の男で、壱夜は思わず目を逸らしてしまった。しかし管理人は壱夜の傍まですっと歩いてきて、確認するように声をかけてくる。

「菅谷壱夜様ですか?」
「は、はい」

 管理人は上から下まで壱夜を視線で撫でると管理人室に戻り、電話の受話器を取った。おそらく蒼人と話をしているのだろう。このマンションは管理人の許可かマンションの住人の許可が無いと、エレベーターにすら乗れないシステムになっている。

「菅谷様、確認させていただきましたので、エレベーターへどうぞ」
「……ありがとうございます」

 落ち着かない気持ちで居た壱夜は、降りてきたエレベーターから黒スーツの男が現れてさらにどぎまぎした。しかしそんな壱夜の様子に構うことなく、蒼人の使いだという黒スーツの男は壱夜をエレベーターへ誘った。

 しんと静まり返った廊下を、壱夜が早く帰りたいと思いながら歩いていると、見覚えのある部屋の前で蒼人が腕を組んで壁にもたれているのが見えた。黒スーツの男が蒼人に頭を下げる。

「社長、菅谷様をお連れしました」
「……ご苦労。お前達はもう帰っていいよ」
「では失礼します」

 黒スーツの男がエレベーターに消えて、蒼人と二人きりになると壱夜は頭を下げた。
 
「あの、僕、落し物なんかしてすみませんでした。預かってもらってありがとうございました」
「謝る事はありませんよ。さあ、どうぞ上がってください」

 ドアを開けられて壱夜は困ってしまった。落し物をすぐに受け取って帰るつもりでいたし、明日も仕事がある。

「あの手帳と社員証だけいただければ……」
「君と食べようと思って夕食に腕をふるったんです。さあご遠慮なく」

 蒼人の眼差しは柔らかいのに、反論を言わせないものがあった。朝には感じなかったその雰囲気に壱夜は僅かに警戒しながら玄関へ入り、出された黒いスリッパを履いた。

Posted by 斉藤杏奈