清らかな手 第1部 第08話

 やっと理想的なアパートを見つけたフレディは、雅明を誘った。二人はいつまでも一緒だと言った日から、ちょうど一年が過ぎようとしていた。なぜそんなに長くかかったのかというと、フレディが多忙すぎて、次から次へと仕事が舞い込み、館のベッドが温まる間も無くすぐに次の任務地へ行かなければならなかった為だ。

 昨年と同じように雅明は庭の雪の中で立っていたが、そのフレディの誘いにのらなかった。しばらくじっとフレディを見て、ついと身体を庭に戻すと首を振る。

「……行かない」

「なんで?」

 断られると思っていなかったフレディは驚いた。雅明はそのまま庭の雪の中で立っている。フレディがどことなく頼りなげな肩を抱きしめると、雅明は静かな声で言った。

「……出たって、お前、ほとんどアパートにいないだろう?」

「そりゃそうだけど」

「ひとりぼっちで過ごすのは嫌なんだよ」

 暗にほったらかしだと責められていると思ったフレディは慌てた。雅明を抱きしめてキスをする。雅明は逆らわずにそのままキスされてフレディに応えたが、どことなく力がない。

 気持ちが離れたのだろうかとフレディは不安に思った。そのまま強く抱きしめてみたがやっぱり応えは弱い。とにかくこのままでは雪に濡れてしまうので、フレディは雅明を抱えて部屋の中へ入った。

 しょうが入りの紅茶を作り、雅明にマグカップを手渡すと、フレディも同じようにカップを手にして雅明の座っているソファの隣に座った。

「ごめんなアウグスト。別にお前を忘れていたわけじゃないんだ。あれから一年も経ってるんだお前が怒っても無理ないよな……」

「そうじゃないんだ」

 マグカップをソファの前のテーブルに置き、雅明はフレディを見上げた。相変わらず綺麗な茶色の目をしている。

「お前をこれ以上危ない目に遭わせたくないんだ」

「危ない目? 俺は未だかつてできなかった任務はないぞ?」

「当たり前だ!」

 任務の失敗、それは死に直結する。雅明はフレディのふざけに眉を吊り上げた。だがその怒りも一瞬で、静かにフレディの左手を両手に取った。

「ここに居た方が安全だから、ここでお前を待つよ。私はもう任務を言われる事はないし」

「身体は復活しないのか? トレーニングとかしていたろう?」

「……医者に見てもらったけど、壊れてしまったものは戻らないらしいよ。私の筋力は女なみだ。拳銃も護身用ぐらいしか持てやしない。前みたいな運動神経は無理だ」

 他人事のように雅明は淡々と自分の身体について話した。それはまるで自分の身体を道具に思っているようで、却って雅明の絶望を強く感じる。

「すまない……」

 フレディは、アレクサンデルの任務に雅明を巻き込んだ事を後悔し続けている。そして直ぐに助けられなかった事も……。あの事さえなければ雅明はこんな風にはならなかったはずだからだ。しかも自分は雅明の復帰にもろくに力を貸せないままで、度重なる任務でトレーニングも付き合った事はないし、心の支えにもなれていない。

 雅明が沈んでいるフレディの背中を叩き、妙に明るい声で言った。

「間違わないでくれ、お前のせいじゃないんだ」

「いいや俺のせいなんだ。償っても償いきれない」

「お前を責めたくて言ったんじゃない。ただ、現実を言っただけなんだ。できるかぎりお前の負担になりたくないそれだけだ」

「アウグスト……」

 雅明は髪をかきあげると小さく息をついた。その腕が本当に細い事にフレディは今更ながら気づく。ひょっとすると麻薬漬けになっていた時より細くなってはいないだろうか。フレディは思わず雅明はそのままソファの上で押し倒し、シャツを脱がせた。

「…………」

 黙りこむフレディに、雅明は力なく笑った。震えるフレディの手が雅明の鎖骨の辺りを触った。肌は滑らかで相変わらず真珠色の美しさだったが、筋肉が削げ落ちていて、本当にその身体は女のようにほっそりとしていた。

「な? ……いくら頑張っても駄目だったんだ。トレーニングをやればやるほど痩せるんだ。情けないだろ」

「アウグスト、俺は……」

「なんかさ、もう、情けないを通り越して笑っちゃうだろ? 貴明は、ますます男らしくなってるのにな。会社をちゃんと経営しててさ、すごいんだ……本当に。それなのに私は毎日遊んで暮らしてる、弟に皆押し付けて申し訳ないよ。楽々人生だ」

 笑っているのに、何故だか大泣きしているように見える雅明の服を元通りにして、フレディは静かに抱きしめた。その細くなってしまった身体が切なくて、やり切れない気分にさせる。

「だからさ、もうずっとここで過ごすよ。頑張ってる奴の足を遊んでる私が引っ張るのは気が引けるんだ」

「だけど」

「ここにいたらタダで飯食えるし、安全だから……な。お前も心配するな。仕事に集中できるだろ?」

 けぶる微笑みで雅明はフレディを安心させるように笑い、静かに癒すようにその背中を撫でた……。フレディは目頭が熱くなったが、ひたすらその衝動に耐え、雅明にキスをした。だが抱きしめている雅明の顔が、暗く翳っている事をフレディは気づいていなかった。

 それから一ヵ月後、ブリュッセルでの任務を終えたフレディは、館への帰り道の途中で、今回の相棒であるイヴィハイトのアパートへ誘われた。夜の闇に雪がしんしんと降っていて手先が凍える。雅明のような細い身体ではこの寒さは堪えるだろうから、早く帰って温めてやりたいとフレディは思っていた。

 しかし、イヴィハイトはハンドルを回しながら言った。

「ずっと話したい事があったんだよ」

「館じゃ駄目なのか? 明日でも……?」

「そう」

 アパートの駐車場に車はやがて止まり、イヴィハイトにうながされるままにフレディは彼の部屋に入った。イヴィハイトは缶コーヒーをフレディに渡す。

「それで話って?」

 缶コーヒーは温かく、一体どこに入れていたんだろうと思いながら、フレディはそれを開けた。イヴィハイトは一人がけのソファに座ると、部屋の壁に凭れているフレディにうなずく。

「アウグストなんだけどさ、あいつ、やばいぜ?」

「やばいってまさかまた麻薬……」

 フレディは雅明の麻薬の断薬症状が復活するのを恐れていた。一度味わってしまうとあの麻薬の悦楽はたまらないものらしい。

「違う違う。最近頻繁に夜呼ばれてるんだよ。お前はほとんどこっちにいないから知らないだろうけど。あいつもお前に話してないらしいな」

「……呼ばれてるって……アンネに?」

「そうあの女狐だ」

「…………」

 黙りこんだフレディにイヴィハイトは続けた。

「お前がいる日は遠慮してるみたいだけどな。いない日は毎日呼ばれてる」

「まさか、そんな、毎日って……。他の男やトビアスは……」

「ここ一年あいつばっかだよ。だれも不満に思う奴はいないけど皆アウグストを心配してる。あいつはお前と違って、寝るの積極的じゃねえだろ? 結構きてるぜ……ここに」

 イヴィハイトは自分の頭を指で小突いた。

「なんか最近部屋に閉じこもり気味だし、仕事はしねえし、熱出して寝込んでる事が多いぜ。そのくせ夜にはひっぱりだされてる、めちゃくちゃだ」

「そうか……」

 考えをめぐらせるフレディに、イヴィハイトは声を顰めて言った。

「……ボスはお前を殺す気だぞ。一番危険な任務をいつもお前にふってる」

「!」

 目を瞠るフレディに、乾いた笑い声が響いた。

「ボスもアレクサンデルと変わらねえよ。人の命なんてゴミくずみたいに思ってる。今はアウグストの精神の支えのお前を殺して、あいつを人形にしようとしてんじゃねえの? ボスが大事なのはアンネだけだからな。この事に関してはあの女の言いなりだ」

「そんな……事は」

「だったらなんでお前ばっかり次々仕事させんだよ。させすぎだぜ。お前は他の奴の4倍はさせられてる。しかも休みなんてねえじゃねえかよ」

「…………」

 イヴィハイトは自分のコーヒーを一気に煽ると、缶をゴミ箱に放って捨てた。カランと小気味のいい音が場違いに響く。

「お前は知らないだろうけどさ、あいつは誘拐されて組織に入ったんだぜ?」

「誘拐?」

「そ、アンネがボスに頼み込んで誘拐させたんだよ、アウグストを。俺もその時それを実行した一人だったから確かだ」

 一瞬風が強く吹き、窓ガラスが風圧を受けて緊張した音を立てた。続いて雪がばちばちと当たる音がする。いつの間にか外は吹雪だった。

 進んでこんな闇の世界に入る人間などいるわけがない。自分のように何か過ちを犯した人間でもなければ……。アレクサンデルの館に攫われるまで、いつも雅明が組織にふさわしくないと思っていた事を、フレディは思い出した。

 無理やり引き入れられたのなら、納得がいく。唐突にフレディはアンネに対する怒りが湧き上がってきた。自分の我侭で彼女は雅明の人生をめちゃくちゃにしたのだ。

「あのアンネってのは、親がアメリカのマフィアらしいぜ? だからそんな女に目をつけられたのがあいつの不幸なんだよ」

 フレディは、別人のようにか細くなった雅明を思い浮かべていた。

 牙を持たない男はどうなるのだろうと思う。筋力も、頭脳も、運も、才能も、すべて失った人間はどう生きていけばいいのだろう。何を支えにして生きていけばいい……?

 イヴィハイトのアパートを出たフレディは、雪が降りしきる暗闇の中、館へ走った。館はイヴィハイトのアパートからわずか数分の所にある。深夜の館は表門が完全に閉まっていて、フレディは裏口の指紋認証のドアから入る。薄暗い廊下を歩き、雅明の部屋を開けた。

 部屋は暖房が切られていて寒かった。暗闇の中フレディは雅明の姿を探したが雅明はどこにもいない。 

 廊下へ出たところで、酔っ払っている仲間に出会った。おそらくフレディ同様任務明けで、これから休みに入るのだろう。

「よーフレディ。任務完了か?」

「ああ、ボスは?」

「ボスならいねえよ。おえら方とホテルだ」

「そうか……」

 フレディは、重い足取りで心当たりの部屋へ向かった。仲間の男は不思議そうに見ていたが、それを振り返る余裕はフレディにはない。

 ノックもせずに、フレディは静かに一つの部屋のドアを開けた。部屋は華麗な内装で、むせ返るような薔薇の匂いがする。いくつも薔薇がいけられた花瓶が置かれているからだ。その中をフレディは突っ切ると、奥の部屋のドアを開けた。

 すると、やはり、居た。豪華な天蓋つきベッドで薄暗い照明の中、雅明はアンネに犯されていた。雅明が抱いているのではない、アンネが抱いている。

「ああ……ああ……っ……は……」

「いいわ。もっとよ、もっと……ねえ、足りないわ足りないわ」

「も……無理だ。もう……あ、あ、ああ!」

 アンネが騎乗位で、雅明のモノを深く飲み込んで腰を揺すりたてている。アンネの指は雅明のアヌスをこじ開けて抜いては入れて、彼女の蜜でぬるぬるとしたそこを撫で回していた。辛そうに銀色の睫を震わせた雅明が身体をがくがくさせて達すると、アンネは溜息をもらした。

「早いわね……、体力が足りないわよアウグスト」

「…………」

 雅明は何度も出したらしく、二人は精液でべちゃべちゃに濡れていた。フレディはそのまま二人のいるベッドの横に立った。アンネはフレディに気づくと妖艶に微笑む。

「おかえりなさいフレディ。参加したいわけ?」

「……アウグストを離せ。嫌がってる」

「あら駄目よ。ただで贅沢させてあげてるんだもの。これぐらいできなくてどうするのよ。ねえ……そうよねアウグスト」

 小さく雅明が頷いた。だがフレディには分かっていた、雅明が本当は嫌がっている事が。感じていようがいまいが、雅明は望んでいないのだ……。

「くうっ……あ、あ、あ、……締め付け……ああ」

 アンネが腰を揺するのを再開すると、雅明は息も絶え絶えによがりだした。豊かな乳房を揺らしながら、アンネは睨んでいるフレディにくすくす笑いかける。

「ねえ? きれいでしょうアウグストは……。正直な話、私はアウグストだけが居たら良いのよ」

「……この行為がますます彼を絶望に招いていると知っても? アウグストの筋力が衰えていると知っていてもか?」

「私の胸の中で死んでほしいわ」

 汗まみれの雅明の乳首にアンネは噛み付き、雅明が声をあげた。

「それ以上すると、熱を出す……」

 冷静な声で言うフレディが気に入らないのか、アンネはフレディを睨んだ。

「いつからそんなにえらくなったの貴方。死なないでいられるのはアウグストがこうやって私に抱かれているからよ?」

「……どういう事だ」

「そのままよ、邪魔だわ! 出て行きなさい。しつこいとトビアスに言うわよ」

 フレディは怒りに染まったが、あの虹色を帯びた雅明の目とぶつかった。雅明は今にも途切れそうな声で言った。

「……ほんと、邪魔だよお前……。出て行ってくれ……」

 それ以上は、アンネに唇を奪われて雅明は何も言えなくなってしまった。フレディは歯をかみ締め、足早に部屋を後にした。

 長い夜が明ける頃、かたりと音がして、ふらふらの雅明が自分の部屋に帰ってきた。眠れていなかったフレディは、倒れそうになった雅明に駆け寄って抱き上げ、ベッドに横たわらせる。フレディがコーヒーを渡そうとすると首を横に振った。

「……いらない、寝たい」

「アウグスト……」

 目を閉じたまま雅明は言った。

「とても……疲れてる……」

 そのまま直ぐに寝入った雅明の横に寝転ぶと、静かにフレディはその銀色の髪を撫でた。泥のように眠っている雅明はまるで死んでいるように見え、フレディは眠れないまま雅明の寝顔を見つめ続けた。

 雅明が目覚めたのはその日の夕方で、フレディが相変わらずじっと見つめている。

「フレディ……」

「よく眠ってた」

「……ブリュッセルから帰ったのだな。おかえり……」

 うれしそうに微笑み、雅明は再び気だるそうに目を閉じた。

「なぜアンネにあんなにされるのを許してる」

「……別に、お前には関係ない」

「俺はお前が好きなんだ。そのお前が他の奴にやられてるのなんか我慢できるか!」

 フレディの右手がきつくシーツを握り締めるのを、雅明は目を瞑っていても感じた。

「……する事ないから暇なんだ」

「うそつけ! しょっちゅう熱出して寝てるから何もできないんだろうが」

 フレディが発熱している雅明の額に手を押し当てると、ばつが悪そうに雅明は息をつく。

「女とやるのが好きなんだよ……。男としてばっかりだと……」

「お前、元からセックスが嫌いだろ? 人の嗜好なんてそうそう変わるもんじゃない」

 ばっさりとフレディに切り返され、雅明は口を噤んだ。しかしすぐに言った。

「私は……ここに入る前、女とセックスして生活してたんだぞ?」

「その割には潔癖すぎる。女専門でもそういうのが好きな奴だったらアレクサンデルの館でうまく立ち回れたはずだ」

「フレディ……」

 雅明の双眸から涙が零れて落ちていく。それがあまりに痛々しすぎて、フレディは持っていたタオルで雅明の涙を拭いた。しばらく泣いていた雅明は拭い続けるフレディの腕を震える手で止めて、ささやくような声で言った。

「……本当は、お前以外としたくないよ、フレディ……」

「アウグスト……」

「でも、お前を愛しているから、失いたくないから……私は!」

「わかってる。ボスにかけあってやるから。お前はもう何も考えるな。俺がお前を護る」

 フレディは雅明の涙に濡れた頬にキスをした。もう少し休めと言って、ボスであるトビアスと話をするためにフレディは部屋を出た……。トビアスは出先のホテルからもう直ぐ帰ってくるのだ。

 その後姿がドアから消えるのを感じると、雅明は目を開いた。

「…………無理だよ、フレディ」

 トビアスはアンネ中心だ。逆らったりしたらどうなると雅明は思う。底知れぬ不安に襲われ、雅明は思わずシーツにしがみついた。いっそ自分がいなくなればフレディは危険な任務につかなくてすむのではないだろうか。

 イヴィハイトや仲間が指摘しているように、フレディにばかり危険な任務が回っている事が雅明は気がかりだった。紛争がやまない危険なところばかり行かされていて、いつ死ぬか、怪我をするか、そればかりが雅明を苦しめる。アンネの自分を求める視線に恐ろしい執着を感じる。もうあの女は自分を決して離さないだろう。

 アンネは雅明の子供が欲しいらしく、何度も何度も求める。トビアスが了承していて遠慮なしだ。近いうちに彼女は妊娠するだろう…………。

 自分に似た子供。それを想像して雅明はぞっとした。こんな奴隷のような人生を子供が歩むのだとしたら……。

「……奴隷の子は奴隷……か。とんでもない話だな」

 そう言った次の瞬間、激痛が頭を襲い、雅明は頭を抱えてベッドで震えた。吐き気が凄まじく吐きたいのに吐けない。雅明は吐くのが大嫌いだった。

「う……く……っ……! なんだっ……あ……」

 脳裏に沢山の男達と、はしばみ色の目の男が笑いながら襲ってくる様子が映し出される。麻薬、注射、無理やりのセックス。狂った目の……フレディ。空白の記憶だ。

「嫌だ……。嫌だ嫌だっ! 止めてくれ!」

 激痛はやがて治まってきたが、胸の痛みが始まった。過呼吸に陥りかけ、雅明は呼吸を調整する。じっと耐えているとやがて胸の痛みも呼吸も治まってきた。

 涙だけが今は止め処なく流れる。拭いもせずに雅明は泣きながら笑った。

「……そうか……。は……はは……」

 雅明はベッドからよろよろと起き上がると、シャワーを浴びて服を着る。そしてコートを羽織ってブーツを履くと、そのまま庭に出て歩き出した……。庭には雅明になついている番犬がいるだけで、彼を引き止める者はいない。雪がちらつく中、庭を歩き、雅明は表玄関へ辿り着いた。

 熱が高く、ぼうっとするのを感じながら雅明は曇り空を眺める。

 もうまもなくボスのトビアスが帰ってくる。チャンスはその時だけだ。雅明は表門の裏側で気長に待った。雅明は組織の人間なので、彼がそこに立っていても誰も不審には思わない。思うとしたら、アンネかフレディだけだろう……───。

 トビアスのベンツが現れ、表門が開いた。車が通過し、閉まる寸前に雅明は滑り込むようにして外に飛び出した。監視カメラで雅明を見て走ってきたフレディと、車の中で雅明を見たトビアスが飛び出てきたのはほぼ同時だった。

「アウグストっ!」

「アウグスト! 戻れっ……」

 外に出た雅明に猛スピードで突っ込んできたボロ車が横付けた。黒いサングラスの正体不明の男達が車の中へ雅明を引きずりこむ。雅明は抵抗せずに鼻に押し当てられた薬を嗅ぎ、ぐったりとした。

 フレディが発砲した。サングラスの男は被弾したが、フレディに発砲し返す。だがすべてはあっという間の出来事で、ボロ車は来た時と同じように走り去った。黒の剣のメンバーがそのボロ車に発砲するが、その時にはもうボロ車は見えなくなっていた。

 トビアスが仲間に叫ぶ。

「追いかけろ! 今すぐ」

 フレディを乗せた車ともう一台が館から飛び出していった。トビアスは思案顔でそのまま雅明の部屋に向かう。ドアを開けて中に入り、机の上に白い便箋があるのを見つけて、それを悲しそうに見つめた。彼の想像通りにこんな言葉が書かれている。

 ”フレディを解放して欲しい。私はこれから死にに行く。貴明には病気で死んだと言って欲しい。──雅明”

 そこへアンネが飛び込んできた。

「アウグストが誘拐されたのは本当なの? なんでしっかり見張っていないのよっ」

「アウグストは自分から出たんだ。もうあきらめろ」

「嫌よ!アウグストは私のものよ! 貴方は言ったわよね? 私が望むものはなんでもくれるって!」

 トビアスは首を振った。

「アウグストは望んで外に出たんだ……。そして死んだ……」

「そんな……っ! うそよっ」

 アンネはわめきたてたが、トビアスは首を振るばかりだ。トビアスは予感していた、いつかこんな日が来る事が……。もう雅明は帰らない。そしてフレディもここへ戻る事はないだろう……。

 わめくアンネを部下にまかせると、トビアスは自分の部屋に入って、後ろをついて来た部下に言った。

「日本の佐藤貴明に電話を……」

 ボロ車は、追跡を吹っ切ると、穏やかなスピードになった。雅明は後部座席で、両脇を二人の男に挟まれながら、ぐったりとして眠っている

 雅明は、深い意識のそこでフレディに謝っていた。

(約束を破ってすまない、フレディ。私はもう駄目なんだ、お前に愛されるチャンスを自ら捨てる……。だけどお前を、お前だけを愛してるよ。死ぬその時まで)

「こいつ泣いてやがる……」

 涙を流す雅明を見て、男の一人が呟いた。

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