清らかな手 第1部 第9話

 トビアスから、雅明の弟の貴明が電話を受けた時、日本では深夜の11時だった。
 雅明が館を飛び出して、再びアレクサンデルに誘拐されたと聞いても、貴明は驚くことも無く、そうか、とだけ言い電話を切った。貴明はいずれこんな日が来るであろうことを予測していた。
「貴明」
 暗闇の中、彼の妻の麻理子が不安そうに、ベッドに横たわる全裸の貴明に声をかけた。だがしばらく貴明は、同じく全裸の麻理子の腰を抱いたまま、目を閉じて微動だにしなかった。
 今夜は吹雪で風が強かったが、部屋の中は暖房の空調システムの音がするだけで、静まり返っている。
 やがて貴明はポツリと言った。
「……トビアスは、やっと雅明を解放したようだな」
「それは良かったですね」
 麻理子はホッとしたように言い、貴明の胸に顔を寄せた。
「同時に雅明は誘拐されたがな。わざとさせたんだろう雅明もトビアスも。おそらく雅明は失っていた空白の間の記憶を取り戻した。だから行動に出た、そういう事だ。」
「またあの組織では?」
「その通り。雅明の命はもう一年もない。だから好きなようにさせてやろう」
 麻理子は起き上がって、ベッド脇のガレのランプを点けた。柔らかな光に照らされた夫は、とても美しいが冷たい感じがする……。
「日本へ帰るようにできる事は……?」
「さあね、雅明が望めば帰ってくるだろう。どんな手を使ってもな。組織を離れ、離して貰えた雅明は自由だ。腕力がなくても頭脳はそのままなようだ、うまくやるだろう」
 悲しそうに麻理子は首を横に振った。
「相手は警察でさえ捕まえられないんですよ? 一度の逮捕だってすぐに刑務所から出てくるような……」
「僕にはわかるよ。雅明の考える事は。日本とドイツ、遠く離れていてもお互いの事はわかる。やっとまたわかるようになった……、へまはしないだろう」
「まさか」
 心配している美しい新妻の唇を、人差し指で貴明は封じた。
「死に場所は自分の望む場所でありたい。死に方も自分の望む様でありたい。命あるものは皆そう望むだろうよ」
「まだ若いのに、死に場所探しだなんて……悲しすぎますそんなの」
 ぽたぽたと落ちる麻理子の涙を手のひらで受け、貴明は微笑んだ。
「僕も悲しい。だけど雅明は絶望していない……、今はね」
「貴明」
 若い夫婦は、雅明のこれからに思いを馳せると静かに抱き合った……。
 頭に鈍く残る痛みを覚えながら、雅明は目覚めた。自分を誘拐した輩の家だろうとゆっくりと頭を回す。白い壁に天井、寝かされているのは大きなサイズのベッドで、茶色のベッドカバーがかけられている。普通の部屋に見えるが、いたるところに隠しカメラが仕掛けられているのが分かった。
 そのカメラで雅明が起きたのを確認した男が、部屋に入って来た。
「お目覚めかね、アウグスト君」
「……あんたが誘拐の主犯か?」
「人聞きが悪いね」
 雅明はベッドから身体を起こした。服は誘拐された時と同じだった。
 ぎしりとベッドの端に腰掛けた男に、雅明は聞いた。
「……あんたの名前は?」
「アレクサンデル・バウムガルト。君が探していた男だよ」
 黙りこくった雅明を、アレクサンデルは不思議そうに覗き込んだ。
「どうしたんだね? 君に麻薬を打ちまくった男だよ? アンネに散々会わせろとせがんでいたと聞いていたんだが。いざとなったら怖気づくのかね?」
「怖いね。人身売買の元締めだろ?」
「はは、また君の身体でもうけさせてもらうよ。それと変な演技は止めたまえ、君はもうここでの記憶が戻っているはずだ、わざと誘拐させた事はわかっている」
「……さすがだね、その通りだ……」
 アレクサンデルの骨ばった手が、猫でも触るように雅明の顎を撫でる。
「相棒君は一緒じゃないのかね? 愛し合っていたんだろう?」
「もう愛していない」
 雅明はそう言いながら、アレクサンデルの指先を口に含んで舐めた。アンネに鍛え上げられたその舌戯に、アレクサンデルの劣情が刺激される。ぴくり、と反応したアレクサンデルは、虹色を帯びて妖しく輝く雅明の茶色の瞳に吸い寄せられるように、雅明をゆっくりと押し倒した。
 服を脱がされながら雅明が続ける。
「私はもう長くない。売るんなら早く売る事だね」
 小さな乳輪をこねまわしながら、アレクサンデルは首を傾げた。
「不思議な男だ。そんなに売られたいのかね?」
「……男が欲しくてたまらないんだよ。そういう病気にかかっちまった、ああ……」
 固くなった小さな先端を舐められて、雅明はよがった。
「身体が細くなったね、でも肌は恐ろしく綺麗だよアウグスト」
「あんたが、変えたんだよ私を。こんなふうに……」
「恨んでいるだろうね?」
「別に……っ……あ……んん」
 感じる胸先を何度も舐められて、雅明は息が荒くなっていく。彼の肉棒はもう立ち上がっていて、それをアレクサンデルはぎゅっと握り、雅明に切ない声をあげさせた。そして、
いきそうになったそれの根元をきつく握り、アレクサンデルはわななく雅明に言った。
「外に行って、磨きがかかった……、なんて素晴らしいんだお前は」
「あ……ふ……っ! お願いだ、焦らすな、イきたい!」
「そんなに簡単にイったらつまらんだろう?」
 アレクサンデルの指は後ろのアヌスを擦った。
 痛みを感じた雅明はそれすらも快感に変えて、アレクサンデルの首に両腕を絡める。耐えられないと首を細かく左右に振り、雅明はアレクサンデルをねだった。
「早くっ……早く早くぅっ!!」
「可愛くなったものだ……」
 含み笑いをしながらアレクサンデルは、サイドテーブルに置いてある媚薬入りのジェルを手に取り、雅明のアヌスにたっぷりと塗りつけた。それは即効性があり、熱い刺激で雅明は背中を反らせる。
「何を……っ」
「長く楽しみたいからね」
 指をぬるぬると入れて、アレクサンデルは雅明の肉棒の根元を押さえたまま、小さな穴を広げていく。そこは何度も男を受け入れ続けているため、柔らかく彼の指を歓待した。これは高値で売れるとアレクサンデルはにやにやしながら、雅明を心行くまま苛んだ。
「ううっ……」
 肉棒の先にアレクサンデルの唇を感じて、雅明は呻く。でも根元は相変わらず強く締め付けられていて射精ができない。アレクサンデルの舌は、彼の弱い裏筋やその先を、執拗に何度も何度も唾液を含ませて舐めしゃぶった。
「あ……ああ……は……ん……あああっ!」
 両手でシーツを握り締め、雅明は高鳴る愉悦に酔っている。女のように美しいのに男なのだ。アレクサンデルはその痴態をじっくりと眺めながら、余裕さえ見せて彼を翻弄する。
「はあっ……は……ぐ……」
「気持ちいいだろうアウグスト。そろそろ本当に限界かな? 君のここもがちがちに固くなっているし」
「ああっ……たの……む、早く……ひいっ」
 アヌスにアレクサンデルの肉棒がやっと挿入され、雅明はさらに身体を波打たせた。太くて熱いそれは、たまらなく彼を痺れさせる。深く飲み込んで離したくないとばかりに、細くなってしまった腰を淫らにうねらせて、雅明はアレクサンデルの動きに応えた。
「もっと……めちゃくちゃに……してくれっ」
「おやおや、危ないプレイがお好みかね?」
「はああっ……いいっ……あ……あっ……たまらないっ」
 アレクサンデルが雅明の両足を肩に乗せ、腰を密着させて左右上下に揺すると、雅明は激しく左右に首を振った。激しい動きにベッドがみしみしとうるさい。
 雅明は何もかも限界に近かった。早くイきたい。早くその瞬間をと。
 アレクサンデルの指がやっと肉棒の根元からはずされ、雅明はやっとイけると思ったが、それは大きな間違いだった。遠慮のないアレクサンデルの手が激しく竿の部分上下に擦ると同時に、腰の動きをさらに激しくさせたのだ。
「あああああっ……! ああ! ああっ! いや! あぐうっ!」
「そらそら、存分に味わいたまえ、一年以上もへたくそな連中で満足できなかったのだろう?」
「そんな……あああっ…………っ! くっ」
「なんと淫らな腰だろうね、穴だろうね……」
 やがて雅明は白濁液を吐き出した。それはアレクサンデルの手を温かく濡らし、彼自身の下腹部を汚していく。
「いけない男だな……、ご主人様を汚した」
 アレクサンデルが腰の動きをゆっくりにすると、達したせいでだらりとしているはずの雅明が、もどかしげに腰を動かした。
「すみません、……ああ……でも……足りない」
 くっくと笑いながら、アレクサンデルが白濁液を人差し指で掬い取り、喘いでいる雅明の口へ突っ込んだ。それを夢中で舐める雅明に、アレクサンデルは褒美のようにまた腰を激しく動かし始めた。指が抜かれると、雅明は熱に浮かされるように喘ぐ。
「いいっ……ああっ……、アレクっ……ああ!」
「ご主人様、だよ」
「……ご、ごしゅ……じん……様っ」
「言えた褒美に、私の後で5人ほど男を寄越してやろう」
「ああ……そんなに……沢山っ」
 薄く見開いたその瞳の美しさに引き寄せられ、アレクサンデルは噛み付くようなキスを雅明にした。そのアレクサンデルに強く抱きつき、雅明はかき回してくるアレクサンデルの舌に、己のそれを絡めては吸い上げてつつき合う。
 獣のようなキスが終わると、アレクサンデルは雅明を貫き続けながら、ベッドの横の電話を手に取り、男達を呼び出した。彼らはカメラ越しにこの様子を見て、やりたくてたまらなくなっているはずだ。
「あっ……あっ……あああーっ…………」
 雅明は細く鳴いて、後ろで達してぐったりとしたが、その肢体は白く妖しく蠢いて、またアレクサンデルを誘惑してくる……。
 アレクサンデルは煙草を咥えると、火をつけた。そして仰向けに横たわっている雅明の肌に手を這わせる。それだけで雅明はビクンビクンと反応する。この美貌と感度なら、一人でかなり稼いでくれるだろう。
「……そうだな、ここで男娼になってもらうか。そのうち高値で誰か強引に買い取るだろうよ。オークションは、身元の洗い出しができないから少々困る」
 ドアがノックされ、男達が入って来た。いずれも目をぎらぎらさせている。アレクサンデルは煙草をくわえたままベッドから離れ、近くのソファに座る。
 たちまち男達が雅明に襲い掛かっていったが、前とは違い、雅明は抵抗もせずに受け入れていった……。
 その夜遅く、ぐったりとしている雅明を抱き上げて、アレクサンデルはバスルームへ入った。唾液と精液と汗まみれの雅明身体を、綺麗に洗い流していく。雅明は大人しく洗われていた。
「お前の恋人のフレディが、なんとかこの館に侵入しようと躍起になっているようだ」
「……遠慮なく叩き潰してくれ。痛めつけてくれてもいい。だけど致命傷は止めておいてやってくれ、まだ彼には利用価値があるから」
「喧嘩でもしたのか?」
「あんな役立たずは嫌いだ。真面目なだけが取り柄で何もできない」
 雅明はアレクサンデルの首に腕を回すと、唇を重ね、暗い声で囁いた。
「世の中金と権力だ。それがない奴にもう魅力は感じない。残り少ない命は私が好きなようにする」
「成る程、俺に寄生するか?」
「そのほうが好き放題できる……。私の身体で儲けさせてやる代わりに贅沢させてくれ」
「どういう贅沢がしたいんだ?」
「……まずは望むままに酒を飲みたい……」
「質素な贅沢だな」
 シャワーの湯を止めると、アレクサンデルは脱衣所へ雅明を抱き上げて運び、バスタオルで包んだ。そしてベッドに戻ると雅明を座らせ、テーブルに置いてあった二つのグラスにウイスキーをなみなみと注ぎ、その一つを雅明に渡して、隣に座った。
「そして他に何を望む?」
「……闇の組織、黒の剣を潰してくれ。そしてアンネを殺して欲しい……出きる限り残忍に」
「かつての仲間と戦うのか?」
「構うものか。あんな組織無くなればいい。私はやつらのせいで人生を棒に振った。できるか? アレクサンデル」
 ぎらつく目を、雅明はアレクサンデルに向ける。アレクサンデルは考えているようだったが、ウイスキーを飲み干すと言った。
「お前が黒の剣の組織のデータを渡したら、信用しよう」
「それは構わない」
「偽物だったら、お前を残忍に殺す」
「構わない、生きていたって仕方ないんだもう……」
 雅明は隣に座っているアレクサンデルにしなだれかかって、その胸に吸い付き猫のように舐める。
「……アンネは妊娠したらしいぞ? お前の子だと言っているそうだ」
 アレクサンデルのその言葉に、雅明は狂ったように笑いだした。
「計画変更だ。生まれる寸前に、腹から赤子をひきずりだして殺してやる……」
「アウグスト、お前……」
 くっくっくと雅明は笑いが止まらない。こんな笑える話があるだろうか。大嫌いな女が呪われている自分の子供を産むなんて。
「あいつは、あの女はっ……。私に懸想して、私を奪うために、私の妻も子供も車でひき殺したんだ……」
「正気かアウグスト? いくらなんでも……というより、結婚していたのか?」
「ああ、していたさ。幼馴染の可愛い女と。結婚して直ぐに男の子が生まれて幸せに暮らしていた。妻は20歳で、子供はまだ1歳にもならない年だったのに……」
「…………」
「そうだ、あの女だ絶対に。あいつは妻と結婚した時から、ちらちら姿を現してた。画家だった私に、親切顔のスポンサーの金持ちを装って……、二人を事故で亡くした時も……ああ、そうだ、なんで気づかなかったんだ私は……。何も知らずにあの女の家に頼りきって、職に就けたかと思えば闇の組織にさらわれて……」
 雅明はぶるぶる震える手で、ウイスキーグラスをテーブルの上に置いた。
「アレクサンデル、私は、あの女を、地獄に突き落としたいんだ! 簡単になんか殺してやるもんか、じわじわと嬲って殺してやる……」
「それでわざと誘拐させたのか?」
「ああ、だから力を貸してくれ」
「…………」
 真剣な雅明のまなざしを受け止めながら、アレクサンデルは目を細めた。アレクサンデルはそう簡単に他人を信用する男ではない。とりあえずは保留という事でその晩は二人とも寝入ったのだった。
 すぐにアレクサンデルは、雅明に金持ちの客をあてがった。やはり好評ですぐに予約を求める好事家たちが殺到した。ここ数日雅明は毎日一人の客を相手にしている。
「どう思う? ハインリヒ、パウル……」
 彼らの視線の先の映像で、雅明がドイツのその筋での男性俳優に抱かれている様子が映し出されている。見目が良い者同士のセックスだったので、アレクサンデルはこの映像を売り出すつもりだった。
「泳がせて見てはいかがでしょうか」
 ハインリヒが言ったが、パウルと呼ばれた銀髪の男が反対した。この男は組織でナンバー2の地位にあり、アレクサンデルの信望があつい。頭がかなり切れるし実行力があり、仲間の扱いにも手馴れている。しかし、裏切り者や敵には容赦なくその残虐さを見せ、凍りつくような美貌から、まるで悪魔のアスタロトのようだとも言われていた。
「自分を廃人寸前に追いやった男に、力を貸すような男でしょうか」
「俺もそう思ったのだが……」
「だが?」
「アウグストが、あのアンネとか言う女を激しく憎んでいる事は事実だろう。あの女の好き勝手ぶりは、黒の剣のメンバー達の間でも評判が悪い」
 椅子に座っていたアレクサンデルは、足を組み替えて腕を組んだ。その目は映像の中の雅明の目を、じっと見ている。
「……アンネとやらを殺すまでは、我々の得になる男だろう。情報を提供させるだけさせて、こちらの秘密は決して明かすな」
「とりあえずは信用されると?」
「ああ、あっちもそこまでこちらに身を委ねるつもりはないだろう」
 映像の中で、雅明は仰向けにされて、俳優のものを挿入されてもだえている。クライマックスのようだった。細い足先が頻繁に震え、緊張し、絶頂が近い事を表している。
「では今回は麻薬は打ちませんか?」
「あいつの頭脳が欲しいからな。どのみちあの女よりか弱い腕力では、大した事はできまいよ。拳銃のトリガーでさえ引けるかどうか……」
「裏切ったら?」
「その時はそれ相応の措置を取らせて貰おう。……居るものだな、煮ようが焼こうが価値がある人間というものは」
「了解しました」
 パウルが映像に視線を戻した時には、雅明は俳優と共に果て、荒い呼吸を抱き合いながら繰り返していた。
 雅明の指示の下、さまざまなデータがパソコンのネット上から引き出された。その手口は巧妙で、彼らの仲間がアクセスしたように見せかけたものである。
 闇の組織での雅明のポジションは、主に情報操作だったため、ハッカーはお手の物で朝飯前の作業だった。次から次へと現れる画面に、アレクサンデルの組織のメンバーはびっくりしている。男娼だと思っていた雅明は、優れたスパイだったのだ。
 データを出し終えると、男達に雅明は言った。
「月に一回パスワードが変更になる。だから侵入が可能なのはあと3日だ」
「新しいパスワードは探れないか?」
 アレクサンデルの問いに、雅明は頭を傾げたが、やがて言った。
「暗号解読に1週間はかかる。だけど、今のようなやりかたでできないから、ハッキングがばれる」
「なに、ばれても構わん。あせらせるのが目的だ」
「それならばいい」
 立ち上がろうとした雅明はふらつき、アレクサンデルがその胸に抱きこんだ。身体はかなり熱があり、気だるげに雅明は言った。
「……すまないが、こういう作業をした日は、必ず熱が出て使い物にならない……」
「そうか、わかった。しばらく客をとるのはよそう」
 そのまま雅明を抱き上げたアレクサンデルを、パウルが止めた。
「俺が部屋に連れて行きましょう。ボスはまだ仕事がおありですから」
「そうだな、任せる」
 
 廊下へ出ると、パウルはそのまま雅明に新しく割り当てられた部屋へ向かって歩き出した。外は相変わらず雪が降っていて、妙に廊下は明るかった。屋敷中暖房が入っているのに、雅明は震えている。
 雅明の新しい部屋は、あの監禁されていた部屋のように、監視カメラは設置されていなかった。相手をさせた客から雅明が聞き出した情報は正確で、信頼を勝ち得たからだ。だが、どこかで監視はされているだろうと雅明は思っている。そんなに彼らが甘いはずは無いのだ……。
「薬を飲むか? 風邪だろう」
「いらん、効かない……」
 ベッドでぐったりとして、雅明は目を閉じた。
「今から熱を出していたら、黒の剣を滅ぼす前にくたばるぞ」
「…………そうかもな」
 パウルは椅子を持ってきて、ベッドで寝ている雅明の隣で腰掛けた。雅明は目を閉じたままパウルに言った。
「今は無理だ。抱かれても反応できない」
「だろうな」
「じゃあなんだ? 仕事あるんだろ……」
 雅明は唇に熱を感じて驚いた。パウルがキスしてきたのだ。
「だから、駄目だって……」
「すこし……な」
 雅明は好きにしろと思いながら、目を再び閉じたが、次の瞬間戦慄した。胸に感じる固く冷たいもの。かちりと音がした。
「何の真似だ?」
「俺はお前を信用していない。お前がアンネとやらを憎んでいても、他の奴らを憎んでいるようには見えん」
「……殺したら、金が儲けられないぞ?」
「お前の代わりなど沢山いる」
 熱で火照っている手で、自分に覆いかぶさっているパウルを抱き寄せると、さらに胸につけられている拳銃は押し込まれた。笑いながら雅明は言う。
「佐藤貴明を憎んでいる奴は沢山居る。大好きな奴もだ。大抵が大金を持ってて、金を動かせる連中だ。そいつらから情報を聞き出すのはお手のものだよ私は」
「お前……」
「稼げるよ、私の身体と頭脳はね。ただ、使用期間が短すぎるのが難点だけど……」
 辛くなったのか雅明は力を抜いて、パウルの背中に回していた両手を解き、シーツに投げ出した。
 
「お前の考えている事は、本当は何だ?」
 パウルは拳銃をしまった。雅明は答えない、疲れ切っているのだろう、そのまま何も答えないまま雅明は眠ってしまったようだった。
 パウルは眠る雅明に再度口付けて、自嘲する。自分もこの男に魅入られかけていると……。

Posted by 斉藤杏奈