清らかな手 第2部 第06話
雅明の一周忌はあっという間に過ぎてしまった。
昨日までは法要で屋敷中が慌しかったが、終わった今日はいつものように穏やかな朝だ。まだ朝早くあたりが薄暗い中、フレディは雅明の墓である花壇の前に座り込んでいた。
花壇には咲き遅れのコスモスがあり、朝陽と一緒につぼみを開こうとしている。このような毎日がここに訪れたらいいと思い、フレディは自然に微笑みがらコスモスを一本手折ると、その花弁に口付けた。
「……お前はいつだって傍にいると言っていたな」
自らの死後、たった一人残されるフレディを心配していた雅明。確かに雅明が危惧した様に自分は強くは無い。僅かながら持っていたプライドは、高野と貴明に粉々にされてしまった。
生きていて欲しいと雅明は望んだという。高野の脚色が入った話だが、程度の差はあれ雅明はフレディに死を望んだりはしなかったと思う。
「ひどい奴だよお前は。自分を俺に刻み付けて逝ってしまったくせに、それでも生きろと他の人間の口を通して言うんだから……」
フレディはコスモスを持ったままふらりと立ち上がり、屋敷の中へ入った。
早朝勤務のメイドたちがそこかしこで働いている中、裏口へ向かう。フレディは屋敷を出ようとしていた。しかし、裏門から外へ出ようという時に守衛の声がかかった。
「ミッドガルドさん、どちらへ?」
「…………」
適当な事を言ってごまかせば良いものを、フレディは何も頭に浮かばず、ただにっこり笑って裏門を通り過ぎようとした。すると慌てて守衛が出てきてフレディを引き止める。
「お待ち下さいっ。今、高野さんを呼びますから」
「高野?」
秘書課の高野は、いつでも社長の貴明の呼び出しに応じられるようにと屋敷の一室で生活している。今一番聞きたくない名前だった。
「俺はもうあいつの部下じゃない」
「お願いですからお待ちくださいっ。おいお前っ、早く高野秘書を呼べっ」
守衛室の中に居たもう一人が慌てて電話を手に取った。フレディは馬鹿馬鹿しいと思いそのまま振り切ろうとしたが、必死にその守衛が抱きついて来た為、それを引き剥がそうと揉みあっているうちに高野がやって来た。
「困りますよフレディ、勝手をされては。さ、早く戻りましょう」
高野に左腕を強く引かれてフレディは抗い、反動で持っていたコスモスを落としてしまった。
「戻る? 俺の家はここじゃない」
高野の右眉が上がった。
「貴方の家はここ以外ないでしょう?」
「ドイツに家がある」
「馬鹿言わないでください。貴方はドイツに帰ったら……」
「黙れ」
フレディはしつこい高野を睨みつけたが、全く効果はなかった。高野はまるで子供を諭すようにフレディに言った。
「ドイツに帰るにはパスポートが必要でしょう。そんな手ぶらで飛行機に乗れるはずもない。とにかくこちらへ」
高野が目配せし、フレディを引き止めていた守衛が右腕を掴んだ。二人は嫌がるフレディを強引に引っ張っていく。ごねても2対1ではどうしようもなく、フレディは従業員達の不思議そうな視線を浴びながら、早朝の廊下を歩く羽目になった。
押し込まれたのは忌まわしい記憶が残る、社長の貴明の私室だった。貴明はもう起きていて朝食を摂っている。その隣で妻の麻理子が給仕をしていた。
「……おはようフレディ。どこへ行こうとしていたんだ?」
箸を置いて貴明がにこりと笑う。今日もすがすがしい笑顔でフレディは無性に腹が立った。
「契約期限は切れた。機密漏えいは濡れ衣だ。どこへ行こうが俺の勝手だ。」
「ふーん。どこへ?」
「貴方には関係ない。もう俺を縛り付けないでくれ!」
「縛っているつもりはない。護っているつもりはあるが……」
貴明の目配せを受けた麻理子が、静かに部屋を出て行った。
「そこへ座れ。同席を許す」
乱暴に椅子を引き、どっかとフレディは腰をかけた。そして腕を組んで貴明をじっと睨みつける。貴明が困ったように笑った。
「そう朝から睨むな。雅明にもそうだったのか?」
「貴方には関係ない」
「確かにそうだな、男に熱く見つめられると気持ちが悪い。僕には麻理子だけで十分だ」
「…………」
貴明をそのまま睨んでいると、ひらりと一枚の書類を突き出された。書かれているのはドイツ語だった。
「読め」
フレディは一体なんだと思いながらその書類を手に取った。それはなんの変哲も無い文章が連ねてあるだけだったが、次の一文でフレディの身体の内部は熱く沸騰した。
”新黒の剣のトビアスが、9月17日に来日する”
「これは……」
怒り、恨み、戦意、悲しみ、絶望、後悔、焦燥、さまざまな思いがフレディの心の中を交差する。
「何の目的で来るのかは知らないが、まあ良い事を企んでいるわけではないと思うよ……」
「こんな事を俺に知らせてどうする」
「別に。ただ、お前には無関係の存在ではないから知らせてやろうと思っただけだ」
試されていると思い、フレディはその馬鹿さ加減に笑った。
「……俺にどうしろっていうんだ。奴をどうしようがアウグストは戻って来ないというのに」
手にしていた書類をひらりと机の上に捨て、フレディは力なく首を横に振る。だがそれも一瞬で、すぐに顔を上げて貴明を改めて睨みつけた。
「こいつを殺してアウグストが俺の胸に戻るのなら、すぐさま行動に移す。だがそれはありえないだろう?」
「フレディ」
握り締めた拳に爪がのめり込む。
「俺は、貴方の幸せを見るたびにアウグストの不幸を思い出す」
「…………」
「俺が今一番殺してやりたいのはトビアスじゃない、佐藤貴明だ」
凄まじい殺気をまともに浴びせたのに、貴明の美しい顔は堂々としたもので怯えも警戒も無かった。
「……命が大事なら、さっさとここから放り出してくれ」
脅しさえも通用しないとは、自分は本当の役立たずだとフレディは自らを内心であざ笑うしかない。早く部屋から出て行きたくなり、椅子から立ち上がった。
「フレディ」
「高野に聞いた。機密漏えいは全てそちらが仕組んだ事だと。俺を買ってくれるのはありがたいが、俺は今、貴方を殺す事意外何もする気が起きない。ボディーガード達の危惧を少しはまともに聞いたほうがいいですよ。俺はアウグストを愛しているが、貴方は大嫌いだ」
右斜め後ろからの視線が痛いが、どうとでもなれとフレディは開き直った。どうせこの二人は自分の言う事などほとんど聞いてくれない。
それを証拠に、返ってきたのは貴明のにやりと笑う顔だ。
「光栄だね。殺されるほど憎まれたほうが僕の価値も上がるものさ」
フレディは、力任せに重い木のテーブルを横にひっくり返した。上に載っていたティーセットが無残に床に叩きつけられて砕け散り、飾られていた花瓶の薔薇の花と水が床に溢れ返った。
「ふざけるな。俺はお前の娯楽など提供しているつもりは無いっ!」
「僕もそうだけど。それより高野が怖い顔をしているよ?」
貴明の長い足が優美に組まれた。それは明らかにフレディを挑発しており、さらに頭に血が上ったフレディは貴明にそのまま掴みかかった。しかし、それよりも早く高野の両腕が素早く羽交い絞めにする。
「くそっ……、犬めっ!」
犬呼ばわりされた高野は苦笑した。
「社長。彼は貴方には靡きませんよ」
高野の腕はすぐに緩み、その手がフレディの顎から首筋をするりと撫でた。それはまるで猫を撫でる飼い主のような撫で方で、止めさせようとして後ろを向いた瞬間に腹部に痛烈な拳が入った。
「がっ……あ……」
胃液が逆流し、嘔吐感にフレディは顔を歪める。気を失いかけたがそのまま倒れる事は許されず、長い髪を馬の手綱のように引っ張られて立たされた。
「お前に靡いているようにも見えないが、しつけはうまくいっているようだ」
「身体の方は……と付け加えますが」
ふざけるなと言おうとした口に、高野の指が口腔の奥深くに突っ込まれる。噛み千切りたかったが、収まりかけた吐き気が喉元までまたせり上がり、指を噛む事はできない。そして最悪な事に今度は鳩尾に熱い衝撃が来て、フレディは高野の胸の中で気を失った。これを許したのは二度目だ。
「よくそいつをそこまで意のままにできるものだ……。数日前とは別人に見える。でも僕はここまでしろとは言ってはいないよ。素直にさせろとは言ったけどね」
肘掛に頬杖を突いた貴明が、感心とも呆れともとれるような口ぶりで言った。
「弱点を突けば誰でも可能です」
「まあ、これでそいつを危険視するボディーガード達が何も言わなくなるなら万々歳だ。お前が御せるなら誰も不満を言わないだろう」
高野が横抱きにしたフレディを、貴明が覗き込む。
「……しかし、幻の男娼の恋人ってだけで五千万円か」
「トビアスも悪くなりましたね。アレクサンデルの人身売買ルートをそのままそっくり乗っ取るとは」
「こいつの価値は見てくれではない……」
フレディの頬を貴明の指がゆっくりと撫でていく。その頬は一年前に比べるとやつれきっていたが、それでも彼の魅力は損なわれてはいない。
「とにかく当分外に出すな。即誘拐されて販売される」
フレディの事をスーパーに並ぶ大根や人参の様に言う貴明に、高野は怒りを通り越して呆れた。先ほどの書類はトビアスに関する情報のほんの一部で、わざわざ貴明がピックアップしたものだった。
「では何故書類を見せたりしたんです? 余計に飛び出したくなるでしょう」
「もうトビアスの事はどっかに飛んでるだろ? さっきあれだけの殺気を僕に向けてきたんだからな。こいつに必要なのは生きる糧だ」
「我々の仕事が増えるだけじゃないですか」
「仕方ないだろ、雅明がこいつを殺さないで欲しいと願ったんだから」
指を離すと、貴明は散らかっている部屋を見回して盛大にため息をついた。
「それよりこっちの方が問題だ。麻理子のお気に入りの花瓶とティーセットがぐっちゃぐちゃだ。……これじゃ当分夜はおあずけになりそう。どうしてくれるんだよ」
「自業自得です」
愛妻の事になるといきなり気弱になる上司をバッサリと切り、高野は気を失ったままのフレディを抱いて部屋を出た。もう朝陽はすっかり昇っていて廊下は明るく、人々はいつもの生活を始めようとしていた。