清らかな手 第2部 第08話
翌日、フレディはぐっすりと眠り込んでいる高野の腕の中で目覚めた。高野の腕はやわらかな枕と一緒に沈んでいたが、とても固く引き締まっているのを感じる。自分とは比較にならないほど鍛え上げられているのだろう。
腕を外しても高野は目覚めない。その顔はいつもよりあどけなく見え、フレディは思わず微笑を浮かべてしまった。
「……休みか? もし出勤なら大遅刻だな」
フレディは小さくつぶやき、裸のままベッドを出てバスルームに入った。冷たいタイルの上を歩いてバスの栓をし、高めの湯を設定して蛇口を捻る。最初のうちは冷たい水だったがすぐに熱い湯がバスに流れ込んでいく。
日本へ来てから一番驚いたのがこれで、毎日バスに湯を張るというのがとてもフレディには贅沢な事だった。おまけに日本の水はとても軟らかく肌に優しい。雅明と二人でこの贅沢を満喫した事を、なぜか今頃思い出した。
湯が溜まっていないバスに入り、フレディは蛇口から流れ込んでいる湯をぼんやりと見つめた。湯気をもうもうと出し、激しい水しぶきを散らせながら流こむ湯は、昨日の高野の心の様だった。
『愛しています、フレディ』
自分はあんな激しさで雅明を抱いただろうか……。
おかしな事に最近雅明の体温を思い出せなくなった。つい先週までは昨日の事のように思い出せたのに、高野の嵐のような愛撫のせいでわからなくなってしまった。今思い出すのは高野の熱さと激しさばかりだ。高野の行動にフレディは心も身体も振り回されている。社長の貴明に殺意を抱く羽目になったり、男に抱かれて至福を感じるなどどうかしている。
やがて湯はバスから溢れ、フレディは蛇口を閉めた……。
その日の夕方、社長室で貴明の手自らフレディの前に突き出されたのは、新たな雇用契約書だった。
「また俺に犬になれと? 殺したいと言った俺を身近に置くなんてどうかしているのでは?」
「今僕から離れると、お前は犬どころか奴隷だよ」
「?」
「……何を不思議そうな顔をしている。昨日ずっとトビアスの事を調べていたくせにどこを見ていた?」
「あんた達が知っている通りだが」
盛大なため息をついた貴明が、数枚の写真を机の上にぶちまけた。いずれも西洋人の男が映っている。
「お前が昨日見ていた画像だ。……で、どれが本物のトビアスだ? お前やっぱりこいつを殺したいから調べていたんじゃないのか?」
「…………」
フレディは黙って首を横に振る。
「まあいい、それでどれが本物だ?」
「知らない。わからないから調べていた」
「お前でもどれが本物かわからないのか」
貴明はがっかりしたようだった。だがそんな事はフレディには知った事ではない。それでもフレディはぽつりと言った。
「……アウグストなら知っていたかもしれない」
「何故?」
一枚一枚並べながら貴明が聞く。並べ終わると机の上で両手を組んだ。
「アンネと寝る時だけ素顔をさらすと聞いた事がある。……妻のアンネとアウグストと三人で寝る時、さらしていた可能性は高い」
フレディは一枚の写真を取り上げた。それは、黒の組織を抜ける時に見たトビアスだった。この男は、雅明を売ったくせにさも心配そうにしていた憎むべき男だ。しかし闇の組織の人間とはそういうものだ。部下に愛情を抱くほうがおかしいのかもしれない。
「死んだ人間しか知らないのか」
貴明が残念そうに言い、フレディはその写真を元の位置に置いた。
「影を使うとも聞いた事がある。トビアスはアンネの実家をとても恐れていた」
「ふーん」
結局のところ黒の剣でのフレディのポジションは、日本のやくざで言う鉄砲玉のようなもので消耗品だった。ミッションに失敗して死んだら補充するという様な……。
「それより、なんでまた改めて雇用契約なんてものを勧めてくる? 言っちゃ悪いがこんな紙切れで人を縛れると本気で思ってるのか」
「会社なんだから書類は必要だ。監督署の調査に引っかかるし」
おどけた言い方がフレディの癇に障る。破り裂いてやろうかと書類に手を伸ばした時、貴明の口調が変わった。
「……お前が僕の隣に引っ付いてたら、トビアスが釣りやすい」
「釣れるわけがない」
「釣れるさ。トビアスはお前を欲しがっている」
「何?」
目を大きくさせたフレディに、貴明が鷹のような鋭い視線を放つ。
「あいつは組織拡大を目論んでいる。ドイツからアメリカ、そして今日本だ」
「まさか」
「冗談ではないよ。日本の闇社会でうちみたいな大企業に目をつけてる奴がいる。でも僕はもう他のとこと組んでる。なんとかしてうちの利益を頂戴したい奴が、トビアスと手を組むわけだよ。ライバル企業がそそのかしている場合もある」
「やくざ者など、この屋敷で見た事ありませんが」
くすくす貴明が笑った。
「当たり前だろ。何人もの人間、何社もの会社を通してだよ。直接だなんてやってる馬鹿がいるか」
「なんで闇と繋がる必要がある?」
「お前が言うか。表だけで生きていけないのはよく知ってるだろ」
「危険すぎると考えませんか」
フレディはなんだか心配になってきた。闇の世界にどっぷり浸かっていた自分には貴明が危なっかしく見える。日本は島国だ。その狭い世界で生きている貴明は大陸の真の闇を知らないのではないか。
佐藤グループは大企業だ。ただし……日本では、だ。雇用契約書にじっと視線を落としたままになったフレディに、貴明が言った。
「……フレディ、お前は本当に優しすぎるね。殺したいほど大嫌いな僕を心配してどうする?」
はっと顔を上げたフレディの目に、雅明そっくりの微笑を浮かべる貴明の顔が飛び込んできた。別人のものだとわかっていても、一瞬でフレディはその顔の虜になる。その気ぶるような儚げな、それでいて懐かしさに満ちているその微笑は、貴明が初めてフレディに向けるものだった。
「なあフレディ。闇の組織は死なないと抜けられないのが常識だろ。お前は一般人になりたいんだろうけどそれは無理だ。一番お前がよくわかっているはずだ」
「ええ……」
「そのお前が今ここから抜けた所で、闇の奴らはお前を放っては置かない。この佐藤グループの心臓部分に居たお前を、骨までしゃぶって利用しようとする奴らはうじゃうじゃ居るんだ。現にお前に五千万の値段がついてる。つけたのはトビアスだ。幻の男娼の恋人などと銘打っているが、それは表向きだ。奴が欲しいのは、金と権力がうなっている佐藤グループの内部の秘密のはずだ。あいつは麻薬にも手を出してる……、日本は今一番魅力的な市場だそうだよ。闇の組織から大企業へ、つながりのある政治家へ、そして日本全国へ広げていく算段だろう」
貴明が、俯いているフレディの顔を覗き込んでくる。
「僕は正直、お前が自殺するのを止める気は最初はなかった。僕だって最愛の者が居なくなったら生きていたくなどないからね」
「それは……」
「僕は経営者としては失格だろう。麻理子が居なければ、佐藤グループには何の価値もないと思っている。成功を捧げる相手が居ないほど虚しい事はない。あの柔らかな膝に勝る王座はないよ」
フレディは戸惑った。貴明は自分の最大の弱点をわざとさらけ出している。しかし弱点をさらけ出しながら、貴明はそれを武器にしてフレディを威嚇する。椅子から立ち上がった貴明がフレディの前まで歩いてきて、その両肩に手を置いた。
「雅明の望みはお前が生きる事だ。自分を忘れ去って、他の人間を愛するお前になろうと、雅明はお前に生きて欲しいと望んでいた。だから自殺を止めた」
「だから、それは……」
貴明と高野の勝手だと言いたいフレディを、貴明が両手を離して柔らかく制した。そしてなんと深々と頭を下げた。
「濡れ衣を着せた事は謝罪する」
頭を下げた貴明に冷たい闇を感じる。やがてゆっくりと顔をあげた貴明は、微笑んではいたが目は笑っていなかった。
「別に許して欲しいなどとは爪の先ほども思っちゃいないよ……ひどい事をしたからね。だからこそお前は僕を憎む権利があるし、殺す権利もある」
「その私に、ボディーガード筆頭になれと?」
「ああ」
「トビアスを釣る餌として俺を利用するんだな」
困ったようにわずかに顔を傾けた貴明に、フレディは指に摘んだ雇用契約書をひらひらさせた。
「それは否定しない。だがお前も奴を地獄に放り込みたいだろう? 僕を殺すのはその後でもぜんぜん遅くない筈だ。それに佐藤グループならお前を魔の手から護る事が可能だ」
「それは確かだ」
フレディは心の中で両手をあげて降参する。先日高野を犬呼ばわりしたが、自分も結局この貴明の前では犬にならざるを得ない。フレディはどうしたって山の裾から中腹までしかいけない凡人だが、貴明は遥か上の頂上付近で自分達を見下ろす王者なのだ……。
雅明と同じ弱さを垣間見せた貴明の術に、酔ってしまったという自覚はあったが、フレディはずっと酔ってやってもよいかと思った。投げやりな思いからではなく、それはスパイをしてきた経験から来る勘のようなものだ。この男はおそらく勝ち続ける事が出来る。
殺してやりたいぐらい大嫌いな男だが、それでも手を貸す価値はある。
「ペンを……」
フレディが言うと、貴明が机の引き出しから彼愛用の黒い万年筆を出した。フレディは万年筆を受け取ると、さらさらと雇用契約書にサインをする。表向きは第二秘書だが、本当は外出時の貴明から決して離れないボディーガード。
雇用契約書をフレディが差し出すと、貴明は神妙な顔で受け取った。そして右手が差し出された。
「僕に隙があったらいつでも挑んできていいよ」
「おかしな社長だ。ボディーガードにそんな事言うなんて」
鼻で笑い、それでもフレディは右手でその貴明と握手をした。貴明の手は、雅明とは違うしっかりとした厚みのある男らしい手だった。