清らかな手 第2部 第11話
目隠しをされて視界は真っ暗で何も見えない。
車に乗せられて数時間が過ぎていると思われたが、まだ目的地には着かないようだ。フレディは車の後部座席に男二人に挟まれて座っていた。トビアスはこの車には乗っていない。男達は一言も話さない。
フレディはわざと自分を誘拐させた。これは貴明のボディーガード兼秘書になった時から決めいていたことで、計画通りだ。社長の貴明は優秀な人材であるフレディを惹きつけるためにわざとトビアスをチラつかせただけで、実のところ積極的には関わりたくなかったようだが、フレディは違う。トビアスは恋人だった雅明の仇なのだ。
殺すのが一番の復讐だが、そうでなくともトビアスに一矢報いたい。しかし闇の組織である黒の剣の内部に、組織を抜けた自分が立ち入る事などとても出来ない。もう一度トビアスの懐に飛び込むには、自分を囮にする事が一番手っ取り早かった。幸いトビアスはフレディで一儲けしようと企んでいる。
それなのに高野が猛反対した。
雅明は復讐など望んではいないと高野は言い切った。だがそれはフレディにしてみればお笑い種な言葉だ。
脳裏に雅明の顔が浮かぶ。それは最晩年の彼で、怒りと悲しみに耐えるような、無力な自分に絶望しているものだった。
『……私は貴明と違ってこんなにも無力だ。あいつの力の半分もあったなら……っ』
ある夜、雅明がうなされながらこう叫んだ時、フレディはびっくりした。フレディと居る時はいつも穏やかに微笑んでいるだけの男が、夢の中で突然感情を露にしたのだから。
『あいつさえ地獄に突き落とせたら! それなのに私は何も出来ない……ああ』
眠りながら泣き、雅明は自分を抱きしめていた。フレディはそんな恋人の背中を黙って撫でてやり、何も聞かなかった事にしようと決めたのを覚えている。
(アウグスト。俺が、お前の家族とお前の仇を取ってやる)
その為には死んでも構わない。もともと死のうと思っていたのだから。でもその一方で高野の顔が浮かびフレディを牽制して来る。
『それならば止めません。でも忘れないでください、貴方に生きて欲しいと思う人間が幾人も居る事を』
「………………」
フレディは後ろ手に縛られている拳をぎゅっと握った。
やがて車が止まり、フレディは車の外に出された。地下ではないようで木々を通り抜ける風の音がする。目隠しを取られたフレディは目に飛び込んできた風景を見て、僅かに動揺した。
昨日自分を舐めるように見ていた新田が、にこにこ笑って立っている。その横に黒髪の青年が控えめにフレディを見つめていた。
「……こんにちはミッドガルド君。私の別荘へようこそ」
「別荘……?」
見渡す限り山で、車を停めた場所から北へ向かって白樺の木立が広がっている。遥か向こうにレンガ色の洋館が建っているのが見えた。フレディを挟んで立っていた男達は、新田と青年にその場所を譲り、フレディは新田にうながされ別荘に向かって歩く事になった。
「手荒なまねをしてすまなかったね。だけど普通に呼んだくらいでは来てくれないだろう?」
「…………」
新田からどこかで嗅いだ事のあるコロンの匂いがした。だがどこでだったか思い出せない。そのままどんどん歩かされ、別荘の中に入った。
「ミッドガルド君の為に買ったんだよ、ここは」
内部は木造で木の壁がどこまでも広がっている。新築のようで木の香りがさわやかだった。青年がつきあたりから二つ目の部屋のドアを開け、新田がフレディに言った。
「そしてここが君の部屋だ」
部屋の中は白い壁紙が貼られており、カーテンや隅に置かれているベッドの色は深緑色で統一されていた。テーブルや椅子は全て木製で、金がかかっているんだろうなとぼんやりフレディは思った。誘拐ではなく普通の旅行で訪れたのなら、快適な空間でくつろげそうだが……。
「窓から外を見てご覧。絶景だよ」
連れられるままに窓際に立ったフレディは瞠目した。
絶景も絶景で窓の外は湖に面した絶壁だった。バルコニーがないのも当然で、なぜこんな危険な場所に別荘を建てたのかフレディには理解できない。山の中の湖に面した別荘。窓から見渡す景色は一面山に囲まれている。陸の孤島のようだとフレディは思った。
男達は新田と青年とフレディを部屋に残して出て行き、ドアが閉まる音がした。
「かけなさい。ミッドガルド君」
「……」
革張りのソファを示され、フレディは二人がけのソファの端に座った。しかし新田はフレディのすぐ隣に座り腰に手を回してくる。昨日高野にもされていた事だが、フレディは高野にはおぼえなかった吐き気をもよおしかけた。
青年がまだ昼だというのに洋酒の瓶とグラスを載せたトレイをテーブルの上に置き、部屋の隅に静かに立った。地味な色合いの質素な服を青年は着ていたが、切れ長の一重の瞳から隠し様の無い高貴さが漂っていて、人としては極上の部類といえた。おおよそ新田と居るような人間ではない。
(使用人では無いだろう……、一体なんだ彼は?)
じっと青年を見つめているフレディに、新田がグラスを近づけた。
「少しはいけるんだろう?」
「いえ」
フレディは僅かに顔をしかめたが、新田はそれには気づかないようだ。
「それは残念だ。まあ手を縛られていたら飲めないか」
新田は縄を解く気は無いらしいが、今のフレディにはそんな事はどうでもいい。
「……トビアスとはどんな関係ですか?」
一瞬、酒を飲もうとした新田の手が止まった。
「知り合いかね?」
「ええ。もと上司です」
はははと愉快そうに新田が笑った。何が可笑しいのかフレディにはさっぱりわからない。この男はフレディ・ミッドガルドがどういう人間か知らずに誘拐したのだろうか。まさか本当に自分の身体だけを目当てにしている事はあるまいに……。
「元スパイにしてはずいぶん間抜けな事だね。黙っていれば死なずにすんだかもしれないのに」
「死ぬ?」
「組織を抜けたものは死あるのみ。裏切ったのならなおさらだろう」
「……裏切ったのはトビアスだ。それにあんたに俺を制裁する権利など無い」
「まあそうだね」
フレディと雅明に遂行されもしない任務を与え、アレクサンデルに売ったのはトビアスだ。二人は売られたと気づかないままアレクサンデルの組織に拉致され、雅明は麻薬を打たれ続け若い命を散らす羽目になった。
新田はグラスをゆっくりと回した。
「上の地位に居る者の言う事を聞くのは当たり前だろう。そうでなければ組織など成り立たない」
ぐいと頤をつかまれ、じっと見つめてくる新田をフレディは睨んだ。
「あんたはあの男が化け物だって知っているのか」
「さあね」
「どうしてあんな男と契約した。俺の事をなんと言われた? 佐藤グループの何が欲しい、俺は……」
唐突に肩を押され、視界が新田から天井のシャンデリアに変わった。しかしすぐに新田の照明の影になった顔が覆いかぶさってくる。
「ごちゃごちゃうるさい男だね。私はどうでもいいんだよ、佐藤グループなんてね」
「それなら……」
妙に湿った大きな手で髪を撫でられ、身体が腐っていく心地がする。
「私が欲しいのは君だよ。まあ……、一ヶ月君を飼えば六千万の融資を受け取れる事になっているがね」
「六千万?」
自分を飼う? フレディは納得がいかない。
「別に私は佐藤グループをどうこうしようなんて思っちゃいない。ただ君が欲しくてトビアスと契約しただけだ。やくざを相手にするようなものだよ」
口付けをされそうになり、フレディは自由な足で新田の腹を蹴り上げ、ソファから飛びずさった。
「痛いねえ……。まあそれぐらいでないと楽しくも無いよ」
蹴られた腹を新田はゆっくりと撫でて立ち上がった。そして優美に微笑む。初老に差し掛かっていても、新田は女なら誰しも虜になる色男ぶりなのだが、フレディにはそんなものは通用しない。気持ちが悪いだけだ。
「あんたと寝る気はない」
「私は君をものにしたい。銀の手錠で動けなくして、その艶かしい肌を心ゆくまで愛してあげたいよ。君のセックスがネットで配信されていてね……、見た時から君が欲しかったのさ」
高野と同じ事を言う新田に、フレディはこの先もこの手の男が現れるのかと不安を僅かに抱いた。トビアスが配信を止めない限り、今も世界中のそこかしこで過去の自分の痴態を見られている。
「男より女の方がいいに決まってる」
「世の中男にしか欲を感じない男も多いのだよ。私のように」
紅梅会の時に感じた不気味さは、自分に欲を感じていたからだとはっきりと知り、フレディはさらに後ずさった。後ろ手に括られている上丸腰の今は、周りにあるものを投げつけるか、蹴るか、体当たりぐらいしか出来ない。そんなフレディに新田がゆっくりと近づいてくる。
「私は商売男は嫌いでね。君のような素人を蕩かせるのに興を覚えるたちなんだ」
「素人が自分のセックスを配信するわけ無いだろう」
「あれ一本しかないのに玄人ぶるかね。もう一方の銀髪は大した男娼だったらしいね……、その弟があの佐藤貴明とは驚きだが」
「金髪の男なんか他にも居るだろうっ」
フレディが叫ぶと、新田はにやりと笑った。
「私の最近の嗜好をご存知とは。くく。それほど君の映像は魅力的だったのだよ」
今逃げるわけにはいかない、この男は確かにトビアスに繋がっているのだから。窓際に追い詰められたフレディは、観念したように肩を落とした。
「どうしたんだね? もう逃げないのかね」
獲物を追い詰めた獣のように、目をぎらぎらさせた新田が歩み寄ってくる。
「どうしてトビアスがいない?」
「彼にそんなに会いたいのかね? 心配しなくても一ヶ月も経てば会えるさ」
「一ヶ月……」
予想より長すぎる、どうしたらもっと早くおびき出せるだろう。今のフレディを支えているのはトビアスへの復讐だ。それができるのならどんな事でも耐えてみせる。
「君をお偉方専門の男娼にしたいそうだよ。今日から私が君のご主人様として、君に様々な手ほどきをする事になっている」
新田の手がフレディのネクタイに伸び、するりと解かれた。同時に背後から青年がフレディに抱きつき、いきなり胸と陰部を服の上から弄った。
「…………っ!」
気配もなく忍び寄られ、フレディの身体は緊張すると同時に、青年の的確を極めた愛撫によろめいた。
「幹夫様、服は邪魔ではないですか?」
突然人形が動いて話し出した錯覚を受ける。フレディより数センチ身長が高いだけの青年の声は、まだ少年を抜けきってはいなかった。
「確かに邪魔だが場所が悪いな。ベッドへ行こう」
「かしこまりました」
フレディは青年に横抱きにされ、部屋の隅にある大きなベッドへ運ばれていく。確実に近づいてくる陵辱の前で、フレディは自問していた。
(……俺の身体などとうの昔に穢れきっている。それなのに俺は何故抵抗したんだ)
その答えは、青年に深緑色のシーツの上へ寝転がされた時に出た。フレディはそんな自分を泣きたい気持ちで嘲笑った。仰向けになった時に覗き込む顔がいつもと違う。
(どうして……)
いつの間にか自分は、高野に抱かれるのが当たり前だと思うようになっていた……。
(馬鹿だ俺は。こんな時に)
フレディの考えに猛反対した高野の顔が頭から離れない。二人の男の手が服を脱がしながら自分の身体を弄ってくる。違う、違う、この手ではない……。
(俺が欲しいのは、もうあいつになってしまっていたのか)
新田が唇に吸い付いてきた。