清らかな手 第2部 第14話

 甘いりんごの味も、ぶっ掛けられた泥水の味もきちんとわかっていたし、暖かで美しい布の手触りや、厩舎の鼻が曲がるような臭いも五感は正常に判断していた……、風呂に入れなかった自分の臭さを除いて。

 しかし、それに対して感情が動く事はなかった。元々フレディは、感情の無いロボットのような人間だった。常に凍りついた冷たい目をして笑いもせず泣きもしなかった彼は、人には必ずあるはずの感情というものが完全に欠落していた。

 満たされなければ動かない、心の動力源である”愛情”というものを彼が知らなかったからだ。フレディが愛を覚えたのは過去二人だけだった。

『ああ嫌、あの子の青い目はあの下品な商売女のよう』

 自分を見るとヒステリック面罵する、化粧の濃い美しい女。

『兄さんは、本当に厩舎がお似合いな人ですね』

 美しい女に良く似た顔で、自分を馬鹿にする異母弟。

『フレディ、お前は生まれてきてはいけなかったんだ』

 よく肥え太った豚を思わせる体格に、蚤のように小さな心臓を持つ父親。

 心が常に空っぽだったフレディは、家族に言われたひどい言葉にも傷つかなかった。その心の代わりに理性が理解した。彼らと自分は身分が違う、自分の母親は卑しい商売女で、父の子をお金目当てに勝手に妊娠し勝手に出産したのだと。家族は大きな館に住んでいたが、身分の違う自分は捨てられていた厩舎で暮らすのが当たり前なのだと。競馬が大好きなで馬主である父の馬の世話を、大人達の間に混じってするのは当然だとずっと思っていた……。

 学校に行く年になってもフレディは学校に行かなかった。否、学校という存在を彼は知らなかった。彼の世界は厩舎や馬場であり、その柵の向こうにある家族の館だけが唯一知る別世界だった。

 ……自分を愛していると言ってくれたあの女が現れるまでは、自分を取り巻く環境が異常だという事をフレディは知らなかった。

 

「そんでね、ローゼさんの子供の……名前忘れちゃったけど、その男の子がうっかりトビアスの子供を怪我させちゃったんだって。賠償しろって物凄い金額提示されて、そのお金がどうしても出せなくって、それで貴方に支払って欲しいんだって」

 縄で全身を縛られて息苦しい。固く立ち上がっている肉棒は射精を止めるキャップのようなものが被せられ、アヌスには太いディルドが埋め込まれている。絶えず細かく振動しながら回転するディルドに攻められて、イきたいのにイく事が許されず、しかも口にはボールギャグが押し込まれ、唾液は流せても声が出せない。

 ベッドの上で苦しそうに呼吸を繰り返すフレディの頬を、純がゆっくり撫でて笑った。

「貴方の生い立ちって最悪だね。取り巻く人間も馬鹿ばっか。よく生きてこられたよねー。ローゼって女も貴方の元恋人だって? 貴方の腹違いの弟と結婚なんてよくできたよねえー。貴方嵌められたんじゃないの?」

「ぐ……ぐ」

 うつ伏せの状態で、腰だけ高く上げているのは普通の状態でも苦しい。それなのにアヌスをかき回すディルドが気持ちよくてたまらない、もっと、もっとぐちゃぐちゃにしてくれないだろうか。でも射精が出来ないから栓を取ってくれないだろうか。

 家族なんかいない。他人の話など聞きたくない……。

「うううっ……う……ぐふ……」

 飲み下せない唾液が、シーツに押し付けられた唇から染み出していく。欲望に忠実すぎて自分の話す事を聞いていないと、純に自分勝手な怒りフレディは向けられる。

「んもう! ちゃんと聞いてよ!」

「ぐううううううっ!!!!」

 淫靡に回転するディルドが乱暴に抜き差しされ、フレディは身体を弓なりに反らせた。男娼の純を知っている人間がその場に居たら、日ごろの鬱憤をフレディで解消しているように見えただろう。

「あーあ、イっちゃった」

 あまりの刺激にフレディがそのまま気を失ってしまい、純は半日に及ぶ陵辱を終える事にしたらしい。新田が不在の今日、純は念願の一人でフレディをいたぶる事ができて満足そうだった。

 一方のフレディは散々だ。縄の跡は身体中に残り、涙が絶えず流れたせいで目が赤くなり瞬きするのも辛い、陰部も同様でアヌスがぷっくりと赤く腫れ、フレディのモノも赤くなっていた。尿道口に太い棒が挿入されていたので辛さは倍増だ。

 肉棒に刺さっていた棒がやっと抜かれ、白濁が次から次へと流れ出た。やっとの開放と痛みと疼きで、フレディは新たな涙を流しがら昇天した。

「ごめんねえ……フレディが大好きだからつい」

 仰向けでぐったりしているフレディに、いつものように純が擦り寄りながら甘えてくる。フレディはひどい事をされながらも純を憎めないでおり、怒ったり憎まれ口を叩いたりせずにそのまま目を閉じて眠った。

 五時間ほど寝たフレディが起きると、純が夕食を運んでくるところだった。

「ちょっと早いけど夕食を食べて……」 

 女性が好んで食べるような、小分けにされた料理がテーブルに置かれていく。美容に気をつけているとわかる献立にフレディは苦笑した。やはり男娼にされてしまうらしい……。

 麻薬は、今日は野菜ジュースの中に入っていた。純がじっと見つめているのを感じながら、フレディは無言でそれを飲みコップを置いた。飲み終わるのを確認してから純が油断のならない笑みを浮かべる。

「緊縛プレイに耐えたご褒美に、明日から二日ほどお休みあげるからね。旦那様も何もしないって言ってたよ」

 それはフレディにとって、好都合な話だった。

「そんで貴方には悪い報告。黒の剣が貴方を買ったらしいよ。来週にはドイツ行きだってさ。売り上げ代金の半分は貴方の馬鹿家族に行くけど、トビアスの息子の怪我の賠償で回収されて戻ってくるから、差し引きゼロだって。あくどい商売だよねえ」

「……ローゼが新田に俺を誘拐させて、トビアスに売ったのか?」

「そういう事。旦那様も競馬好きでさー、いい馬を一頭もらうかわりに引き受けたみたい。貴方に興味もあったらしいしね」

 フレディは長い髪をかき上げた。

 フレディの記憶は、生まれてからずっとどす黒い闇色の絵の具で塗りつぶされていたが、ローゼの出現でいきなり虹色で鮮やかに彩られた。家族に愛されず、学校にも行かず働き続けていたフレディにとって、彼女は愛そのものに見えた。

『フレディ、お勉強なら私が教えてあげる』

『フレディ、貴方って本当に素敵よ。それにとても頭がいいのね』

『……私も結婚したいと思ってるわ』

 背後で父と弟が糸を引いているとも知らず、フレディは愛を注いでくれる彼女に夢中になった。

『私、ずっと待ってるから』

 弟の代わりに罪を被ったフレディに、彼女は涙を流しながら確かにそう言った。その言葉を信じてフレディは辛い刑務所生活を耐えたのだが、刑期を終えて出てきたフレディを待っていたのは、完全なる家族からの勘当と、弟と結婚して子供まで作っていたローゼの侮蔑に満ちた眼差しだった。

『まさか貴方、私が本当に愛してたとか思っていたんじゃないでしょうね。そんなわけないじゃない』

 彼女への思いも記憶も、フレディは心の絵筆で特にぐちゃぐちゃに抉った。記憶の紙が破れてボロボロになり、以前よりどす黒い闇に染まった……、雅明がフレディの前に現れるまで。

「ローゼは、彼女は私について何か言っていたか?」

「フレディは私を愛しているから、絶対に助けてくれるって言ってたよ。早く助けて欲しいって。お金を作って欲しいって言ってた」

「ふ……っ」

 フレディは肩を震わせて低く笑った。少年時代の自分はなんて馬鹿だったのだろう。いいところのお嬢様の彼女が、厩舎で生活していた自分を愛してくれると真剣に思っていたとは。学校に行った事も無い自分を、彼女が望むわけは無いのに。

 馬糞臭い少年と、薫り高い香水を甘く漂わせる少女。傍目にはさぞ滑稽だっただろう。

「なんかさー、女ってひどいよね。男はいつだって自分の為に身を投げ打って助けてくれると勘違いしてない? ね?」

 純が同意を求めるように伸ばしてきた手は、震えるフレディの手に撥ね退けられた。

「……俺に、触るな。汚いから」

「そりゃお風呂まだ行ってないんだから汚いよー。あのまま貴方寝ちゃったし。……僕いっぱい舐めたし、オイルとかあれとかべったりついたまんまだもん」

「風呂なんかに入ったって、俺はどのみち……汚い……ははは……っ」

 フレディは笑い続けている。気がふれたのだろうかと純が不安げに口を開いた。

「フレディ……」

「見たろ……。俺はネズミがお友達だ。汚い汚い……人……間だ」

「そりゃー今は汚いけどさ。洗ったら綺麗じゃん」 

「……落ちないんだ。生まれた時から汚く染まってるから」 

「生まれたての赤ちゃんって綺麗なんじゃないの? いい匂いがするって聞いた」

「俺は、馬のクソの臭いがしたそうだ。そこに捨てられてたってな」

 なんとも壮絶な話で、いつもの軽口が純の口から出てこない。敵方であるはずの純に、フレディは雅明にすら話した事が無い過去を口にした。

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