清らかな手 第2部 第20話

 これと似たような場面を見た事があった。そう、雅明を自分のものにしていたパウルから雅明を奪還する時、同じように雅明が背後から抱きしめられていた……。
 トビアスに引き摺られるように、フレディは窓際へ移動させられた。その間ずっと高野とトビアスは銃口を相手から外さない。緊迫した空気だけが部屋を支配していた。
「往生際が悪い。トビアス、貴方の負けだ」
 高野が冷たく言ったが、トビアスは取り合わない。
「ここに来れただけでゲームオーバーとは思わない事だ。だが、どうやってここまで来れたのか教えてもらおう」
「……簡単です。貴方が新田から知らされていない、地下の抜け道から来ただけです」
 面白くなさそうにトビアスは鼻を鳴らした。
「成程。あの馬鹿は馬鹿なりに頭を動かしていたらしい」
「同じ馬鹿の貴方には言われたくないでしょう。彼は先程田端社長が保護しました。近くに転がっていた遺体はどうにもなりませんでしたがね」
 フレディはそれを聞いて地下牢に転がっていた新田を思い出し、保護されたのかとホッとした。同時にイヴィハイトを思い出して胸が痛んだ。彼はおそらく、いつも通り両方に通じて失敗したのだ。
「そろいも揃って日本人は馬鹿ぞろいだ。弟を玩具にした男を助けるとはな」
「…………」
「だが、フレディは渡さない。これは私のものだ」
 高野の右の眉が僅かに上がった。フレディはじっとその高野を見つめたが、高野はトビアスに照準を合わせたままだ。それは一度も見た事が無い高野の姿で、普段は冷たくて有能な事務をするだけという印象の男が、傷を負いながらもなお戦意を失わない、野獣の様な鋭い牙を持った兵士に生まれ変わったかの様に見えた。
「ミッドガルドの最愛の人を、どんな目に貴方は合わせた」
「きれい事だけでは愛など手に出来ない。欲しいものはどんな手を使っても掴むものだ。現にお前達だってそうじゃないか」
「……そうですね。ですが、貴方のやる事は度が過ぎるというものだ。見知らぬ他人を巻き込み、誰も幸せになれない道を作っただけではありませんか?」
「どこまでも忌々しい……」
 唐突に銃声が響き、高野はとっさに後方に跳んだ。しかし撃ったのはトビアスではなく、壊されたドアから飛び込んできた純だった。
「旦那様っ! 大丈夫ですか?」
「大丈夫。……うっ!!」
 廃人同様だと思っていたフレディにいきなり鳩尾を突かれ、トビアスは完全に不意を突かれて壁にぶつかってずり落ちた。純が高野に止めを刺すべく照準を合わせる前に、高野が純を殴りつけ拳銃を取り上げ気絶させる。しかし高野は肩を撃たれたらしく、茶色のジャケットから血が滲んでいた。
「高野っ!」
 フレディは血を流す高野のもとへ走った。走ろうとした……。しかし足に何かが絡み付いてそのまま床に転倒した。
「うう……あっ!」
「絶対に離さない……フレディ」
 フレディはトビアスに足首を掴まれて床に引き摺り倒され、上から圧し掛かられて首を締め上げられた。そのトビアスの手がフレディの苦しみに揺れる睫毛を撫でて、高野に見せ付けるように口づける。
「く……」
「……どうやら、その秘密の抜け道からこっそりと侵入していた輩が、薬をすり替えていたらしいな。6yhを限界量まで打たれてまともに動けるはずが無い……」
 ぎりぎりと首が締め付けられ呼吸をするのも困難な中、フレディはトビアスから逃れようと床を這った。
「離せ……高野が」
「行かせない。愛しているフレディ。愛してる。愛してる」
 顔中に口づけられ、フレディは抵抗するようにもがいたが動けなかった。それどころか、呼吸困難で意識が遠のこうとしている。折角動けるようになったのに、ここで気を失ったりしたら高野はどうなる。肩から滲み出た血が床に滴り落ちて広がって行くのが見え、なんとかしてトビアスの束縛から離れようとフレディは躍起になった。
(誰か……誰か。アウグストっ!)
 フレディの叫びが天に届いたのか、どたどたと大勢の足音が部屋に押し寄せ、石倉と田端、田端が雇った男達が現れた。
「そこまでだっ。トビアス!」
 石倉の罵声にトビアスは反応し、フレディを抱えたまま起き上がった。フレディの首元に拳銃がのめり込む。
「……確かに日本ではここまでのようだ。頼りない部下どもだな」
 くくくと低く笑いながらトビアスが窓に向けて連続で発砲した。ガラスが悲鳴の様な音を立てて割れていき、そこからまだやんでいない暴風雨が吹き込んだ。カーテンが風に煽られて置かれていた花瓶を叩き、花瓶は床に落ちて砕け散った。
 石倉によって止血処理された高野がゆっくりと起き上がり、巻かれた包帯の上からジャケットを羽織ると、トビアスに向き直り睨みつけた。
「過ぎた欲は身を滅ぼす。現に貴方は新しく作り上げた組織をまた乗っ取られて、どういういきささつかは知りませんが日本へ逃げ込むしかなかった」
「ふっ……」
「日本には日本の闇があり、法律がある。貴方は両方の法に触れてしまった」
「それがどうした」
「付いてきた頼りない部下たちは全員降伏した。していないのは貴方と……純一だけになった」
 雨風に打たれながらトビアスが哄笑した。そのトビアスに高野は冷たさの極地の視線を放ち、止めを刺すような言葉を放った。
「フレディを愛する余り、彼の家族を破滅に導く事に夢中になってどうする。貴方が日本で遊んでいる間に彼らは他の者に殺された」
「何っ!」
 初めてトビアスが大声を上げた。
「……沢山の人間からそうとう恨みを買っていたようですね。叩けば埃がたくさん出るほどの悪行を積み重ねた結果でしょう。贅沢三昧と事業の失敗で、彼らの借金返済の焦げ付きに痺れを切らした銀行員が、フレディの両親と弟夫妻と子供が惨たらしく殺されているのを発見したとの事です。あちらでは大ニュースになっています。自慢にしていた厩舎の馬が盗難されていたというから、そちらの関係でしょうが……」
「馬鹿な! あいつらは私がっ」
 フレディはやはり自分はおかしいと思った。実の家族が惨たらしく殺されたと聞いても『死んだのか』としか思えない。トビアスよりも自分は狂っているのかもしれなかった。
「貴方は何もかも回りくどすぎる。そして臆病だ。手の込んだ仕事ばかりするから失敗するのです。父親に逆らえず、いやいやしたアメリカのマフィアとの娘との結婚も、思うようにいかない雅明様を間接的に殺した事も、フレディを自分のものにする為に佐藤グループに変に手を出そうとした事も……」
「あいつらは私が……、私が殺してやろうと……、フレディのために……」
 トビアスの腕から力が抜け、フレディは開放された。その隙にフレディは高野の下へ走ろうとしたが、数歩動けただけで、再びあっさりとトビアスに捕まってしまった。しかも先程よりも強い力で身体中の骨が砕けそうに痛い。
「あ……あっ!」
「離すものか……、絶対に離すものか!」
 狂気に走っているとしか言いようが無い眼差しのトビアスに、再び抱きしめられる。そこへ意識を取り戻した純が、そのトビアスを手助けするように寄り添った。
「やめろっ何をする気だ!」
 割れた窓の鍵を開けた純に石倉が叫んだが、トビアスも純も何も言わない。ただ破滅がひしひしと迫っている事だけはわかる。
 トビアスと純に抱きつかれているフレディは、なんとかして二人を振りほどこうと身体を動かしたがどうにもならなかった。よく考えればこの数週間麻薬を打たれ続け、陵辱され続け、身体はクタクタに疲れきっている。普通の体力ですら自分に残っているはずもなかった。
 ざあっと雨風が割れたガラスからまた入り込み、部屋の空気を押し流した。その中で妙に温かな微笑を浮かべた純がトビアスを見上げて微笑む。
「旦那様は優しい人なんだ。僕を淫獣から助けてくれた」
 高野が子供に言い聞かせるように言った。
「純一。お前はこの男に騙されているんだ。私はずっとお前を探して……」
 純は兄の言葉を聞いてはいなかった。トビアスに向けていた甘い微笑を兄には向けずに叫んだ。
「騙されたって構わない! 間違いなく助けてくれたのは旦那様だった。兄さんにはわからない、僕があの男に小学生の時に売られてからどんな目に遭ったか……! 兄さんは外国部隊とやらに逃げられた。僕は、僕は逃げられなかった。毎日毎日あの淫獣に玩具にされて……めちゃくちゃにされて、地獄だった!!!!」
「……純一」
 悲痛な叫びなのに純の目には涙一つ零れていなかった。ただあの大きな目が妙に暗がりの中で煌いている。フレディは高野が立っているのもやっとな状態である事をわかっていた。出血はまったく止まる気配を見せていない。高野が純の兄である事を知り、フレディはなんともいえない気持ちになる。
 どうして自分の周りの兄弟達は、誰一人として幸せな関係を築けないのだろう……。
 出血のせいなのか、心の痛みからなのか、高野が常にないほど弱弱しい声で言った。
「あの男……私達の父親は、お前を売った事を後悔していると言って……」
「今更何さ! あの男と、あの男を誑かした馬鹿女のせいで僕の人生はめちゃくちゃだ。許さないつ、絶対絶対許さないっ。旦那様の敵は僕の敵だっ」
 皆、純の気迫に打たれてしまったのか誰も声を発しない。だがフレディだけが何とか抜け出でようともがき続けていた。疲れて荒い息を繰り返すフレディに、妙に優しい声でトビアスが囁いた。
「心配するなフレディ。そんなに心配しなくてもすぐに楽になる」
「離せ……っ、んっ……」
 異様な目の色のトビアスに唐突にキスされ、フレディは首を振った。この目の色は知っている。あの時も、こんな目の奴に愛されたくないと思った。その先には未来も何もない。それはあのパウルが死ぬ時に目に浮かべていたもので、心中する男女が漂わせる退廃した色だった。
(やっぱり俺は役立たずだ)
 冷静な判断を失い、さっきトビアスを殺さなかった事から生じたミスだ。敢えて言うのなら、トビアスが自分に向ける情念の深さを測り損ねたミスだった。彼にとってトビアスの愛情など想定外の代物で、それを計れなかったと言うのは酷な事かもしれない……。
「フレディを離せっ! いい加減にしろ」
「もう警察が来ているんだぞ!」
 高野や石倉の叫ぶ声が耳に入る。その聞きなれない緊迫した声に、フレディは自分の予想が外れていない事を悟る。
(嫌だ)
 二人の声に励まされて、また逃げようとしたフレディの鼻を純が摘んだ。そしてトビアスがキスで合わせた口から、何か甘いものをフレディに送り込んでくる。その甘いものの正体が眠り薬だとわかっているフレディは嚥下すまいとしたが、鼻も口も呼吸を遮断されて、力尽きて飲んでしまった。たちまち目の前がぼやけて力が手足から抜けていく……。
「すまないな、純……」
「いいんだよ旦那様。僕、旦那様の行くとこならどこだって行くから」
 囁くような二人の声に挟まれ、フレディは眠りの淵に引きずりこまれまいと、必死で目を見開こうとした。霞んでいく視界に入ってきたのは、あの冷静沈着な高野が、必死の形相で自分に向かって叫びながら走ってくる姿だった。
「フレディっ!」
(……なんだ、あいつ、あんな顔もできたんだ)
 それから先は夢の中にいるように進んだ。激しい雨風が吹きつけてくる中で、身体が宙に浮き、頭が下になって、すうっと真っ黒な湖の中に身体が吸い込まれていく。それは即効性の睡眠薬が効いてくるのと同じで、フレディは湖にざぶりと沈んだ瞬間に気を失うように眠りに落ちた。
 別荘が爆発炎上したのは、それからわずか数分後の事だった。

Posted by 斉藤杏奈