見つめないで 第8話

 疲れきってどさりとソファに寝転がった。やわらかでほんのりあったかくて、とても心が休まる心地がする。
 忍さんがいない部屋は、とても静かだ。
 あの男、私をからかうのに命かけてるのか、家にいる間はずっと構ってきてうざいからなあ……。
 どうしてああも、私の神経を逆なですることばっかり言うのか、理解不可能よ。
 私に構ってる暇があったら、さっさと自分好みの美人を見つけて、結婚すりゃ良いのに。あの余所行き笑顔でごまかせば、よりどりみどりでしょ。
 …………やめよう。なんで今、忍さんのことなんて考えなきゃいけないんだ。
 手元のリモコンで、CDコンポの電源を入れる。ほどなくしてクラシックが流れ始めた。
 ああ……良いわ……。ものすごく癒される。
 このまま寝てしまいたいな。
 うつらうつらし、曲が盛り上がりかけたころ、無情にも玄関の扉が開く音がした。
 早いなあ。ゆっくりしてきたらいいのに。
 真っ暗だったリビングに照明がつく。入ってきたのは当たり前だけど、忍さんだ。
 仕方ないから起き上がった。
「思ってたより早かったな。もっと純と遊んでるかと思ってた」
 純? ……ああ、早野チーフの名前か。
「面倒くさい男とつきあうのは、一人で十分ですよ」
「へえ。あいつ、お前の前でさっそく本性見せたんだ」
 ネクタイを解きながら、忍さんがちらりとこちらを見た。
「本性も何もずっとああですよ。何ですかあの人、ドスケベですか?」
 キスされたことを思い出したら、猛烈な怒りが蘇ってきた。やっぱり、一回殴っておきたいなあの人!
 忍さんは爆笑した。
「ブス子をからかうと、面白いからな。俺とあいつは、好みが結構似てるようだ」
「美男子なのに、私みたいなのばかり声掛けてるんですか?」
「いや」
 忍さんはいつものようにスーツの上着を脱いで、自分の部屋へ入っていった。
「基本、あいつは美人にしか声はかけないよ。遊びになら美人が相手の方が最適だろ?」
 扉を開けたままの部屋から、忍さんは話を続ける。
「私は遊び以下って事ですか」
 うわ、最低だこの人たち。
 動きやすいラフな服に着替えた忍さんは、シャツの前ボタンをはめながらリビングを通り過ぎ、対面キッチンの冷蔵庫からビールを取り出した。
「あ! それ私のですよ」
「けちけちすんな。今度ケースで買ってやるから」
 昨日買っておいたそれを、忍さんは勝手にごくごく飲み、にやりと笑った。
 まあいいか、あと五本あるし。
 忍さんは、缶を持って私の隣に座った。
「ほら、俺の飲み掛けならやるから」
「いりませんよ。腹黒がうつるの嫌ですもん」
「とっくに腹黒なブス子が、うつるわけないだろ」
「だったら、俺様になりたくありませんし」
「ふーん」
 もったいないと呟き、忍さんは残りを全部飲み干してテーブルの上へ置いた。この男に飲まれたビールの方が、もったいないよ。
 これ以上話をしたら、またストレスがたまりそうだ。
「待てよ」
 立ち上がりかけた私は、忍さんに右腕を引かれて再びソファに座らされた。
 時計を見たら、夜の十一時になっている。明日も早いし、寝たいんだけどな。
「話があるんだ」
「手短にお願いします」
 寝たい私は、つっけんどんに返した。すると忍さんは爆弾を投げてきた。 
「明日、周一郎たちの新居に行くから」
「……これはまた突然ですね」
 この前予定がつぶれたし、それから大分日にちが経ってるから、もう諦めたのかと思ってたのに。……嫌だな。
 忍さんは缶をぴんと弾いた。 
「休みがその日しか取れなかったから、仕方がない。お前、俺が好きでたまらないって演技頑張れよ」 無茶を言う男だ。そんなのできるわけない。
 私は周一郎さんが好きなんだから。
 うかない顔でいる私に、忍さんは話題を変えた。
「……で、ブス子。今日の食事はどうだった?」
「おいしかったです」
「そうじゃなくて、周一郎のホテルと比べてどうだった?」
 やっぱりそれが聞きたくて、あのホテルへ連れて行ったのか。
「料理以外はそっくりでした」
「どちらが真似をしたと思う?」
「……あちらでしょう」
 言い切った私を、忍さんは意外そうに見た。
 な、何よ。いくらこの男が嫌いでも、判断力は鈍らないわよ。
「なんでそう思う?」
「普通の人でもわかると思いますよ。料理と内装とパノラマが、ホテル翡翠は一致してたんです。比べてあちらのホテルは、いずれも素晴らしいものでしたけど、すべてちぐはぐでした。だから、落ち着かない空間になってましたね」
「ちぐはぐ……」
「滝澤さんの味に調和したものが、あの内装でありワインでしょう? 周一郎さんのホテルのシェフのやたらと品のある料理には、古典的な内装で統一しないと駄目だと思います。真似が所詮真似でしかない証拠です」
「品のある料理には、あのパノラマやこっちを真似した内装は無意味だと?」
「少なくとも、あのシェフの料理には。日本という国に染まってないんです。だから、違和感を感じるんです」
 そう、あの料理を食べたのがフランスのホテルだったら、おそらくこんなにまでは思わなかったと思う。でもここは日本だ。日本にいる限りは、日本人の味が必要なんだ……。滝澤さんの、フランスと日本を融和させるあの絶妙なセンスがないと、すべてちぐはぐになって、用意された空間も料理も台無しになってしまう。
 忍さんは半場うれしそうに、半場馬鹿にしたように鼻で笑い、長い両足を組んだ。
「いっぱしの評論家みたいに言うな、お前」
「素人ですから言えるんです。私が勝手に思ってることですから、馬鹿の妄想だと思ってくださって構いませんよ」
「妄想じゃねえよ。それは事実だからな」
「なんだって、そんな事が起こるんです?」
 私が聞くと、最初に家の事情を話したろと、疲れたように忍さんは目を閉じた。
「正妻の嫌がらせだ。だからあんな下品さが入り混じるのさ。あのホテルは今は流行ってるが、多分持って三年だろうな。従業員がついていけなくなる」
「それを言うなら、うちのホテルだってどうなんです? 客室係に、とんでもないサボリ魔がいますけど?」
 小寺みちるのサボリ癖について報告をうけているのか、すぐに思い当たったように忍さんはうなずいた。
「ああ……あいつね。本当にあれはどうにもしようがない。本社から異動してきたからな」
 そんな無茶苦茶な! いくら他の従業員が頑張っても、ひとつの腐った林檎がすべてを腐らせていくことになっちゃうじゃないのよ!
 どれだけ本社がえらいんだ。正妻がえらいんだ。
「それに正妻のスパイみたいな奴が、数人入り込んでるからな」
「私、戦争映画は好きじゃないです」
 呆れたように忍さんは苦笑した。
「みたいな、と言ったろ? あっちにツウツウな人間が紛れ込んでるんだ」
「さっさと辞めさせりゃいいじゃないですか」
 強引に連れ込んだのなら、快適な仕事環境ぐらい提供して欲しい。どこにでも派閥みたいなのがあってドンパチするけど、あれはいくらなんでもひどすぎる。
 忍さんは、頭をばりばりと掻いた。
「それができりゃ、俺も滝澤さんも純も苦労しない。あの正妻は蛇みたいにしつっこいからな。あんなふうだから親父が家に寄り付かないのが、なんでわからないのかね」
 ふと周一郎さんを思った。
 それじゃあまりに彼が可哀想じゃない……。正妻の為に作ったホテルが、正妻の為に駄目になっちゃうんだから。
 考えにふける私の横顔を、忍さんはじっと見ていた。
 それに気づかず、私は二人の新居に行ったら何を話そうか、周一郎さんにホテルの件を聞こうかどうしようか、そういうことを考えていた。
 
 
 
 
 
 久しぶりに会う千夏は、相変わらず元気だった。
 結婚しても仕事をしているから、専業主婦っぽい感じもしない。周一郎さんもそれは同じで、二人は恋人同士のままの空気を漂わせていて、それが妙に初々しかった。
 家は普通の一軒家で、東京都内なのに結構な敷地があり、周一郎さんの裕福振りがそのへんからうかがえた。兄の忍さんも家賃が高そうなマンションだし、兄弟そろってそのへんがセレブっぽい。
 ただ、千夏は整理整頓が上手とはいえないので、微妙にちらかってるのが気にかかる……。
「本当に驚いたのよ春香ってば。どうやって忍さんとお付き合いを始めたの?」
 しりたがりの千夏の質問が痛い。
「私が見初めたんです。貴女方の結婚式の時に。とても春香さんがお綺麗でしたから」
 困っている私の代わりに、忍さんがとっておきの余所行き笑顔で千夏に答えた。
「本当? きゃあ、それとてもうれしいわっ」
「そんなに喜んでいただけると、私もうれしくなります」
 と、狸の毛皮を何枚も被った忍さんが、いかにも紳士って感じでふるまうから、千夏の中では忍さんの印象は赤丸急上昇だ。
 ああああ……見事に騙されてる。千夏は頭はいいけど、騙されやすいんだよね……。
「でも、いきなり会社を退職してホテル翡翠へ行くなんて、大変だっただろう?」
 周一郎さんが、オニオンパイを切り分けてくれながら、心配してくれる。
 そうなんです! この腹黒悪魔が無理やり辞めさせたんです。そんでもって、どえらい目に遭ってます!
 ……って言えたらどれだけ幸せだろうか! 
「ええ、でも、ホテルのお仕事は好きですから」
 オニオンパイを受け取り、それを忍さんに回した。周一郎さんはそれに僅かに目を細め、私の前にオニオンパイの皿を置いてくれた。
 オニオンパイにカッテージチーズと野菜のサラダ、ポテトのマッシュ。ローストビーフ。こんがり焼けたパンに、裏ごししたソラマメのスープにお酒。
 千夏が腕を振るった料理は、どれもおいしそうだ。
「そんなに好き? なら、うちの新しいホテルに来て欲しいな」
 にこにこ顔で周一郎さんが誘いをかけてくるから、これにはかなり心が動いた。あのホテルはあんまり好きじゃないけど、周一郎さんの役に立てるってのはいいかも。
 うれしくてにやけそうになっていたら、テーブルの下で忍さんに足を蹴られた。
 地味に痛い。何するのよ! 
 でも、怒鳴るわけにもいかないから、笑顔を苦労して貼り続ける私。      
「春香さんはうちで働いてもらうから、駄目です」
 馴れ馴れしく忍さんが肩を抱いてくる。
 何するのよ! ……でも、一応恋人同士だから張り飛ばせない。
 周一郎さんは目をまん丸にして、千夏はあてられちゃうわね! と大はしゃぎだ。
 涼しい笑顔を浮かべるこの隣の悪魔、さぞかし内心では高笑いだろう。
 おいしそうな料理を前に、私は心の中で、こっそりため息をついた。

Posted by 斉藤 杏奈