ふんわり笑顔

「来たよー。例のカッコいい人」
「お、今日も幸せそうだねー」

 仕事仲間が言う声に、私は商品補充していた顔を上げた。

 転勤なのか最近よく出没する、切れ長の涼しげな目が素敵な長身の男の人と、綺麗な奥さんと可愛いお子さん達。すごいきらびやかで空気が違う。こんな地方のスーパーに来る様な人種じゃないと思う。

 はあ……とため息が出る。

「いいなあ、どうやったらあんないい男捕まえられるのかな」
「都会に行くしかないんじゃない?」
「こればっかりはねー」

 きゃいきゃい言いながら、私はマヨネーズの補充を続けた。この商品は最近やたらと減りが早い。テレビで卵黄だけ使うマヨネーズはおいしいと、言っていたせいかもしれない。

 ダンボールの箱に詰められたマヨネーズを取り出していると、店長がやって来た。顔が怒っているから、これは注意されるだろうなと思っていたら、案の定怖い声が降って来た。

「仕事中だぞ。おしゃべり禁止!」
「はい」
「すみませんでした」

 あやまる私に顔を向け、店長は言った。

「特にお前、いつもべらべら話して見苦しい。いい加減にしろよ」

 きつく睨むと、店長は放送に呼ばれて事務室に戻っていった。

 いっつもこうなんだよね、あの店長。私ばっかり目の敵にして。何が気に喰わないのか知らないけど、おしゃべりで何が悪い! って仕事中に話してた私も悪いけど。なぜか間の悪い時ばかり現れるんだよね。絶対見張ってるよ。仕事してる時は何故か来ないんだから! 陰険虫め。

「気にする事ないわよ。あんたは店長のお気に入りだから仕方ないわ」
「へいへいそーですか! そのお気に入りに対して、あの態度はどうなんですかね」

 休憩時間、ざわざわ私語が飛び交う中、独身女性の話はわりかし恋愛話が多い。

「店長って結婚しないのかなー。カッコいいんだからしたらいいのに」
「堅物だし、寄り付きがたいからねえ。物件は悪くないんだけど」

 悔しい事に店長は人気がある……。
 
 店長は、就任後数年で、つぶれかけていたスーパーを生き返らせた人だ。本当にどうやったら閑古鳥が鳴きまくってた店を、こんな大賑わいで商品が売れまくるスーパーに出来るのか尊敬する。

 尊敬するけど……。

「あーっ」

 自動販売機にコインを入れようとして、指がすべって床に落としてしまった。自動販売機の下を除いてみたけど、ほこりだらけのそこは何も見えない。こんなとこまで、普通掃除しないもんなーと思いながら、床にへばりついていると、例の嫌な声がした。

「何をしているんだお前は」

 この人は、上司として問題があるんじゃなかろうか。一度だって私の名前を呼んだが事ない。いびるためのお気に入りだかなんだかしらないけど、人権無視で本当にむかつく! 一秒だって顔も見るのも嫌だと思い、立ち上がった私の目の前に、飲みたかったカフェオレのカップがあった。

「これが欲しかったんだろ? だから床をうろつくな」
「…………」

 飲みたかったカフェオレ。だけど……。

 私は財布からコインを出して、投入口に入れた。自販機が動いてカップが落ち、カフェオレが注ぎ込まれていく。終了アラームが鳴ると、私はそれを手に取った。

「いりません!」

 睨みつけながら言った途端、私は胸を突かれた気がした。
 
 店長が、とても辛そうな顔を……していたから。
 

 それから数日は、何事もなく過ぎた。
 変わった点といえば、あれほど口うるさく注意してきた店長が、何も言ってこなくなった事ぐらい。むしろ、避けられているようで、姿を見かけない。

 あの顔を思い出して、ズキリと胸が痛んだ。なんで私がこんな思いをしなきゃいけないの? 悪いのはあっちじゃない。

 私ばっかり……、目の敵にして……。

 かまぼこの箱を持って立ち上がり、そしてそのまま倉庫へ向かおうとした時、足元に何かがぶつかった。

「……っ」

 見下ろすと、あのカッコいい人の子供さんだった。可愛いリボンつきズボンを履いた女の子が、尻餅をついて目をまん丸にしている。私は慌ててダンボールを床に置いて、女の子を抱き上げた。

「ご、ごめんなさいっ……。大丈夫?」

 女の子はお母さんそっくりの可愛い顔で、じっと私を見た。驚いているだけで痛いわけでは無さそうだ。

「うん、大丈夫だよ、お姉ちゃん。でも、お姉ちゃんはなんで泣いてるの?」

 女の子に言われて、私は泣いている自分に気付いた。恥ずかしい、仕事場で泣くなんてみっともない。私は女の子の服を調えてあげると、涙を袖で拭いて笑った。

「コンタクトレンズが痛いの。びっくりさせちゃってごめんね」
「うん……」
「あ、お父さん来たよ。駄目じゃないの離れるなんて」
「だって、赤ちゃんばっかり相手してるから、困らせたかったんだもん」
「…………」

 カッコいい人は女の子の右手を取ると、私に頭を下げた。

「すみません、ちょっと目を放した隙に居なくなりまして」

 物凄くいい声で、いやに耳に余韻が残る。カッコいい人は声もいいんだな。でも何故か女の子は私にしがみ付いて、カッコいい人を睨んだ。

「ふんだっ。お父さんなんか嫌いっ。あたし、お姉ちゃんの子になるからいいもんっ」

 爆弾発言に私はびっくりした。カッコいい人も、切れ長の目をまん丸にして驚いている。そして視線は私に移った。まってまって、私何にも言ってないよ。

「いえ……、あの。私、今、……」

 のろまな私は、言葉らしい言葉が口から何一つ出せない。このまんまでは誘拐犯になっちゃうよ。赤ちゃんを抱いた奥さんが、慌ててやって来てカッコいい人に言った。

「あなた。さつきは……? あ、居るんですね」

 ホッとしたように言う奥さん。でも、カッコいい人は難しい顔をしたまま私を見ている。どうしよう、どうしよう。女の子は私の作業服にしがみ付いて離れないし、諭そうにも顔を服に埋めちゃってるし。

 困っていると、店長がやって来た。

「増田様、あ、お子様は見つかったようですね……」

 店長は私に気づき、気まずそうな顔をした。でも気を取り直したように増田さんに言った。

「では商談の続きを。ご家族の方もご一緒で構いませんから……、増田様?」

 店長も、この雰囲気に気付いたらしい。私と増田さんとお子さんを見回した。そんな店長に、増田さんは静かに言った。

「いえ、子供がこの店員さんに、迷惑をかけたみたいです。申し訳ないのですが、この方も一緒に来ていただけると助かりますが」
「それは構いませんが……」

 来てってどこに? と思いながら、店長と増田さん、そして奥さんの後を、女の子を抱っこして歩いた。ツインテールにリボンを垂らしている女の子は、ちらちらと増田さんの後姿を見ている。本当はお父さん子なんだろうな……。

 
 なんて事は無い、入ったのはスーパーの奥にある応接室だった。しかし、変に静か過ぎたのが嫌だったのか、赤ちゃんが泣き出した。奥さんは優しくあやしていたけど、泣き止まない。店長は構わないと言っていたけど、増田さん夫妻は顔を見合わせ、奥さんの方が赤ちゃんを抱いて、そのまま応接室を出て行ってしまった。

 二人が再び商談を始める中、私は女の子をだっこしたまま、どうしたらいいんだろうと途方にくれた。すると、女の子が自分も外に出ると言い出した。女の子の視線が窓の外だったので、見ると、奥さんが赤ちゃんに笑顔で、何かを言っている所が見えた。

「お母さん……、さつきより、陽輔の方が好きになっちゃったんだ」

 殆ど涙声で女の子は言った。それを聞いて、私も妹が生まれた時にこんな気分だったなあと思い出す。思えばあれ以来、私はわがままとか言いにくくなったんだったっけ。

 ふつふつと、言いたい事が口から出掛かっているけれど、人前では言いづらい。私は静かに女の子を抱っこして、廊下に出た。
 
 そして休憩室に入ると、自販機からお茶を買ってあげた。ジュースとかは嫌がる親御さんが多いので、これでいいだろう。さつきちゃんはパックのお茶をふてくされながら手にとって、私と一緒にベンチに座った。

 足をぶらぶらさせながら、さつきちゃんが言った。

「陽輔が生まれてから、お父さんもお母さんもさつきの事構ってくれないんだよ」
「…………」
「遊んでても陽輔が泣いたら、陽輔の所に行っちゃうの! 大抵その遊びは終わりなの。陽輔はいっつも泣いてるから……」
「…………」
「お父さんは、お仕事で忙しいからあんまり会えない。家に居る時はお母さんの代わりに陽輔見てるから、さつきと遊んでくれない」

 ぼろぼろ泣きながら、さつきちゃんは持っていたお茶の箱をぎゅっと握った。開けてないから中身は飛び出さないけど、形がおかしくなってしまった。

 多分、今、陽輔ちゃんは夜泣きがひどいのだろう。でもさつきちゃんも構って欲しい時期だろうし、我慢する事が多いのだろうな……。口は達者そうだけど、まだ三、四歳にしか見えない。

「さつきちゃんは、良い子過ぎるんだね」
「……良い子じゃないよ。陽輔なんて嫌いだもん」
「悪い子だったら、もっとお二人とも困ってるはずだよ。でもね、この場合は素直に言ったほうがいいんだよ」
「言う?」

 さつきちゃんは、泣くのを止めて私を見上げた。よく見るとさつきちゃんは、お父さんにも似ている気がする……。

「私も陽輔ちゃんのお世話したいって」

 みるみるさつきちゃんの顔が真っ赤になった。図星か。さびしいのは間違いないだろうけど、さつきちゃんは人に配慮できる子だ。さっきだって転んだ時、自分も痛かっただろうに、口から出た言葉は私を気遣う言葉。

「でも……、でも、お母さん、あたしは遊んでてって……。お父さんは寝なさいって言うの」
「そりゃあ、さつきちゃんが好きだからそう言うと思うよ」
「でも、私、陽輔ちゃんのお世話したい!」

 さつきちゃんが叫ぶように言った時、目の前のさつきちゃんが消えた。ええっ? 瞬間移動? ……なわけないって!

 見上げると、増田さんと店長っ……! きゃあああっ、いつから聞かれてたのつ! 恥ずかしすぎるっ。あわあわとしている私の目の前で、さつきちゃんを抱っこした増田さんがにこりと笑った。

「さつきは、しっかりお姉ちゃんになっていたんだな」
「うん、お姉ちゃんだもん!」
「そうか、わかってなくてゴメンな」

 そう言う増田さんの顔は、蕩けるように優しい。抱っこしてもらっているさつきちゃんは、その小さな腕で増田さんの顔にしがみ付いた。店長が私の顔を見ている事はわかっていたけど、私はそっちに顔を向ける勇気はなかった。

 その後、私はすぐに仕事に戻ったから、さらに二人が何を話していたかはわからない。どちらにしろ柄にもなく恥ずかしい事を言った私は、当分、店長と増田さんご一家には会いたくない。幸い家の田植えの時期に差し掛かっていたから、私は二週間ほど仕事を休む事ができた。

 この辺りでは当たり前の事だから、これくらいでクビにはならない。田舎がありがたいとこの時ほど思ったことはなかった。

 使用済みの苗箱を、小屋の横の川でざぶざぶと洗っていると、可愛い声がした。

「あーっ。スーパーのおねえちゃんだっ」

 なんでさつきちゃんの声が……? と、顔を上げると、川の向こう側に増田さんご一家が、白いセダンの車を止めてこっちを見ていた。私は麦藁帽子を被って、完全におばちゃん姿だから、この間より恥ずかしい! 私は頭をぺこりと下げ、そのまま箱洗いを再開した。

 じっと座り込んで洗わなければならないから、いい加減腰が痛いなと思っていると、今度は真横で可愛い声がした。

「うわー……、水冷たそう」
「ちょっ……、え? さつきちゃんっ」

 さっさと車で行ってしまったと思っていたのに、増田さん達は車を止めて、私の横に立っていた。斜め前の橋を渡ってきたらしい。ううう……きらびやかな人達に、泥だらけの私の格好なんて、見られたもんじゃないのに。

「お姉ちゃん、トイレ……」
「え?」
「ほとんど初対面の方に申し訳ないんですが、さつきがトイレに行きたいと言ってるんです。お貸しいただけたら助かるのですが」

 奥さんが、すやすや寝ている陽輔ちゃんを抱っこしながら、申し訳無さそうに言う。この辺は山間で田んぼしかない上、迷路みたいに道がうねっているから、旅行者が結構迷い込んでくる。私は増田さん達がおそらくトイレを探して迷ったんだなと察し、もれそうだと騒ぐさつきちゃんを、小屋の隣の自宅に連れて行った。

 外へ再び出てくると、増田さん達は、めずらしそうに井戸を眺めている。うちの井戸は、時代劇に出てくるような桶は必要なく、石の洗い場に、地下水が溢れているだけだ。

「わー、水がごぼごぼ出てるっ」
「透きとおっていて綺麗な水ですね」

 わいわい騒いでいる家族の横で、綺麗に手を洗うと、私は家の中からコップを持ってきて、さつきちゃんに手渡した。

「飲めますからどうぞ。おいしいですよ」

 さつきちゃんは、うれしそうに笑った。

「昔話みたい!」

 今日はいい天気だから、増田さん達は喉が渇いていたらしい。かわりばんこに飲むと、増田さんがコップを丁寧に洗って返してくれた。この人は本当に何から何まで丁寧な気がする。

「あの、増田さんはどちらからいらしたんですか?」
「東京です。ですからこのあたりはまだ良く知らなくて。10キロ先に温泉街があるでしょう? そこのホテルで働いているんです」
「板前さんか何か?」

 私が聞くと、増田さんは、はにかむように笑った。なんだか可愛い。なんというか本格的な和風男子というか、端正な美形というか、そんな人が笑うとたまらないな。ふんわりしていて優しい感じ。

「仲居さん……かな? お客さんとお話できるのは楽しいですよ」
「増田さんなら、お客さんも楽しそう」
「ありがとうございます」

 奥さんはさつきちゃんと二人で、庭の木を陽輔ちゃんに見せてあげている。奥さんの笑う顔も増田さんに似て、ふんわりしていて、優しい。
 
「あの三人にも、ここでの暮らしはいいみたいでね。越してきて良かったと思っています」
「都会の人なら、そう思うんでしょうね」
「ここが嫌いですか?」
「ここしか知りませんから……」

 増田さんは、ひねくれ気味に言う私に大声で笑った。そんなにおかしい事言ったかな。

「近いうちに、都会を見ることになるかもしれませんよ。まあ、都会もそう悪くはありませんよ。大好きな人といられたら……ね」
「え?」

 謎の言葉を残し、増田さんは私に礼を言うと、にこやかに手を振りながら車に乗って、走り去った。

 ……変なのと思いながら、私は汗だくだったので家に入るとシャワーを浴びた。農作業はこれでおしまいだ。明日からまたスーパーか……。店長に会いたくないなあ。これまでどおり避けてくれてたら助かるけど。

 カッコいい人か……。

 確かに店長はカッコいい部類だけど、増田さんには敵わない。だって、ふんわり笑顔ができないもん。

 彼氏には、増田さんみたいな人がいいなあ。

 
 家族のお昼ごはんを作って待っていると、車の音がした。お父さん達が帰ってきたんだなと思って、私は玄関に向かった。でもそこに立っていたのは……っ。

「て、て、店長っ!?」

 何故かスーツを着て、赤い薔薇の花束を持っている店長。いかにもプロポーズに行きますという格好で、こんな田舎の和風の家にはそぐわない格好。いくら春だからってこれはない。

 店長は、しばらく目を宙にさまよわせていたけど、やがて決意したかのように口を開いた。

「……異動になる。発表は半年後だが、決定だ」
「は?」
「10月から東京の本社の、商業開発部の部長になる」
 
 ……異動とその姿は、どう関係があるんだろう。

 でも取りあえず、栄転は喜ばしい事だ。

「それは、おめでとうございます」

 祝いを言って頭を下げ、元に戻した私の目の前に、薔薇の花束が突きつけられた。

「……お前が、好きだ」

 有り得ない突然の告白に、私はフリーズした。

 固まった私に、店長は舌打ちすると、ずずいと身を乗り出す。さっきまでの固い物言いはどこへやら、ぶっこわれた水道の蛇口みたいに店長は話し始めた。

「聞いてるのか! お前が好きなんだ。ずっと好きだったんだ。口うるさくしつこく注意しまくってすまなかった。お前が気になって気になって仕方なかったんだ。最近ずっと逢えなくて、寂しいし、物足りないし、こんな状態は我慢できない。半年後に逢えなくなってしまうかと思うと、気が狂いそうだ。だから頼むから結婚してくれ! 東京に一緒に来てくれっ。絶対に幸せにするからっ。」

 今まで何のそぶりもなく、いきなりの告白にプロポーズ。固まっている私を誰も咎めないと思う……。でも、これだけは咎められるかもしれない。

 何故かこの時私の頭の中をよぎっていたのは、増田さんのふんわり笑顔と、ご一家が手を振って車に乗り込むところ。

 ……そういや、私、増田さんの、下の名前知らないな……。

 私は、返事をうやむやにしてプロポーズをなかった事にしようとしたけど、敵もさる者で、家族やスーパーの皆、はては私の友人まで囲い込んで、結婚を迫ってきた。さすが、あそこまでスーパーをでかくしただけある。

 恐ろしい熱意にほだされて、私は結局結婚を承諾した。

 店長の計画通り、店長の本社栄転と共に東京に上った私に、さらにびっくりが待っていた。それはたまたま豪華な泊まりをしようじゃないかと、休日に泊まったホテルで起きた。そのホテル飛鳥という、豪華ホテルに置かれていたパンフレット。それに増田さんの写真が創業者として載っていたのよっ。名前は仙崎奏と書いてあったけど……。

 増田さんは、ただのホテルの仲居さんじゃなかった。仙花グループという大企業の御曹司だったのだ。いざこざがあって家を出たらしいけど、ホテル経営の腕は凄いものなんだそうだ。(従業員さんに拝み倒して聞いた。)

 快適で、夢見心地な気分を味あわせてくれる、素敵なホテルだった。

 持って帰ってきたパンフレットを眺めていると、晩酌をしている夫が言った。

「本当にお前知らなかったのか? あの人が来てから温泉街が活気付いてるの。根っからの経営者なんだろうなあ」
「ホテルの仲居さんって言ってたのに……」
「馬鹿、四国にいくつかあるホテルの経営者だよ。表立つのが嫌いな人だからなあ……」
「…………」

 そんな凄い人に、私は井戸の水なんかあげちゃったよー。とほほ。

 夫が私の隣でビールを飲みながら、肩を落とした私を笑った。知るわけないでしょ、私にとってはお客様の増田さんで、ふんわり笑顔の人なんだから。
 
「それより、ご飯まだか?」
「あらいけない」

 沸騰した中身が、鍋からこぼれてじゅうじゅう言っている。冷ましていた野菜も和え頃だろう。私は、ボールに調味料を入れてかき回した。なんだかわかんないけど、にやにやしてしまう。

 なんかいいよね。夕方にこんな感じでわたわたしているの。けっこう幸せ。好きな人のために料理して、話して、……なんか素敵だよね。彼と居ると安心する。一緒に居てほっとする。

 居間の夫に声をかけた。

「もうすぐできるからね」
「ん」

 
 そんな私の後ろ姿を、ふんわり笑顔で夫が見ていた事を、私は知らない。

Posted by 斉藤 杏奈