※バッドエンド、蛇との性行為に注意してください!

 南野由宇(みなみのゆう)は、友人の広田市花(ひろたいちか)に強引に誘われて、お盆休暇を彼女の家の別荘で過ごすために森の中を歩いていた。30歳近くになるのに未だに結婚どころか男ができない由宇を市花が勝手に心配して、この休暇中に男ができるようにその広い交友関係を駆使して合コンをセッティングしてくれたらしい。というのは表向きで、彼女自身もそろそろ結婚相手を見つける必要があり、彼女の父親があれやこれや手を回したというのが正解だった。

 せっかくの休暇は家でごろごろしていたかった由宇だが、実家の両親達がそろそろ結婚をと声を大きくしてきたのもあり、男だけでもそろそろなんとかするかと重い腰を上げて彼女の提案に乗る事にした。

 深い緑に囲まれているこの場所は、驚く事にまだ東京都なのだという。同じ東京でもこんなに違うものかと由宇はビックリしていた。つばの広い帽子をわずかに空に上げながら市香が笑った。

「このあたりは別荘地なのよ。すぐに来れるし帰れるしで便利でしょ」
「広田一族ってどれだけセレブなのよ。あ、沼がある」
「白沼(しろぬま)って言うのよ。ずっとあるわ」
「へーえ」

 突然現れた小さな沼は、ゆっくりと歩いて一周しても二十分とかからなそうだ。

「昔からあるのよ。辺りが日でりで干上がっていても、満々と水を湛えているんだって」
「こんなところに沼があるなんてちょっと気持ち悪いな」
「そう言わないで。私の家の別荘はもう少し先だし、あっちはもっと視界が開けているから綺麗よ」
「でも帰り道はまたこの沼を通るんでしょ?」
「一週間後よ。気にしない気にしない」

 気になるなあと思いつつ、由宇は携帯を見た。まだ11時でお昼前だ。朝に都心を出てまだ少ししか時間は経っていないらしい。手提げかばんに携帯をしまい、今度は飴を口に入れる。そして再び沼を見た。沼は太陽の光を受けてきらきら光っていた。

「なんか沼ってわりには綺麗な水ね」
「うちが管理してるから。飲めるのよ」
「へえええ」
「でも駄目」

 何故かいきなり言葉がきつくなった市花に、沼へ足を向けていた由宇は振り向いた。

「この沼には主が居るの。水を飲んだら最後、魅入られてこの世に帰って来れなくなるわ」
「…………え?」

 迷信やオカルトなど興味がなさそうな市花が真顔で言うので、由宇は一瞬背筋が寒くなった。しかし次の瞬間には市花が大笑いをした。

「なーんてねっ。うっそだって。やっだあー信じちゃってもー」
「あのね、30前の女がそんなつまらない冗談言わないでよ」

 頭痛を感じながら由宇はため息をついた。ゴメンゴメンと市花が謝りながら、ミネラルウォーターのペットボトルを由宇に手渡してくれる。

「なにも沼の水なんか飲まなくてもこっちの方がいいわよ。飲めるかどうかなんて実際わかんないしね。あとこの沼は底なし沼だから落ちたらアウトだよ。だから近づいちゃ駄目。水はこっちが用意した水で我慢して頂戴」
「もー……、危険だから近づくなって最初から言ってよ」
「うふふふ。そうやって私も小さいころお母さんに脅されててさ。ちょっとやってみたかったのよ」
「ちょっとって……あのね」

 由宇は荷物を抱えなおして沼を眺めた。太陽が雲に隠れてしまったせいで水は灰色に染まって沈んでいる。さっきまでの美しい水面はなく、底なし沼という不気味さが漂い始めた。ふいに冷たい風が背中を撫で、由宇は意味もなくぞくりとした。

 ────由宇。

「え?」

 若い男の声が由宇の名を呼んだ。いつのまに人が居たのだろうと由宇は振り返った。しかし、来た道には誰も居ない。

「どうしたのよ由宇?」
「あのさ、今男の人が私を呼んだよね?」
「はあ? 何言ってんの。何も聞こえなかったわよ」
「でもさ……」
「はいはい。今晩のパーティーで嫌って程男が呼びますとも。いい男を揃えておいたから期待して頂戴。さー行くよ。あとちょっとだし」
「あんたのあとちょっとって何分よ。もう20分は歩いてるけど」
「とにかく歩く!」

 市香に促されて、由宇は男の声が気になりながらも再び歩き始めた。さっきまで晴れていたのにどんどん暗くなっていく。雲が厚く垂れ込み始めていて雨が降りそうだった。

 別荘はとても広くて、市香の家のセレブぶりが至る所に散りばめられていた。庶民の由宇には縁がなさそうな大理石で出来たジャグジーバスや、にこやかにサービスをしてくれる数人のメイドや使用人の男性、クローゼットにはドレスや他の着替えがたんまり用意されていて、案内されたその部屋もシティホテルのスイートのような豪華さだった。

「な、なんかただでこんなところに泊まるのって悪いわね」

 ドレスを着た由宇がメイドに髪型を整えてもらいながら市香に言うと、もうすでに用意が出来上がっている彼女はくすくす笑った。

「ばっかね。気にしないのよ。うちの一族の特徴なのよ。夏の休暇に毎年それぞれゲストを呼ぶのがね。ただ今年はそれが由宇だっただけ。毎年呼びたかったんだけど、あんたってばいつも面倒くさいだの、用事があるだので逃げてたから」
「って言われても、ふつーの私なんかこんな素敵な場所に来てどうするの」
「ほらほら出た出た。あんたってば仕事はできるのにこういう社交場はてんで駄目なんだから。今日はいい男を引っ掛けるのよ。セレブがたっくさんいるわ!」
「んな無茶苦茶な……」

 初体験のドレスも、馴染まないメイクもなんだか別世界のようでそぐわない。これからセレブな人達とお話しするのかと思うと緊張してくる。市香は小さなパーティーだから50人くらいしかいないわと笑ったが、50人もいたらけっこう大規模だと由宇は思う。

 連れられて階下に降りると、即部屋に帰りたくなった。きらびやかとはこういう場を言うのだろう。派手なメイクだと思っていたものが、むしろ地味だったのだと気付かされる。

「水沢さんもいらしてるわ。良かった」

 うれしそうに市香が言うので、由宇はそちらを見た。窓際で数人の女性を相手にしている男性が居る。すらりとした長身の優しい雰囲気に、年齢不詳の美しい顔立ちをしている。成る程、面食いの市香がうっとりするのも無理はない。

「あの人もセレブなの?」
「そうよ。水沢茂紀(みずさわしげのり)様。とってもお金持ちでうちとは比較にもならないわ。このパーティーに出席されたのは初めて。やっと結婚の決心なさったのね」
「決心? 結婚?」

 市香はしまったという顔をして口に手を当てた。

「ううん、由宇には関係のない話よ。気にしないで」
「……そんならいいけど。あの人が好きなら声かけてきたら? 私は適当にしてるから」
「ごめんねっ」

 由宇に謝った市香は、それでもあっという間に水沢を囲む女性の輪に入っていった。余程あの水沢が好きなのだろう。一人になった途端に若い男が声を掛けてきた。

「見ない顔ですね。私と一曲いかがですか?」
「あ、その、すみません」

 堂々としている男性の姿に、由宇はなんだか圧倒されてしまい壁際に逃げた。それからも沢山のセレブの男性達に声をかけられたが、誰も彼もセレブオーラが出ているし、こんな中から恋人が見つけられるとは思えなかった。断り続ける由宇に、そのうち男達は諦めたのか誰も声を掛けてこなくなった。落ち着いた由宇がよく見ると、由宇の様なセレブじゃない人間が数人居て由宇と同じように壁際に避難?している。自分だけじゃなかったのだと由宇はほっとして、ずらりと並んでいるおいしそうな料理やデザートを攻略する事にした。

 もぐもぐと料理を食べていると、ステージに主催者の市香の父親がマイクを持ってあがった。ざわざわとしていた会場が一気に静まり返る。初老の市香の父親は、にこにこ笑いながら右手を高く掲げた。

「では今よりナイト・ダンスタイムにいたします。恒例のものですので照明を一分間すべて落とします。皆様、今宵のお相手を神の手に委ねましょう」

 なんだそれは? 由宇は慌てた。壁際に居る数人の男女も慌てている。しかしセレブ達は慌てずに談笑を再開した。由宇が市香を目線で追うと彼女は困ったように笑い、シャンパンを片手に持っている水沢の近くに寄り添った。若い女性が幾人も水沢の周りを取り囲み、誰もが彼に選ばれようとしている雰囲気だ。

(もう! ちょっとはこっちの事考えてよ。誰も来ないと思うけど万が一ってのがあるのに)

 シャンデリアの照明が消え会場が暗闇に包まれた。誰も来ないと思いつつも、誰も来ませんようにと由宇は願いながら自分の両腕を抱えた。クーラーで冷えたのか微妙に肌寒い。暗闇の中で靴の音や衣擦れの音がする。今頃気付いたが外は雨で照明がついてないと何も見えない。ふいに雨が木々を叩きつける音や、窓ががたがたと揺れる音がやけに大きく響く。一分がやけに長く感じた。

(なんだか気味が悪い……)

 そのうちくすくすと笑う声がしたり、目当ての人とめぐり合えたのかうれしそうに囁く声がし始めた。

 ────ほら、この娘だよ。
 ────なるほど、主が焦れるだけある。見るからに美味そうじゃ。ヒヒヒ……。

(え?)

 誰かが由宇の腕に触れた。妙にひんやりとした男の手だ。その手はゆっくりと由宇の腕を絡め取る。

 照明がつき、由宇は自分の腕に触れている男を見上げて息が詰まった。女性達に囲まれていたはずの水沢が由宇を見下ろして微笑んでいる。どうやって暗闇の中を移動したのだろう。足音などまったくしなかった。ぞわりと肌が泡立つ。

「初めましてお嬢さん。私は水沢茂紀と言います。貴女は?」
「え……と」
「そう固くならないで。ダンスを楽しむだけですから」

 水沢にエスコートされ、由宇はホールの中央へ連れて行かれる。人の視線が自分に集中するのを由宇は感じた。一体なんなのだろうこれは? ふとその中で焼け付くものを感じた由宇は、それを送っているのが親友の市香である事に心が苦しくなった。市香は嫉妬もかくやあらんという般若のような尖った目をしている。市香の相手は壮年の男性で優しそうな人だ。あの人のほうがいいなと由宇は一瞬思った。

「あの男性は市香さんに夢中ですから、由宇さんには振り向きませんよ」

 名前を言っていないのに呼ばれた由宇は、はっとして水沢を見上げた。水沢はずっと柔らかく微笑んで由宇を見下ろし、ステップを緩やかにリードしている。

「あの、名前、言ってませんよね?」
「パーティーの出席者の名簿が配られているんです。由宇さんはご存知ないのですか?」
「知りません」

 そうかそんなものがあったのかと由宇は納得した。それにしても女性達の視線が気になる。なんであの程度の女が水沢の相手をしているのだろう身の程知らずなという視線ばかりではなく、あれが水沢が選んだ女かという好奇心丸出しのものもある。セレブ達はそういう話が大好きだ。

「気にしないほうがいい。所詮今宵限りのものだと彼らはわかっているのですから」
「……そうでしたね」

 水沢の言葉に由宇はほっとした。確かに市香の父親もさっきそう言っていた。水沢と付き合うとかそんな空恐ろしい事は考えたくもない。とくに市香と仲たがいするのはゴメンだ。ちょっと軽い感じがするけれども、市香は楽しい時を沢山過ごしてきた親友なのだから。ステップがさらに緩やかになり、水沢が由宇の腰をぐいと自分に引き寄せた。

「そんなにあからさまにほっとされると、けっこう傷つくのですが」

 耳元で囁かれて由宇はどぎまぎした。男慣れしていないのでここまで接近されるとどうしていいのかわからない。

「えっと、あの、市香とかほかのお嬢さん達の方がいいと思うし」
「そう。私が欲しいとか思わない? あのお嬢さん達の様に」
「とんでもない話です。釣り合いません」
「そうかな」
「そうです」

 意地の張り合いのようにお互い言い合い、同時に笑った。

 長い間踊り続け、由宇は喉が渇いてきた。できればシャンパンではなく紅茶などのアルコールがない物が飲みたい。それに気付いた水沢がダンスの輪から由宇を連れ出してくれた。ちょうど近くのテーブルにミネラルウォーターが氷で冷やされており、水沢がそれをグラスに注いで由宇に差し出す。

「ダンスは喉が渇きますから」
「ありがとうございます」

 由宇は恐縮しながらグラスを受け取り、水を飲んだ。

(あれ? なんかこの水……)

 かすかに泥臭い感じがした由宇はグラスを覗き込んだ。水は澄み切っていて泥など混ざっていないし、砂も入っていなかった。不思議に思ってもう一口飲んだ。今度は普通のミネラルウォーターだ。

(気のせい?)

 首をかしげた。疲れているのだろうか。思えば今日は始めてづくしだから、いろいろと精神に来ているのかもしれない。パートナーが居るというのに、水沢の気を引きたい令嬢達が水沢の周囲に再び群がり始め、由宇を肘などで突き輪の外へ追い出した。あからさまな悪意に由宇はびっくりしたが、そろそろ部屋に戻ろうと思っていたところだったので、そのまま水沢には何も言わずに会場から出た。廊下に人影はなくひっそりしている。そのまま二階の自分の部屋に戻って鍵をして、貸してもらったドレスを脱いでハンガーにかけた。部屋にあるバスルームでメイクを落とし、シャワーを浴びながら由宇はやっぱり男は面倒くさいなと思った。何かの間違いで今日のような事が起こり、穏やかな毎日が脅かされるのはゴメンだ。

「市香に頼んで明日には帰らせてらおう」

 バスの湯が溜まったので、シャワーの蛇口を閉めて湯に身体を沈めた。緊張していた身体が心地よくほぐれていく。薔薇の香りのバスソルトが甘い芳香で包んでくれ、何もかもが洗い流されていくようだ。

「?」

 芳香の中に泥の匂いがかすかに香った。さっきと同じだ。でもバスの底を撫でてみてもざらつきはない。泥がつくような事もしていないし、第一今シャワーを浴びたばかりだ。何故か昼間に見たあの沼を思い出し、由宇はぞっとした。ひょっとしてこの別荘はあの沼の水を引いて生活用水にしているのではないだろうか。近くに川はなさそうだし、水道を引くにはあまりにも山奥だ。ありえない話ではない。

 そこまで考えて由宇は苦笑した。何をびくついているのだ自分は。そんなの良くある事なのに何故怖がっているのだろう。都会生まれだから田舎の生活環境に慣れていないだけだ。そう思おうとしているのに、昼間の市香の声が耳の底に蘇って来る。

『この沼には主が居るの。水を飲んだら最後、魅入られてこの世に帰って来れなくなるわ』

 暫く身体中の血が冷え切ったような錯覚に陥り、由宇はぶるりと身体を震わせた。唐突に湯に浸かっているのが怖くなってきて、慌ててバスの湯の栓を抜き、脱衣所へ飛び込んでバスタオルを取り身体を拭く。水の気配を消し去りたいという恐怖が由宇の中で渦巻いていた。用意していた旅行用のパジャマを着てドライヤーで髪を乾かすと、ようやく心が落ち着いた。

 部屋の隅にあるベッドに寝転ぶと、ふんわりと清潔なシーツの感触がした。手元にあるリモコンでテレビをつけた途端、お笑い番組の笑い声で部屋中がうるさくなる。どくどくとうるさかった鼓動が日常を思い出すにつれて静まり、由宇は怖がっている自分が馬鹿らしくなってきた。

「馬鹿か私は。だいたいあの沼から生活用水引いてるってのなら、ここにいる皆も飲んでるはずじゃない。あした市香に聞こうっと」

 安心して気が抜けると猛烈な睡魔が襲ってきて、由宇はテレビも照明も消さないまま眠ってしまった。

 ───おお……、素晴らしい肌じゃ。私によく馴染む。

 息苦しい。何かが身体にまとわりついていて、優しく撫でさすっている様だ。一瞬緩んだかと思うとまた締め上げる。なんだろうこれは。手足は動くのに身体に太い縄が絡みついている。

 ぬるり。

 生暖かく湿気を帯びたものが耳から顎にかけて舐めた。気持ちが悪くて身をよじっても絡みついたものがそれを許さない。

────由宇……。

 耳元で沼で聞いた男の声がした。

「!」

 そこで由宇は目が覚めた。外はもう明るくなっていて、鳥のさえずりが閉められた窓から聞こえてくる。由宇は汗びっしょりになっていた。べたつく汗が気持ち悪い。

「やな夢……見た」

 猛烈に喉が渇く。コップに水を注ぎごくごくと飲んで喉をうるおすと、ホッとした。しかし胸の鼓動はドキドキとまだ高鳴っていて治まりそうもない。夢の男の声は水沢そっくりだった。

「そんなに印象深かったかな」

 好きなわけでもないのにおかしいと思う。ふとシーツを撫でて何か固いものがふれた。なんだろうと見てみると白くて薄い貝殻だ。指で力を入れたらすぐに割れそうなほど薄い。朝日に照らすとキラキラ光った。

「わあ、何これ……綺麗」

 すっかりうれしくなった由宇はそれをベッドヘッドの棚に置いた。着替えて階下に降り、先に起きていた市香にいつものように挨拶をした。市香は昨日の恐ろしい顔はどこへやらで、ご満悦の笑顔で挨拶を返してくれた。

「どうしたの? なんか妙にご機嫌ね」
「ご機嫌にもなるわよ。あのね、水沢さんが暫くこちらに滞在してくださるのですって!」
「…………」
「こちらの別荘をとても気に入ってくださったの。昨日は由宇に取られちゃったけど、今日は負けないからねっ」

 朝から化粧も服もフェミニンに可愛くしている市香は、本気で水沢を落とすと決めたらしい。

「そ、そう?」
「うん。由宇は水沢さんの事好きでもなんでもないよね?」
「当たり前じゃない」
「良かった。じゃあご飯食べようっ。水沢さんはさっきまでいらしたんだけど、お父さんと外に散歩に行っちゃったの。帰ってきたら私達と散歩してくださるんですって」
「や、私は別に行きたくないよ。邪魔でしょ?」
「邪魔じゃないよ。協力して欲しいの。他にも一緒に行く人達がいるの。私達がくっつように。ね?」
「う、……うん」

 何をどう協力したらいいのかわからないが、由宇は市香の迫力に押されてうなずいてしまった。テーブルに案内された由宇は、水とジュースがきちんと並べて置かれているのを見て、聞きたかった事を思い出した。

「ねえ市香。ここってあの沼の水を引いて使用してるの?」
「水? まっさか。水道水を引いてるわよ。物凄く高額だったってお父さんぼやいてたもん」
「……その水道水が沼から引かれてるんじゃ」
「んー。違うわよ。だってここから5キロほど離れたところにダムと川があるの。あそこから引いてると思う」

 さらに聞こうとした由宇は、スープを置いてくれたメイドに話を遮られた。手際よくメイド達は朝食をセッティングしていく。その後は他の客達が朝食にやって来てきて会話が弾み、それ以上由宇は水について聞けなくなってしまった。なんだか水が恐ろしくなり、由宇は水は飲まずにオレンジジュースだけを口にした。それは泥の味はせず甘くて酸味があって美味しかった。

 昼前の森はとてもさわやかだった。セレブ達一行はその中を楽しそうに歩いていく。男が5人に対して女が6人だったので、当然といえば当然なのだろうが由宇があぶれた。セレブの人間ばかりで会話が合わないのだから無理はない。水沢の腕に自分の腕を絡めた市香がさすがに気まずそうに由宇を振り返ったが、由宇はこっちのほうがありがたかった。軽く手を振って市香を安心させ、みんなの後をぶらぶらとついて歩いた。こうして見ると昨日のセレブじゃない者達は皆帰ったようだ。そりゃそうだろう、空気が違う場所にいては楽しめるものも楽しめない。

 散歩道は土の道だが、市香の父親はよく管理をしているようできちんと草刈などがしてあり整えられている。

 草花を見つけながら歩いた由宇は、皆と大分距離が出来てしまった。もっともはぐれたところで慌てる必要はない、一本道を辿っていけば別荘へ帰り着く。市香は水沢と会話が弾んでいるようなので、もう大丈夫だろう。別荘へ帰ってゆっくりとテレビでも観ようと思い、由宇は今まで歩いてきた道を引き返した。

「……あれ?」

 暫く歩いて、由宇は別荘に一向にたどり着けない自分に気付いた。おかしい、一本道だったはずなのにどうしていつまでも森を抜けられないのだろう。

 急に喉が渇き始めた。迷ったと思った途端に生じた喉の渇きが由宇に焦りを募らせる。こんな事になるのなら皆と一緒に行くのだったと後悔してももう遅い。しかも雲行きが怪しくなり始め、森の中が暗くなった。遠くで雷のとどろきが響き始める。

「はあ、はあ……」

 足が重くなってきた。時計を見るともう二時間も森の中をさまよっている。持っている携帯電話は圏外になっていて使い物にならなかった。こんなところで遭難なんてありえない。その時、つま先ににつる草が絡み付いて由宇は派手に転んだ。

「きゃあっ……たー……。うそ……」

 辛うじて立ち上がり、膝から血が出ているのを見て由宇は気が遠くなった。運が悪く落ちていた木の枝で切ってしまったようだ。どくどくと血が流れる膝周りをハンカチで巻いて応急処置をし、ずきずきと痛む足を引きずって歩く。だんだん泣きたくなって来た。喉の渇きはいよいよ激しい。

 雨がついに降り出してきた。すぐに激しい降りになる。雷が近くで鳴って暗い森が一瞬明るくなり、次いで空を引き裂く音が響いた。雨水が喉に入り込んで少しは渇きを癒してくれる。しかし全然足りない。もっと思い切り飲みたい……。

 服はずぶぬれになっているが構わず由宇は歩いた。すると目の前の木々の間が明るくなった。出口だ! 疲労でガクガク震える足を励まして由宇は必死に歩いた。水でぐっしょり濡れている運動靴がぐちゅぐちゅと音を立てて、ぬかるみになっている泥を踏む。

「ここ……」 

 確かに森は抜けられた。だがそこはあの沼だった。灰色の水面が激しい雨で真っ白になっている。

「そんな」

 一体自分はどこをさ迷っていたのだろう。へなへなと泥の上へ座り込み、由宇はため息をついた。沼は小さなもので、確かに昨日ここを通ったがさっきのような道は通らなかった。知らない道があるのかもしれない。だがどこから見ても同じように見える上、方角がつかめないのでどうしたらいいのかわからない。

「でも……水くらいなら、いっか」

 とにかく喉が渇いて仕方ない。沼へ近寄った由宇は水面を覗き込んだ。草の陰になっている部分の水は澄んでいてとても綺麗だ。水面に自分の顔が映り、震えている手でそっと水を掬おうとした時、いきなり水がその両手に絡みついた。

「きゃああっ!」

 派手な音と共に身体が沼に沈む。びっくりした由宇は必死にもがいた。ここは底なし沼だ。沼のへりの草をつかまないとこのまま沈んでしまう。それなのに両手を掴んだ水は由宇を沼の中へさらに引きずり込む。息がごぼりと口から出た。呼吸が出来なくて苦しい。

(やだ……っ! こんなところで死にたくないのに)

 嫌というほど水を飲み、由宇は意識を失った。

 暗闇の中で、由宇は裸になっていた。

 顔を誰かに舐められた。飴をしゃぶるようにその舌は顔中を舐め、やがて柔らかな唇が由宇の唇に重なる。今度は舌を絡められて吸われ、口腔内を縦横無尽に貪り尽くしていく。嫌なのに、やっぱり由宇は何かに絡みつかれて動けない。絡みつくものはざわりとうごめき、肌を滑ってまた締め付けた。

(やだ。何、これは……っ)

 目を開けたいのに、恐ろしく疲れているせいで開けられない。絡みついているものに体温を奪われ、だんだんと寒くなってきた。でも口だけは熱い。それと……。

(え? 何これ)

 むき出しの太ももに何か固いものが押し当てられる。びくびくと動くそれは、何かねばねばとしたものを滴らせている。それは成長して大きくなっていく。なんとなく男の股間に付いているものに似ていた。しかしそれははるかに大きい。下半身だけ拘束が解けて、その固いものが局部にぬるりとこすり付けられ、由宇の身体は大げさなくらい飛び跳ねた。

(いや!)

 ねちゃねちゃと粘液ごとこすり付けられるそれは、由宇を縛り付けているものの生殖器官に違いない。由宇の両手が絡みつくものにようやく触れられ、その表面に由宇はぎくりとした。それにはうろこがびっしりと貼りついている。こんなものが人間にあるわけがない。唐突に目が開いた。

(ひ……っ)

 由宇に絡みついているのは巨大な白い蛇だった。目の色が金色に爛々と輝いている。蛇の胴体がぐるりと由宇の裸体に巻きつき、自分の生殖器を由宇に押し付けているのだ。入り込もうとしてきた生殖器を避けようともがいても、蛇は由宇をさらに締め付け動けないようにする。蛇の顔が近づき、泣いて嫌がる由宇の涙を舐めた。そして人間のように目を細める。周りは真っ暗で何も見えない。いるのは巨大な白蛇と由宇だけ……。

「由宇さん」

 水沢の声が間近に聞こえる。同時に由宇は自分が暖かなシーツに包まれているのを知った。ゆっくりと目を開けると見知らぬ部屋で、水沢が自分を覗き込んでいる。夜なのか昼なのかはわからない。

「み……ず、さわ、さん……」
「動かないほうがいいです。沼のほとりで倒れていらっしゃったんですよ。何故ひとりであんな場所へ行ったんですか?」

 沼のほとりに倒れていた? どうやって沼から出られたのだろう。考えをめぐらそうとして、もくたくたに疲れている由宇は何も考えられなかった。

「別荘にはこちらから使いをだしておきましたから安心なさい。市香さんがとても心配してましたが、大丈夫だと言ったら安心なさっておいででしたよ」
「いち……か」
「ここは私の別荘です。すぐ近くが市香さんの別荘ですから。さあ……今はお眠りなさい」
「すみません……」

 何かを水沢が言ったが、再び由宇は眠りの底へ引きずりこまれていった。

 暗い暗い水の底だ。またここだと由宇は思う。夢だ。昨日からどうなっているんだろう。また喉が渇いた。あれだけ沼の水を飲んだのにどうしてこんなに喉が渇くのだろう。あの沼の水は真水で海水ではないはずなのに。

 あの白蛇は出てこない。今の由宇はちょうど現実と夢の境目にいた。暗いけれども身体はベッドにしっかり横たわっているのを感じる。もう眠りたくない。目覚めたい。夢に引きずり込まれたら今度こそ白蛇に身体を良いようにされてしまう。

「は……」

 喉が渇いた。水が欲しい。

「水が欲しいのだね?」

 水沢の声がした。大丈夫、夢じゃない。由宇はうれしくなった。しかし身体は動かない。水沢が水をグラスに注いでいる音がする。起き上がらないと水が飲めない。喉が渇いた。喉が渇いた。早く水を……! 

「ん」

 静かになったと思ったら、温かくて柔らかなものが口に重なり、ゆっくりと水が注ぎ込まれた。由宇はびっくりして目を見開く。自分に口移しで水をくれているのは水沢だ。水沢は気がついた由宇に目だけで笑った。水を注ぎ終わると、水沢は再びグラスの水を口に含み、由宇に唇を重ねる。自分で飲みたいのに身体が動かないせいで水沢から水を貰うしかない。でも飲めば飲むほど喉が渇く。一体どうなっているのだろう。

 やがて水は再びなくなった。それなのに水沢は唇を離さず、そのまま角度を変えて由宇の唇を吸った。ぬるりと舌が忍び込んできてより深く口付けられる。動かせない両手に水沢の手が重なり絡まってシーツに押し付けられた。

「や、水沢、さん」

 顔をなんとか横に向けて口付けから逃れ、由宇は喘ぐように水沢を拒否した。でもすぐに水沢の唇が追いかけてきて再び口付けられる。同時に大きな手が離れ、耳から首、肩へと降りてきて、着せられていたバスローブの合わせ目から侵入して乳房を掴む。ゆるゆると揉みしだく男の手が恐ろしい。水沢は裸だった。

「由宇」
「いや。どうして?」
「由宇……、私のものだ」

 バスローブの紐がせわしなく解かれ、足が大きく広げられた。あらわになるのが恥ずかしくて閉じようとしても、入り込んだ水沢の体躯がそれを許さない。もう彼のものは固くなっていて熱く反り返り、由宇の内股を突いた。

「早く入りたい。ひとつに……」

 狂ったような荒い息と共に、水沢が胸の先をきつく噛んだ。由宇は切られるような痛みで繊細な悲鳴を上げる。すると今度は乳房につぎつぎと吸い付かれて、赤い跡がつけられていく。由宇は大学時代に恋人がいて初体験はそのときに済ませている。だから男の肌は知っている。でもそれは遠い昔の話だ。

「お願い、止めて」
「由宇」

 水沢の声はとても優しいのに、やっている事は真逆だ。指を由宇の秘肉に沿わせて何度も往復させ、滲み始めた蜜を絡めてさらに早めていく。じんと下半身が熱くなりはじめ、由宇の呼吸も乱れ始めた。水沢の愛撫は的確で、由宇が強く反応する箇所を暴き、そこを攻め立てていくのだ。また喉が渇いてきた。

「水……ほし」

 するとすぐに水沢が口移しで水を飲ませてくれる。水沢は由宇の濡れそぼった箇所へ指を出し入れさせながら、狂ったように口付けを深くしていく。

「ん……んっ」

 ぴちゃ、くちゅ。口元と股間の双方から水音がする。由宇は気付いていない。水沢がグラスを口にしていないのに水を飲ませているという不可思議な事実を。執拗にいじられた局部はもう熱くほころび、ぬるぬるとやわらかく水沢の指を飲み込んで吸い付く。水沢の目が黒から金色に変わり、瞳孔が猫のように縦に細くなった。目を閉じている由宇はやはりそれに気付かない。むず痒い甘い快感で気が狂いそうだ。

「あぁ……あっあっ……あああ」

 びくびくと身体を震わせて由宇はイった。触れられるだけで反応するようになった由宇は、さらに水沢に乳房や局部を弄られて狂ったように悶える。ずくずくと疼いてたまらない。もっと何か刺激が欲しい。

「ほし、ほしい……よ」
「何を?」

 意地悪く水沢が微笑む。ちゅうと首筋を吸われ、由宇はおねだりするように水沢の頭部を抱えた。含み笑いをした水沢が、やっと己のものを由宇に挿入してくる。それはずいぶんと長かった。固く熱いそれは、切なく蠢いている局部を快感に浸していく。

「ああ!」

 由宇は水沢を完全に飲み込み、必死に水沢の身体にしがみついた。水沢も由宇の細い身体をしっかりと抱きしめ返してくれる。何もかもが熱くなけなしの理性はもうない。ただ水沢の与えてくれる快楽にすすり泣くばかり……。

 水沢は挿入してもなかなか動かなかった。じれったくなった由宇が腰を動かしてねだっても、小さく笑うだけで、由宇の胎内の感触を楽しむようにじんわりと熱を伝えるだけだ。ほんの少しの身動きだけで由宇は官能を刺激されて気が狂いそうなほど感じてしまい、びくびくと身体を震わせて水沢を喜ばせるのだ。

「どうして、うごか……ないの?」
「ふふ、私は交尾の最中は滅多に動きません。だから一日から二日はこうしていられる」

 とんでもない話だ。そんなにしていたら身体力が持たない。冗談だと頭のかたすみで思っても、実際水沢は動かない。本気なのだ。

「や……やっ! 動いてぇっ」

 涙を流してねだる由宇が、水沢にはこのうえなく楽しいようだ。微妙に動いて角度を変え、薄暗闇に浮かぶ白い乳房を撫でまわし、舌を出して舐めあげる。その舌は妙に長い。器用に胸の先に絡みついて、固くなったそこを何度も舐めている。乳房がかなり気に入っているのか、吸い付かれた白い肌は赤い跡が至る所に花咲いている。

 じゅるじゅる。ちゅう……。

 ベッドの周囲はかすかに泥の臭いがする。そしてシーツの上ではあの白い貝殻が散らばって、間接照明の明かりでキラキラ光っていた。その部屋は妙だった。夜なのか昼なのかわからないばかりか、明るくなったかと思えば暗くなる。窓の外ではゆらゆらと光と影が踊っている。頭が魚で胴体が人間、目がひとつしかない蛇、形にすらなっていないアメーバのように蠢く異形の者達が主の恋の成就を祝って押し寄せ、その様を己が眼に焼き付けようと覗き込む。水沢はわかっていても知らぬフリをして達せない由宇の身体を弄びながら、結合部だけを動かさないようにして交わり続けていた。

「ん……ああっ……くふ……そこ、いや」

 水沢の手が乳房を嬲りながら、片方の手でひっそりと息づいていた肉芽を撫でた。そして蜜でぬるぬるになっている小さな芽を残酷に摘む。

「ああああああっ!」

 身体を反り返らせてよがる由宇を抱きかかえ、水沢は背後から嬲る。ぬめる肉芽を押しつぶしてはぐるぐると指を回してぐっと押し付ける。まるでそこがスイッチになっているかのように、新たな蜜が結合部から溢れて二人を濡らし、水沢のものをこれでもかと食い締めて震えた。

「ああっ……だめっ…………。狂っちゃうよ……!」
「狂えばいい。ずっとこうしていたらいいのだよ」

 くくくと笑いながら、水沢が涙で濡れる由宇の頬をべろりと舐めた。水沢の美貌は魔性をおび始め、身体中に白く輝く鱗が浮き、足が消えて長い長い蛇の胴体へと変化していく。そしてその胴体は幾重にも由宇の身体に巻きつき、ゆっくりと扱き始めた。由宇はそれを夢だと思っている。これが現実なはずがない。

「なんと愛らしいのだお前は。市香の家にはたんと褒美をやらねばなるまい」

 褒美って……何だろう?

 ぐぐぐと蛇の胴体が腰をさらに密着させた。

「あっあっ……あああん────っ!!!」

肉の芽が指ごと押され、めくるめくむず痒さが下半身から背筋へ這い登ってくる。その愉悦を逃したくても、絡みつく胴体がそれを許さない。

「ああああっ。あは……んっ、うぅ……ーああ! 放して、動いてぇ」
「どちらが良いのだいお前は。ああ……気持ちがいい、お前の中は最高だ。早くここにややが宿ればよい」

 ずくりずくりと水沢のものが動き、由宇の奥を突き始めた。人間の男ではとても届かない場所を、水沢のものが執拗にノックして、由宇に新たな悦楽を与え始める。由宇はまだ知らない、水沢の挿入はまだ始まったばかりだという事を。水沢が存分に由宇を楽しみ、由宇の中へ己の精を放ったのはそれから二日後の明朝だった。

 グッタリと疲れていた由宇は、蛇の鱗が散らばっているベッドで目覚めた。相変わらず窓の外では光と影が踊っている。気だるい身体を起こし、まだ水沢の家だと思いながらあたりを見回す。水沢の姿はなかった。

(喉が渇いた……)

 水の入ったグラスをサイドテーブルから取り、ごくごくと飲む。でも喉の渇きは一向に癒えない。ようやく由宇はこれは尋常ではないと気付いた。やはり自分は病気か何かだ。市香に言って病院へ連れて行ってもらおう。それにしても淫らな夢を見たものだ。由宇は顔を赤らめながらベッドから降り、椅子に自分の服がクリーニングされてかけてあるのを見つけた。早く着替えて水沢に暇乞いをしなければ……。

「なに……?」

 服を脱いだ由宇は己の身体に散らばる赤い斑点にびっくりした。身体中至る所についているそれは、胸を中心に沢山ある。そして姿見を見て胸が潰れるほどの衝撃を受けた。

「う……そ。夢じゃないの?」

 では水沢は……。震えながら後ずさった由宇の足の裏に触れるものがあった。見下ろすとあの綺麗な貝殻が一面に散らばっている。ベッドのそれに気付いていなかった由宇は今度こそ甲高い悲鳴をあげた。

「やだ。何よこれ……!」

 ここは怖い。早く帰ろう。信じたくない。水沢は一体なんなのだろう。あの絡みついていた白いものはまるで……。着替えた由宇が裸足のままでドアを開けようとした時、勝手にドアが開いた。

「大丈夫かい由宇。悲鳴が聞こえたのだけど……」
「きゃああああああっ!」

 入ってきた水沢の姿に、先ほどよりも大きな金切り声を由宇はあげる。水沢は上半身人間で下半身が蛇だった。そして服は着ておらず、やけに長い黒髪をずるずると引きずっていた。耳は尖り、黄金の目は瞳孔が縦に裂けて爛々と光っている。

「……何を驚いているの? お前はさんざん私と交わっただろう?」
「夢……だわ」
「夢? そんなわけはないだろう。夢がそんなふうにお前の身体に私の愛したしるしをつけるのかい? ふふふふ」

 ずるりずるりと蛇の胴体がうねって部屋に入ってくる。逃げたいのに出口が塞がれているため、由宇は震えながら窓際に逃げた。そうだ。窓から逃げればいい。そして市香に助けを。

「窓からどこへいく?」

 逃げるに決まっていると窓を開けようとしたのに、由宇はそれができなかった。窓の外は泥と異形の者が漂う水の底だったのだ。はるか上から太陽の光らしきものが差している。

「お前は私と一緒にこの沼で生きるのだよ」

 ずるずると蛇の腹が絨毯を伝う音がする。由宇は恐怖で心を凍りつかせながら、窓を背に貼りついた。胸の鼓動が狂ったように打ち鳴らされ、身体全体から汗がしたたり、がたがたと震える。歯がかみ合わずカチカチと音を立てた。

「そ……っうそ!」
「うそなものか。お前は市香の父親から私に捧げられた生贄なのだよ。お前を得る代わりに、私はあの男達と一族に永遠の栄華をくれてやるのだ」
「……市香……ゆる……はずないっ」

 とうとう由宇の前にたどり着いた水沢がくすくすと笑いながら、震える由宇の頤を自分に向けた。脅えた表情がたまらなく水沢の雄を刺激する。この可愛い可愛い女はずっと自分のものだ。

「許すとも。お前の存在は人間界から抹消されたのだから。私の力を使えば造作もない事」
「貴方は誰なの!」
「水沢茂紀は仮の姿じゃ。本当はずっとこの沼で生きておる白蛇……あやつらは神と呼んでおる。または主だとな」

 夢だ夢だ。こんな事が現実に起こっていいはずがない。

「私を……帰して」

 喉のあまりの渇きに声が枯れ始めた。水沢は蛇の目を細めて満足そうに笑う。

「ここは嫌じゃろうが、お前はもうこの沼の水を飲まずには生きられぬぞ。そう……10分と持つまい。だが喜べ、お前はこの沼の水だけで生きてゆける。私がいくらでもやろうほどに」

 恐ろしい事実に固まった由宇を引き寄せ、水沢がまた口移しに水を注ぎ込む。彼は水を含まなくても由宇に水を与えられるらしい。あっという間に喉の渇きが消えた。だがそんな事実は認めたくない。由宇は水沢を突き飛ばしてドアから廊下を走る。どこかに出口があるはずだ。きっと。

「やだ……やだっ! お願いだから夢から覚めてよ。おかしいよこんなの。市香、ふざけてないで出てきて!」

 どこまでも続く石の廊下を泣きながら由宇は走った。もう結婚なんていい。休暇もいらない。会社で働いて、家に帰って、美味しいものが食べられたら言う事はない。やっぱりアパートでずっと休暇を過ごしていたらよかった……!

「きゃあっ!」

 階段に躓いて、由宇は派手に転んだ。昨日と同じところだと思いながら膝を見下ろし、それを目にした由宇はひっと喉を鳴らした。そこにびっしりと白いうろこが生えている……。

「何、何よこれ。なんで私の身体にこんなものが」

 両足、両腕、脇、首に、水沢と同じ色の白い鱗が生えて肌を覆い始めていた。自分の身体の変化におののいていると足の感覚がいきなり消えた。信じたくないと見下ろした目に飛び込んできたのは、自分の足ではなくピンクがかった白のうろこに覆われた蛇の胴体だった。腰から下が蛇になっている……。

「夢、だよね。こんなの……現実にあるわけが」

 上半身は人間だ。進もうとするとずるりと蛇の胴体が動く……。

「誰か、助けてよ」

 涙がさっきから止まらない。由宇は気付いていない、その目も蛇の目になり耳も尖ってしまっている自分自身に。その姿で外に出たら、十中十の人間が化け物だと叫んで逃げていくだろう。ずるりずるりと階段を上るとそこに優しく微笑む水沢がいた。水沢は蛇になってしまった由宇の胴体にぐるぐると絡みつき、泣いている彼女に熱い口付けを落とす。

「助けてやろうぞ。お前は一人ではない、私がいる」
「……人間に戻りたい」

 くすくすと残忍に笑って、水沢は由宇の身体を覆っていた服を引きちぎり、石の廊下に投げ捨てた。あらわになった乳房を柔らかく揉んで首筋に吸い付き、新たな赤い花びらをつけていく。そして蛇の身体になっても濡れている局部に、己のものをゆっくりと埋没させていった。

「うう……」
「いい子にしていたら、時々人間の姿に戻して外界へ連れ出してやろうぞ。服も宝石も何もかもお前の思いのままじゃ」
「……服も宝石も要らない……、あぁ!」

 太く固くなった水沢のものに奥を突かれて由宇はのけぞる。蛇になってもこの愉悦は変わらないらしい。

「そうかそれでこそ私の妻なのかも知れぬ。さあもう泣くな、続きをしようぞ」
「帰り……たいよっ」

 その場で押し倒され、さらに水沢が絡みつく。蛇の交尾は長い。さらに水沢ほどの力を持つ者になると何ヶ月にも及ぶ。この広い家全体が水沢の部屋なのだ。異形達はそれを垣間見て、新たな主の誕生を心待ちにする。この調子では来年辺りには赤子の声が響くだろうと。

「誰かお願い、気……付いて」

 なおも開放を願う由宇の唇を、水沢が己の唇で塞いだ。由宇の声は沼の奥底のちいさな音に過ぎず、人間達には永遠に届かない……。

 市香は気分も晴れやかに父親やメイド達と別荘を後にした。

「すっごく楽しかった。また来年もパーティーするんでしょお父さん?」

 沼を通り過ぎる時に、市香は隣を歩く父親に尋ねた。父親はちらりと沼を見て小さく笑う。

「いや……、する必要はなくなった。市香の結婚相手が見つかったからな」
「やだ、もう」

 市香は水沢によって結婚相手を決められた。即座に恋におち、今年の冬に結婚式を挙げる予定だ。

 一行の姿が消える頃、沼から異形の姿に変わり果てた由宇が現れた。来年の夏までもうこの沼には誰も訪れない。ついで浮上した水沢が由宇を優しく背後から抱きしめる。異形の者達がそれを見て喜び、由宇が絶望して流す涙を水沢が長い舌を伸ばして舐め取っていく。

「可愛い由宇。離しはせぬぞ。愛おしい、愛おしい……」

 由宇が開放される日は永遠に来ない。

 <終わり>  

Posted by 斉藤 杏奈