社長のおこのみ

 憧れの秘書課に入れたのはいいものの、この人使いの荒いお姉さまは一体何なの。

「樋口さん、お茶二つお願い」
「樋口さん、午後の会議の書類、20部コピーまだ?」
「樋口さん、タクシーのチケットはどうなってるの? もう無くなりかけてるわ」

 樋口さん。
 樋口さん。

 ふう、こき使ってくれますわ。秘書課の華の夏原彩美さん。国立大卒の才女は端女のような事はされないんですね。こりゃあ、私のポジションの社員が次々辞めてくのもわかるわ。

 わかってますよ、彼女は社長秘書、私は秘書課の雑用係でございますからね。しかも短大卒ですし。秘書課に配属された時は喜んだものだけど、現実はやはり厳しい。仕事は総務での雑用がさらにパワーアップした感じだ。

 室長は事なかれ主義のおっさんだし、他の皆はよくわからないライバル心燃やしてるし、一体うちの会社はどーなってんだろ。ここだけ世界が違うような。同じビルなのに一階と五階は別世界だよ。ああ、わきあいあいとした総務に帰りたい……。

 取引先にお渡しする手土産を車で30分もかかる所まで買いに行き、戻ってきた私を待っていたのは、修正してくれという書類の山だった。

「それ、棒グラフに皆変更よ。あと一時間でやってね」

 やってね……って夏原さん……、あーたの仕事ではないのですか? でも夏原さんはさっさと社長室へ戻っていく。あの人、本当に雑用皆私に押し付けるんだな。ともかく一時間というタイムリミットがあるから仕方ない。私はパソコンの前に座ってグラフを変更し始めた。すると隅のほうで別のお姉さま方がひそひそと内緒話を始める。

「夏原さん、やたらとあの子にきつくない?」
「きっとライバルとか思ってんじゃない。社長の好みの髪型じゃんあの子」

 丸聞こえですよお姉さま方。というか社長好みの髪型ってなんじゃいそれは。そんな事を考えて、はたと私は気づいた。確かに私と夏原さんの髪型は同じだ。私の髪の色は真っ黒だけど、色をブラウンにしたら……夏原さんと同じ毛先にレイヤーが入ったカールに……、げげげ、これのせい? 

 夏原さんと社長はデキているともっぱらの噂だ。つーか、二人の間に漂う空気を見りゃあ誰でもわかる。うちの社長は30過ぎのおっさんだけど今だ独身。眼鏡顔で普通な人だけど、なんつーかカッコいいと思わせるものがある。それは仕草だったり、声だったりする。

 そうか……。

 夏原さんも独身の28歳だしな。多分行き遅れてしまうから絶対逃したくない有料物件なんだろう。社長だし、財産有りそうだし。

 髪の色が違うから気づいてなかった。確かに同じ髪型は嫌だよね。私は社長を狙ってるわけじゃないから、変な誤解をまねくこの髪はばっさり切るか!

 翌日、休日だった私は朝も早くから隣家の呼び鈴を鳴らしまくった。普通こんな失礼はしないんだけど、おばちゃんもおっちゃんも共稼ぎの出張しまくりで、家に居るのは幼馴染の幸一一人だとわかっているからやっている。3分ぐらい鳴らしまくった頃、ようやく幸一がぼさぼさ頭でドアを開けた。

「うっせーよお前。今何時だと思ってんだ」
「朝の7時。起床の時間だよ」
「俺、9時起床なんだけど?」
「わかってるよそんな事。だから早く来たの。朝食作ってやるからさ、髪の毛切ってよ」
「えー? このまえ切ったばっかじゃねえか。第一気に入ったって言ってたろ?」

 ぶつぶつと文句を言う幸一の背中を押して、私は家に押し入った。微妙に散らかってわね。男の一人暮らしってこんなものかなあ。

「飽きたのよ。それより早いとこ切ってよ。そうでないとお姉ちゃん情報を流してやらないよ」

 お姉ちゃんに幸一はベタぼれだ。実るかどうかは知らないけど。

「へいへいへーい。お前、輝夜さん見習っておしとやかにしろよな」
「お姉ちゃんみたいな淑女ではありませんのでね」

 おばさんの三面鏡の前に私は座り、幸一はぶつぶつ言いながらも髪を切る準備を始めてくれた。ううむ、鏡の中に映る自分の髪型はどー見ても夏原さんだ。早いとこ脱夏原しないとね。

「んで、どういう髪型にすんの?」

 幸一はまだ駆け出しの美容師見習いだ。だからいつもタダで切ってもらえる。

 但、時々失敗もあるから要注意なんだけどね。でも最近ぐんと失敗はなくなったから大丈夫だ。

 鏡越しの幸一に私はうーんと考え込む。……考えてなかったな。そんな私を見て幸一は閃いたように言った。

「よし、お前の女子力をあげる髪型にしてやろう!」
「えー? 大丈夫なのそれ……」
「まかせとけ。俺はそのうち日本を代表するトップスタイリストになるんだからな」
「……ほんとかねえ」

 まあこの髪型も良かったし、いっか。私は櫛で髪を梳かれながらその心地よさに眼を閉じた。本当は私もまだ眠い……。

 ……んだけど。

「なんじゃあっ……こりゃああああっ!」

 鏡に映った私は見事なお猿さんに変貌していた。

 後ろで幸一が、
「ごめん、失敗しちゃって……ごまかそうと切ってたらこうなっちゃった。テヘ」
 などと舌を出してごまかし笑いをする。

 私は怒りの余りやつの前髪を切ろうとしたけど、すばやくガードされ、代わりに股間を思い切り蹴り上げたのだった。

 翌日、私は会社の前を歩いている時から注目を浴びていた。いい注目で無い事は確かで、聞こえてくる必死で押さえ込むような笑い声が辛い。悔しいぃっ! あんなハゲの親父にまで馬鹿にされてる、てめえのそのバーコードをバリカンで刈ったろかっ! いさぎよくハゲになれっ!!

「ちょ……見てあれ」
「え? やだあ、イメチェン失敗?」

 案の定、秘書課でもガン見されてクスクス笑いの的だ。じろじろ見るなーっ。バナナなんか手渡したら泣いてやるから!

 とほほと席について支度していると、室長が手招きをした。すごく嫌な予感がするなあと思いながら行ったら、予想を大きく上回る事を言って下さったのだった。

「今日、夏原さん風邪でダウンだから、代わりに社長についてね」
「え……?」

 なんの嫌がらせだよ! 今日は取引相手の偉いさんのおうちへ招待されるという、私用としか思えない予定の日じゃないかっ。こんな猿が社長についていったら、うちの会社いい笑いもんだよっ。

「無理ですよっ。他の人にしてください。雑用ならぜーんぶ受け付けますから!」

 唾を飛ばす勢いで拒絶する私に、室長は煮え切らない態度を続ける。

「いや、君は確かに雑用に優れてるけどねえ。社長の交友関係のアレコレについて詳しいの、夏原君を置いたら君しかいないんだよ。今回招かれる人はうちの取引先の社長さんとか、常務さんとか、そういう人ばかりでねえ……。君、あの方々のお好みとか家族構成とか熟知してるだろ?」

 そりゃ手土産の手配とか、お店の手配とか、資料の手配とかこき使われておりますのでね! でもそんなの覚えりゃいいじゃんよっ。

「それなら今すぐデータ化するんで、他の人に! 私みたいな猿よりヴィーナスが同行したほうが絶対わが社のためです」
「しかしねえ、日下君も、池中君も、外せない用事があるんだ。私もだ。空いてるのは君しか居ないんだ」
「ホスト役なら、下の営業部とか総務部とかあるじゃないですか。そこにも一杯適任者いますよ」

 だから頼むから見逃してくれという私の嘆願は聞き入れられることはなく、私は社長室に行くしかなかった。夏原さんの馬鹿! なんだって今日に限って風邪なんか引くんだ……っ。

 さて、私はほとんど会話をした事がない社長に会うために、社長室のドアをノックした。思ったより大きな音が響いてびびった私に、社長の返事が静かに返ってきた。

「どうぞ」

 心臓は最高にどっくんどっくん言っていて、今後ろから肩を叩かれたらぶっ壊れそうだ。もしくはバネのように飛んでいくかもしれない。大体私は秘書課に居るけど雑用専門だから、偉いさんにはほとんどお眼にかかった事がないから免疫がない。家も普通のサラリーマンのお父さんとお姉ちゃん、専業主婦のお母さんだし。

 重厚な雰囲気が漂うドアを震える手で開けて閉めると、私はそこで頭を下げた。うう、猿の頭が目立ちまくってるだろーな。

「今日、夏原に変わりまして秘書を勤めさせていただきます、樋口えみりです。よろしくお願いします」

 おし、声は淀みなく出たぞっ。心の中でガッツポーズをとって頭を上げた私は、こっちをじっと見ている社長に緊張気味の顔を向けた。

 社長は私をガン見したまま身動きひとつしない。あれ? 普通なんか言わないか? 社長は人当たりが良くて優しい人だと聞いていたんだけど……。

「…………」
「…………」

 たっぷり三分経った頃、沈黙に我慢しきれなくなった私は言った。

「も、も、申し訳ありませんが、本日のスケジュールの確認に入ってもよろしいでしょうか?」
「…………」

 やはり社長は何も言わない。ガン見が続くのみだ。ううっ、一人芝居しているみたいで嫌だな。なんか言ってくれたら良いのに。こんなんだったら夏原さんにこき使われているほうがましだよ!

「……髪の毛」

 やっと社長の口から飛び出したのは、やはりお猿の頭の事だった。そんなに珍しいのかあっ。

 ……先行き不安な、臨時秘書業務の始まりだった。

 何で私は勤務中に美容室に来ているんでしょーか?

 にこにこしているなんか凄い腕そうなスタイリストさんと、じーっと見ている社長に挟まれ、私は美容室の椅子に座っていた。鏡とか花とか照明とか、なんか華やかで場違いだよ。幸一のおばさんの部屋とは天地ほど世界が違う。

「成程。まだ中習者がやったんだろうね。こりゃひどい……」

 顎ひげをおしゃれに伸ばしてるスタイリストのお兄さんが、私の髪に触れながら気の毒そうに言った。手が妙に色っぽい。

「あの、これ以上切られるとハゲちゃうんですけど」

 警戒しながら言うと、お兄さんはにこにこ笑いながらはさみを手にした。

「大丈夫。司の好きな髪型にするだけだから。ぐんと女らしくなるよ」

 司? ……って誰だ? 眼を泳がせていると、明らかに鏡の中の社長が不満げに顔をゆがめるのが視界に入った。

「……自分の会社の社長の名前ぐらい覚えておけ」

 ひいいいっ、なんだか怒ってる超地べた這うような声っ。ありえないんで忘れてました。有川司社長、貴方でしたね! ってかなんで私が社長好みの頭にならないといけないんでしょーか。

「えーと、私、エクステの方がいいな……。前の髪型でも……」
「……長い髪のエクステは手入れが大変だぞ。樋口さんにその根性あるのか?」

 な、なんでそんな事社長がご存知なの?

「で、でもですね」
「時間がない。もう早くしてくれ」

 ぎゃーっ。聞く耳持たない不機嫌MAX俺様状態。おかしいよ、やさしくて人あたりが良い社長だったよね? 皆そう言ってたよね。もしや私の髪型が猿に似ているから人間扱いされてないとか? とはいえ、眼鏡越しの眼力に負けて美容師さんにさらに短く切られるしかなかった私だった。

 数分後、私は地獄から天国に上った。上らずにはいられようか。

「わあっ……」

 社長お墨付きの美容師さんだけある。私のお猿の頭が素晴らしく女らしい(自分で言うのもなんだけど)ベリーショートに仕上がっていた!

 祝! 脱、お猿さんだっ。

「うんうん。樋口さんみたいに顔が小さくて頭の形のいい子はこの髪型似合うんだよ。多分、その美容師の卵君もこんなふうにしたかったんだろうけどね」

 スプレーで仕上げながら、美容師さんは満足そうににこにこ笑う。あまりの幸福にぼーっとしていると、鏡の中で睨んでいる社長が眼に入った。

 な、なんですか! 自分好みでなかったんですか。そうだとしても私は責任持ちませんよ。貴方が連れてきたんだからっ。

「おい司。そんな眼をするなよ。会社ではやさしい社長なんだろ」
「……俺はいつでも優しいよ。誤解を招くような言い方をするな」
「そんで、秘書ちゃんのこの頭はどう?」
「ふん、そんなもんじゃないか」
「ついでにメイクも変えちゃう?」
「必要ない。会場に専門が居るから」

 専門? 普通の小さなパーティーじゃないの?

 社長の高級車に乗せられ、県外のそのパーティーが開かれるお屋敷まで向かう最中、私と社長は無言だった。くうう……偉いさんと密室に二人っきりってのは息が詰まる。私は後部座席に座ろうとしたのに、社長が強引に助手席に座らせたんだよ。なんで? 

 だいたい高速道路って話題がないんだよね。事故がなければ(あったら困るけど)本当にスムーズすぎてあくびが出る。眠くなるのよ。でもさすがに上司に運転させて眠りこける部下というものはあるまい。いくら新米の私でもそれはわかる。

 っていうか……、いつもの運転手さんはどうしたんだろ。お、話題ができた!

「あの、社長。運転手さんも風邪ですか?」
「……谷か? 別になんでもない。なんだあいつの事気にして、まさかあいつの事が好きなのか?」

 不機嫌な低音ヴォイスは続いていて、私は内心で飛び上がった。怖すぎるよおお。

「好きって言ったら好きですが」
「何ぃ?」

 うわあああん。余計に怒ってる。何でっ。

「だって谷さん人気あるんですよ。やさしいおじさんでいつもにこにこしてるし。お菓子下さるし」
「君はお菓子をくれたら年寄りでも好きになるのか?」
「いえ、ああいうお父さんなら欲しいなあって」
「お父さん? 君は年が離れてたら父親として男を見るのか?」
「え? ……と、谷さんは50過ぎだし……。うちの父と年近いですし」

 隣から漂ってくる緊迫感に満ちた威圧感がたまらないいいい。怖いよ、なんか社長を中心にどす黒い何かが渦巻いている幻影を感じる。怖すぎて横を見る事ができないっ。
一体なんで怒ってるの? 社員を褒めたんだから褒めて欲しいくらいだぞっ。

「チッ」

 うわあっ舌打ちしたよ社長。ヤ○ザですか。まじ怖すぎる、降りたいけど高速だからな……とほほ。と、前方にパーキングエリアの看板が見えたので私は社長に言った。

「社長。恐れ入りますがあのパーキングエリアで手土産を買いたいので車を停めてください」
「……何でだ? もう用意してあるぞ」

 まだ怒ってる、もう知らない。ここは職務に忠実であるべきだ。

「木澤様の奥様は、パーキングエリア限定スイーツが大好きなお方です。今日のパーティー出席者で、こちらのパーキングエリアを通るのは社長だけですのでお喜びになるかと」

 木澤様というのは、今日のパーティーの主催者のお名前。

「…………」

 社長は何も言わずに車をパーキングエリアに入れてくれた。

 木澤様のお屋敷は素敵な洋館だった。私はこんなのを実物で見るのは初めてなのでやっぱり緊張した。ドラマやセレブ番組ぐらいでしかお眼にかからないよねえ。ゴルフ場経営できそうなぐらいの馬鹿広い敷地に、四季折々の花が整えられている庭園。床なんか大理石で鏡みたいにぴっかぴかだよ!

 お猿が来るとこじゃないわ。……帰りたい。いや、まあ今日一日だけだからなるべく社長の影になっていれば誰も気に留めまい。

 割り当てられているお部屋にメイドさんに招きいれられた私達は、パーティーが始まるまでの間しばし休憩を取る事になった。と言っても私は先に着替えやメイクが必要だったので、別室でそれらを手早く済ませた。

 なんと専用の控え室まで用意されて居るんだよ。金持ちってどないなんだろ。私の他にも十数名ほど招待客が支度をしていて、私はお嬢様じゃないんだから必要がないと言って待ち構えていたスタイリストさんを他のお嬢様達に押し付け、用意されていた落ち着いた色のサーモンピンクのスーツを着た。地味すぎず派手すぎずってな感じがオッケーだ。

 うーむ、やはりブランド物は着るだけでシャキッとするな。誰が用意してくれたのか知らないけどサイズぴったりだ。ピアスとかネックレスは一番地味なものを着用し、なんとか場に浮かない服装になった。

 ……でも不安だなあ。私、秘書検定はまだ短大で取った2級だけなんだよ。準一級を取るために勉強はしてはいるけど、難易度が高すぎてトホホ状態だ。

 今日の目標はやはり極力目立たない事にしよう。夏原さんのような有能さは私にはない。

 ノックをして社長のお部屋に入ると、社長は着替えを済ませてソファの背もたれで眼を閉じていた。高速一時間でお疲れかな。なるべく早く支度を終わらせたつもりだけど、これはよくない。自分の事優先にしては失格だ。

「社長、お茶をどうぞ」

 社長の好きな日本茶を早速淹れ、置かれている眼鏡から少し離れた所に湯飲みをそっと置いた。そして、ぎょっとした。

 だだだだだ、誰だこの美形のお兄さんはっ!!!

「……ありがとう」

 湯飲みに手を取った社長は変身していた。人間って眼鏡取っただけでこんなに変わるものなのか! 

 ガン見しないようにちらりと見たけど、これは騙された。二十二歳の私には三十過ぎの社長はおっさんにすぎない……と思っていたけど、これはおっさんとは言わないよ。イイ男と言うべきだ。

 苦みばしったイイ男という表現をお母さんがよく使っていたけど、まさにそれだ。太目の眉にすっと通った鼻筋。口元は男らしくきりりとしまっていて……、ああ……眼が、眼がとにかく黒く澄んでて素敵過ぎる。

 ドッ・キッ・ンッ!

 やばい。おっさんに、それも上司である社長にときめいてどうする。しかも私は猿なんだぞっ。身の程を知れっ。

 活火山一歩手前状態にドッキンドッキンしている私に、お茶を飲み終わった社長が笑いかけた。ぎゃあああっ、その笑顔は私に対する挑戦なの? それとも宣戦布告かああっ。

「いつもお茶入れてくれてたの、樋口さんだったんだな。夏原ではないと思ってたけど」
「は、は、はい」
「どうした? 真っ赤になって」

 やばい。鼻血が出るかもしれない。私はお姉ちゃんと違って、イイ男に免疫がない悲しい猿だ。

「いえ、暑いなと思いまして」
「そりゃいけないな……」

 社長がそう言いながらソファから立ち上がってこっちに歩いてきた。な、なんだ。思わず後ずさった私だけどすぐ後ろの壁にぶつかった。その私の身体をくるりと回し、背後から社長がなんとも言えない甘い声で言った。

「これ、取ったほうがいいんじゃない?」
「は……?」

 するりと巻いていたレースのスカーフを社長に取られた。確かに涼しいけどこれは……。ありえない社長の行動に動揺していた私が気がついた時には全てが遅かった。うなじに何か熱いものを感じてそれはすっと冷たくなる。

「うん、やっぱり樋口さんは髪の毛切って正解だな。物凄く俺好みだ……」

 ぎゅううううううっと背後から抱きしめられて、私は絶叫した。

「セ、セ、セクハラだああああっ!」

 帰・り・た・い。

 その言葉が、さっきからずっと頭の中をリピートしている。仕事しないといけないんだけど、残念ながら私の秘書スキルは秘書検定2級から進歩してないんだ。つまりズブの素人の私は控えめに微笑んでいるしかない。

 社長は私の前で、取引先の偉いさんと楽しそうに談笑している。ざっと見ると、どうも秘書として社長に付いて来ているのは私ぐらいで、後は親子とか夫婦ばかり。なんなのこのパーティー……。居心地悪くて仕方が無い。営業スマイルも限界が近づいてきたよ。どう考えても秘書は必要ないパーティーだよこれは。

「楽しんでくれているかね、司君」

 は、木澤様のお声が。ぼけっとしてはいけない。私はお二人に頭を下げた。お二人は熟年おしどり夫婦といった感じで、とても仲が良さそうだ。凄く美しい木澤様の奥様が、にこにこと私に笑いかけて下さった。良かったパーキングエリア限定スイーツはお気に召したようだ。

「今日は素敵なお土産ありがとう。貴方達が来るのをとても楽しみにしていたのよ。だって司さんが恋人連れてくるっておっしゃってたから」
「ははは」

 社長がご機嫌に笑う。
 なぬ? 恋人とな。どこに居るの? 私は周囲を見回したけど、それらしき人は見当たらなかった。困るよ社長、その方の準備もあるんだしそういう事は事前に私に言ってくれないと。今頃迷っていらっしゃるかもしれない……。

 しかし、社長は私の困惑をよそにいやにうれしそうに言った。

「ええ、何しろ一目ぼれですから」
「まああ……惚気るわね。若い人は良いわねえ」
「あの堅物の司君がねえ。これだけ可愛い子だと惚気たくなるのもわかるよ」

 ……何故お猿の私を皆見るの、ここは動物園ではないはずだが?

「人の惚気は最悪ですが、自分の惚気は最高ですね」

 社長が私の腰に(!)手を回してきた。またセクハラか! いい加減にしないと労働組合に訴えるぞっ。社長は秘書にセクハラするとんでもない男だって、恋人さんにも告げ口してやるっ。

「これだけ理想的な女性が現れるとは思っていませんでしたから。ね?」

 ね? ……て、何で私に同意を求めるんですか? 秘書業務にはこんなもんまであるの? 全く会話が飲み込めない私の背後から、聞きなれた声がした。

「あらあらずいぶんと可愛がっているのね、司」

 ぎょぎょぎょっと振り向いた私の目に飛び込んできたのは、ずいぶんセクシーな服をお召しになった夏原さん。

「あの夏原さん風邪は?」
「もう治ったわ。ごめんね代わりさせちゃって」

 絶対仮病だろと思ったけどそれは言えない小心者の私。なんか威圧感あるんだよ。あ、そうか……恋人って夏原さんの事か。びっくりしたぞもうっ。でもさらにびっくりする事を社長が次にのたまった。

「なんだ姉さんか。ずいぶん遅い登場だな」

 姉さん!? 聞いた事ないぞそんな話はっ。大体夏原さんは28歳で社長は30過ぎでしょ? それとも何かそういうプレイ? しかも驚いた事にそれは周知の事実なのか、木澤様ご夫妻も周囲も夏原さんの登場に疑問は無い様で、誰も不躾な視線は投げてこない。変に反応しているのは私だけだ。

 なんだなんだなんだこのパーティーはっ! わけわかんないよおおおおおっ。とにかく一つ一つ解決しなくては。

「あの、夏原さん……と社長は恋人同士……なんですよね?」

 震える声で私が二人に問うと、夏原さんがおかしそうに笑い、社長はぶすっとむくれた。

「やあだ、私が司と恋人同士ー? 有得ないわよ、はははっ!」

 はははっ……て、あーた。つうかキャラが違うような……こんな人だったっけ。でも木澤夫妻はにこにこして私達を見ている。なんなの一体?

「知らぬは本人ばかりなり、なのかしら。こちらはいいから説明してさし上げたら? 司さん」

 奥様が優しく言ったのを合図に、社長は私の腕を引っ張って会場を出た。その後ろを夏原さんがついてくる。

 戻ったのは先程セクハラを受けた部屋で、私はかなり警戒した。たっぷり5メートルほど離れ壁に背をつかないようにして、ドアからいつも逃げられるように場所を確保する。猿もこれぐらいの頭は働くのだ。二人は当然ソファに腰掛けている。

「俺の隣に来て、樋口さん」
「いいいえっ。こちらで伺います。どうぞ社長」
「やあねえ司。早速手を出したんじゃない? 言ったでしょこの子は多分誰とも付き合った事ないって」

 余計なお世話だ。私は猿にふさわしい人を探しているだけなんだ。

 社長は参ったなあと頭をかき、私をじいっと見つめてきた。うっひゃ、そのなんか得体の知れない甘い視線は止めて下さいっ。心臓にとても悪いのですよ。

「この人は異母姉でね、夏原は前妻の旧姓。俺の母親が後妻なんだ。会社では一握りの連中しか知らないけど、実際姉は秘書じゃない。取締役の一人だ」
「……え?」
「いつも秘書業務を君に押し付けているだろ? 当然なんだよ、俺の部屋で総務と経理の専務として働いているんだから」

 なんでそんな面倒くさい事をするの、普通に取締役でいいじゃない。秘書だなんてうそつく必要ないでしょっ。

 夏原さんはけらけら笑った。この人は眼鏡かけてないけど化けたっ。いつものお局様はどこにいったんだっ。

「だって、隠れてやったほうが見つけやすいんだもの」
「見つけるとは何をです?」
「司の配偶者」

 ハイグウシャ。
 ……………………。

「うちは学歴至上主義ではないから、能力がある人材なら中卒、高卒、短大卒、なんでも受け入れるんだけれど、やっぱり司狙いの女が入社するのよ。それは構わないんだけど、この子の好みがうるさくて……」
「黙れ姉さん。あんたがいびるから皆逃げるんだろ」
「あの程度の何がいびりよ。雑用を嫌がるようで秘書なんか勤まるわけ無いでしょ」
「そりゃそうだけど、姉さんはやりすぎだ。現に樋口さんには、接客以外丸投げだったじゃないか」

 ……それよりも重大な問題がある。私は二人の会話が途切れるのを待って口を挟んだ。

「あのー、夏原さんは28歳ですよね」

 確認のために聞くと、夏原さんは大笑いした。

「違うわよ。本当は38歳。ごめんねーさば読みすぎて。本当は司が28歳なの」
「ほんとうはババアだ、この女」

 なぬううううっ。なんて若作りなんだっ。でもひょっとして騙されてたの私だけかもしれない。秘書課の人々とは私はほとんど付き合い無かったものね。ぼーぜんとしている私に夏原さんは嬉しそうに微笑む。

「だからね、司が結婚したら私は晴れて退社できるのよね」
「え? なんでですか?」
「取締役は一応の肩書きだし。私も主人の会社のほうへ本腰入れたいのよね。司もまあ社長に見れるようになってきたし、もうそろそろ大丈夫かなって思ったところに、司にジャストミートな貴女が面接に来たわけよ」

 な、なんか、自分が恐怖するほうへ話が流れていくぞ。私はじりじりと後ずさった。ここは危険だ。なんか猛獣みたいな姉弟が私を捕らえようとしてるよっ。あれ? 社長がいつの間にかいないぞ。トイレかしら。

「こっちだ」

 いつのまにか私の背後に社長が! しまった、背後を絶たれたぞっ。この人本当に背が高いよね、私は160センチで普通なんだけど、なんか顔の横に胸があるんだよこの人の。いやいやいや身長なんか気にしてる場合じゃない、えーとえーと。

「じゃあ私はお邪魔みたいだから帰るわね」
「邪魔じゃない、もう少し居てくれても良いぞ」
「冗談。これからお楽しみのお二人の邪魔をする気はないわ。樋口さん、司をよろしくね」

 よろしくって何をっ! 追いかけようとした私の腰に社長の特大の手が巻きついた。ぎゃあっ新手の触手かこれは! すげえ拘束力だよっ。

「今日は何もしないよ姉さん。嫌われてしまうからね」

 今日はって何ですか社長!?

「はいはい珍しい事。落とすと決めた女は、確実にその夜ベッドに連れ込むあんただってのに。まあその分本気って事かしら……うふふ。頑張ってね樋口さん」
「待ってくださいいいいっ」

 私の叫びも聞かず、夏原さんはすっと立ち上がって部屋の奥のほうへ歩いていく。ちょ、ちょっと待って夏原さん、そっちは出口じゃないですよっ。

「あっちの部屋にも出口があるんだよ。樋口さん」
「でもあっちってベッドルームですよ」
「そうなんだよね。今日使用したいんだけどね、樋口さんと」

 はっ! 何を普通の会話をしているんだ私はっ。この社長の拘束触手をなんとかしないと危険だ。この人なんか変だもん。……と慌てている私に拍車をかけるかのように、社長の長ーい指が、すすすとうなじから首筋を撫で下げた。

「ななな、なんばしょっとですか社長」
「どこの方言それ? 面白いなあ樋口さんは」

 ぞわぞわぞわーっと妙な戦慄が身体に走った。なななにこれっ。こんなのやられたら普通気持ち悪いよね? でもなんか違うんだよ社長にされると。何でと言われるとわかんないんだけどねっ。えーと社長マジック? それとも私は完全に猿になったのか……、わからんっ。

 おーちーつーけっ、私は秘書だ、ここへは仕事来たんだ。社長はなんかおかしいんだよ、きっと夏原さんの風邪がうつったんだよ! それしか考えられない。

 お腹に息を溜めて私は言った。

「あのですね、私は秘書として付いて来たのであって、社長のこういうストレス解消は他の方にお願いしますよ」
「もうパーティーは終わったから、秘書業務は終了だ。これからは大人の時間だ」
「いえ私はまだ子供ですし、お猿ですので!」

 もうどうでもいいから、今の妖しい雰囲気の社長から離れたい。帰りたい。私では相手できないよこんな大人すぎる相手はっ。男をとっかえひっかえの美人お姉ちゃんならどうするんだろう。

 …………わからんっ。

「お猿だろうがなんだろうが、この髪型は俺好みの魅力的な髪型なんだよ。これが似合う女が今まで居なくて……ね。分かる? 俺の気持ち」

 激甘ヴォイスで耳に囁くの止めて下さいってば! 突然腕の拘束が緩んだので私はばっと離れた。……んだけどなんですか社長、その不気味な笑顔は。心臓が恐怖にドッキンドッキンし始めてしまった。

「あー……、たまんねえなその戸惑い顔」
「……は?」

 じりじりと壁際に追い詰められ、私は行き場を失った。その私の顔の横に社長の両手が置かれまた動けなくなった。もうこれは間違いない、私の心と身体の危機だっ!!!

 でもね、再度考えるんだ私。私の今の立場は何?
 やるべき事を考えるのよっ!

 すっと私は顔を上げて社長を見上げた。社長の黒い目が暗く揺れたけれど私は無視する事に決めた。

「社長、もうパーティーは終わったのですから帰りましょう?」

 信じられない事に、あんなにドッキンドッキン煩かった心臓が静まって、私は冷静な声を出す事ができた。その私に社長の危険な雰囲気がさあっと消えた。そしてなんとも意地悪なにやにや笑いに変わる……、すっげー嫌な予感!

「なるほどな……。それでこそ俺を射止めた女だよ、えみり」

 呼び捨てかっ! かっと顔を赤くした私の顔は突然社長の大きな手に挟まれた。
 そして……。

 そして私は社長を思いっきり突き飛ばした。とんでもない非礼になるだろうけど、この最高級のセクハラには優しいくらいだ。

「なにすんですか!」

 私は口を両手で隠した。でも隠しようがないぐらい身体の熱が急上昇してぼうっとする。怒りと恥ずかしさと、なんだか嬉しいのと失望とないまぜになったこの気持ちはなんだっ。できればもっとロマンチックに、愛する人に捧げたいと思ってたのにっ。

 それをそれをそれを~~~~っ!

 社長はくすくす笑って、私の頭をぐしゃりと撫でた。可愛くてたまらないというふうに。

「美味しかった。ごちそうさま」

 甘く囁かれて、どかんと完全に活火山が噴火した!

 お猿のファーストキスは、呆気なく社長の不意打ちによって奪われてしまったのでした。ひきょうものおおおっ! 

 ……どうもおかしい。

 わけわからんパーティーが終わり、休日明けに出社した私は沢山の視線が身体中に突き刺さり、大昔の玩具の黒髭危機一発みたいな状態になっていた。なんで私がそんな古いの知ってるかって? 私は古いものが好きなのよ。歴史とか超得意だしね! 歴女? はん! ゲームや漫画でキャアキャア言ってる連中と一緒にするんじゃないわよ。私は筋金入りの歴史好き。旅行に行ったら歴史的な建築物や古戦場や神社めぐりをし、その時代や人々に思いを馳せるのが好きなんだからね。

 話が大幅にずれた……。とにかく、先週の金曜日の「あいつ猿だぜ」な視線ではない、妙な視線なのだ。女からは密かな怨念? 男からは信じたくないけど羨望? ……なんなんだろう。天変地異の前触れかしらん。

 更衣室で着替え、秘書課の部屋に入った私は、先輩秘書二人に紙切れを押し付けられ、
「これ本当なの!?」
 と、鬼のような視線を浴びた。ひいいいいっ。鬼女がいるううううっ。

「びびってないで、これ見てよ!」
「は、はい」

 なんだっての? いつもの社内報じゃんと思いながら目を通した私は、その1面を見て目玉が飛び出るくらい驚いた。

 なんっじゃああーこりゃああああっ!!!
 
 号外! ”婚約おめでとうございます社長! お相手は秘書課の樋口えみりさん”

 すごく大きなその見出しの下に、先週のわけわからんパーティーの写真が。それも社長に腰抱かれてるやつっ。

 しかもコメントが信じられない。私が『社長にずっと憧れていたので、秘書課に入れてラッキーだって思ってたんです(ハート) 先日社長からプロポーズされて、うれしくって舞い上がっちゃいました。子供は三人欲しいです』

 捏造にも程があるよこれは! 誰が何時こんな事を言ったんじゃーっ!!! 男の人とほにゃららした事も無い私が、子作り宣言なんか恥ずかしくて出来るわけないでしょっ! 

 怒りの余り、私はその社内報(号外)をめちゃくちゃに破り裂いた。

「ああっ、何すんのよあんた……」
「ばれたからって逆切れしないでよねっ」

 ぎゃあぎゃあ騒ぐ先輩秘書を、私はキッと睨みつけた。

「マジ切れです! 私は誰とも婚約してませんし、子供なんて当分いりませんよっ。大体まだ奥の細道も制覇してないのにっ。私のタイプは松尾芭蕉です。うちの社長じゃありませんっ」
「え? でも社長は……」

 納得がいかなそうにぶつぶつ言う先輩に、私は言った。

「こんなのガセですっ、誰ですかこんなの作ったのは」
「えーと、総務部の人?」

 そうだった。社内報はみっちゃんの担当だった! 私はその足で総務に向かった。やはり途中途中で、突き刺さる視線がびしばしと私を射抜く。ざけんじゃねえわーっ! 確かにドッキンドッキンした事は認めるけれど、婚約なんてどうよ! プロポーズなんて受けた記憶はないんだからねっ。

 古巣の総務に戻った私は、早速みっちゃんの席に行った。みっちゃんなんて可愛い名前で呼んでいるけど、みっちゃんは同期入社の男だ。

「おう、来ると思ってたよ。えみり」

 にこにこ笑うその顔は爽やか系で大抵の女は騙されるけど、彼は実はゲイだ。彼氏は熊のような大男で紹介された時はぶっとんだ。ちなみにみっちゃんも歴史好きで旅行仲間。ゲイだからとにかく安全なボディーガードだった。

「ここじゃまずいから、来て」

 物珍しそうに見ている人たちをちらりと見て、私はみっちゃんの腕を引っ張った。そして、開いている会議室にみっちゃんを押し込むとドアを閉める。

 うひゃっ眩しい! 朝日がまともに入る。ブラインド下げたほうが良かったか。まあいっかすぐ終わる事だし。にこにこしているみっちゃんを私は睨んだ。

「あの号外、みっちゃんが作ったの? 社内報はみっちゃん担当だったけど……」
「うん、土曜日に社長に呼ばれて。お前すごいな社長を射止めるなんて」
「違うわよ。私はプロポーズなんてされてないんだから!」

 私が言い切ると、みっちゃんは、おやおやと眉を上下させた。

「でも、もう会社中その噂でもちきりだよ?」
「本当になんでもないったら!」
「ふーん。そしたらお前どうするの? ていうかさ、なんだって社長の好みの髪型なんかするんだよ」
「は? 有名なの?」
「いいや。知ってるのはホンの一握り」

 なんかそれって変だわ。だってあの社長、面接の時一目ぼれしたとかいってたけど、あの時私はロングだったんだから!

「ショートヘアなら山ほどいるでしょ!」
「だーから、顔とか性格とかも入るだろ? 第一お前、社長のお声がかりで入社できたんだぜ?」

 初耳だ。びっくりしている私にみっちゃんは両腕を組んでにやにや笑った。

「てか、なんでみっちゃんそんな事知ってるの? 社長と縁戚とか……?」 
「何かと仕事の後呼び出されて、お前の事を根掘り葉掘り聞き出される事が毎週の出来事になってるから……、酒飲み仲間かな? お前と歴史物見まくる旅行に行く時、嫉妬されて大変だった。恋人見せてやっとわかってくれたけど」
「……なんで私にそれ言わなかったの?」

 知ってたら即効会社辞めてたのに! みっちゃんはにこりと笑って私の頬を抓った。

「社長は俺から見ても、誰から見てもいい人だと思うよ」
「は? いきなりキス奪うような奴なのに?」
「それは状況見てないからよくわからないけど、とにかく俺は野暮じゃないから社長の恋心を止める気はない。嫌ならはっきり断って来い」

 ……あのねえ。あの社長のやり方は野暮そのものではないですか? こっちの気持ち無視なんだよ、みっちゃん。そりゃ確かに社長はイイ男だよ。だけどイイ男だからって、はい結婚しますってすぐに言える? 好きだの一言もなしにセクハラキスだよ。

 私の気持ちに気づかないまま、みっちゃんは大笑いをする。くうううっ、ゲイは女の気持ちに敏感な方だと聞いていたけど間違いなの? ひょっとしてあんたのほうがあの熊男を押し倒してるのか? 凄いものを想像して私は胸が悪くなった。

「ほら、あのひとよ」
「えー? ほんと? 悔しいな」

 ひそひそ話で攻撃されながら私は廊下を歩き、秘書課に行くエレベーターに乗った。ドアが閉まった途端、押さえ込んでいた感情が一気にあふれ出しそうになり、必死にこらえた。一体どうしたらあの強引社長から逃れられるんだ。考えるんだ私! そうでないと一気にあの社長の嫁だ。

「え? だってえみりがうれしそうにキスを許してくれたから、もういいかなーって思って」
「うれしそうになんてしていませんでした」

 私は覚悟決めてこのホテルの部屋に居る。朝、社長にこの件を問いただそうとしたした私の前に夏原さんが立ちはだかり、メモを押し付けられた。それにはここのホテルの名前と部屋番号と夜の八時と書かれていた。

『来ても来なくてもいいわ。最終的には貴女が決める事だものね。……でも強引で信じられない事をするくらい、司は貴女が好きなの。それはわかって』

 夏原さんの向こう側に見える社長のデスクには、社長はいなかった……。

「私、みっちゃんが好きなんです」

 社長は一瞬目を見開いたけどすぐに元に戻り、アロマキャンドルの向こう側で赤ワインを傾けながら言った。

「あれはゲイな上、もう恋人がいるだろう?」
「居たって好きなんです」

 テーブルの上にはフルコースの料理がずらりと並んでいる。でも、食べる気になれないまま私は俯いた。料理ぐらいレストランで摂ればいいのに、なんだって部屋にわざわざ並べさせるんだろ。金持ちの考える事はわかんない。

「それなら何故ここに来たんだ?。姉は嫌なら来るなって言っただろ?」

 どきん……と、胸が高鳴った。震える手を膝の上で重ねて私は社長を見上げた。うまくいけばいいんだけど。

 二人の間に緊迫した空気がぴんと一瞬張った。私はじっと社長を見つめ、社長も私を静かに見つめ返す。

「……社長が忘れさせてくれますか? みっちゃんを」
「何?」

 社長は眉を顰めた。想像通り怒ってる。私は猛獣を相手にしている気分になりながらも言葉を続けた。

「しゃ、社長は私が好きなのはわかりました。でも私はみっちゃんを忘れられません。でも、今日、社長が……一緒に夜を過ごしてくれたら…………」

 ガラスが砕ける音がした。社長が持っていたワイングラスが欠片になってボトボトテーブルに落ちていく。中に残っていたワインも白いテーブルクロスに滴っていた。

「お前、俺をナメてるのか?」

 ドスが効いた、今まで聞いた事もない恐ろしい男の声。私は内心震えながらもその社長をじっと見つめた。

「呆れましたか? 私はお猿並みに馬鹿な人間です。ですから相手になんかされないほうがいいと思います。明日、社内報で”婚約即効破棄! 樋口えみりはとんでもない女だった”って、みっちゃんに書かせてはいかがですか?」
「………………」

 社長は私を視線で殺せるぐらい睨んでる。私の周りにはこれだけのすごいオーラを持った人間がいないから、本当は気絶しそうなくらい怖い。でも、でも、社長に諦めてもらうにはこれしかない。生半可な傷つけ方では引き下がる人ではないだろうから……。

「幻滅されたでしょうか。では、私はもう帰らせていただきま……」
「勝手に俺の気持ちを決めるな」

 立ち上がった私の横に社長が歩いてきた。社長はそのまま私の左腕を掴むとずんずん奥の方まで歩いていく。無駄に大きなベッドが見えて私は首を左右に振る。

 違う! こうなりたくなくて私は……。

「社長……、あ!」

 そのままベッドに押し倒されて、社長に圧し掛かられてしまった。ぎゃあああああっ、なんでこうなるの! 社長はプライド高そうだから、こんな女はごめんだと幻滅されるのを狙ったのにっ。

「……うそ、ですよね。セクハラの極致ですが」
「俺は気が短いほうでね。姉の言うとおり下半身はかなり緩い。女はとっかえひっかえの最低男だったよ。でもお前に恋してからは誰も相手にしてない。……もう一年ほど我慢してるんだ。それだけ本気だ。おっと逃げようとするなよ」

 そんな事言われても、私は生まれて初めて男に押し倒されているという危機に瀕しているため、頭の中は逃げ出す事以外考えられない。

 社長は、自分のネクタイをするりと解いてベッド脇に捨てた。

「そのふらふらのお猿の頭の中、すっきりさせてやる。俺は馬鹿にされたままじゃあ我慢できない性質だ」
「ず、ずいぶん小さい事を。お、お、大人の男性なら私みたいな馬鹿に構わずにもっとレベルの高い大人の女性を……きゃあっ!」

 いきなり私の服のボタンが吹っ飛んだ。な、何これ。男の人ってこんな事するの!? 怖いよーっっ!!! ブラウスをはだけられた私は、必死に社長の横暴を働く手を止めようとしたけど、社長はどこに吹く風だ。

「今さら怖気付くなんて、経験ないのは本当か……。俺に迫られて困って、婚約したと会社の皆に思われて困って、俺に何とか自分に対する興味を失わせようと猿芝居か……、お前、確かに男なめすぎだよ」

 向こうの部屋からの明かりのみの寝室は、社長を影にしてしまっていて余計に怖い。押し倒されてその両腕の間に閉じ込められ、どっくんどっくん言い続ける自分の心臓の音が異様に大きく聞こえた。

 これって……大失敗? 私、あほ過ぎ? やはり私がゲイのみっちゃんを好きだという設定は無理があったかしら。ううううう。

 社長は左手で私の肩を押さえつけながら、上半身裸になった。それがやけにリアルでかえってこれは夢なのではないかと思う。でもやっぱり現実だ。私は自分で掘った穴に落ちた、間抜けなお猿。

 パチリ……。

 社長は突然ベッドライトを付けた。ちょっとおおおおおっ。恥ずかしいじゃないですか! 裸なんて見られたくないし男の裸も見たくないっ。初心者にはハードルが高いのにっ。

 社長は動揺を隠せない私ににやりと笑う。

「すみからすみまでじっくり見てやる。覚悟しろ」
「猿の裸なんて見ないでくださいっ。お願いですからもう止めましょっ……」

 泣き始めた私の頬にキスが降ってきた。そんなんしても怖いですから。なんとなくビルのてっぺんから飛び降りる感覚、あれに似てるっ。目を硬く閉じて私は一体どうなるんだとガタガタ身体を震わせるしかない。

「なあえみり。お前が猿じゃないって事、教えてやるよ」

 鳥肌が酷くなるから、耳に息吹きかけないでくださいっ。

「さ、猿は髪型だけですっ」
「猿の部分なんてひとつもない。俺はいい女にしか恋はしない」
「!」

 あまりにも甘い声に驚いて社長を見上げると、とても優しい顔をした社長の顔が間近にあった。

「俺は本気でえみりが好きだからな」

 熱いキスが重ねられた。

 後から思い出そうとしても、その激甘な告白にどういう顔をして応えたのか自分でも覚えていない……。

 わかんないわかんないわかんないっ。

「ああん……いや……あ……ああっ」

 世の中不思議な事は沢山あるけれど、今私はまさにその不思議に直面している。私はただいま社長と……、……ってます。部屋に卑猥な音響きまくりで恥ずかしいですっ。

「しゃ……ちょ! だめえっ……わた……げんか……い……あんんっ!」

 普通、初めてする時って痛いよね? 激痛だったって友達も言ってたもん。でも私は全然痛くないんだよ! おかしいよね? 私は実はお酒でも飲んで酔っ払ってどっかに連れ込まれ、とっくに経験済みだったの!? いやいやそれはない……私はお酒飲んだ事ないし、つーか飲めない。じゃあ睡眠薬で眠らされて……。

「こらまた考え事をしているな。俺に集中しろっ」

 うわああんっ! また奥まで突き上げてくるよこの人。こっちは初心者なのにそんなに飛ばすのはどうなのっ。でもなんか良くわかんないけど恥ずかしいところの一点を社長のアレが擦ると、めっちゃ腰が砕けそうな痺れが走る。これ何?

「いっ……あんっ。やああっ、しゃっ……ちょお」
「馬鹿そんな目をして誘うな。これでもセーブしてるんだぞ」

 うそだ、これでセーブだと? 暗がりに見える時計は深夜一時だぞ? 記憶にあるだけでも9時にはこのベッドに居たはずだっ。

「あっ……あっ……勘弁してっ……」

 耳朶を吸われて身体中に痺れが走る。

「まだ全然足りない……」

 その無駄に甘い低い声……っ背筋がゾクゾクするからやめて! 私って淫乱だったのかな。必死に社長の背中に腕を回して抱きつきながら、下からの突き上げにひたすら耐えている。

 そーなのよ、初心者なのに座位ですよ。ハッキリ言ってむちゃくちゃ怖い。下から貫かれて地震が起きてるかのごとく揺さぶられるんですよっ。それなのに繋がってる所が甘く蕩けて腰砕けになるから、私は意識が朦朧としてしまう。

 グッチュグッチュ言ってる音聞きたくないっ、耳塞ぎたいけど社長にしがみつくのが精一杯。

 社長のアレはでかい。タンポンとはレベルが違う。タンポンが1ならこっちは……10? そんなもの突っ込まれても身体って壊れないんだよ……すごいよねっ。。

「いっ……ああっ……ああっ……ああああっ」

 散々胸と恥ずかしいとこ舐められまくって、イかされまくったから声も掠れてるよお……。社長は女好きだっただけに、女の弱いところを良く知っているみたい。お尻をぎゅうっと両方の手で掴まれ、その刺激で私はまたイってしまった。

「ああああんっ……ん……っ」
「く……」

 身体がびくんびくん震えて……、力が全部抜けていく……。

 抜かれないまま押し倒され、社長の口移しで水を飲まされる。これも何度目かな……。もういいから眠らせてよと思うのに、社長はまた腰を揺さぶり始める。クタクタに疲れきっていても甘く痺れて気持ちが良くて、また私は社長を締め付けてしまう。

「えみり」

 首に吸い付かれて舐められる。社長は私の首周辺がいたくお気に入りみたいでなんどもなんどもしつこい。痕とかついたらどうしようと心配できたのは最初だけで、クタクタの今は、それがまた快感のひとつになってよがってしまうだけ。

 突きがまた激しくなった。今度は柔らかい羽毛枕を必死に握り締める。やっぱり何かにしがみついていないと不安なのっ!

「やあっ……あんっ……あんっ……あああっ!」

 だるくて眠くて気持ちよくて、いろんな感覚が私を支配してる。胸をこれでもかって位に揉みしだかれると、溶け合った部分の気持ちよさが相まって必要以上に声をあげてしまう。こんな疼きはとても我慢できないっ。また、びしゃびしゃに濡れてるあそこが粘った音を立てて、…………社長……そんなに動かないでっ!

「えみり……。また……イけっ!」

 やだ、お願いだからその異様に痺れるところをこすらないでっ。忙しない息を吐きながら私は首を振る。さっきから私が何度もイってばっかり。社長はたった一度だけ。私はこんなにいやらしい人間じゃないのに、社長の馬鹿!

「しゃちょ……嫌いっ」
「それでもお前は、俺を選ぶさ……なあ……?」

 自信たっぷりな社長の声。もうやだ、もうやだ、もうやだあっ。

 どくんと恥ずかしいところが脈打った。同時に社長が軽く息を詰めて私を抱きしめ、社長のモノがさらに大きく熱くなって……ああ…………。

 ドクッドクッドク……。
 また……社長の………………。
 ……………。

 翌日、見事な筋肉痛になっていた私は、社長に身体を洗われ、社長好みのやたらとタイトな服を着せられ、社長の手ずから朝食を摂り、その膝に乗せられていいように扱われていた。

「どこ触ってんですか!」
「尻。結構締まってるなーと思って。なかなかいい」
「お願いですから離れてくれません?」
「断る。せっかく俺のものになったのに」
「私がいつ社長を好きだと言いましたか?」

 ギッと睨みつけたら額にキスされたっ。外国人ですか! 日本人はそうそうこんなキスしないよね? はうっ、またあの色気マックスの色目使ってる! 

 頼むから赤くならないで私。
 お願いだから静まって!

「身体中が俺を好きだと言ってる。誰が見ても一目瞭然だ」

 とどめがこの激甘ヴォイスだ。駄目それやめて、いやらしい事思い出しちゃうんだよおおおっ。かーっと私が顔を赤くさせると社長はとても嬉しそうだ。くーやーしーい。

「そう誘うな。またやりたくなるから」
「誘ってなんかいません。それになんですかこの指輪、取れないんですけど」

 そーなのよ。朝起きたら左手薬指に小さなダイヤが埋め込まれてる指輪が! しかもサイズが小さいのか取れない!

「これか。これは結婚指輪だ」

 嬉しそうに言う社長に私は頭の中真っ白です。普通、先に婚約指輪贈らないか? いや、承諾をしてはいないけどね……。

「婚約指輪は別にやる。結婚指輪はいつもしていて欲しいからこんな質素になったが、婚約指輪はお前に選ばせてやるからな」
「…………あのですね。私はまだ結婚をお受けしますとは」

 社長の周囲の空気がどす黒くなった。うええ……。

「あん? まだそんな事言うのか? ええ? この小憎らしい口は」
「ふぐっ」

 ぎゃああっいきなりキスしないでっ。社長はキスがかなり上手いから、これだけで身体が反応して奥がうずくから困るのよおおおお。うえーん、私はまだ若いのにっ。こんな身体は年増みたいでやだっ! 

 社長のキスは容赦ない。角度は何回も変わるわ、舌を吸われるわ舐められるわ、ひどいと唇ごと吸われて舐められてしまう。息継ぎも昨日で強制的に覚えさせられた。覚えないと窒息しちゃう濃厚さ。彼氏なしだった私には高過ぎるレベルだよっ。

「んはっ……ふ……ん、ん……」

 左手に社長の指が絶妙な力加減で絡んでくる。社長の熱さで昨日から蕩けてばかりだ、私……。

 キスが終わった後、なーんも考えられない状態でぼんやりしている私に、社長が耳元に甘く囁いた。

「なあえみり? 俺の嫁になるよな?」
「ふぁい…………」

 応えてしまってからはっとした。いけないっ、つい条件反射で! え? 今私はなんて言った? 今社長はなんて言った? まだ22年しか生きてないのに私、あっさりと人生を決めちゃうような事を言わなかった?

「よし、そうと決まれば婚姻届だな。ほらこれに書け」

 社長が片手で器用にスーツケースを開けて、白い書類と万年筆をテーブルに置いた。

「あの、あの、ちょっと待って。私今ぼけてて……」
「ああ? 心配するなお前がぼけてる分、ちゃんと俺がサポートしてやるからな。これを届けたら俺の両親とお前の両親に挨拶だな。それと引越し。忙しくなるな! ああ、安心していいぞ、会社にはきちんと休暇届が出されている。5日間はお前がやりたがってた奥の細道ツアーだ。とは言っても、日本海側中心になるだろうがな。結婚式はその後で新婚旅行も二人で行き先を決めよう。」

 しゃしゃしゃ社長っ。そこまでプランニングされていたの!? 恐るべしっ。秘書いらないんじゃないですか? 

「え……?」  

 婚姻届を見てびっくりした。私のサイン欄以外皆埋まってる。なんでお父さんの名前がしっかり書いてあるの? おかしくない? うちの親の口から社長の名前なんか一回も出た事無いのにっ。

「何を固まってるんだ? 早く書かないと市役所が開く時間に間に合わないだろうが。俺の実家は少し遠いんだ。お前の実家は近いからいいけどな」

 社長の万年筆を持たされた私は、むくむくと湧いてくる感情が抑えきれなくなって、思いっきりテーブルをぶっ叩いた。

「ちょっと待ってください!」
「何を待つって言うんだ? この期に及んでほかに好きな男がいると猿芝居をまたするつもりか?」

 ギラッと目が光る社長。猛烈に怖いがここは譲らないぞ! なんでもかんでも先手打てば良いってもんじゃないんだからね! 猿にだってプライドはある。このまんま押し切られて結婚なんて、一生引きずるし恨みに思っちゃうから!

 私は怖いのを我慢して社長に怒鳴った。

「私はまだ、社長の口からプロポーズの言葉を聞いてませんっ!」

 社長は驚いたように目をぱちくりとさせ、やがてとても甘い微笑を浮かべる……。ああこれなの、これに弱いのよ私って。だってとっても素敵なんだもん。

 朝陽がブラインド越しに入ってきて、とても周りがキラキラして見える。

「ごめんな。完全にお前の気持ちを後回しにしてた。お前は嫌いな男はハッキリと切るって聞いていたから、ホテルに来た段階でOKだと思い込んでた」
「…………」

 社長はいったん目を閉じて、静かに息を吸い込んだ。

「樋口えみりさん。俺は貴女が好きで、愛してる。生涯貴女一人と誓うから、今日結婚してもらえるだろうか? 貴女は知らないだろうが、俺は貴女が面接に来た時から貴女が好きでした」

 俺様だけど、優しくて誠実さが溢れてる声……。そうだよ、心の奥底でこれを待ってた……様な気がする。

 私はしばらくそのキラキラを味わっていたくて、何も言わなかった。社長は何も言わない私に不安そうに瞳を揺らす。これぐらいの意地悪はいいよね? だってずっと社長の方が意地悪だし俺様だったんだから。でもあんまり不安そうなので可哀相に思った私は直ぐに返事をした。

「私で……よろしければ。ぐえっ!」

 言った途端に思いっきり抱きしめられ、私はプロポーズされた直後に絞殺されかけた。頼むからちょっとはロマンチックにさせてください、お猿相手でもっ。

 蛇足だけれど、両家の親は大喜びで結婚を祝福してくれた。夏原さんの喜びは特に凄かった。そしてさらに思いっきり蛇足だけれど、秘書課の皆は社長とグルで私が社長とひっつくように画策していたらしい。そしてさらにさらに蛇足で、幸一はあの社長の連れて行ってくれた美容室に採用される代わりに、私の髪型をあの悲惨なものに変えるように注文を受けたのだという。

 …………見事に社長のおこのみにさせられたような気がする。

<終わり>

Posted by 斉藤 杏奈