ヴァージントラベル

『おかけになった電話は、現在通話中か電源が切られているためお繋ぎできません』
「まじですか……」

 森村音夜(もりむらおとよ)、ただいまの現在地は、日本から遠く離れたフランスのシャルル・ド・ゴール空港の国内線エリア。えっと、時間は夜の十九時を回ったあたりでしょうか。まだ空港内に人は沢山居て寂しくはないけど、日本人が恐ろしいほど見当たらないというか私一人しかおりません! これからパリ市内のホテルに宿泊という予定になっていたんですが、フランス語どころか英語も話せない私はタクシーもバスも電車も乗れっこありません。いえ、乗るのは可能でしょうが、目的地にどうやってたどり着いたらいいもかわかんないのです。

 外資系の会社に勤務している私は、会社の社員旅行という名目でここに来た。でもトイレに忘れたバッグを取りに行っている間にキャリーバッグだけを持っていかれ、置いてけぼりを食らったみたい。はあ何それ? って思うよね。普通ありえないよね。私もそう思う。でも一方で有り得たかも知れないと諦める気持ちもある。どうしてかと言うと、私は社員旅行の主催者である総務係長の池永昭代(いけながあきよ)女史に、ある理由で目の敵にされてパワハラ受けてたから。

 ある理由ってのは池永係長が入れ込んでいる、高畑桂一に私が好意を持たれているせい。ああ、ちなみに池永係長も高畑も私も同期の二十九歳で、アラサー。私は結婚なんかどうでもいいやーと思っているんだけど、美人で仕事もできる池永係長は焦っていたみたい。社長令息である高畑はまだ独身で将来有望な上、見るからに端正な男らしい顔立ちしているから手に入れたかったんだろうね。ここ一年の間、社内の女性社員に睨みを利かせて牽制し、猛アタックをしていたのになしのつぶてで「キイイイイイっ!」ってなってるところに、アホの高畑が「同期の森村って胸でかくていいよな。ああいうのタイプだ。料理も上手らしいし嫁に欲しい」と、池永係長が聞いていたのも知らずに会議後の会議室でぽろっと言いやがったせいで、私は奴を好きなわけでもないのにパワハラ、もとい、いじめの標的になってしまった。

 私は高畑みたいな腹黒はまったく好みではないし、興味もないし、持って欲しくもない。男としてならできるなら近づいてきて欲しくない部類。実際は友人関係。友人なら軽くてらくだからね。それで抗議したら、本当だから仕方ないゴメンネとぬかしやがる始末。うそつけえええっ、お前の本命は受付嬢の小梅ちゃんでしょうが! 皆は知らなくても私は知ってるんだぞ! うざい池永係長のモーションの弾除けに私を利用しやがったなと腹が立った。高畑も申し訳ないと少しは思っているのか、給料が少しあがったけどそれだけ。あとは猛烈ないじめが開始されて大変で大変で……。

 直属の上司にあたる池永係長なので決済の印鑑はなかなかもらえないわ、課長から書類が遅れていると言われたら私の仕事が遅いからと言われるわ、五十人分のお茶を私一人にワゴンなしで運べと言うわ、両手塞がってるから開けられないドアの前で困っている私を見て、池永係長は溜飲を下げてるわけで……陰険過ぎる。まあこの程度なら我慢できたけど、あの池永係長、よりにもよって私をヤリマンだととんでもない噂を広めてくれやがった。嫌な噂ほど早く広まるもので、あっという間にそれは広まり、廊下を歩けば「森村はうちのダッチワイフだかんなー、慰めて」「止めとけよもうあいつガバガバだって~」とか男共に言われる始末。人付き合いの悪い私には庇ってくれる女子もいない。噂は尾ひれをつけて広がる一方。さすがにこれは高畑もやばいと思ったのか、そういう類の噂は駄目と父親である社長に言わせてくれたけど、もう手遅れだった。事あるごとにからかわれ、仕事ができる方ではない私は、あっという間に男漁りに会社に来ているという不名誉なレッテルを貼られてしままった。

 ……ここだけの話私は処女ではない。でもハッキリ言って性行為に魅力は感じない。面倒くさくてべたべたした嫌な作業でしょうあれは。過去の恋人もそんな私が嫌になって別れたんだろうな。

 先日嫌がらせがさらに悪化したんでついに辞表を提出した。普通直属の上司に出すものだけど、いびりたりない池永係長に握りつぶされる恐れがあったから、課長に出した。課長は即オッケーを出してくれやがりました。自分の保身第一の彼としては、何かと面倒ごとがおきる私がいなくなってくれるのがうれしかったようで……、はいは邪魔で申しわけございませんでしたね。

 当然池永係長は「キイイイイイイ」となった。けどそこは私にとっては悪の権化である彼女。悪巧みをまた一つ思いついた。それが年末年始休みに行われる会社の海外旅行の強制参加。そして今の状態にあるわけ。

「予約チケット主催者持ちってのはないわー。はあ。予約していた飛行機にも乗れないし、ホテルにも泊まれない……」

 池永係長が参加している社員の予約チケットを持っている。どうしたらいいんだろ。はあ。

 私は忘れ物だったセカンドバッグを膝に置いて、雑多としている空港のロビーで途方にくれた。目に入るのは鼻の高い西欧人や、肌の黒い黒人、東洋人はまず入らない。耳に入ってくるのもまったくわからない言語だ。ここはフランスだから多分フランス語だろうけど。

 頼みのガラケーも無用の長物と化している。ひょっとするとスマホだったら他に何か手があるのかもしれない。普段から携帯機器に無頓着だったのが裏目に出た。機能があっても私はそれを使いこなせない。

「それもこれも高畑のせいだ……。今度会ったらアッパーカットとかかと落としと回し蹴りしてやる」

 それにしても、いくらなんでも英語が出来ない私にこんな仕打ちはないでしょうよ。夜の19時では日本語が通じる現地の旅行会社も、日本の大使館も閉まっている。おまけに明日は土曜日で、それ以降は年末年始の休業になるらしい。最悪もここまでくると天晴れだ。

「……なんとか今晩泊まる所でも確保しなくちゃ。カードは持ってるんだから何とかなるはずよ」

 幸いトラベラーズチェックもクレジットカードもパスポートもセカンドバッグの中だ。ただ着替えが無い。お化粧品も無い。生理用品も無い。くそおおお池永ーっ(もう呼び捨て)、高畑ぇーっ! 日本帰ったら本当に覚えてなさいよっ!

 東洋人が珍しいのか、じろじろと見られているのが嫌でもわかる。日本人はねぎ背負ったカモに見られているだろうから、目をつけられる前に……。いつまでも空港のベンチに座っているわけにもいかない、とにかくこの辺りのホテルを片っ端から当たってみよう。国際線のロビーで皆が来るまで数日を潰すなんて嫌だ。ごった返す人ごみにまぎれた時、誰かの手が、がしっと私の右腕を掴んだ。ぎょっとして振り返った私は、さらにぎょっとした。ハリウッド映画でもお目にかかれそうもない、もんのすごい美形な外国人がそこに居た。

 誰これ? 美形はにっこりと笑った。

「ホテルを探してるの?」
「違います!」

 私は即座に否定した。むちゃくちゃ怪しい。日本人をカモにするやつは適度に日本語を話せると聞いた事がある。安心させて金を巻き上げるとか、映画のようなロマンチックな演出をするとか。目の前に居るのはいかにもってな感じの男で、髪の毛は見事なブロンドだわ青い目だわ若いわ、日本人をだましてやる! うっひっひって悪人オーラが立ち上って見えるほど。

「またまたー、ホテルのガイドブック持ってる。探してるくせに~」
「違うってば!」

 美形の手を力任せに振り切り、私はハンドブックでホテルを物色しながらずんずんと歩いた。ここは人ごみにまぎれて撒くに限る。よし、とりあえずこのホテルからあたってみようかな。えーと、英語だとなんていうのかなこの場合。旅用英会話の本と和英辞典は持っているけど……。

「子ねずみちゃん、なんで無視するのー?」

 誰が子ねずみじゃいかれた外人めっ! たんまりお金があると目をつけられたのか、美形がしつこく後を付いて来るけど無視! 周囲の人がなんだろうと振り返るけど、みなさーん、この人と私は赤の他人で知り合いではございませんよーっ。

「ひどいなあ、フィアンセを無視するなんて」
「変な事言わないで!」
「やっと振り向いた」

 く、聞き流せなかった自分が悔しい。してやったりと笑う美形を顔を上げて睨んだ。なんて背が高いのこいつ、普通だと思ってたけどやっぱり日本人は低いのね。

「すみませんけど私はお金持ってませんし、荷物の中もお金になるものなんかありません。素晴らしい身体をしているわけでもありませんから、泥棒や強姦なら他をあたって下さい」

 すると美形は青い目をまん丸にさせた。

「はあ? 君、大人しそうな顔してスゴイ事を公共の場で言うね」
「日本語がわかる人なんてそうそうここにはいませんから! じゃあ私はこれで」
「まあ待ちなって」

 金がないって言ってるのに余程のビンボーなのか、美形はカモを逃すまいと肩を抱いてきた。ちょ、ちょ、何してくんのこの悪人っ。振りほどこうとしてもがっしと組まれた腕ははずれない。ああああ、もう、なんだってこんな目に遭うのよ。私は普通に生きて普通に働いてただけなのにいいいいっ。何もかも高畑のせいじゃーっ!!!

 そのまま私は空港の外に連れ出され、タクシーやバスの乗り場に歩かされた。美形が手をあげ、すっと路肩に止まっていた黒塗りの大型の高級車が、私達の横に止まる。どう見てもタクシーじゃない。美形が私の肩にがっしと腕をかけたままその車の後部座席のドアを開けた。え、ちょっと、これどうなってんの。誘拐!? そう言えば外国では日本人が誘拐されたりするって……。でもこんな人通りの多いところで誘拐ってない! これはヤバイ。さすがにヤバイ。大声で叫ぼうとした私を察知して、美形は私の口を大きな手で塞いで私を車に押し込んだ。続いて自分も乗り込んでドアを閉める。車は無情にもどこかに向かって走り始めた、確実に誘拐だ。震える私に美形はいかにも悪者って感じの邪悪な笑みを浮かべた。

「フランスへようこそ、子ねずみちゃん」

 どこかで見たような笑みに私は池永係長とは違う執着を感じ、こんな旅行は骨でも折って入院して参加しなければよかったのだと後悔した。

「あらら、怖がってるの? おかしいなあ何を言われても平然としてるって高畑に聞いてたけど」

 高畑の知り合いか! そうだ、あいつの邪悪な微笑みに似てるんだっ。いや待って、じゃあ……。私が疑いの眼差しを向けると、したりとばかりに美形は言った。

「わかった? 高畑がこうなるように仕向けたの。君も可哀想にね」

 進行方向の標識は私にも読める「Autoroute」だった。 

 城だ。
 どう見てもこれは城だ。
 満月の優しい光にライトアップされている城を前に、私は時差ぼけでぼやーっとした頭をなんとか目覚めさせようとして頑張った。
 
「えーと、こんな夜には閲覧できないんじゃないですか? ていうかここどこですか?」
「そうですね。確かに閲覧は朝の10時から夕方の16時までです」
「そうじゃなくて! ここどこなんですか!」
「私の家です」

 美形はなんでもない事のようににっこり笑ったけど、私はびっくりだ。どう見てもこれは城だ。

「……すみませんが、私には城にしか見えません」
「そりゃそうです。これは城(シャトー)ですから。我がシャサーヌ家が代々住んでおります。あ、私の名前を言っておりませんでしたね、私の名前はルネ・ドゥ・シャサーヌです」
「……ルネさん」
「ルネで結構ですよ」

 それは日本語しか話せないから勘弁して欲しい。フランス語話せなくてよかった、こんな美形から優雅に手を差し出されてマドモアゼルとか言われたら泣く。

「私はパリのホテルに泊まりたかったんです」
「それは無理というものです。年末年始ですからどこもいっぱいで、予約して無いととても。第一今からパリに帰るなんて面倒くさいです。何時間かかると思ってるんですか?」
「ですからここは一体どこなんですか?」
「ロワール地方のアンジェというところですが」
「…………」

 時差ぼけで誘拐犯の車で寝てしまった自分を突き飛ばしたい。でも仕方ないんだよー、前日は最後までこきつかいやがった池永のせいで夜の10時まで残業だったし、それからしたくしてたらあっという間に午前様で、飛行機に乗ったら初めてなものだったから緊張して眠気がふっとんで……。そんな私があんなに乗り心地のいい車に乗ったら寝ちゃうよ! たとえ誘拐犯の車でも。

 高畑と知り合いと言うだけで安心した私が馬鹿すぎる。ばかばかばかー!

 一人で自己嫌悪にもだえている私にルネは言った。

「さあさあ、こんなところに突っ立っていても仕方ないでしょう? 早く入りましょう」
「でも、私は東洋人の得体の知れない女ですし」

 自分でも何を言っているのか意味不明だと思うけど、なんだか城に入ったら一生出られないというか、絡み付いて離れない何かが足にひっからまって来る気がする。第一こいつが信用できるかどうかわかんないのに。

「両親は高畑の紹介という事でわくわくしてたんです」

 この男、えらく言葉遣いが丁寧になったな。こっちが地か?

「あの、それ、本当なんですか?」
「今さらですね。仕方ない、じゃあ今から私の携帯で彼に電話して御覧なさい」
「する必要ねーよ」

 聞き覚えのある声が突然背後から響き、振り返ったら見覚えのある高畑の似非微笑があった。隣に気遣わしげな顔をしている小梅ちゃんもいる。あれ? 二人とも他の皆と一緒にパリのホテルに行ったんじゃ……。どーなってんの? 高畑はクエスチョンマークを飛ばしている私に、いつもの邪悪な笑みを浮かべた。

「オレからのプレゼント、受け取ってくれた?」
「……は?」

 そんなもんもらってないぞ。何言ってんのこいつも時差ぼけか? と思っていると、横からルネの手が伸びてきて私の肩をぐわっしと掴んだ。

「もちろん私の事ですよ。私ほどいい男はそうそういないでしょう?」
「…………」

 いい男?

「あれ? こいつまだわかってないな。男日照りの続いているお前に男紹介してやったんだっつーの」
「いくらなんでもその言い方はないんじゃないですか?」

 小梅ちゃんが怒っている。高畑はそれに対して事実だしーと笑った。小梅ちゃんがさらに怒っているのが聞こえるけど……。

「ルネがさ、俺が時々話すお前に興味しんしんでさ、だから社員旅行アクシデントに見せかけて出会いをセッティングさせたわけ。わかる? こいつかなりモテるのにお前みたいなのがいいんだってさ。良かったなー」

 ……お前みたいなの、って。

「池永のばばあの鼻もあかしてやられるぞ? 今頃あいつは大喜びだろうけどな。でもルネと仲がいいところ見せ付けたら、くやしくてたまらん、きーってなるんじゃね? お前もあいつには散々煮え湯飲ませられてきたんだから……。オレも悪いと思ってたんだよオレのせいでお前は……」

 ぼけていた感情がぴしっと輪郭を持った。それを敏感に感じ取ったルネの手が離れていく。私は気が付いたら高畑のやたらと整った顔を張り飛ばしていた。

「きゃーっ!」

 小梅ちゃんが驚いて甲高い悲鳴をあげたけど、気にするもんか。ついでに女の癖にありえないといわれた強烈なボディーを食らわせて、高畑の顔を地面に接吻させる。

「……っざけんなてめーは! 誰のせいでこんな状況になったのよ。誰が男の紹介なんか頼んだのよ、男なんか一生いらんわ、ボケが!!! お前なんか小梅ちゃんに振られてアラスカのグリズリーにでも食われてしまえ──────っっっ!!!!!!!!」

 見知らぬ異国でのわけのわかんないハプニングで、緊張してて固まっていた感情が一気に爆発し、私は呻いている高畑をとどめに蹴り上げた(それでも手加減した自分を褒めてやりたい)。今まで会社で大人しくしていた分、豹変した私に小梅ちゃんと高畑はさぞびびったと思う。ルネは満足そうに見ていたのだけど、怒り心頭している私はそれに気付く事はなかった。気付いてたら意地でもタクシーを呼んで空港へ逃げたと思う……。

 男に興味はない。かといって女に興味があるわけでもない。ただ、男女関係のもつれのせいでなんども友達と喧嘩して破局した過去や、池永みたいに謂れのない陰険な攻撃を受けると、男が交わるような環境はこりごりだと思う。今度就職する場所は男が居ない職場にしよう。もしくはおじいちゃんクラスしか男がいないところにしよう。

 なんで女って、男がからむとあんなに馬鹿になるんだろ。自分より注目を浴びる女が許せないタイプを見かけるといつもうんざりする。それならもっと自分磨きしたらいいだけでしょ。人を貶めたって自分が立派に見えるわけでもないのに……。でも最悪なのはその女の言う事を真に受ける男だ。男なんてもう絶対にいらない。こんないやな思いをするくらいなら一生独身を貫くほうが絶対精神安定にはいい。

「だから男はいらないんです!」
「可愛いなあ、もう」

 力を込めて説明したのに、ルネはますますうれしそうに笑った。

「話聞いてます? ですから私は恋人募集はしてません。だから高畑の言う事はなかった事にしてください」
「うんうんわかってるよ。つまり旦那様を募集してるんだね?」
「違うっつーの!」

 怒った私に、はははとルネは豪快に笑った。長い廊下を二人で喧嘩しながら歩いているけど、人っ子一人通りやしない。こんな城歩くのは初めてだ。あの後、高畑と小梅ちゃんを城から出てきた執事に預けると、ルネは私に部屋を案内すると言って強引に手を引っ張り、今に至る。離れたいのに怪力外人男の左手は私の右腕をがっしり掴んでいて離れないのよ。くそー。私、空手の有段者なのにいいいい。

「はい、ここが音夜の部屋だよ」

 私の部屋に着いたようで、ルネがきらきらの金の取っ手を握った。かちゃりと音がして開かれた部屋は、やはり凄かった。古典的な曲線だらけの応接セットにお約束の天蓋つきベッド。ふかふかの絨毯には華やかな刺繍ときたもんだ。パンツスーツの自分がすっごく恥ずかしい。誘拐団の一味ではないと判明したルネに、あえて私は言ってみた。

「……あの、私、普通の部屋がいいんですけど」
「普通の部屋ですよ。貴女にふさわしいと思いますけれど?」

 そう言われるだろうとガックリときた。この人にはここが普通なんだろう。きっと私が住んでる1LDKの部屋なんてゴミ箱に見えるに違いない。

「……えーと、私は一般的な独身の日本人女性なので、ちょっと価格が安いお部屋のほうが……」
「ああそれなら無料ですからご安心ください。妻になる女性からお金を取るなんて男がすたりますから」

 まだ言ってるよこの人、悪乗りにもほどがある!

「日本人をペットかなんかと勘違いしてません? 妻になる気はありませんから困ります! 迷惑です!」
「困りましたねえ。じゃあ一体どうしたらいいんですか? どうしたら私の妻になってくれるんですか?」

 その前にどうして私があんたの妻になると確定してるんじゃ! と言いたい。日本語ぺらぺらのフランス人なのに、ルネとの会話はモンスタークレーマーを相手にするより疲れる……。フランス人ってこういう人種なの? それにいい加減に腕離して欲しい。握られている箇所が微妙に汗ばんできているのが気味悪いのよ。

「じゃあ聞きますけど、逢ったばかりで愛しているわけでもないのに結婚なんておかしいですよね? フランスでは、逢ったばかりの女性と結婚する文化でもあるんですか?」
「……本当に貴女はいいですね」

 ルネは私の問いに不気味に微笑んだ。そして私は強い力で壁に押し付けられてしまう。美しい青い瞳がぎらぎらと情欲に染まり、獣のようなその視線に私は文字通り動けなくなってしまった。ルネの両腕を掴んで捻ろうとしたけど、びくともしない。

「空手有段者なのに大人しい女子社員。男を誘える身体を持っているくせに男に興味ない。さぞ可愛い子ねずみちゃんだとは思っていたのですが、まさかここまで私好みとは思ってませんでしたよ」
「か、勘違いでしょ。第一私は過去に何人も彼氏いましたし……」
「気にしません。最後の男が私になるのは間違いないですからね」

 痛いってば。技さえしかけられたら投げられるのに、ルネを押しのける事ができない。時差ぼけで弱っているせいかと思ったけど違う。隙がないんだこの男。おまけにどこをどう触ったら他人の身体を思い通りに出来るかよくわかってる。相手の気にのまれるなと空手の師匠が言ってたけど、空港からここまでずっと私はのまれっぱなしだ。

 でも負けるもんか。こんなの変だもの!

「私は結婚なんてしませんし、日本人じゃない男は最初からお断りです」
「3日後にはその台詞を後悔しますよ」
「する……っ……んん!」

 するもんかと言おうとした口は、ルネの口によって塞がれた。怖くて痛くてたまらないのにどこか陶然としている自分は、蛇にのまれそうになっている蛙みたいだ……。 

 次の日の朝、寝た気がしないなと思いながら目覚めた。時差ぼけが続いているようでなんだか風邪っぽいし頭がぼやーっとする。そもそもフランスの空気は、日本と違い、重くてしんとしている気がする。温暖湿潤気候じゃないからなんだろうな。

 結局あれからルネは私に手出しする事無く、ゆっくり休んでくださいねとウインクして部屋から出て行った。以外に紳士だったなとわずかに好感度がアップしたけどそれだけだ。誘拐&強引キスは許せるものじゃない。そんなものに喜ぶのは頭がお花畑の女だけだと思うし。

 熱い湯のシャワーを浴びてスッキリした私は、早速ルネの訪問を受けた。どうやって起きたってわかるのかな。

「おはようございます音夜。昨晩はよく眠れましたか?」
「……あんまり。時差ぼけがきつくて。風邪をひいたかもしれません」
「それはいけませんね。日本との時差は7時間ありますし、貴女にとって朝に寝たようなものですから体内時計も狂うのでしょう。朝食でハーブティーを持ってこさせましょう」

 ルネは今日も美形光線を発散させまくりながら、天使はかくやという笑みを浮かべた。きゃあ素敵なんて思えたらいいのだけど、残念ながら私にはそういう可愛らしい面は無い。

「これから食事を摂ります。食堂へ案内しますよ」
「食堂? 私あんまり食べられそうも無いよ」
「そう言わずに。高畑や小梅さん、うちの両親が揃いますから」
「いきなりなの?」

 私はビックリした。でもルネは何でもない事のように言う。

「両親は貴女や高畑達に会うのを楽しみにしていたので。なに、そう気負う必要はありません。普通に挨拶すればいいんです」

 そっちはそうでもこっちは困るよ! 服はなんとか普通のスカートのスーツだけど、化粧や髪型がっ。でもルネはまたあの大きな手で私の手を引いていく。ま、まさか、私をフィアンセだと紹介する気じゃないでしょうね。もしそんな事を言ったらルネの顔を引っぱたいて、こんな東洋人は嫁にいらないと思ってもらおう。

 廊下は暖房はされていなくてかなり寒かった。もっともこんなに天井が高かったら暖房もムダだろうなあ。にしても……、やっぱり貴族の城だよ、私には向いてない。ルネは何も言わずにさっさと歩いていき、やがて私達は大きな部屋に入った。これが食堂って……広すぎる。天井画が華やか過ぎて凄いよおお。

 長方形のテーブルには高畑と小梅ちゃんが座っていた。

「おう、時差ぼけはどうだ?」

 左の頬がはれ上がっている高畑が、嫌に晴れやかに声をかけてきた。でも立ち上がると痛むのか椅子に座ったままだ。小梅ちゃんがさっと立ち上がって私のとこに走ってくる。

「ごめんなさい先輩。桂一さんからすべて聞きました。あの、どうしたらいいか……」

 目をうるうるさせてる小梅ちゃんには悪いんだけど、今はやめてくれるかな。メイドさんや給仕係の男性がじっと見てるのよ。

「私は大丈夫。とりあえず座ろうよ」
「あ、はい」

 小梅ちゃんは、皆に注目されているのに気付いてほおを赤くした。うーん、可愛いなぁ。それに比べて私ってば……。ルネに促されて、嫌なんだけどルネの隣に座らされた。やばいやばいこのままでは嫁になるコースだ。こんな城で生きていく自信ないようっ。ルネは私を座らせると自分も静かに座った。えらく落ち着き払っていて、こういう場所が当たり前なんだろうなとわかる。間違ってもルネ一家は、頭ぼさぼさでテーブルについて、テレビを観ながら食パンをかじるなんてありえないんだろうな。

 しばらくして夫妻がいらしたので、高畑以外皆立ち上がった。

「おはようございます皆さん。昨夜はよく眠れましたか?」

 ルネそっくりの人が微笑みながら言った。日本語だ。凄く助かる! 高畑はやっぱりルネ一家とつながりがあるようで、椅子に座ったまま抱擁までしている。小梅ちゃんも知り合いらしい。ぼやーっとしている私にルネが振り返った。

「お父さんお母さん。こちらは森村音夜さんで私の……」
「お目にかかれて光栄です。ルネさんとは昨日知り合ったばかりです。とても親切にしていただいております」

 マナー違反だと思いながらもルネを押しのけ、私は夫妻に頭を下げた。二人ともびっくりしているのがわかるけど、フィアンセだなんて思われてたまるものか! 

「まあまあ、なんて可愛らしい方かしら。うっふふ。挨拶が遅れました、私はルネの母で世津子と言います。こちらが主人でフランソワ、どうぞごゆっくり滞在してください。田舎で何もありませんけど歓迎しますわ。ねえあなた?」

 瓜実顔の夫人は私に笑みを向けてくれ、握手をしてくれた。気品が満ち溢れていてとても綺麗な人だ。フランソワさんはルネにそっくりだった。

「ええ、ゆっくりしていってください」

この人の遺伝なんだろうなあ……と思いながら、フランソワさんとも握手してたら、その美麗な笑みがルネを見た途端に意地悪な笑みに変わって驚いた。何もそこまで似なくてもいいのに。

「ルネも相手にされてなさそうだから頑張れ」

 ルネは頭を残念そうに振りながら、

「愛してるって言ってるんですけど」

 などと寝言を言う! しかもこの話の流れだと奴はすでに私をフィアンセだと言っているに違いない。とんでもない事をたくらみやがってと高畑を睨むと、高畑はそっぽを向いて口笛を吹く真似をした。くそう。誰もいなけりゃまた蹴り飛ばしてやるのに!! 

「音夜。そんな怖い目をしては駄目ですよ」

 ルネが美形光線を発しながら言う。そうだ、そもそもルネが悪ふざけを実行しなければすべて済むんだ!

「ルネさん、誤解を招くような言い方は止めてください!」
「事実なのに」
「どこが事実なんですかっ」

 言い合いをする私達に、世津子さんがころころ笑った。

「若い人がいるとにぎやかでいいわ。ルネも普段はパリだから私達二人では寂しくて」
「す、すみません」

 とんでもなく失礼な事をしでかしたように思われたので、私は恥ずかしくなってさっきの小梅ちゃん以上に顔を赤くして頭を下げた。でもフランソワさんがすぐに食事を持ってくるようにと給仕さんに言ってくれ、すぐに食事になった。

 つ……疲れた。
 食事をしていただけなのに夫妻から猛烈な質問攻めにあって、その受け答えに物凄く疲れた。自分の部屋のベッドに頭からつっこみ、私は大きく伸びをする。ああ、畳の上にダイブしたいよう。ぼんやりしていたいのにまたルネがノックの後すぐに現れた。頼むから少しは一人にして頂戴よ……。

「高畑が謝りたいと言ってますけど、どうします?」

 何言ってるんだあの男は。さっきのあれを見る限り謝るというよりかき回したいだけでしょ!

「会いたくありませんね」

 うつぶせのまま返答する。外は雪だけど暖房が効いてる部屋だから気持ちいい……。ルネがそんな私の頭を綿を撫でる様に触った。

「高畑が好きだったんですね、音夜は」
「はぁ!?」

 とんでもない勘違いにがばっと上半身を起こしてしまい、クラクラ眩暈がした。いかん、やっぱり風邪かも。でも誤解は解いておかなくては。

「私はあんな腹黒大嫌いですよ」
「大嫌いって興味がある事の裏返しですよ。どうでもいい男ならどちらにもなりませんから」

 優美な動きでルネはベッドの横の椅子に座った。そして肘掛に右肘で頬杖を突いてにんまり笑う。

「嫌いな奴なんて、殴ろうとも触りたいとも普通思いません。特に貴女は人嫌いなようですからなおさら。小梅さんはそれをわかってるみたいで、かなり不安そうですしね」
「馬鹿言わないでよ。あんな奴。あいつのせいで私がどれだけの被害をこうむったって思ってるのよ」

 腹が立つ。痛むな、私の胸。

「あいつのいい加減な言葉のせいで、池永から最悪のいじめ受けたのよ」
「なんで今まで会社を辞めなかったんです?」
「この就職難にすぐに次の仕事が見つかるわけ無いでしょ」

 ズキズキズキズキ。

「一年以上も?」
「そうよ。それにいじめに負けてすぐ退職なんて、腹が立つもの」

 ああ痛い。このまんまじゃ穴が開くかも。でも胸に手を持っていったら痛がってるのがばれるから我慢。

「二人が結婚するとわかったから、退職を決めたのでしょう? 本当は……」
「関係ない、そんなのっ。池永に完全に堪忍袋の緒が切れたから辞めるって決めたの!」
「なんだかんだとやり返していたようですが。空港でも泣くどころか前向きでしたよね?」
「関係ないって言ってるでしょ!」

 ルネの声が異様に優しいから、悔しくて反射的に叫んだ。これ以上ここにいるとヤバイ。でも部屋を出ようとした私よりも、ルネの方が何倍も素早かった。あっという間に腕を掴んで引き寄せられてしまう。顎を軽くつかまれて青い目で覗き込まれるともう逃げられない。ルネはにっこり笑った。

「それなら謝罪を受けましょうよ」
「わかったわよ。受けたらいいんでしょ受けたら」

 半場投げやり気分で言いながら、あつあつの二人を見るのは地獄だなと思った。

「大丈夫です。音夜には私が居るのですし」

 この男、人の心が読めるのか! ルネの腕を振り払って私は毒づいた。

「必要ないわ。っていうか、高畑のお遊びにここまでつきあうなんて貴方も暇ですよね。ご夫妻を騙すのもよくありません」
「事実なのに。どちらにしろ二日後には私のフィアンセです」
「貴方馬鹿じゃないの? 失恋してるのに男に未練引きずってる女が簡単に落ちるわけないでしょ」

 認めるのが嫌だ。私はあんな腹黒男大嫌いなのに。でも、それでもどっかで期待してた。だっていろいろ本当は庇ってくれてたの知ってる。とった行動が池永にはすべて裏目に出て、私に申し訳ないと思ってる事だって知ってる。ちゃらちゃらしてるけど根は悪い奴じゃないから心底後悔してるんだろう。泣いたら負け、認めたら負けだ。それなのに目が熱くなって来た。

「やっぱり音夜は可愛い子ねずみちゃんですね。だから、好きなんですけど」

 私の頭を子供にするみたいに撫でながら、また口説き始めたルネがうざい。よくもこうすらすらと思ってない事が言えるもんだ。いろんな人の思惑を孕んでいた旅行は、なんだかおかしな方向へどんどん進んでいくみたい。

 謝罪の場所は、お城の庭だった。

「俺のせいでお前が散々な目に遭っているのに、助けてやれなくて悪かった。あと何回殴ってくれても構わない。俺はそれぐらいの事をやっちまったんだから、好きなだけ殴ってくれ」

 あの悪ふざけの権化のような高畑が、お城の庭の積もった雪の上で正座して、きっちりと私に頭を下げた。さっきから降り始めた雪が高畑の肩や頭に降り積もっていく。本当に悪いと思っているのがありありとわかる真摯な態度で、そんな彼を初めて見た私はかなり面食らった。そうだよね、これくらいの誠実さがないと、真面目の権化の小梅ちゃんが婚約なんてするわけない。小梅ちゃんも初めて見る厳しい顔で、恋人の高畑を離れた場所からじっと見下ろしている。

「俺は森村が強いから大丈夫だと思ってた。……面倒くさくて逃げてただけだったと気づいた時にはすべて遅かった。俺は卑怯だったと思う」
「高畑……」
「俺はお前のまっすぐな態度が好きだった。男友達みたいで頼りになるなっていつも思ってて……」

 ふー……っとルネが私の横でため息をついた。あからさまだなあルネ。外人男は容赦ないわホント。私は高畑の言葉を遮った。

「もういいよ。会社は辞めると決めたし、池永とは一生会わないだろうしね」
「あいつは近いうちに人事異動で、地方の支社に左遷させると社長が言ってた。俺も九州に異動になる」
「報復ならいらない異動だよ。池永は意地悪の度が過ぎたけど仕事はできるもん。私みたいなんじゃなくてできる女だって皆知ってる」
「いいや、個人の事で仕事に散々支障をきたしてた。やっちゃあいけない事をあいつはやりまくった。お前のためだけのせいじゃない」
「……そっか」

 らしくない高畑、変なの。胸の底からどす黒いものが沢山沸いて出てきて辛い。こいつが今こんなふうになっているのは、小梅ちゃんとの未来があるからだ。皆彼女のためにやってる事で、彼女のために懺悔を私に繰り返している。それが一方的な私の恋心には辛くて切なくてやりきれない。もういいよね、ここまで我慢したら。私はかがんで雪玉を作り、土下座したままの高畑の頭に軽く放った。雪玉は乾いた音を立ててつぶれて落ちた。

 私はわざと明るい声で笑った。

「雪まみれ。良い男がなにやってんの……」
「すまなかった」

 相変わらず高畑は顔をあげない。高そうなスーツが雪でずぶ濡れになっている。このままでは風邪を引いてしまいそうだ。皆傘をさしているのに高畑だけがさしていないのだから。

「もういいから顔あげてくれる? そして立って、小梅ちゃんのそばに行ってあげて。見られるもんじゃないよ恋人の土下座なんて」
「でも俺はそれぐらい悪い事をしたんだ」

 私は次から次へと沸きあがってくる嫌な感情を必死な思いで蓋をし、高畑の頭や肩の上にある雪を払って、強引に立たせた。先日の打撲でかなり痛いだろうけど、男なら根性で我慢してもらいたい。見下ろしてくる高畑の目はひどく頼りない。それがまるでお預けをくらった子犬のようで、私は今度は本気で笑った。

「小梅ちゃんを幸せにしたら許してあげるよ。婚約おめでとう。会社で皆に言うのよ?」
「……ごめん」

 このくそたわけ男め。どこまで私が強いと信じてるんだ。
 むかっとしたけど、女も根性だとそこはぐっと堪えた。

「もうこの話は終わり。寒いから皆部屋に入ろう?」
「森村?」
「許すも許さないも……、もう済んだ事よ。私はもうなんにも気にしてないから。これからも私とあんたは友達、それでいいでしょ。殴るのはもう手が痛いから嫌よ。あんたもこれ以上殴られたら顔がお化けになって皆びっくりよ」
「…………」

 出そうになる涙をなけなしの笑顔に変えて、私は軽く高畑のおなかを拳骨で押した。痛ぇ……と高畑は低く呻く。私は厳しい顔のままの小梅ちゃんにばいばいと軽く手を振って屋内に戻ると、傘をたたんで壁に立てかけ、そのまま部屋まで逃げ帰った。鍵を閉めて誰も入れないようにして、ベッドの中にもぐりこむ。

「────っ!!」

 我慢していた涙がこみあげてきて、私はそのまま子猫のようにうずくまった。

 さよならなんだ。
 本当にこれで皆さよなら。
 高畑が好きだったよ。何でもない振りして好きだった。好きじゃないと自分に思い込ませてずっと無理してた。だってあんたは私を友達以上にはどうしても見てくれなくて、それでもそばに居たくて……。小梅ちゃんを紹介された時は辛かった。でも応援した。だって嫌われたくなかったから。

 何よこれ……、完全に感傷旅行じゃない。私らしくないよこんなの。そうだらしくない。

 ベッドの中にもぐりこんで泣いたせいで暑くなってきた。はあ……と息をつき手の甲で涙を拭った。

 コンコンとドアを軽くノックする音がした。ルネだ。どうしてルネはいつもこうタイミングよく来れるのだろう。どこかに盗撮カメラでもあるのかな。普通なら鍵を開けたりなんかしないのに、何故か私の足は勝手にドアに歩いていって、無意識に鍵を開けてしまった。きっと押さえていた感情の余波が正常な判断を鈍らせているんだ……。

 廊下に立っているルネを見上げると、ルネはよくやったねという感じで微笑み、私の肩を抱いて部屋に入り鍵を後ろ手に閉めた。

「けりはつきましたか?」
「……けりもなにも、最初から決まっていた事よ」

 優しいルネの声に治まっていた涙が再び盛り上がり、すうっと頬を伝って絨毯の上へ落ちていった。ルネの人差し指がその涙をなぞっていく。

「胸が痛いですか?」
「……当たり前じゃない」
「目も痛そうですね」
「…………」

 肩を抱かれたまま、私はルネに逆らわずに歩いた。なんだか自分が自分ではない感覚だ。ふわふわとして夢と現実のうつつにいるような、でもこれは現実で……。やわらかくベッドに寝かされ、ルネの大きな手が服を脱がしていく。私は目を閉じて何も言わなかった。寂しくて寂しくて、誰でも良いから私を必要として欲しくて。

「逆らわないんですか?」
「ここまで脱がしてから言うの?」

 私は男を知らない女じゃない。恥じらいなんてもうない。やってみせても滑稽なだけだろう。ルネは確かにそうだと言ってうなずき、私を一糸まとわぬ身体にした。そして私の前で同じように服を脱いだ。日本人とは違う強靭な身体つきがなんだか怖い。部屋は暖房が効いていて暖かいのに、肌が少し寒く感じる。ルネの青い目が、私の裸体を隅から隅まで観察するように滑っていく。

「音夜の身体はとてもきれいですね」
「日本は湿気が高いから、肌が荒れにくいのよ」

 ベッドがわずかにたわみ、ルネが私の身体の上に覆いかぶさってくる。

「ふふ、そうやってすぐに強がる。だから間抜けな高畑は貴女の恋心の深さに気付かなかったんですよ」
「気付いて欲しくなんかなかった。は……ぁ」

 ゆるりと大きなルネの手が肩を滑っていき、優しい温かさで私はわずかな女の声を出してしまった。ルネの顔が近づいてきて上唇に口付けた後、ゆっくりと唇全体に己の唇を重ねて吸い、肩に滑らせていた手を胸のほうへ流して、柔らかく揉み始めた。

「んんっ……ふ……」

 口付けは長くてなかなか終わらない。舌でかき回されて絡んでくるその温かさが私をおかしくさせる。気がついたら私の両腕は、まるで男を誘う娼婦みたいにルネの首をかき抱いていた。ぴちゃりと水音がして唇が一瞬離れ、再びまた角度を変えて口付けられる。足の間にルネの身体が押し入ってきて、ルネの男が私のやわらかな場所をぐいぐいと熱く押した。それだけで快感で腰が砕けそうになった。

「ふぅ……ん、ん、……ううう……!」

 胸を揉みしだいていた手が、固く尖った胸の先を指で挟み、より深く押し上げた。ルネの手はとてもすべすべしていて気持ち良い。……セックスってこんなに気持ちよかったっけ? 首に絡んでいた手の片方が外されてルネの手と絡められる。口付けが終わって息をつく私の目の前で、ルネはまるで騎士がお姫様にするように私の手に口付けた。

「音夜。貴女は知らないでしょうが、私は一年前、貴女に出会っていました」
「……一年?」
「高畑に誘われて日本に行った時、待ち合わせていたレストランの前で貴女は高畑と小梅と三人で話をしていた。明らかな思慕を押し隠して、高畑と小梅を応援している貴女がとても健気で愛おしくてたまらなくなりました」

 カムフラージュもあったのか、よく三人で食べに行っていた記憶がある。でもルネに会った記憶は無い。

「実は高畑は貴女の恋心に気付いていて、それで私を日本に呼んだんです。私は軽い気持ちで承諾しました。彼は女の扱いに慣れている私に、貴女をなんとか他の男へ向かせるきっかけを作って欲しかったんですね。」
「……きっかけ」
「ふふ。それなのに女の扱いに慣れているはずの私が、貴女の高畑を想う恋心の前に何も言えない状態になってしまいました。だから用事が出来たと会わずにフランスへ帰りました」

 そう言ってルネは再び私の手に吸い付くようなキスをした。

「貴女の高畑を想う重さと、私の音夜を想う重さはどちらが重いのかはわかりません。でも高畑が考える、貴女が高畑を想う恋心よりははるかに重いに違いないです。高畑はどこまでも貴女を友人として、また誰よりも心が強い女としてしか見てなかった。それが貴女をここまで傷つけてしまったんです」
「ルネ……」
「私は空港で高畑がこの事を仕組んだと嘘をつきました。でもこの旅行計画を高畑に持ちかけたのは私です。キャリーバッグはちゃんとこちらに来ています。先回りして高畑と小梅が持ってきたんです。高畑が仕組んだ事でも池永が仕組んだ事でもありません」
「…………」
「……だましうちみたいだから良くないと高畑は反対しました。でも、私は高畑と小梅が婚約した今しかないと思いました。今を逃したら貴女の心の隙には付け入る事は不可能だと。……こんな私を軽蔑しますか?」

 絡められた手の向こう側にあるルネの青い目は、完全に男の目をしていた。仕事とかお酒とかからかいとかそんな事しか興味がないのだろうかと、男というものをそんなふうに捉えていた私は、男でもこんなふうに思いのたけを込めて女を見つめられるのだと気付いた。男だって女のように深く人を想えるんだと。

「……どこから私についていたの?」
「ド・ゴール空港に貴女が降り立った時からずっと。貴女は独りぼっちになっても泣いたりおどおどせずに素晴らしかった。内心は怖いはずなのにそれを表に出さない貴女が誇らしかったです」
「ルネさん……」
 
 心が身体と同じぐらいに温かくなり、私は見ている人がいてくれた喜びでまた涙が流れた。こんなに泣いたら涙腺が崩壊しちゃうと思う。ルネが綺麗な顔で笑って、私の涙を唇を寄せて吸った。私達はそのまま再び口付け合った。ルネの愛撫はとても気持ちが良くて、べたべたしていてもそれがまた想いの深さのようでうれしい。やがて押し入ってきたルネの熱さにはさすがに息を詰めてしまったけど……。

「あ……んっ」

 ルネは愛撫の時は何も言わない。黙って押し入ってきて、私がなれるのを待ち、私の中が自分に馴染んだら腰を動かして私を高みへ導いた。こんな交わりを私は知らなかった。熱くて、激しくて、力強くて……でも底抜けに優しい。

 窓の外は雪が降っているあの静けさに満ちていた。日本もフランスも雪の音は同じだった。

 いろんな事がありすぎていささか飽和状態になった頭を抱えるように、私は高畑や小梅ちゃんと一緒にパリのホテルにチェックインした。あのお城からここまで送り届けてくれたルネは会社に顔を出したらまた来るからねとキスをして、例の黒塗りの車で朝のパリの薄暗闇の中を走り去っていた。高畑と小梅ちゃんが熱いねーとひやかしてくれて、参ったというか何と言うか……いや、参ってるんだけどね。ははは。フランス人って人の前でキスとか平気でするものなんだろうか。するんだろう……うん。

 ちなみにこのホテルには会いたくない相手がいるから来たくなかった。言わずと知れた池永達など会社のメンバーが泊まっているんだなこれが。高畑が池永と連絡をわざわざとってくれて、ここへ宿泊するというなんとも地獄プレイとしか言いようが無いゲームに引きずり込んでくれた。結局来る羽目になるのよねととため息をつきつつ、キャリーバッグをゴロゴロ引きずっていると、ちょうどその池永とばったり出くわした。取り巻きの男どももいる。

「あら、よく生きてここまでたどり着けたわね。英語話せないんじゃなかったっけ?」

 さっそくの嫌味節だ。普通海外で行方不明になったら嫌な相手でも心配くらいするだろうに。黙り込んでいる私に男の一人がにやにや笑った。

「この淫乱女の事だから、その辺の移民でも引っ掛けてたんじゃね? 東洋人はそういう女って思われてるらしいから」
「あーなるほど。すげえ具合がいいらしいからひっぱりだこだったんだろ? どうだった? 外人のあれって?」
「…………」

 よくもまあこの格調高いホテルのロビーでこんな話を朝っぱらからできるものだ。日本語が理解できる人がいたらつまみだされるんじゃないの? 目を怒らせて一歩前に進み出た小梅ちゃんを高畑が制し、何もなかったかのように奴らに挨拶だけをしてエレベーターに私達を誘った。背後で池永がくすくす嘲笑するのが聞こえる。エレベーターの扉が閉まって私達だけになると小梅ちゃんが高畑に文句を言った。

「なんであそこで注意してくれないの? ひどすぎるじゃない!」
「あんなところで喧嘩の方がみっともないからな」

 それには完全に同意だ。エレベーターは直ぐに目的の階に着いて扉が開いた。小梅ちゃんは納得できないようでさらに続けた。

「でもあんな事言われる筋合いはないじゃないですか。あの人達本当に嫌い!」
「言い返す権利は森村にしかない。お前が言ったって仕方ないさ」
「原因は貴方にあるんじゃなかったでしょうか? 謝罪したのは何だったの?」
「若いなあ小梅は。言い返せば良いってもんじゃないの。しかるべき時にしかるべき場所で言ってこそあいつらをぎゃふんと言わせられるんだ」

 私は二人が言い合っているのを後ろに、もくもくと宿泊する部屋に向かって歩いた。皆まだ寝ているようで、起きている池永達の方が珍しいようだ。私もかなり眠い。車の中でずっと爆睡していたくらいだもの。それもあって池永達の嫌味も左から右へと流れていた。ハッキリ言って馬鹿馬鹿しすぎて言い返す気にもならなかった。このまま部屋に入ったらベッドにダイブしたい。

「森村先輩、あんな人達の言う事誰も信じちゃいませんからね!」
「うん……そうだと思うよ」

 小梅ちゃんには悪いけど、もうどうでもいいんだよ。私は部屋の鍵を開けた。

「用事が無い限り放っておいて欲しいの。もう眠くて眠くて」

 あくびをしながら二人に振り返る私に、そこで初めて小梅ちゃんは私の状態に気付いたらしい。そして何故か赤面した。

「あ、あの、すみませんっ。そうでしたね、森村先輩はあのシャサーヌさんと昨日、いえっあの、しつれいしました。私ったら何も気付かなくてっ!」
「ったく小梅は今頃気付いたか? 早々にオレ達は退散するぞ」
「はい、そうですね。じゃあまた夜にでもっ、ご、ごゆっくりお休みください!」

 部屋に押し込まれてドアが閉じられた。うにゃ? 何をあんなに小梅ちゃんはあせってたんだ? 私はキャリーバッグをその辺に置いて、靴をぽいと脱ぎ捨ててベッドへダイブした。うわお、ふんわりしてていいわねー。シーツの感触をたっぷりと堪能してから私は小梅ちゃんの誤解に気付いた。

 まさか小梅ちゃん、私とルネが昨日一日中ヤってたって思ってるんじゃ……。

 確かにルネとは寝たよ。だけど一日中はヤってないぞ? あの後ずっと一緒の部屋にいたけど、ルネも私もお互い好きなように過ごしてたもん。ルネは読書で私は旅行中に描きまくると決意していた絵を描いてたし。ルネのお城はそこいらへんに美術品がごろごろしていてスケッチやりたい放題だったから、ついつい熱心にやりすぎて気付いたら夜中だったってくらい。

 小梅ちゃんは悪い子じゃないし頭も良い方なんだけど、なんかぬけてるんだよね。まあそれくらいが高畑には落ち着くんだろう。

 ……にしてもさっきのロビーでは恥ずかしすぎて顔から火が出ると思ったわ。ルネの持ち物のひとつだというこのホテル……(この辺りから旅行がルネに計画されていたものだとわかる)、この調子じゃホテルの至る所にトラップが仕掛けてありそうだ。部屋に潜んでいたほうが良さそう。このまんまじゃ注目浴びまくるのは間違いないよ、トホホ。偽名を使えばまだましだったかなあ。なんの因縁なんだろうなこれって。

 ルネ・ドゥ・シャサーヌ。貴族出身。そしてホテルをいくつも経営している、フランスではかなり有名なとっておきの美男子。

 変な男だ。私の何がそんなに良いんだろ。でもルネの印象は良いものに変わってきてる。最初はどこの誘拐犯だと思ったけど、どれもこれも私の為に気遣ってくれていたのがわかる。多分言っていたのはすべて本当だろう。

「うわ……」

 不意にルネの体温が自分の服を浸透して甦ってきて、私は赤くなる顔を両手で覆った。あんなふうに優しく包み込まれたのは初めてだ。キスも嫌じゃなかった。青い目は思慕に溢れていて、強くて、目が離せなくて……。男の人とするのって本当はあんなに気持ちよかったんだ。

「今頃思い出すなってば」

 ごろりとそのまま横に寝転がって、大きな羽枕にしがみついた。しがみついてからそれをルネの代用にしていた自分に気付いて、囚われてしまっている自分を知る。

『三日後には後悔しますよ』

 ルネの予言が成就してしまった。

 夜まで寝た私は小梅ちゃんに起された。たっぷり12時間寝た頭はとてもすっきりしていて気分が良い。でもこれから会社の人達とパーティーなんだよね。出たくないけどこれが最後だから出ておくしかないか。池永との確執はしょせん私達だけの問題であって、他の人達には関係ないから。

 ルネのお城で着たスーツを着て薄く化粧をする。こんなものでいいだろう。パーティーが行われるレストランは最上階にあり、エレベーターで昇って着いたらパリの夜景が目に飛び込んできた。これは物凄い贅沢だ。

 会社の面々がそこかしこでそれなりにドレスアップしてたわむろしている。立食形式のパーティーだから、ずらりとおいしそうな料理とかお菓子とか飲み物とかが所狭しとテーブルの上に並べられていた。これは食いしん坊の私にはたまらないなぁ。

 時間になり、やけに気合の入ったドレスを着た池永が壇上に立った。なんでも今回は幾組かのカップルのお祝いのパーティーでもあるらしい。ふーん、知らなかったな。遅れて入ってきた高畑と小梅ちゃんが慌てたように壇上に向かって歩いているのを見ると本当らしい。池永が壇上に並んだカップル数組を紹介し盛大に拍手が送られている。高畑達を池永が紹介した途端、案の定みなの視線が私に振り返った。はー……皆噂を信じてるのね。池永の目のうれしそうな事よ。はは。私は好奇心や面白おかしく人を見る視線には慣れてるから、平然として拍手をする。それにもう私は高畑には未練は無い。池永はそんな私をわずかに悔しそうに見ていたけど、隣にいるカップルに何故かマイクを譲った。皆がいぶかしげに見ていると、池永の隣にイケメンで会社の女子達に人気があった営業の松沢君が立った。マイクを譲られたカップルがにこやかに二人を指した。

「最後のカップルは池永さんと松沢君です」

 わあっと歓声が湧く。成程、一番これがしたかったわけね。今度こそ池永はうれしそうだ。勝ち誇った目が素晴らしい。ふーん、松沢君って女を見る目がないんだな……。ひそひそと周囲が私を見て囁いている。あーはいはい、私は一人で可哀相でございますね。

 それからパーティーが本格的に始まり、皆がおしゃべりをしながら飲み食いを始めた。私は例によって食べるだけ食べたら戻ろうと思っていたので、お皿にキャビアやらフォアグラやらパンやらチーズやらサラダを載せまくり食べ始めた。うん、これは最高においしい。フランスにきてよかった。

 でもやっぱり一人は寂しいかな。ルネは今頃何をしているんだろう。このパリの夜景のどこかに彼はいて、同じように私の事を想ってくれているんだろうか。愛とまでは行かないけど、私は確かにルネに惹かれているのを自覚していた。

 池永はずいぶん楽しそうだ。そりゃここまでやれたら楽しいだろう。でも一方でずいぶん彼女が可哀相にも思えた。ここまで私なんかを意識して振り回されて、近いうちに異動が待っているだなんて……。

「んもう! 千載一遇のチャンスだったのに!」

 何故かいつの間にか私の横にいた小梅ちゃんがワイングラスを一気に煽ってテーブルに置いた。今日の彼女は、私の前に来たら必ず怒るというふうになっているらしい。

「チャンスって何が?」
「ここでシャサーヌさんが来てくれたら、あの池永さんをとっちめてやれたんですよ」
「ルネを? 私達婚約なんかしてないよ」
「それでもですよ。ここにいる誰よりも彼は良い男じゃないですか」

 おいおい。高畑の立つ瀬が無いよ。小梅ちゃんのくやしそうな視線は楽しそうに談笑している池永に注がれている。

「ルネをそんな茶番には呼びたくないわ、私」
「森村先輩……」
「私、池永を可哀相だと想ってる。そう思わせてくれたのはルネなの。だから同じ土俵には立ちたくないんだ」
「もう! 先輩は人が良すぎ!」

 ぷんすか怒る小梅ちゃんに私は苦笑した。恋って人を成長させるのかな。高畑が真剣に小梅ちゃんを想って私に謝罪をした、あの土下座が私に影響しないはずが無い。男って本当に凄いなと思う。男は愛する女の為に惨めな男にいくらだってなれるんだ。──もちろんそれは良い男にしかそれはないけど。

 私がたらふく食べてデザートの皿にフォークを戻した頃、パーティーはお開きになった。カップル達は皆から花束をもらってうれしそうに笑っている。私は惜しみない拍手を送った。人の幸せを祝うのは良い気持ちだ。そして高畑への恋を終わらせてくれたルネに深く感謝した……。

 日本へ帰る日、ホテルのロビーは会社の皆がたわむろしていた。結局ルネはあれから私の前に現れず、私は数日間ほとんどホテルの部屋で絵を描いて暮らした。びっくりはあるもののここのホテルもいろいろと見所があるし、外の風景も素敵なので退屈するなんて時間は無かった。パリに来た時はどうなる事かと思ったけど、結局のところとても有意義な時間を過ごせた。

 ルネにとって私との事はお遊びだったのだろうか。こんなふうに思ってしまう自分が嫌だ。でも彼が私に残してくれたものはとても大きくてルネを恨む気にはなれない。

 にしても、ロビーにいるのは嫌だな。早くバスが来ないかな……。色つきのサングラスをしてソファに座っている私の向かい側に、松沢君を連れた池永が座った。

「ずっと一人でいたけど寂しくなかった? ごめんねー」

 ごめんだなんて思ってないのがありありとわかる。まだ言い足りないのかこの女。松沢君と指を絡めて座るあたりいっちゃってるわこれ。やれやれ。ふと目を上げて見たくない物を目にしてしまい、私は再び視線を落とした。それをなんと勘違いしたのか池永はうれしそうに笑った。

「まああんたにもこれから良い出会いがあるわよ。どこに就職するか知れないけど、物好きがいてあんたを気に入ってくれるんじゃない?」
「昭代、いくらなんでもいいすぎ」
「だってこの子なんにもできないもん。どれだけ尻拭いさせられたか、大変だったのよ。次の会社の上司が気の毒でたまらないわ」
「そりゃそうかもしれないけどさ」

 がくりときた。松沢君って残念な男だったんだな。コイツにもやれやれだ。げんなりしている私の目の端にまた目を怒らせた小梅ちゃんが映った。高畑がしきりになだめているのが哀れだ。ごめんよ高畑……、私の為にいちゃラブ旅行がイライラ旅行に……。

 ロビーに置かれているテレビの画面が変わり、知っている風景になった。隣のソファに座っていた経理の子が「ちょっと!」とさらに隣に座っている子の肩を揺さぶった。池永と松沢君も気付いたようで後ろを振り返ってぎょっとした。テレビに映っているのはこのホテルだ。私達が映ってるーと皆が騒ぎ始めるのと、放送局の人達と思われる数人が機材を担いでロビーに入ってきたのはほぼ同時だった。

「え……!?」

 私は驚いて目をまん丸にした。だって、リポーターのマイクを向けられているのはルネだったから。ルネはフランス語で何かをぺらぺら話してから、真紅の薔薇の花束を持って優雅な足取りで私の元まで歩いてきた。照明のライトが向けられて眩しくてたまらない。その中でルネが私にの前に立った。

「……ルネ」
「音夜。遅くなってすみません。いろいろと片付けなければいけない事がありまして、こんな帰国間際になってしまいました」

 ルネはきっちりと着込んだスーツのポケットから指輪を出し、私の左手を恭しく取って薬指それを嵌めた。

「音夜。私と結婚してくれますね?」

 きゃああっと歓声が沸いた。パシャパシャとカメラのフラッシュがたかれて、現実ではないみたいだ。ドッキリか何かかと思ったけどルネは真剣そのもので、指輪を嵌めた私の手に口付けた。リポーターが熱心に何か言っているけど、フランス語がわからない私には意味のない言葉だ。

「普通プロポーズの返事が先でしょう?」
「この逢えなかった数日、私を想ってくれていたでしょう? 私しかいないと思いませんでしたか?」
「どこまで自惚れが強いのかしら……」
「ここまで自惚れさせてくれたのは後にも先にも音夜だけです。このホテルを見てわかっていただけたでしょうか? こんなにも音夜を愛している私に」

 くさい台詞だけどルネが言うと様になっている。呆れや恥ずかしさともに私は降参するしかない。私はホテルのロビーの一番目立つところに掛けられている私の絵を見上げた。それは私の故郷の青空を描いたものだ。私のキャリーバッグからいつ抜き取ったのかわからないけど、ここのホテルには格調を落とさないように私の絵がそこかしこに展示されている。フランス語が理解できる誰かが、あの絵を私が描いたものだとリポーターが言っているのを聞き取り、みんなが私と絵を交互に見た。ざわざわとした中でルネは私を立たせた。

「私のホテルで楽しんで頂けましたか?」
「はい……」

 私の絵がとっても恥ずかしかったけどね。ルネがうれしそうに口角を上げる。

「もう一度言います。音夜、結婚してください」
「はい」

 気がついたら私はそう言って花束を受け取っていて、ロビーが興奮の渦に巻き込まれた。ルネが私に口づけるとそれはさらに大きくなり、リポーターの叫び声が一瞬でかき消された。お祝いの声が降り止まない中、悔しそうに池永が松沢君の腕を引っ張って外に出て行く。小梅ちゃんがいやに男らしく親指を突き立ててきた。高畑も片目を瞑って笑っている。

 も、物凄いラッキーサプライズだ。

 池永はあれからすぐに松沢君と破局したらしい。小梅ちゃんによると池永が別れを持ちかけたという。そして会社も辞めて行方不明になりどこに行ったのかは誰も知らない。小梅ちゃんは高畑と結婚して日本で幸せに暮らしている。

 私はルネと結婚してフランスのパリに再びいる。日本に一旦帰ったけれどすぐにルネが迎えに来て、次の就職先も無い私はルネに押し流されるように戻ってきてしまった。生粋の日本人の私には戸惑うばかりの海外生活をルネは献身的に支えてくれた。

「あー疲れた……」

 夕食を作り終えてあとはルネを待つばかりだ。慣れない家事や時折やって来るお義母さんからのマナー教育でくったくたの私は、それでもルネの帰りを思うだけで疲れが吹き飛んでしまう。呼び鈴が鳴った。大きなおなかを抱えて私はすぐに飛び起きて、玄関の戸を開けた。満面笑みを浮かべたルネが私を抱きしめて私も抱きしめ返す。

「凄く長い一日だったよ」
「ふふ、私もよ」
「早く家族みんなで旅行に行きたいな」
「そうね」

 私はソファに座ったルネの膝の上に座らされ、そっとその胸の中で眼を閉じた。ルネはこれからも楽しい旅行をさせてくれるのだろう。

 ヴァージントラベルは、とても素敵な旅行の始まりだった。ドキドキとハラハラと涙と笑いが入り混じったそれは私の中で永遠に生きていると思う。

「ん」

 痛て……、お腹の子供が元気すぎて困る。もうちょっとしっとりムードに浸らせてよ。もう。

「どうしました音夜?」
「んーん、なんでもない」

 まあいいか、それも幸せなたびの一部なのだから。

Posted by 斉藤 杏奈