願わくは、あなたの風に抱かれて 第18話

「この御守を持っていてください」

 彰親は、丈夫な白の紙に包まれたそれを、かさねの手に握らせた。

「殿?」

「いいですかかさね。貴女はきっと、先の世でのあれこれの過ちを気に病んでいるのでしょう? そして今こんなに辛いのはその償いだと思っているのでしょう? でもそれは全く違います」

 かさねは俯きながら、首を横に振った。そのかさねの重たげにかかった髪を掻き上げて、彰親が顔を近づけてきた。

「貴女を狂わせたのは、欲深い人たちの業です。貴女のものではありません。彼らは彼ら自身の過ちをその身に受けたに過ぎないのです」

「でもあの妖達は……」

「誰一人、酷な目に遭っている貴女を救おうとしなかった。それどころか殺そうとした。その咎を受けただけですよ。因果応報というものです」

 そうだろうか。この血塗れた自分こそがそうではないのか。

 さらに顔が近づいてきて、唇が重なった。とても優しいそれは、一瞬だけかさねを幸福にさせた。

 燈台の火が静かに揺れる。

「人は皆、それぞれ業を背負っています。そしてそれは、誰も代わりに背負うことはできません」

「ええ、ですから」

「わかっていても、私は貴女を救いたい。それほど愛おしいのです。忘れないでください。そして疑わないでくださいね」

 疑ってなどはいないが、それは勘違いだ。

 彰親はきっと、救えなかったかさねの前世を後悔して、それが愛によるものだと錯覚している。なんとかして本当の妻となるべき人へ巡り会って欲しいものだが、かさねにはその力はない。

 自分は躬恒から逃れられない。

 どうしたら、躬恒から彰親を護れるか、そればかりをかさねは考えている。

 珠子はその夜遅くに目覚め、迎えに来た一条に連れられて戻っていった。

 顔色は良くなっておらず、今少し元気がないのが気がかりだったが、こればかりはどうしようもない。

 それにかさねは楽観視していた。

 珠子は皆に愛されているのだから、うまくやっていけるはずなのだ……。

 翌日、縫い物をしながら紅梅の君がひそやかに笑った。

「ほんと驚いたわ。いきなり左府の北の方がおいでになったのだもの」

「私もよ。身分の重い方って、そこにいらっしゃるだけで、ずんと空気が重くなるわよね」

「普通の人と本当に違うものね。でも、楽しそうな方で良かったわ。北の方もよくなられたみたいだし。つわりって大変みたいで、普段明るい方でも暗くなっちゃったり、泣いたりするの、よくあるみたい」

「…………そう」

 三人の子を生んだかさねは、他人事のようには聞けなかった。本当なら、あの撫子の御方や珠子のように、皆に心配されて、大切に扱ってもらえるはずなのに、自分は食事だけ与えられて、薄暗い部屋に日がな放置されていた。躬恒だけが人目を偲んでやってきて、世話をやいてはくれたが、かさねはそれを薄気味悪いと思うだけで、ありがたいとか嬉しいとか思う気持ちは全く湧いてこなかったのを覚えている。

(御身を大切になさい。私と貴女の子供なのですから)

「…………」

 きっと躬恒は、前世を夢見ていたのだろう。なにもなければ二人はそうして過ごしていたに違いないのだから。

 そういえば最近小桃と疾風が現れないが、どうしているのだろうか。

「あら? 私達の縫う物ではないわ」

 鮮やかに染められた布を一つ取り上げて、紅梅の君が言った。

「そうなの?」

「ええ。私達が縫っているのは上のお召し物だもの。これは、撫子の御方のお召し物ではないかしら? 上はこういう色はお好きではないはずよ」

「撫子の御方様は、派手やかな御方なの?」

「私はお目見えしてないから知らないわ。でも困ったわね。あちらへ行くなんて恐れ多くでできないわ」

 まだまだ新参の二人は、珠子の前ですらなかなか近づけない。

「一条様にお渡ししたらどうかしら?」

 かさねが言うと、紅梅の君はそれもどうかしらと渋った。この桜花殿の女房家人たちをまとめている一条は、なかなか貫禄があって別の意味で近づきづらい。

 あちらでは見当たらなくて困っているだろう。

「もう! 間違えて持ってこないでほしいわ」

 紅梅の君は口を尖らせるのを見て、かさねは内心でため息をついた。

「仕方ないわ。私が行きます」

「……ごめんなさい。蘇芳の君」

 紅梅の君らしくないしおらしさに、かさねは違和感を感じたが、それが何なのかはわからなかった。

 北の対へ向かうと、相変わらずたくさんの女房たちが居て、男たちもあちらこちらに居た。こんな場所はかさねだって気後れしてしまうので本当なら来たくない。

 一条はおそらく、珠子の近くに居るだろう。

 なるべく人目につかないように、静かにいざり、そろそろと一条を探していると、誰かに袖を引かれた。

「…………?」

「失礼ですが、その手になさっているのはどちらのものですか?」

「…………」

 見ると、美しい襲目色の袿の女房が居た。顔もまずまず美しい。かさねより5つは年上のように見えた。

「貴女は?」

「あ、失礼を。私、撫子の御方様にお仕えしておりますの。その、貴女様が手にしておいでのものが、私の探しているものではないかと思って」

「……そうでしたの」

 一条のそばにいかなくてもよくなったので、かさねはほっとした。さっそく布を渡そうとしたが、その女房は既に別の布の山を手にしていた。

 女房は困ったように笑った。

「何もわかっておらぬ者が、適当に配ってしまったようなのですよ。昨日の夜からこうやって探しては、持ち帰っていますの。申し訳ないのですが、持ってきていただけますか? 私の局まででよろしいから」

 撫子の御方のお近くには、たとえ女房の局でも行きたくはないが、このままここへおいていくのも流石にどうかと思われる。せめて一条に言伝を頼もうと、かさねが一条を見やると、珠子の髪を櫛っている最中だった。流石に言いにくい。

 そうこうしている間にも、女房は歩いていってしまうため、仕方なくかさねは寝殿へ向かう彼女の後ろへついていった。

「あれー、蘇芳の君、こちらへなんの用ですか?」

 渡殿を渡る所で、惇長の腹心である由綱に声を掛けられた。

「この布が間違ってうちにきておりましたの。だからいまお返しに行くところなんです」

「ふーん」

 由綱の目が探るように女房を見た。女房は気にすることなく歩いていく。由綱が、かさねの袖を引っ張った。

「なんでしょう?」

「あの女房。彰親の殿と仲がいいんです。気をつけたほうがいいですよ?」

「は?」

 仲がいいのになぜ気をつけなければならないのだろう? 

 由綱が更に何かを言おうとした時、由綱を呼ぶ声がした。

「あの……」

「すぐ戻ってきなさいよ!」

 もっと聞きたいのに、由綱は走っていってしまった。

 わけがわからなくなったが、布をそこへ置いていくわけにもいかない。

 渡殿を渡って寝殿の西側にその女房の局はあった。

「こちらへ置いてくださる?」

 女房が言うので、かさねは大きな木箱の中へ布を綺麗に広げていれた。

「ありがとうございます。とても助かりました。白湯などいかが?」

「いえ、すぐに戻るように言われておりますので……」

 かさねが固辞すると、突然、女房の顔つきがガラリと暗く変わった。

「頭の君がお待ちなのね……?」

「え?」

 頭の君とは誰だろう? 考えながらも、豹変した女房の睨みつける目が鬼よりも恐ろしく、かさねは後ずさった。がたんと几帳が倒れる。

「ああ、貴女は宮中など知らぬ世間知らずですものね。教えてあげる。頭の君とは、私達の間では安倍彰親様のことですわ」

「…………」

「お前でしょう。頭の君の側に居座って困らせている雛の女は! そのせいで頭の君はどれだけ大変かわかっているの? 最近寝る暇も惜しんで、あちらこちらへと詰めておいでなのよ! 知らないのでしょうけど!」

「…………」

 自分の存在が、皆を困らせるものであるのは、かさねにだってわかっている。しかし、なぜそれをこの女房に言われなければならないのか、それがかさねにはわからない。 

「駄目よかさね。その女の目を見ては駄目!」

 言葉と共に、空中から小桃が飛び出してきて、女とかさねの間に立ちはだかった。

「小桃……っ」

 ほっとしたのはつかの間だった。その小桃が悲鳴を上げ床に倒れていく。背中に鋭利な歯で切られたような傷があり、血が迸った。

「きゃあああああ!」

 小桃を切りつけた大きな鷲が、ばさりと羽を広げた。これは妖だ。

 倒れている小桃を必死に抱き寄せ、局を出ようとしたが、そこに女房が立ち塞がる。

「帰しはしないわ。妖は妖の所へおかえりなさい」

「私は人よ!」

 女房は高笑いした。

「髪が黄金の人が居るものですか? 唐に居たと言われる胡人ではあるまいし」

 髪が黄金に変わっている。何かの力に引き出される感じだった。

「違う……違うわ! それに貴女は誰なの! 殿と仲がいい人なのでしょう? それなのに」

 女房は妖艶に己の唇を指で撫でた。

「そうよ……、頭の君は私を何度も抱いてくださったわ。他の女には目もくれなかった。だから……きっといつか、私を迎えに来てくださると思っていたのに。お前が邪魔をしたのよ」

 何の話か、かさねにはさっぱりわからない。

 だが、たしかに彰親はかさねに想いを告げた。だとすると、邪魔をしたのは確かだ。

「でも……でも、私は」

「そう。お前は頭の君を愛してなどいない。それなのにあの方の心を盗んだのよ。汚れた妖ごときのお前が! お前さえいなくなればあの方は……」

 女房の手がかさねの首にからみついてきて、絞め上げていく。

「っ……!」

 心に浮かんだのは彰親の姿だった。いつも彰親はかさねを助けてくれた。だからきっと……。

 不意に女房の手が緩んだ。

 そのまま床に倒れていくかさねを、力強い男の手が腰を抱きかかえてくれ、彰親だと思ったかさねは、あの優しい風ではない腕に気づいて身体を震わせた。

「かさね」

 ごほごほと咳をし、しばらくかさねは言葉を口にできなかった。恐怖だけが渦を巻いて、かさねをついに飲み込もうとしている。

「あ、なた……」

 かさねを見つめているのは、躬恒だった。

「やっと逢えた」

「…………」

「どうしました? あんなに睦みあった私をお忘れですか?」

 頭の中将の躬恒と妖の王の躬恒。二人は同じ美貌で、目も眩まんばかりだが、この躬恒はとても冷たい。優しさなど微塵もない。

 震え上がりながらも、かさねは彰親からもらった新しい御守に触れようとして、ぎくりとした。掴めないそれをなんとか掴み、零しながら懐から出すと、灰になっていた。

「あの男の御守などなんの効力もない」

「小桃と……その人…は?」

 女房は床に倒れている。黒髪が広がっていて顔は伺いしれない。

「気を失っているだけだ、妖の傷は浅い。すぐに癒える。貴女が待っている疾風とやらは、彰親殿に呼ばれて宮中へ行っている。その用事を作り出したのは私ですが」

 くすくすと躬恒は笑った。

 許されるなら気を失ってしまいたい。

「さあ、私の屋敷へ行きましょう。三人の子供も待っていますよ……」

 先日の大風を躬恒は吹かせ始めた。周りはしんと静まり返っている。かさねと躬恒の周りだけ風が吹いているのだった。

(でもこれで、彰親様をお護りできる)

 それがもう愛であることに、かさねは気づいていない。

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