愛だと信じていた 第01話

 愚かだと言われるのはわかっているから、誰にも共感は求めない。

 この恋は一方的な私の片想いで、永遠にあの方に届かない。

 それでもかまわない。

 あの方の心に住む女性を、追い出そうとは思わない。

 あの方が幸せになるのなら、私はどんな事でもやってみせる。

 

「石上さん、これ貴明様のクリーニングされた衣類よ」

「はい」

 同僚のメイドは、沢山のそれを渡しながら、じっと観察するように私を伺うように見る。

 私を見たって、貴明様の気配など感じられはしないのに、ご苦労なことだ。

 誰もが御曹司でお美しい貴明様に近づきたいと思っているから、それが唯一許されている私が妬ましいのか、うらやましいのか、憎らしいのかどれかだろうけれど。

 この佐藤邸には大企業佐藤グループの社員達と、佐藤グループの会長であるナタリー様とそのご主人で社長の圭吾様、ナタリー様のご子息の貴明様がお住まいになっている。

 さながら大きなホテルのようだ。

 居住区域はきちんと分けられていて、ご家族のお住まい部分である、プライベートスペースに入れるメイドは限られている。

 信用のできる人間で、それでいて美しい女性ばかりが集められている……らしい。

 でも、どうしたって人目につく事は外部に漏れる。

 それは主に圭吾様の女性関係で、奥様公認のそれは、おおっぴらでわざと皆に見せ付けているかのようだ。黒目黒髪の長身なうえ、端正な顔立ちでいらっしゃるので、女性のほうでも放っておかないのだろう。

 そんな社長でも、社内にはそれを持ちこまれないので、お仕事に支障はないらしい。そもそもその女性関係の大半は、プライベートスペースに勤めるメイドたちが中心だった。圭吾様の手が付くと、資産のある家へ嫁げるから、それを求める人間が後を絶たない。たとえば、私のように落ちぶれた旧家の人間など……。

「あの子のどこが良かったのかしら?」

「さあ、やけになっておられるんじゃない? ご自分の恋人が奪われたから……」

 ひそひそ声で話す同僚の声を無視して、メイドの作業部屋を出た。貴明様付きになってから、同僚達の間でも孤立している。もともと人付き合いはいいほうじゃない。暗くて大人しくてつまらない女の子と、いつも言われていたから気にならない。だってそれは事実だから。

『お前は性格や才能はともかく美しいのだから、その美しさで佐藤圭吾を篭絡しろ。そして良縁を自力でもぎとるんだ』

 そう言われて、私は佐藤邸に送り出された。

 父は事業に失敗して、先祖代々の土地を皆手放してそれでも借金はなくならずに、佐藤圭吾に新たに多額の借金をした。そして抵当のように娘の私を献上した。有名大学を卒業した姉や、進学校に入学した弟と違って平凡すぎた私は家のお荷物。どうして同じ血を引いているのにと思わないでもないけれど、これも事実だから仕方が無い。

 貴明様のお部屋は、プライベートスペースに入って、二階の一番隅にある。

 部屋の鍵を開け、窓を開けて新鮮な空気を入れた。

 夏に向かっているから、午後は暑くなりそうだな……。

 貴明様はもうすぐ大学からお戻りだろう。昼食は和食のほうがいいだろうか、それとも洋食のほうがいいだろうか。

 そんなことを考えながら、綺麗に片付いている部屋に掃除機をかけた。

 貴明様は几帳面な方なので、部屋もベッドもいつもご自分で綺麗にされている。

 私がする仕事と言えば、クリーニングされた服をクローゼットに入れたり、部屋においでの際にコーヒーを入れて差し上げるくらいしかない。

 もっとお役に立ちたいけれど、無能な私ではこれくらいしかできない。

「あれ? 今日は午後からじゃなかったっけ?」

 唐突に貴明様の声が背後から聞こえて、私の心臓は跳ね返った。掃除機の音がドアの開閉の音を消していたのだろう。電源を切って頭を下げると、貴明様は続けてていいよとお笑いになって、奥にあるバスルームに入っていかれた。

 すぐに、掃除を終えて厨房へ向かった。

 貴明様は、おそらく昼食をすぐに召し上がるだろうから急がなくては……。

 それなのに、途中、リネンの部屋から出てきた、メイドで先輩に当たる藤田さんに捕まった。この人は何故か私を敵視している人で、私を見つけるといつも何かしら用事を言いつける。今日もそうだった。

「石上さん、圭吾様と恵美様のお着替えを、持っていってくれないかしら?」

「……貴明様にお食事を差し上げませんと」

「私が代わりにやってあげるわ。どのみちあんたが行ったんじゃ、料理長はいつも後回しでしょ」

 事実だけに黙って目を伏せるしかない。

 料理長はいつも私の用事を後回しにする。それがたとえ貴明様のお食事でもだ。

 ふんと鼻で笑ってお着替えを私に押し付け、藤田さんは厨房へ歩いていった。

 まったく、あれのどこが信用できる人間なのだろう。油断がならない人間ばかりがプライベートスペースにいる気がする……。

 でも、これはチャンスだ。

 貴明様は、いつも恵美様を心配されている。

 その恵美様のおそばにいけるチャンスだ。

 貴明様づきになってから、圭吾様の部屋へは警戒されて近づきづらくなった。おそらく藤田さんは詳しい事情をまだ知らないのだろう。

 恵美様が、圭吾様の愛人になられてから、まだ一週間だし……。

 いささか緊張しながら、私はお着替えを手に圭吾様の部屋へ向かった。

 一階にある圭吾様の部屋はとても大きい。

 ノックをしたけれど何の返事もない。仕方なしにそっとドアを開けて中へ入った。

 応接室には誰もいない。隣に居間があり、その奥が寝室だったはずだ。

「そう言えば、お二人のクローゼットってどこにあるの?」

 圭吾様のお部屋で、仕事をした事が無い私は、当惑して応接室を見回した。応接室にクローゼットがあるわけがない。

 頼まれ事だし……と思いながらノックをして居間のドアを開けたけれど、そこにもお二人の姿はなかった。出かけていらっしゃるのだろうかと思った私の耳に、胸がどきりとするような声が入った。

 明らかに愉悦を訴えている女性の声。隣の寝室からだ。

 早く出て行かなきゃと思うのに足が動かない。

 信じたくない……だって。これって……。

 か細い猫の鳴くような声、どこまでも甘くて、どう聞いても歓んでる声。今、圭吾様の寝室で相手をするのは、恵美様だけのはず。

 でも、恵美様は貴明様の恋人で……。

 嫌がるような感じがないそれに、動揺が隠せない。

 たった一週間で、別の男に抱かれてこんなふうになるものだろうか。どう聞いても圭吾様に抱かれて強請り、その愛撫で蕩けているようにしか思われない。

 足をがくがくと震わせていると、恵美様の声がいつの間にか聞こえなくなり、代わりに圭吾様の声がした。

「藤田、早く着替えを持って来い」

「あ、はい」

 その声でやっと我に返った私は、藤田さんではないけれどと思いながら、ドアを開けた。そしてこれ以上はないほどびっくりした。

「やはりお前か」

 圭吾様はシャツを肌蹴け、スラックスをわずかにずらしただけで、全裸の恵美様を膝の上に乗せていらした。恵美様はお眠りになっているらしい。たまらない淫気が満ち、濃密な甘い匂いが漂っていた。

 私は恵美様から目が離せなった。なんてお美しいのだろう……。

 釘付けになっている私を、圭吾様は端正な顔立ちを歪めてお笑いになった。この方は貴明様とは違った魅力をお持ちの方で、その帝王のような存在感が恐ろしい心地がする。この人はこのお屋敷の支配者で、それは貴明様ですら敵わないのだ。

「美しいだろ? 恵美は」

「は……い」

「目を逸らすな。貴明に中途半端な説明をすると怒るぞ。あいつはできない人間をひどく嫌う」

 ミルク色の肌に散らばる、無数の赤い花びらが淫靡だ。

 愛しつくされた気だるさが漂っていて、恵美様の長い黒髪がその肌に乱れて降りかかっている……。

「あれが手放したがらないのはよくわかる。こんなに美しい髪も、吸い付く肌も、感度がいい身体も、そうそう手に入れられるわけではないからな、おまけに才媛で愛らしい顔とくる」

「…………」

 上気した肌は確かに美しく、私と同じ年なのに、どう見ても女としてはこの方の方が格が上だ。

 私はこんなに愛らしくないし、庇護欲をそそられるような雰囲気も無い。恵美様は進学校を卒業されていて、いつも10番以内だったとか貴明様が言っていらした。

 そう、この恵美様は貴明様の恋人なのだ。その恵美様を、圭吾様は貴明様からお奪いになった。

 貴明様によると、それにはなんと貴明様のお母様であり、圭吾様の奥様である、ナタリー様の意思が絡んでいるのだという。もっともナタリー様は二人を別れさせたかっただけで、圭吾様の愛人にとはおっしゃってはいないのだけども。

 圭吾様は今年で三十歳。貴明様は十八歳。そう……二人は義理の親子で仲は最悪だ。

 ナタリー様にとって、貴明様はこの佐藤グループという大企業を継ぐ大切な跡継ぎで、なんのへんてつもない家庭の恵美様が恋人だと、会社のためにならないから認められないらしい。

 貴明様の恋が本気で、ゆくゆくは結婚を望まれているのを見越しておいでなのだろう。

 その辺のナタリー様のお気持ちはわかる。つりあいの取れた家柄同士の結婚でないと、お互いは不幸になる。

 本人の合意で結婚はなるけれど、結局は家のしがらみが一生つきまとうのが当たり前なのだ。

 

「お前に手を出しているそうだが、さぞ物足りないだろうな?」

 圭吾様の切れ長の黒い瞳に射抜かれ、さっと顔に熱が集まるのを感じた。

 こんな素晴らしい女性と比べられる自分がひどく惨めだ。黙って頭を下げて、お着替えをサイドテーブルの上に置いた。

「石上」

「……はい」

 そのまま逃げるようにドアへ向かった私は、圭吾様に引き止められた。

 もうお二人に振り返るなんてできやしない。

「貴明を愛しているのなら、あいつのそばにいるのは止めておけ」

 何をおっしゃっているんだろう。

 そんな事、この方の仕事の範囲ではないと思う。惨めさが消えて、いつもの冷静さが戻った私は、振り返らないままドアのノブに手をかけた。

「……仕事ですので、いい加減な事はできません。失礼します」

 圭吾様の返事を待たずにそのまま廊下に出た。濃密な性の空間から出られて心の底からほっとするのと同時に、圭吾様の中に恵美様へ向けられる、確かな愛情が芽生えているのを見てしまった事に胸が痛む。

 恵美様は耐えられるのだろうか。あんなに熱く愛されたらほだされたりしないだろうか。どうか貴明様を想い続けられて欲しい。そうでないと……。

 気が付いたら貴明様の部屋の前に戻っていた。

 おそらくお食事中だから、入ろうかどうしようか迷っていると、中から藤田さんが怒ったような顔で乱暴にドアを開けて出てきた。

 びっくりしている私を睨みつけて、さっさと廊下を歩いていく。

 何が起こったのかわからないでいると、部屋の中から貴明様の呼ばれる声が聞こえた。

「あすか、早く入っておいで」

「……はい」

 貴明様の食事のテーブルは綺麗に設えてあったけど、何故かコーヒーがカップからこぼれてテーブルクロスに染みている。

 貴明様が、それを指差してうんざりしたような声でおっしゃった。

「あの女、いきなり口移しでこれを飲ませようとしたんだ。なんだってあんな女に食事を運ばせたんだよ、あすか」

 ……やっぱり貴明様に迫りたかっただけか。

 丁寧に謝罪し、セットをすべて下げて汚れたテーブルクロスをふきんで綺麗に拭いて、新しくコーヒーを淹れた。

 その間に貴明様は、昼食をすべて召し上がってしまわれる。

 貴明様の食事はとても早く、よく噛まれているのか心配するほどだけど、いつもお元気だから、おそらくご本人にはこれでいいのだろう。

「コーヒーはベッドに運んで」

「あ、はい」

 お休みになりたいのだろう。私はそう思いながらコーヒーをそのままトレイに載せて、貴明様のベッドの脇にあるテーブルに置いた。

 これで仕事は終了だ。

 今日は午前中だけの勤務にしてある。午後から明後日まで休みだ。

 ふと、先ほどの圭吾様のお部屋の、恵美様を思い出した。

 貴明様に報告しないほうがいいだろう。貴明様が心配されるだけで何もいい事はない。

 それよりも、どうしたら恵美様をお救いできるかを探らなくては……。

「あすか」

 ベッドに腰掛けられた貴明様に手招きされ、ドキンと鼓動が高鳴った。貴明様の薄茶色の目の中で、わずかにおびえている私が映っている。

 その目がコーヒーを映し、私に戻った。

「お前がコーヒーを飲ませて?」

「……はい」

 変なご命令だなと思いながら、カップを手にとって貴明様のお口へ持っていった。

 すると貴明様は、違うだろうとお笑いになった。

「お前が口に含んで飲ませてと言ってるんだよ」

「ええ?」

 藤田さんがしようとした事を、私にしろと貴明様はおっしゃるのだ。

 とんでもない意地悪だ。

 恥ずかしさで顔を赤くしている私を、貴明様はおかしそうに覗き込まれる。困っているのに、胸は浮き立つようなうれしさでいっぱいだ。今、貴明様は私を求めておられるのだ。

 どきどきしながらコーヒーを口に含んだ。

「さあ……」

 甘い声に引き寄せられるように、コーヒーを含んだ唇は貴明様のそれに重なった。ゆっくりと苦い液体を流し込んでいくと、ごくりと飲み下される音がする。身体に貴明様の腕が絡まり、唇を重ねたままベッドに転がされ、私はひたすら貴明様の口付けに応え続けた。

 ふわりと貴明様がお使になっている石鹸の香りがする。この匂いがとても好きだ……、間近に行けばこの匂いに包まれるから。

 唇を離された貴明様に、鼻がぶつかるほどの近さで見つめられた。

 ああ、なんてこの方は美しいのだろう。

「親父の部屋に行ったんだろう? ご褒美をあげるから詳らかに話すんだよ」

「貴明様……」

 貴明様は、私を好きにされる代わりに、愛してもいない私を抱いてくださる。

 私は、少しでも貴明様のおそばに居たいから、この方のためにならなんだってする。

 世間的にはさぞ醜い、愚かで、救いのない関係に見えるだろう。

 それでも私は構わない。

 この時だけは、黄金の髪を持つ、光の天使にも似たこの美しい悪魔は私のものだ……。

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