愛だと信じていた 第02話

「石上さん、奥様がお呼びよ」

 まただわ。

 出そうになるため息を殺して、作業中の手を止め、奥様の部屋に向かった。

 お屋敷で仕事をしているのだから、誰彼と呼ばれるのはわかっているけれど、奥様に呼ばれるのが一番好きじゃない。料理長にいびられて、厨房で三十分近く立つのより疲れる。

 高校時代の同級生は、メイドって家事の会社バージョンでしょ? 楽でいいわねととんでもない事を言ってたけど、その実メイドほど疲れる仕事はない。小間使いのようにこき使われるし、どんな小さな事でも心に止めておいて、屋敷の主人の意向に沿うように行動しなければならない。掃除を綺麗にしようが、きちんと花を飾ろうが、主人が必要ないと思えばそれは無駄なものになってしまう。

 ご自分の部屋でお仕事をされていた奥様は、いつものように冷たい眼差しで私を見据えた。

「貴明はどうしてる? もう彼女の事は諦めたのかしら」

「何も申されません。お仕事と大学の勉強に勤しんでいらっしゃいます」

 返す私の言葉もいつも同じだ。この方はきっと気付いているだろう、私が知っていて知らないふりをしているのを。

 だから、私の表情で息子の現状を判断している。刺すような視線は探るようで、わずかな変化も見逃さない鋭いものだ。

 この視線は貴明様にしっかり遺伝していて、妙なところで親子なんだなと実感した。

「……そう」

 貴明様と同じ美しい金髪の髷が、外からの陽射しできらきら光った。この方の目は、貴明様の薄茶色の目と違って青く、それがなんだかとても冷たい。

 奥様の実家はドイツ貴族だった家系で、あちらでは有名な企業だ。ドイツ人の父親が日本人と結婚し生まれたのがこの方で、貴明様はつまるところクォーターなわけだ。

 奥様の最初の夫となった方は、至って普通の農家の風采のあがらない男だったと聞く。画家だった……らしい。家同士の釣り合いを重んじるはずのこの方が、なぜそのような結婚をされたのか不思議だけれど、どうも実の父と仲が悪く、それが関係していたのかもしれない。

 貴族といい、旧家といい、どうも家にこだわって家族に冷たい気がする。ドイツにはもう貴族制度はないはずだけど、そう簡単にしがらみはなくならず、めんめんと続いていくのだろう。

 実際この方は、とても冷たい人間だ。

 旦那様である圭吾様を利用して、貴明様と恵美様をあんな形で引き離したのだから。

 息子である貴明様が、他人のように思われるのも無理はない。

 佐藤グループにとっては良い会長なんだと思う。でも母としてはどうなんだろう。

 不意に京都の母を思い出した。

 あの人は自分が綺麗なお姫様で、ちやほやされるのが何より大事、不特定多数の男と遊んで、子供はアクセサリーだと思っているような人だ。

 父親に至っては、借金の形に娘を差し出す恥知らずだ。

 うちの両親は、子供の幸せより自分の幸せが一番で、時折来る電話も私が圭吾様の気が引けているかどうかという確認でしかない。

「もういいわ。下がってちょうだい」

 私の顔色ですべてわかったのか、ナタリー様は私を追い出した。

 ほっとしながらそのままメイドの詰め所に戻った。休憩時間なので、それぞれが思い思いの場所で固まっておしゃべりをしている。

 人見知りしているわけではないけど、ずっと一人で過ごしたがる私は、どこにも立ち寄らずに空いている席に一人で座った。とっつきにくくて暗い人だと言われているのだろうな。

「石上さん」

「はい」

 女の集団というのは恐ろしいもので、一人でいる=誰も味方をしてくれないという図式ができあがるため、面倒事をよくまわされる。

 今日もやっぱり、例の藤田さんが、休憩中の私に仕事をわざわざ持ってきた。

「圭吾様のお部屋にお客様なの。お茶持って行ってくれる?」

「はい」

 この女は私の手が空くのを見計らって、いつも自分の仕事を私に振ってくる。

 私としては、圭吾様の部屋に出入りできるのは大歓迎だ。少しでも多く恵美様の情報が欲しい。

 圭吾様はお茶を好まれないのでいつもコーヒーらしいのに、何故か豆が切れていた。給湯室からそれとなく詰め所の藤田さんを見ると、こちらを見てくすくす笑っている。

 ただのいじめのようだ。馬鹿馬鹿しい。

 無表情でいると悪化するので、困っているそぶりをしてから玉露をいれた。

 案の定、藤田さんは、お茶碗を載せたトレイを持って、給湯室から出てきた私に言った。

「圭吾様は日本茶がお嫌いなのよ。コーヒーがお好きなの。知らないの?」

「……豆がありませんでしたので」

「そんなの買いにいけばいいのよ」

「今からでは間に合いません」

 この辺で、さらに演技して見せようかしら。

 涙をみせると、藤田さんはうれしそうに微笑んだ。

 馬鹿な女だ。

「じゃああとで買いに行きなさい。冨田屋のマンデリンでないと圭吾様のご不興を買うわ」

「はい」

 あっさり騙された藤田さんは、ごねごね言われずにすぐに開放してくれた。

 単純な人間は、ころりと騙されてくれるから、本当に助かる。

 こんな自分があんまり好きではないけれど、これで仕事がはかどるのなら特に問題はない。

 傍目からは、いじめられても何も言えない、大人しくて愚図な女に見えるだろう。そう見せる事が私の処世術だ。

 どう頑張っても姉や弟には敵わなかった、顔しか取り得がない私にはぴったりなやり方。

 ……どうせ、誰も気づきやしない。

 そして、貴明様には気づかれたくない。

 あの方は、私を抱く時、きっと恵美様を想っておられる。私は恵美様の代わりというわけだ。

 恵美様は私みたいな、こんな人間ではないはずだ。だから……気づかれたくない。

 素直で、明るくて、優しい、私の憧れの集合体のような方。

 人は平等だなんてうそだ。人は生まれた瞬間にあらゆる格差に突き落とされる。

 それをうらむことはないけれど……。

 圭吾様は、お茶を持って現れたのが私で不愉快そうだ。

 藤田さんがどう言っているのかは知らないけど、貴明様付きの私が頻繁に現れたら、そりゃ不快だろう。

 でもそれも一瞬で、すぐ私の存在などなかったかのように、お客様と会話を再開された。取引先の方だと思われる、めがねをおかけになった男性はかなり若い。貴明様より少し上くらいか。

 玉露をゆっくりと置くと、やわらかい笑顔でありがとうと言ってくれた。なんとなく雰囲気も貴明様に似ている様な気がする。

「みかけないメイドさんですね」

 ずっと取引されている方なんだろう。

 私は黙って頭をさげ、それとなく隣の気配を探った。でも人の気配は感じない。

 恵美様はいらっしゃらないのかな。

 何の収穫も無かった事に落胆しながら、トレイを持って部屋を出て、廊下の窓から中庭を眺めた。東京の空は相変わらず白くてなんだかすかっとしない。実家のある田舎が恋しい。あの青空と綺麗な空気がここにはない。

 猛烈なホームシックに襲われかけて、家に戻っても居場所はないのだと自分を戒めた。

 私が帰る場所は、この佐藤邸の中にある社員寮の一角だ。

「石上さん」

 名前を呼ばれて、ぼうっとしていた自分に気付いた。いつの間にかさっきのお客様がそこにおいでだった。お話が終わったのだろう。

「あのお茶、石上さんがいれたのですか?」

「はい、そうですけど」

「そうでしたか。あそこまで見事に入れる人は久しぶりなので……」

「ありがとうございます」

「石上さんは、下の名前をあすかさんと言うそうですね?」

 何故私の名前を知っているのだと、不思議そうにしていると、お客様はそれに気づいて言った。

「ああ失礼。佐藤さんに先ほど伺ったんです」

「そうですか」

 お客様は私に何かを聞きたそうな雰囲気だ。

 もうすこし手が空いていたら伺ってもいいけれど、今日は藤田さんの仕事のせいで押されているから、そんな暇はない。

「貴明君と待ち合わせですか? 貴女は彼が好きみたいですが、彼はどう思っているんでしょうね」

「……は?」

 なんだろうこの人、ぶしつけすぎる。

「仕事中ですので失礼します」

「貴明君に抱かれるのも、仕事ですか?」

「────!」

 息をつめた私にお客様はお笑いになったけれど、それは親しみのある笑いじゃなくて、何かを心内に含んでいる嫌な笑い方だった。

 とても腹が立った。

「お客様。誤解を招くようなおっしゃりようは困ります」

 変なうわさを広められたらたまらない。私はともかく貴明様に傷が付く。お客様はおやおやと言いながら、そのまま立ち去ろうとする私の左腕を掴んだ。

「事実でしょう? 佐藤さんがおっしゃっていた」

「だからなんですか? お客様になんの関係があるんです?」

「……中宮武久(なかみやたけひさ)です」

「……は?」

 いい加減、私も失礼な口の聞き方を繰り返している。

 でもこんな失礼な男は、お客様なんかじゃない。

 中宮に、圭吾様のお部屋の隣の部屋へ引きずり込まれた。ここは空き部屋で、今現在は誰も使用していない。プライベートなご友人や、親族の方がいらした時にのみ使用される部屋だ。乱暴に突き飛ばされてバランスを崩しかけ、あえて踏みとどまった。

「何なさるんですか、お客様でも許しませんよ!」

「言いますね、イシガミ綿業のお嬢さん。借金が返しきれなくて佐藤さんの愛人になりにきたのでしょう? 御曹司のほうが篭絡しやすいからそっちにしたんですか?」

 思ってもみなかった言葉に、私は今度こそ動揺した。

 どうして東京から遠く離れている、京都の片田舎の会社名をこの人が知っているの? しかも……。

 意地の悪い笑みを浮かべた中宮に、頤をさらわれた。

「若葉銀行をご存知でしょう?」

「…………」

 父が融資を頼んで断られた銀行だ。地元京都では知らぬもののない銀行……。

 眼鏡を外してスーツの胸ポケットに入れた中宮に、ぐいと腰を引き寄せられた。嫌だったけど男の力に敵うはずもない。

「それで?」

 別にばれたって困らない内容だ。

 外部にはめったに漏れないけど、多分メイド仲間は私の家の事情なんて皆知っている。

 一体この男は何が言いたいんだろう。

「……私が融資を断らせた張本人だと言ったら?」

「良い仕事をなさったのではありませんか?」

「ふ……っ、ははは。さすがですね。わずかに顔色を変えただけとは。ぐずで泣き虫でおとなしい娘さんと伺っておりましたが、やはりそのような実態をお持ちでしたか」

「お好きなように……。家の話をされたいのなら、京都の父へどうぞ」

 別に父の会社などどうでもいい。いっそ最初からなければ、良かったのではないかと思うくらいだもの。

 それに、この人に化けの皮が剥がされたって平気だ。仕事関係でもなんでもない。

 話は終わりとばかりに逃れようとしたけど、かえって強く抱き寄せられた。

 嫌だ。

 熱い男の息が掛かって、みるみる恐怖が足元から冷たく上がってくる。

「離してっ!」

「そう言われてもね。もう佐藤さんとの間で決まったんです。私に貴女を下さると」

 血の気がざあっと引く音を聞いた。

「うそ!」

「うそじゃなくて本当です。こっちとしても、貴女の行方を捜していたからちょうど良かった。あの時、私が融資の代わりに貴女がほしいと言ったから、貴女の父親は貴女の商品価値を知ったんでしょう。まったく……、さらに手を回す必要がありそうだ」

 優しげな風貌が酷薄に歪む。圭吾様と同じ種類の男なのだろう。

 私は首を懸命に横に振った。いつもの脅える演技でもなんでもなく、本気で怖かった。

 違う。違う。自分はこんな男の物になりたくなんかない。圭吾様のような卑怯な……嫌だ!

「私に価値なんかないわ。私には何もない。貴方が負債を負うだけよ」

「君そのものに価値がある。さあ貴明君にお暇乞いをしなさい、今日中に私の家に来るんだ」

 こんな時、お話の中なら恋人が助けてくれる。

 でも、私に恋人なんていないから助けてくれっこない。

 きっと圭吾様は邪魔な私を排除されようとして、この男をあてがわれたんだ。

 現代社会で人を物のように扱うなんて、信じられないのに私はそれに逆らえない。悔しいけれど、それは父と圭吾様が結んだ、契約書に記載されていない密約のようなものだ。

 すべては不平等だ。基本的人権なんて、所詮は表向きの綺麗事なんだもの……。

 ふと貴明様の横顔が、脳裏に浮かんだ。恵美様の事を想って沈んでいる時の、あの憂いをふくんだ綺麗な横顔が。

 馬鹿ね。一体今私は何を考えたのだろう。

 口元だけで笑った私を見て、中宮は訝し気に顔を歪ませた。

 私は先ほどまでの怯えが消え去った顔で、挑戦的な目をしていると思う。

「そうですね、私は貴明様を愛しています。他の人間を愛している妻でもよろしければ、連れて帰ったらよろしいのでは?」

「……貴明君は君には振り返らない」

「そうですわね。でもよく考えたら、愛なんて貴方達みたいな人間には必要はないものですものね。平気に結婚も強行できるでしょうね」

「私と結婚しても、彼だけを愛していると?」

「はい」

「……ふ、君って人は」

 中宮から解放された途端、震えが蘇ってきて、思わず自分で自分を抱きしめた。

 しばらく中宮は、腕を組んで何かを考えていたようだったけど、やがて腕を下ろした。

「良いでしょう、今日は貴女を連れて帰らないでおきます」

 廊下のほうで何かにぎやかに笑う声が聞こえる。メイドの誰かだろう。彼女達が行ってしまい、静けさが部屋を再び満たすと、中宮は言った。

「もしも、貴明君に愛されないのが辛いと思う時が来たら、私のところへいらっしゃい」

「…………」

「私は愛されないのに愛するなんて、子供じみた考えは信じちゃいない。いずれ貴女は我慢が出来なくなる、こんなに愛しているのに、どうして振り返ってくれないのかと、身体は手に入れられるのにどうして駄目なのだと、辛くて辛くて、彼の側から離れたくなる日がきっと来ます」

「そんな日は来ないわ。絶対」

 きっぱりと言う私に、中宮は静かに首を横に振って、ドアを開けた。

「さあ戻りなさい。誰一人頼るものがいない戦場へ……」

 それは何故か、とても優しい声だった。

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