愛だと信じていた 第07話
席を立って反対側から出て行こうとしたら、同じく席を立った中宮に阻まれた。
「通してください」
「通しません。かけなさい」
「貴方は私の上司ではありません」
「今帰っても何も解決はしない。貴女方は一度話し合うべきだ」
知ったことを言う。ふざけるなと怒りが胸に渦巻いた。睨みつけても、中宮は眼鏡の奥から冷静な視線をよこしてくるだけで、腕をつかまれ無理やり座らされた。円形のテーブルに、私の右隣が中宮、真向かいにあの男が座った。
見計らっていたかのように、食前酒をウェイターがそれぞれの前へ置くと、あの男がよそ行きの笑顔を浮かべて、さっそくおべんちゃらを言い始めた。
「中宮さん、今日はお呼びいただいてうれしい限りです」
「将来、貴方を父と呼ぶ身ですから。今のうちに親交をと思いまして」
「ははは、素晴らしい男性だね、あすか」
何も言ってはいけない。今口を開いたら、罵倒する言葉しか出てこない。私は唇をかみ締めて、膝の上に握り締めた自分の両手を見つめていた。
失望したように男はため息をついた。
「これなんですよ。何を言ってもこちらを無視するのですこの娘は。妻も心配しております、まともに結婚できるかどうか心配していたところを、中宮さんに見初めていただけて光栄なはずなのに。……何か失礼なまねはしておりませんか心配です」
「いいえ何も。先日は料理をふるまっていただいたばかりです。お上手でとても美味しかった」
「ほう! それはそれは……。なんだあすか、仲良くやっているんじゃないか」
ぺらぺらぺらぺらぺらぺら……、こういう時だけ饒舌なのだこの男は。
普段は私などいないもののように振舞って、会話どころか、挨拶さえもしかえしたことがないくせに。あの女と一緒になって、他の姉弟と比較して馬鹿にしていたのはどこのどいつだ。
学校の授業参観も、姉と弟の時だけはあの女と仲良く参観しても、私のところへは一度も来た事等無い。家族旅行も、親戚訪問も、私だけ家で留守番だった。金と住む場所と食事さえ与えておけばよいちばかりに、私を飼育していたに過ぎない。
こんな人達は、断じて私の家族などではない。
「あすかさんは、どういう子供時代だったのですか?」
「ええ、とても大人しくて、優等生だったんです。我が家の誇りでしたよ」
またしらけたうそをつく。
黙っていろ、お前が何か話すだけで気がめいる。頭が悪い子供は、うちの子ではないと言っていたでしょう。
「東京へよこされる時、さぞお寂しかったでしょうね」
「もちろんです。未だに、妻もあすかの姉弟も寂しいと言っています」
あんた程度ならいくらでもいるのに、絶対に佐藤圭吾を落とせっこないと言った姉。
馬鹿な貴女に使用人などできるわけがない、人に迷惑かけないで欲しいと言った弟。
敷居を二度と、またげると思うなと言ったあの女。
佐藤圭吾の気を引けと、私の価値は顔だけだと言ったこの男。
ふざけるな。
貴方達は私を借金のかたにして、圭吾様からもらったお金で、今ゆうゆうと遊んで暮らせているわけだ。穢れきった蛆虫が、人間面しているのに吐き気がする。
この人たちに比べたら、藤田さんや料理長のいじめなど、可愛いレベルだ。
そりゃこんなひどい手本があったら、どんな目に遭っても乗り越えていけるようになって当たり前。
どれだけ泣いたか。苦しんだか。
この男はわかっていないし、わかろうともしない……。
胸がむかむかして、こめかみが痛い。
男はさも優しい父親の顔を作って、うつむいたままの私の顔を覗き込んだ。
「あすか、一度京都へ帰っておいで。皆待って……」
「…………!」
気がついたら、食前酒を男の顔に引っ掛けていた。
手が怒りに震えて、ガラスを持つ手を持つのすら困難なほどだ。ああ……! このグラスさえもその醜い顔に投げつけてやりたい。
男は動揺してあえいだ。
「な、何をするあすか……っ」
「私の名前をしらじらしく呼ばないでください。私は二度と京都へは帰りません。貴方達の顔も見たくもない」
「何……何を言ってるんだ。皆待って……」
「それなら何で、この半年の間一度も電話してこないの! 寂しい人間が声も聞かずに、そんなに我慢できるものなの? できないでしょう!」
「馬鹿を言うな。何度も電話した。出なかったのはお前だ。お前はどうしていつもうそをつくんだ」
また始まった。この人達は何から何まで私を悪者にする。
都合の悪い失敗は皆私へ押し付けて、自分達は優しい家族なのだと他人に思わせるのが、相変わらずお上手だ。傍目には反抗的な娘と優しい父親に映るだろう。姉の恋愛沙汰も、弟の万引きも皆私にすげ替えられた。おかげで友達などできなかった。できるわけがない。
お笑いだ。この人達も、それに騙されている馬鹿な他人も。
何も出来ないでいた自分も。
大嫌いだ……、貴明様と恵美様以外の人間なんて、すべてこの世から消えてしまえばいい。
中宮が、私の隣で腕を組みなおした。
「石上さん、ずいぶん聞いていた話と違いますが」
「すみません……。あすかは時々こんな風に反抗的で、一体どうしたものやら」
男は似合わないブランドスーツと、酒で濡れた顔をハンカチで拭きながら弁解した。聞いていられなくて席を立とうとして、中宮に腕を掴まれた。それは先ほどより強い力だった。
「貴方と奥さん、お子様方はあすかさんに謝罪するべきでしょう。そうではありませんか」
「中宮さん。貴女はご存知ないでしょうが、この娘はうそをつくのがそれはそれは上手なんです。騙されないでください」
「……ほう。つまり、そんなになるまで、あすかさんを追い詰めたという自覚がおありなんですね」
「何をおっしゃっているのか理解に苦しみます。中宮さん、貴女は本気でこの女を妻にする気ですか?」
「この女……? 貴方の娘でしょう?」
はっとして男は口をつぐんだ。あっという間にはがれた化けの皮に、男は動揺し、鋭い視線を突き刺す中宮を見返した。その顔に中宮は、食前酒のグラスの中身を引っ掛けた。
さすがにこれには、私もびっくりした。気がふれたのかと一瞬思うくらい。
でも中宮の顔は、いつものように冷静だった。
「貴方が本当のことを話してくださったら、私と佐藤氏は、貴方の家と会社に手心を加えようかと思っていたのですが……。お忘れではありますまい、資金提供はあくまで貸して差し上げただけで、プレゼントしたものではないのです」
「話が違う! この女を献上したらくださると……」
「ええ、でも、佐藤氏は受け取ってはおられません。あの屋敷へは、確かに氏への愛人になるのを目的で勤めるメイドがおりますが、ごく少数で、しかも本人の意思が最優先される。多数はただの箔付けです」
「な……」
男は私を睨んだ。私が圭吾様を拒絶していたのを、今知ったようだ。
睨み返す私に男は怒鳴った。
「何をしていたんだお前は! 何のためにわざわざ……っ。そんなふうにえり好みをするから、お前は馬鹿なままなんだ」
怒りを通り越して、ああやっぱりこうなるのだと力が抜けていく……。中宮の私の腕を掴む手の力は緩み、離されないまま温かさがそこだけに存在している。
男はもう、とりつくろう気もないらしい。開き直って、掌を返したように、私の悪行とやらを次から次へと話し始めた。
中宮は、氷のような表情でそれを聞いている。
どうしてここまで貶められるのだろう。本当に実の親子なのに。
私が何をしたというの? 幼い頃の私は、ただ愛されたいと願っていただけだった。成績が悪くて人見知りをするというだけで、どうしてここまで憎まれなければならないの……。
際限なく続く罵声を、中宮は片手をあげて止めた。
「とにかく、資金提供は一切打ち切らせていただきます。他に助けを求めても無駄です。借金は必ず返済してください。あの屋敷と土地と工場を売れば、なんとかなるでしょう。身の丈にあった生活を送られることです」
死刑宣告を述べるような中宮の言葉に、男の顔が赤黒く染まった。表情が失望、絶望、哀願へとかわる。
「それはあんまりだ中宮さん。考え直してください」
「チャンスは与えたつもりでした。それを不意にしたのは貴方自身だ。口から出た本音は元には戻せません。いきましょう、あすか」
中宮は私を立たせ、歩くように促した。男はなおも中宮にすがろうとしたけれど、どこからか中宮の部下のような男達が二名現れ、男を取り押さえた。叫ぶような呼び声は廊下まで響き、何事かと客がレストランを覗き込む。
ホテルを出てタクシーに乗り、佐藤邸の私の寮へ帰るまでの間、中宮は私の腕をずっと握ってくれていた。着せられた毛皮のコートより、そちらのほうが遥かに温かかった。
中宮は何も言わない。
何かを言いたいのに、胸にある大きな重い石がそれをさせてくれない。
佐藤邸の従業員窓口にタクシーがつき、まだ人が出入りしている中を二人で降りた。
寮の廊下を歩く私達を、通り過ぎる人たちは珍しそうに振り返る。人嫌いの私が、男と手を繋いで歩いているから、珍しいのだろう。目立つのが嫌いなのに、ぜんぜん気にならなかった。この手を離されたら壊れてしまいそうだ。
部屋に入り、電気をつけた。いつもの動作なので至って自然で、習慣というものは面白い。
中宮は私をラグの上に座らせ、ようやく手を離した。
「……すみません。あそこまでひどいとは思っていませんでした」
ぽつりと中宮が謝った。
私は何も言わず、頭をさげる中宮を見ていた。ぽっかりと空いた空虚な心は思ったより大きい。
家とのしがらみが突然断ち切られ、いきなり自由になった。
もう何にも囚われはしない。自由に何事も決めていけばいいのに、その自由を手放しで喜べない……。
私は自由の使い方がわからない。
もうすぐ貴明様は恵美様とご一緒に、アメリカへ行ってしまわれる。私は付いて行かないと最初から決めていた。
お二人の邪魔をしてしまいそうなのだ。貴明様から愛のおこぼれをこじきのように欲しがる私がいたら、恵美様と貴明様の間に亀裂を入れてしまうに決まっている。
でも、それよりも……。
「……うそつきは、あの男の遺伝なんです。それだけがあの男との繋がりです」
「あすかさん?」
笑おうとして失敗した。胸の石はいよいよ重い。声を出すのも一苦労だ。
「私、今までいっぱいうそをついてきました。時には自分自身にさえも……。そうでなくてはあの家では生きていけなかったから。いきなり自由になっても、その癖はなかなか抜けないんです」
「誰だってうそはついています。貴女だけではありません」
「……そうですね。でも、いつも肝心なところで、私はうそがつけなくなるんです。怖くてたまらなくなって、必死にすがっては突き放されてきた……」
「…………」
「中宮さんは悪くありません。いつかは来る今日のこの日だった。早まっただけ……。これが、今まで私がついてきたうその代償なんでしょう。……見事に負けました。あの人達に完敗です」
まだ心の奥底で、あの人達に期待していた。
憎みながら、罵倒しながら、それでもあの人達が改心してくれるのではないかと思っていた。
そんな奇跡が起こるわけが無いのに……。