愛だと信じていた 第09話

 人は追い詰められると、本性を現すと言われている。賢い人間だと言われて、慕われていた立派な人物が、いきなり利己的になって自暴自棄になり、ついには己と家族を破滅に追いやってしまったり、一方で、利己的な人間が人を思う行動をはじめ、尊敬を得るようになったり……。

 私はどうだろう。まだ追い詰められていないからわからない。この間のあの男との絶縁が、そうとも言えるかも知れない。でもあれは予期されていた未来で、中宮が加わる事によって、少しだけ別の感情に走っただけな様な気がする。

 

 早いもので、あれからひと月が経つ。

「あすか、今日で退院だって」

 そう笑顔で貴明様に言われた時、この方はどうなるのだろう……と思った。

 この天使のような笑顔を浮かべる方が、恋人である恵美様に本当に捨てられ、忌み嫌っている義父にすべてしてやられたと知ったら……。

 貴明様を、私は見誤っていた。

 この方は、冷たい人間ではない。ううん、冷たい部分は誰よりも冷たくて、誰も入り込めやしないと人に思わせるものがある。でも一方でそれに耐え切れない、どうしようもない人間臭い部分が、出口を求めて炎のように燃え盛っているのだ。氷と炎はお互いをけん制しあって貴明様の中にあり、今までこの方の人格を壊さないように、バランスを保ってきた。その炎の熱源が、恵美様へ対する愛情であったわけなのだけれど……。

 庇われた時、何故気づかなかったのだろうと、心底後悔しか浮かばない。

 エリートだろうが、何事もそつなくやってきたのであろうが、御曹司であろうが、そのまえにこの方はただの18歳の青年なのだ。

 思えば、圭吾様のリンチは、不可能はないと思っていた貴明様への痛烈な打撃で、この方にとっての手痛いはじめての挫折だった。

 貴明様が今まで失敗の経験がないのは、誰も愛されなかったからだ。

 この方は、人を愛されると、途端に何も出来ない幼子に戻ってしまわれる。緻密な計算ができなくなり、冷静沈着な御曹司という仮面が、ただのガラス細工となって砕け散ってしまう。

「お部屋はいつものように掃除しておきました。マンションはどうされます?」

「ああ……うん。まあそのうち」

 マンションという言葉で、貴明様の御顔は翳った。病室の窓の外は晴天なだけに、その翳りがより際立った。恵美様について何もお知りになれないから、とても心配されているのだろう。

 私は、お部屋に近寄れないの一点張りで、恵美様に関する情報をこの一月あまり遮断している。他の人もそうしている。貴明様も何故か、それについて強くお聞きにならなかった。

 わかっておいでなのだ。圭吾様の元に、恵美様が再び囚われたのだと。

 だけど一つだけ、貴明様がどうされたって、想像できない事実がある。

 ひと月前自殺未遂を起こされた恵美様は、記憶障害を患ってしまわれ、どういう因果か圭吾様を愛しておられる。

 今の恵美様は、自ら望まれて囚われておいでなのだ……。

「あすかも今日は休んで良いよ。ずっと僕につきっきりだったろ? たまには好きにすれば良い」

「そうですね……、では、今から午後一杯お休みさせていただきます」

「一週間ぐらい休んで良いのに」

「あんまり休むとなまくらになりますから。貴明様だってそうではありませんか?」

 確かにそうだと、貴明様はおかしそうにお笑いになる。

 それを見て、胸が掻き毟られそうな気分に囚われた。いずれ来るその時以後、貴明様はこんな邪気のない笑顔をおできになるだろうか。

 暗く沈む心を悟られたくなくて、そうそうに病室を後にした。荷物は先ほど運んでしまったから、貴明様はお部屋へ戻られるだけだった。

 部屋に戻ってシャワーを浴び、紅茶を飲んでほっとしているところへ、中宮がやってきた。あの男と絶縁した日以来だ。

「中宮さん……」

「お久しぶりです。お元気そうでよかった……と言っておきましょうか」

 中宮は小さく微笑み、ケーキの小さな箱を私に手渡した。まるで自分の部屋のように振舞う彼を、なんとも思っていない自分にはもう慣れてしまった。それどころか、もっとそうして欲しいとすら思ってしまう自分がいる。

 私は貴明様を愛している。

 その一方でこの男を、私はどう思っているのだろう。

 愛し始めているのだろうか。

 貴明様のようにドキドキしたりしない。ときめきもない。これも愛と呼べるのだろうか。

 わからないけれど、とにかくこの男といると安心する……。

 貴明様はそうはいかない。貴明様の前だと私はいつも不安で、何かを必死に封じ込めている。確実の自分の心の一部分を、押し殺している。それが貴明様のために、ならないことを知っているから。

 紅茶のマグカップを受け取って、ラグの上に座った中宮はおいしそうに飲んだ。

「京都の貴女のご実家は、自己破産されましたよ」

 一瞬、ケーキをお皿に載せる手が止まった。でもそれはほんの一瞬で、すぐにケーキはお皿の上に載せられた。

「そうですか」

「あれから何度も何度も、私や佐藤氏に泣きついてきましてね。挙句に婦人や貴女の姉君まで差し出すとか言い出して、さすがの佐藤氏もあきれておいででしたよ」

「…………」

「手が回っていますから、誰も彼らにお金を貸さなくて……ふふ。闇金ですら貸してくれないのですから、こうなるのは時間の問題だった」

「……圭吾様も、中宮さんもずいぶんお優しいのですね。闇金に回して、挙句、骨までしゃぶるという手もありますのに」

 皮肉をまじえたように言う私に、中宮は方を竦めた。

「それでは貴女が、罪悪感にさいなまれるでしょう? とてもお優しい貴女の事だ。どれだけ憎んでいても、いえ、憎むというのは愛の裏返しの感情、だからこそ貴女は、一生それについて悩み続けるでしょう」

「…………」

 何も言い返せず、黙ってケーキにフォークを刺した。

 くやしいけれど当たっている。私という人間は、どこまでも甘く出来ている。あんなにひどい目に遭っても、どうしても情を一ミクロンほど捨てられないのだ。

 ケーキはとてもおいしい。ひさしぶりに甘味を取ったから、余計においしく感じられる。

「御曹司が退院なさったとか」

「はい」

「恵美様の記憶障害……、どうするつもりです?」

「なるようにしかなりません。私には何もできませんから」

「そうでしょうか。ここからが貴女の仕事でしょうに」

「?」

 中宮の言葉の意味がわからず、ケーキから視線をあげたら、中宮は真剣なまなざしで私を見ていた。

「これから御曹司は、地獄へまっさかさまです。圭吾氏からすべて聞いています。リンチを受けられたとか」

「ええ」

「まだ地獄の底へ、彼は落ちてはいない。まだまだ転げ落ちていく途中ですよ」

「わかっています。恵美様が……」

「そうじゃない。それはただの一つのピースに過ぎない」

 首を振り、中宮は紅茶のマグカップをテーブルの上へ置き、指で弾いた。

「ですから、失いそうになっている社員達の信頼や、恵美様への報われない愛が……」

「どれも違います。それらは若気の至りとして、たいていの場合は許されますよ。規模が大きい例を申し上げれば、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ二世と皇太子ルドルフの確執のように、もっと遡れば、マリア・テレジアとその息子ヨーゼフのように」

「わかりません」

 本当にわからない。それ以外に何が、貴明様を地獄へ突き落とすというのだ。

 睨む私にはまったく動じず、中宮は言った。

 部屋の中は、昼間だというのに、驚くほど静かだった。

「彼は……、すべての人間に裏切られる」

「……私は裏切りません!」

 そうだ。世界の誰もが貴明様の敵になっても、私だけは貴明様を裏切らない。絶対に。

 確信を持って、そう言い切れる。

 中宮は、切なげに眼鏡の奥の目を細めた。

「そう、だからこそ彼は、すべての人間に裏切られるんです」

「何がおっしゃりたいのかわかりません。わかりやすく言ってください」

「貴女は御曹司を救いたいのでしょう? 彼はこれからおそらく、恐ろしく心を殺して生きようとする。そうしないと、彼は己の脆い心を護れませんからね」

「…………」

「安心なさい。気づいているのは会長ぐらいでしょう。佐藤氏も彼の部下も気づいていない」

「…………」

「そんな人間になってほしくないと、貴女はきっと思うはずだ。だからこそ、彼を裏切らなければならない」

「…………」

 恵美様を失った貴明様は、冷え切った世界に耐えるためにより心を殺される。愛を知らない人間なら耐えられるその世界は、一度でも太陽の暖かさを知ってしまったら、耐えられるわけがない。私が中宮を知ってしまったように……。

 気がついたら、中宮に横から抱きしめられていた。

「ふ……私もずいぶんやきが回りました。今までならこんなふうに助言などせずに、他人の崩壊など気にしなかったのですが」

「私もそうです。でも、貴明様だけは……」

「そう言われると切ないですね」

 中宮はからかい気味に言い、私の頭をやわらかく撫でた。

 私は卑怯者だ。

 貴明様を愛しているのに、中宮の温かさを捨てられないでいるのだから……。

 いつからこうなったのだろう。

 気づいたら、これが自然になっていた。

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