愛だと信じていた 第11話

 あれ以来、貴明様はお屋敷にお戻りにならない。あんなに、帰るのを厭われていたマンションへ、どんなに時間が遅くても帰っておられるようで、一度も御顔を見ていない。大学やお仕事にはきちんと出られているみたいだけど、お屋敷にだけは絶対にお入りにならないのだ。

 記憶障害の恵美様が、ご自由にお屋敷を、歩き回られるからだろうか。

 以前は行動が制限されていらして、恵美様はほとんど監禁状態だった。でも圭吾様を愛されている今は、絶対に逃げたりされないから、かなりゆるくなっている。

 お仕事中に、たびたび圭吾様と恵美様をお見かけする。庭で、サンルームで、広間で……。

 確かに自分の恋人が、自分の憎んでいる人間と、仲良く愛を語らっている姿など見たくないに違いない。私ですら、見ていて辛いのだから。

 奥様にも、呼ばれなくなった。当然だ。

 私は、まったく貴明様に、お会いしていないのだから。

「困るわ。こんなところまで……」

 屋敷の裏手にあるごみ置き場で、ごみを捨てていると、切羽詰った声が耳に飛び込んできた。

 なんだろう。

 声は、ごみ置き場の一番奥の、外に通じる扉の方からだ。

 そっとのぞいてみると、柄の悪そうな男二人と、メイド長がいた。困ると言っていたのは、メイド長だったようだ。

「返済期限は一週間ほど過ぎてるんだ。いい加減に払ってくれないと、うちも困る」

「今週中にお支払いすると、申し上げました」

「だからー。今日も今週中だろ?」

「そんな……っ」

 いつも毅然とした態度のメイド長にしては、いやに弱気な態度だ。会話から察するに、借金返済を迫られているらしい。意外だな、あの人があんな連中に、借金しているなんて……。

「あ、あさってにはなんとかしますから!」

「あさってねえ? 本当に?」

「ほ本当です。だからっ」

 ああ、あれは、お金を返せない人の常套文句だ。

 お金を返済する目処など、ないのだろう。男たちはそれをわかっていて、彼女を追い詰め、無理難題を吹っかけているわけだ。

 馬鹿ね。もっとうまくやればごまかしがきくのに……。

 メイド長は、まじめ一辺倒な人だから、私みたいな演技はできないんだろう。

 ……にしても、あの二人、どこかで見た記憶がある。

 どこでだったか……。

 考えていくうちに、いやな場面が浮上した。

 あいつらだ。私を料亭で襲ってきた、あの下種連中だ。

 なるほど、佐藤邸には表立って入れないから、こんな人目に隠れて、こそこそと借金の取立てをしてるのね。どのみち借金の取立てなんてものは、人目につかないようにするものなんだろうけど。

 に、しても……きなくさい。

 これも、あの止めさせられた藤田さんの、恨み晴らしの一環かも。彼女は単純で、ろくに考えられない分、ワンパターンで執念深いから在り得る。メイド長も恨みを買っていたのかな。

 聞いていても仕方ないから、さっさとゴミ箱を持って、屋敷内に戻った。そして、休憩所での掃除を再開していると、

「石上さん、メイド長知らない?」

 と、同僚が困り顔で聞いてきた。

「……メイド長?……ですか」

 言っても良いけど、メイド長は困るだろうな……。

「しりません。どうしたのですか?」

「大広間の花瓶のお花、取り替えるのかどうか聞きたいの。私の一存じゃできないもの」

「そうですか……困りましたね」

 メイド長の指示がないと、私たちメイドは、勝手に備品を移動したり変えたりできない。

 同僚は、ため息のあとに、文句を言い出した。

「本当にもう! 最近メイド長、ちょくちょくお屋敷を抜けておいでなの。タイムカードは押されてるけど、あれって職務上どうなのかしらね!」

「ちょくちょく……?」

 あの真面目な人が? 時間にとにかくうるさかった気がするけれど。

「おまけに最近、お化粧とかいい加減だし。あれじゃあ、圭吾様に見向きもされなくなるわよ!」

 そういえば、メイド長は圭吾様のお気に入りだったっけ。でも恵美様がいらしてから、とんと相手にされていないとか聞いている。

 主人に捨てられ、借金に追い立てられている女……か。

 どうやらメイド長は、本当に今、のっぴきならぬ状況にいらっしゃるみたい……。

「そのくせ、直接圭吾様や奥様にお伺いしたら、あの人怒るんだから! まったく!」

 ぷりぷりと怒りながら、同僚は休憩所を出て行った。私たちは忙しい。お花を後回しにして、ほかの仕事を先にすることにしたのだろう。

 それにしても由々しき事態だ。この大きなお屋敷の雑務一般の長とも言える、メイド長が借金取りに追いかけられているなんて。

 圭吾様にばれたら、即解雇だ。

 外部の人たちが知ったら、このお屋敷の格は一気に下がるだろう。

 とは言っても、もう下がりに下がっているかもしれない。派手な圭吾様の女遊び、すべてを捨てようとされた貴明様、無理やり息子と息子の恋人を引き裂いた奥様。

 溜まりに溜まっていたマグマが、一気に地表へ出たような感じだ。思えば今回の事件が起きるまで、異様なほど、静か過ぎるお屋敷だったと思う。

 テーブルを拭いていると、やっと借金取りから解放されたと思われるメイド長が、休憩所へ入ってきた。

 確かにお化粧が適当だ。おまけに、疲労のせいで気の毒なほど、やつれてる。美人が台無しだ……。

「石上さん、今日貴明様がお戻りになるそうよ。知っていて?」

「いえ」

 知っているどころか初耳だ。なんでいきなり……。

 もちろん、お部屋の掃除はかかさずやっているし。お会いできるのはうれしいけれど、どのような顔をしたらいいのかわからないから、困る私もいる。

「お食事の手配は、私のほうからしておいたけど、明日からは貴女がしてね」

「はい。あの……」

「なに?」

「どうして貴明様は、ずっとこちらに戻られなかったのでしょうか?」

「貴女がしらないんじゃ、誰も知らないわ。奥様といさかいを起こされたのは間違いないわ。奥様はここ最近落ち込んでおいでだから」

 私には、いつもどおりの方に見えたけれどと、思っていると、メイド長は皮肉気に唇をゆがめた。

「貴女、自分しか見えていないようね。周囲への目配りを怠ると、とんでもない目に遭うわよ」

「とんでもない目に……」

「そうよ。もっとも、私も人のことは言えないけれど。とにかく、貴明様はメイドの中で、貴女しか相手にされないんだから、そんな馬鹿げた質問はよしてちょうだい」

「ではなぜ、メイド長が貴明様のお戻りを、ご存知なんですか?」

「貴女が、携帯端末の電源を、切っているからでしょう?」

「切っているのではなくて、故障したのですが……」

 先日故障して、修理に出している。代わりの端末はあるのだけれど、どうにも使いにくくて放置したままだった。

 不自由だとは思っていなかった。

 全然使わないから、解約してしまおうかと思っていたぐらい、私の端末は、メールも通話も着信しなかったから。

 メイド長は、とにかく伝えたとばかりに、休憩所を出て行った。

 また一人に戻り、休憩所は静まり返った。

 とにかく、早く貴明様のお部屋へ行って、空気を入れ替えよう。

 そう思いながらも、一旦自分の寮の部屋へ戻り、代わりの携帯電話の電源をいれてみた。すると数回貴明様から確かに着信があり、メールもあった。いずれもメイド長と同じ内容だった。

「これはよくなかったかな。おわびしないと」

 スクロールしていた指が、中宮の名前を見つけて止まる。

 昨日の夜、一度だけ着信している。

 ……ずっと気になっていたけれど、連絡しなかった。

 ためらいと、実行と、少しばかりの葛藤の後、通話ボタンを押した。今は午前十時だから仕事中かもしれない。私の中で、仕事中だから出なくても仕方ないという、消極的な打算もあった。

 だけど、数回の呼び出し音の後、中宮の声が響いた。

「お電話をいただけるとは、思っていませんでした」

「……ご無沙汰しております」

「それはこちらも同じです。どうですか? 今夜、夕食をご一緒にいかがですか?」

 そんな話か、と思う一方で、うれしいと思う自分もいた。

 だけど。

「今夜はわかりません。貴明様がお戻りになりましたので」

「……そうですか。なるほど、久しぶりの逢瀬というわけですか?」

「そんなわけないじゃないですか!」

 猛烈に腹が立って、気づいたらほとんど怒鳴っていた。中宮が黙り込んだので、自分の失態に気づいた。

 どう言おうか考えていると、中宮は言った。

「失礼。嫉妬しました。今のあすかさんは、とてもお美しいですから」

「電話で美醜がわかるとは思えません。私はともかく、貴明様への侮辱は許しません」

「……そうでしたね」

 唐突に、中宮は話題を変えた。

「今朝の、東日本新聞の朝刊は、ごらんになりましたか?」

「いえ、まだです」

「そこに、貴女の知りたい答えが載っています。御曹司を守ってあげなさい」

「守る……?」

「本当は、今すぐにでも、貴女をさらってしまいたいのですが、手をつけたのは御曹司のほうが先ですから」

「中宮さん……」

「失礼。では夕食はいずれ、また。お電話をいただけてうれしかったです」

 事務的口調に戻り、中宮は電話を切った。

 何か不完全燃焼な気持ちを抱え、携帯電話をメイドのスケートのポケットに戻した。

 ……もっと、話をしたかった?

 不意にそんな気持ちが競りあがってきて、それを打ち消すように頭を左右に振った。馬鹿げている、こんな考えは。さびしいなどと思うとは。

 本当にどうかしている。

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