愛だと信じていた 第13話
翌朝、恵美様の元からお帰りになった貴明様に、気が済まれましたかと申し上げたら、済むわけが無い、続けるに決まっているだろうと、あっさりおっしゃった。
おそらく昨夜は寝ておられないのに、貴明様は食欲旺盛で、朝食をつぎつぎと食べていかれる。顔色もいい。
「恵美様、泣いていらっしゃったそうです。やりすぎでは?」
私でも恵美様のような目にあったら、辛くて怖くて、泣くに決まっている。望まない性行為に、やりすぎとかそういう言葉は似合わなかった。あえてその言葉を使ったのは、貴明様を刺激したくなかったからだ。
「かまうものか。生温い方法で記憶が戻るわけがない」
記憶を戻す為に、他の人を愛している方に、性行為をお続けになるなんて……。
恵美様にご自分の存在をアピールされたいのなら、昨晩の一回だけで十分だ。それも、必要ないものだったというのに。
おまけに圭吾様にばれたら、ただではすまない。今度は本当に殺されるかもしれないのだ。
「圭吾様にばれたら、どうなさるおつもりですか?」
「かまいやしない。殺されたって僕は困らないよ。いっそいなくなってしまいたいね」
「…………」
……この方は、ご自分の破滅を望んでおられる。
ぞっとした。
どう返答をしたらいいのかわからない私に、貴明様は苦笑された。
「ナタリーがいるかぎり、親父は僕の命を奪いも押し込めも、できないよ。この間の怪我でも、かなり大事になってしまったからね。今後そういう事はない」
治癒した足を、それとなく貴明様はテーブルの下からお出しになり、すぐ引っ込められた。
ギプスは二週間前に取れたばかりだ。大学も休みの分を取り戻されなければならないので、ここの所毎日のように行かれている。
朝食を終えられ、貴明様は手を合わせられた。
「親父は絶対にナタリーには逆らえない。ふふ。可哀想なもんだ。ナタリーが了承しないと、あいつは何一つ決められやしないのさ。恵美との仲だってそうさ」
貴明様は、死神を思わせる微笑を浮かべられた。お美しいだけに酷薄さが際立つ。
この方は恋の取り返しなど毛頭ない。自分もろとも、相手まで破滅させようとなさっている、
「恵美も親父も僕に怯えたらいい。恵美が妊娠したら楽しみだね……。金髪の子供が産まれたら最高だ」
「貴明様は、恵美様を不幸にされたいのですか?」
この方のなされようは、そうとしか見えない。
貴明様は、ジャケットに片腕を通しながら、寂しそうに頭を左右に振られた。
「不幸と幸せは表裏一体。どちらにしても、僕は、恵美を不幸にするんだ……」
「貴明様?」
「幸せを願ったら恵美は不幸になった。不幸せを願ったら、幸せになるかもしれない」
「そんな……」
貴明様の御顔に、自嘲する笑みが浮かんだ。
「僕は許せない。恵美も親父もナタリーも……」
「貴明様、何度も申し上げますが、恵美様の事故は自殺です。結果としては……」
「親父はナタリーに支配されているけど、僕はその親父に支配されてる。どちらにしても僕は、あの三人の前では無力だよ。それなら、多少あがくぐらい、許されるんじゃないの?」
「恵美様を泣かせて……それでも?」
「今日のあすかは、とてもきれいだ」
はぐらかすようにおっしゃり、かばんを抱えた貴明様は、私に優しいキスをくださった。
「じゃあね」
ドアが閉まった。
私は、貴明様を裏切っている。中量ピルを、貴明様から恵美様に飲ませるように言われた薬だと、メイド長に嘘をついて渡した。
貴明様のお子様を恵美様が……なんて、悲劇以外の何者でもない。
生まれた地点で、不幸が約束されている子供など、明らかな横暴で大人として許されないと思う。
食器を片付けながら、つくづく自分の無力さを思い知らされる。魅力不足も痛感させられる。
貴明様を救えるのは、この家の重みと、貴明様の重過ぎる愛情に負けない心の持ち主だ。だけど該当するのは奥様ぐらいで、その女性の影も形も、今の貴明様の周囲にはない。
「新しく、愛する方が現れたら……」
とにかく、今は、できうるかぎり恵美様の味方をしよう。
お二人のためにできるのは、それだけだ……。
中宮に会いたい。そう思って、それはなんの感情からくるものなのか考え、答えが導き出せず頭を振った。
恵美様にとっては最悪なことに、圭吾様の外泊は長かった。おまけに、奥様も同行されていて、恵美様を守れる人間がいない。
貴明様はやりたい放題だ。メイド長によると、恵美様はお気の毒なほどやつれてしまわれたという。
私も彼女も、貴明様を止められない。
日にちが経つにつれて、苛立ちが増しておられるのがはっきりわかる。恵美様の記憶は戻らないままらしい。
止めた方がいい、何度もそう思った。
でも言えない。
「貴明様のおかげで、家の借金は消えたし、工場も盛り返したけれど……」
メイド長の借金は、彼女が作ったものではなく、実家の工場の負債だった。貴明様はそこをつけこまれたわけだけど、工場に出向かれ、念入りに現状を視察されたあと、わざわざ立て直しの計画まで立てられた。おかげで、離れかけていた業者たちとの取引が復活したり、やめようとしていた従業員たちが戻ってきてくれて、これからの目処がついて、立ち直りつつあるのだという。
見返りをそこまでされるとは、本当に素晴らしいと思う。だから、メイド長は貴明様の恵美様への横暴に、口を挟めないのだ。
どちらにしても、明日はやっと圭吾様がお戻りになるから、私もメイド長も恵美様も一息つける……。
そう思っていた夜、事件は起きた。
恵美様のお部屋に行かれたはずの貴明様が、何故かすぐに戻っていらした。部屋の片づけをしていた私は、異様に顔色の悪い貴明様に部屋を追い出され、一体何事が起こったのかと恵美様のお部屋へ向かい、そこでメイド長と圭吾様がいらっしゃるのを見た。
お戻りは明日だったはずなのに、もしや、鉢合わせになったのだろうか。
圭吾様は、私に鋭い視線を投げかけられただけで、何もおっしゃらなかった。そこへ医師がやってきて、部屋の奥へ入っていった。
私にできることはなさそうで、仕方なく休憩室に戻ったら、メイド長が追いかけてきた。
メイド長はひどく顔色が悪かった。
「何が、あったんです?」
「恵美様がお倒れになったの……」
「お倒れに?」
「圭吾様は、たいそうなお怒りなの。何があったのかわからないけれど、貴明様が何かをされてお倒れになったのは、間違いないわ。手引きもばれた。……私は、もう終わりだわ。お傍にすらいけないの」
メイド長は、力なく休憩所の椅子に座った。
貴明様を手引きしていたのがばれたのだから、そりゃそうなるだろう……。
「借金は返せたわ。家族も昔みたいになった。だけど……、私は人としてやってはいけないことをしたわ」
「……人として?」
「ええ。人を裏切る行為をした。私は、たくさんの人を裏切った。圭吾様、奥様、恵美様……そして家族」
「家族って……」
メイド長は顔を覆って、テーブルにうつぶせになった。肩が震えているのは泣いているからだろう。
「借金を返せたあの大金は、裏切りの対価なのに……!」
「…………」
「家族は誰もそんなの知らない。融資を貴明様に取り付けたと皆私に感謝してくれるけど、感謝されるほど辛いわ」
ああ、この人は幸せだ。
きっと、私の家みたいな冷たい醜い感情で淀んでない、お互いを思いやる家庭で育ったんだろう。だからこそ、この裏切りを引き受けてまで助けたかったんだろう。
確かに家族がそんなことをしでかしたら、家族は悲しむ。メイド長の家族はそういう家だから。
裏切りに苦しむメイド長のために、皆が苦しんでくれるのだ。
あの男のように、人をだましてうまくやり過ごせだなんて、絶対に誰も言わないに違いない。
何もかも私とは違う。
私みたいに薄汚れてはいない……。私は、自分の行動を後悔なんかしていない。
メイド長は、貴明様と私に利用されたマリオネットだ。おそらくなんのお咎めもない。せいぜい退職させられるくらいだろう。
後悔して、泣き続けるメイド長をなだめて、タクシーに乗せて帰ってもらった。誰もいない裏門で、一人、見送っていると、隣に奥様がお立ちになった。
ばれていると、すぐにわかった。押さえ切れない怒りが伝わってくる。
怖いとは思わない。私が怖いのは、貴明様ともう一人だけだから。
「貴女をくびにしてやりたいと、圭吾が言ったけれど、私が止めたわ」
これにはかなり驚いた。思わず奥様を見ると、暗闇に溶けている道路を見たままおっしゃった。
「貴明の暴走を止めなかった。むしろ助けた。メイド長は脅されただけだから、退職だけにするわ。それに彼女の家は、まだうちに必要ですもの。貴明もそれを見越して、一石二鳥を狙ったのでしょうけれど」
貴明様そっくりのその美貌には、深い疲労の影が色濃く落ちていた。
「……今、貴女を貴明から奪うと、本当に貴明は壊れてしまう……。今は、貴女にしか心を開かない。あの子を犯罪者にしたくないの」
「恋人に会うのが犯罪だと?」
「人を殺そうとするのは、未遂であっても犯罪だわ」
人殺し? 未遂?
「圭吾様と、鉢合わせされたのですか?」
「……違うわ。あの子が殺そうとしたのは、恵美さんのほうよ」
私は、最後まで聞かず、屋敷の中へ走っていた。