愛だと信じていた 第14話

 貴明様は、お部屋にいらっしゃらなかった。薄暗いベッドランプがついているだけで、お姿が見えない。サイドテーブルには、半分以上中身がなくなったスコッチが、グラスと一緒に並んでいた。

 どこへ行かれたのだろう。

 そう思って部屋の外へ出ると、貴明様が、庭から屋内へお入りになるところだった。

「貴明様」

「…………」

 お返事はない。私を無視して、部屋にお入りになる貴明様を、必死に追いかけた。

「貴明様!」

 ソファにお掛けになった貴明様は、にっこりとお笑いになったけど、その笑顔は偽物だと知っている。貴明様は、その純粋な天使の微笑を向けられるお相手を、今お持ちではない。

 向けられるとしたら……。それは、その相手を欺く時だけだ。

 恵美様を殺そうとされた貴明様を、私はどうしても許せなかった。

 あんなに愛していらしたのに、幸せにしたいと常日頃からおっしゃっていたのは、うそだったのか。記憶障害なのだから、圭吾様とああなられても仕方ないとは、思えないのか。

 何故、もっと広い心で、恵美様を待って差し上げられないのか。

 そんな自分勝手な感情は、断じて愛ではない。ただの我侭だと、どうしておわかりくださらないのだろう。

「貴明様、何故恵美様を! あまりにひどいです。貴方は、恵美様の記憶を取り戻したいとおっしゃいました」

「恵美は、もう二度と、記憶なんて戻らない」

 貴明様は、静かにおっしゃった。

 私は、必死に首を横に振った。やり方が間違っていただけだ。絶対に戻るはずだ。

 お優しい貴明様に戻って、恵美様に向かわれたら、きっと戻るはずだ。ずっと戻らない記憶障害などないはずだ。私も、いくらでも手をお貸しする。裏切ったりしない。言いつけに逆らいなどしない。

「そんなはずはありません! 必ず戻る日が来ます! ですからあきらめては……っ」

「戻る日が来たら……そんな日が来たら、僕は最高に笑ってやるよ。思い知ればいいんだよ、恵美も親父も。憎み合うべきのお互いが、愛し合ってたって事になってた残酷さをね」

 必死な私の訴えは、貴明様に届かない。暗い瞳を床に彷徨わせて、貴明様はつぶやくようにおっしゃりながら、ソファに寝転がり、右腕を腕枕にして呪いのような言葉を続けた。

「今の幸せが砂のように崩れて消え失せる……。その瞬間をあの二人に味わってもらいたいのさ。だから今は、せいぜい愛し合ったらいいんだ。子供もできてしまえばいい。昨日気付いたんだ、僕の子供を産むより、その方が僕の復讐は成り立つ。だから殺すのは止めたんだよ」

 あまりの恐ろしさに声が出ない。

 なんと言う事を……。

 ぼろぼろのこの方を、お救いしたいのに。どうして私には無理なの。

 道具なのに、こんな役立たずな道具があるだろうか。

 お幸せになっていただきたい。

 そのためになら、なんだってするのに。

「あすか、おいで」

 優しい声で貴明様に手招きをされても、私の身体は動かない。自分の無力さが悔しくて、腹が立って、そんな自分が貴明様のそばにいるのが、おこがましく思える。

 貴明様は手を伸ばして私の腕をつかまれ、ご自分がおかけになっているソファに引き寄せられた。

 愛する人を殺そうとしたなんて、そのお優しい表情からは信じられない。

 顔をその広い胸に押し付けられ、お顔が見えなくなった。胸の温かさがなんだか切なかった。

「あすか、お前だけだよ。僕を裏切らない人間は」

 はっとするような寂しい声だ。

 貴明様の胸に顔を押し付けられたまま、じっと次の御言葉を待った。

「……僕は、もうお前しか居なくなった」

「いいえ、ご存知でしょう? 私は恵美様にお薬を渡していました」

「知ってる……でも、いい。僕にはわかってるんだ、僕と恵美は……」

 貴明様の言葉が、唐突に途切れた。

「貴明様?」

 抱きしめた腕を緩められ、貴明様の再びお顔を見上げた。

 天使の微笑みは消え、寂しい人間がそこに居た。自暴自棄な行動ですらしようとしない、無気力な人間が……。

「しばらくこっちには帰らないよ。でも、呼んだらマンションまで来てほしい」

 おそらく、呼ばれないだろう。

 次に貴明様が屋敷にお戻りになる時は、この方の恋が完全に終わる時だ。

 そして、自分の恋も終わる……。

 すとんと胸に落ちたのは、煌く星の光の残滓だ。胸の中で光彩を放ちながら、消え行くのと同時に、否応なしに現実を染み渡らせていく。

 この想いが、愛だと信じていた。

 だけど、これは愛じゃない。

 少なくとも、私が欲しがっていた愛じゃない。

 私が欲しい愛は、愛する人を不幸する愛じゃない。私は作った自分で貴明様をだまして、最初から裏切っていた。弱虫で情けない自分を演じていると思っていた。そして、それを武器にやってきた。

 そうして貴明様に、無害な私を信じさせて、貴明様を手に入れたんだ。

 だって、どうしても、この天使のように美しい方が欲しかった。

 天使のように美しくて、優しくて、繊細で、強くて……、そう、理想をこの方に押し付けていた。

 私は何一つ、佐藤貴明という方を、わかろうとしていなかった。私の理想の貴明様を、勝手に理解していたに過ぎない。

 汚れていない自分を演じて、美しい貴明様に、そう思われて愛されたかった。だけど、自分を道具などと偽って、卑下する愛があるだろうか。

 私は、醜く劣化した、恵美様のコピーでしかない……。

 だから、本当の貴明様を私は受け入れられない、愛されない。

 貴明様が、照明を消されると部屋は、真っ暗になった。

 お互いが幻影を抱くために、その闇は必要なベールだった。

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