愛だと信じていた 第15話

 数週間経った。

 貴明様は宣言どおり、マンションから会社へ出勤されている。プライベートスペースの出入りを禁止されておいでなのだ。

 ご自分の家なのに入れないとはと思うけれど、それほど圭吾様のお怒りは凄まじい。

 当然だ。愛する人を殺されかけて、平然とその人間を家へ入れるなんて、精神を病んでると皆思うだろう。

 貴明様は部署移動され、柄が悪くて有名な総務二課でお勤めされている。

 皆、何が起こったのだろうと噂している。だけど誰も真実を知らない。知っているのは、私と圭吾様と奥様だけ。

 圭吾様は、あの事件を内密にされた。

 時折お見かけする貴明様は、まるで人形のようだった。

 明るい以前の貴明様でも、数日前までの狂気を交えた美しさもない。かといって、何もかも悟ったという感じでもない。

 ただ、淡々と過ぎていく毎日を消化しているだけの、そんな諦めにも似たものが漂っている。

 覇気も、何も、ない。

 総務二課などでやる気があるほうが、どうかしているとほかの皆は言っている。この人事はどういう意味があるのか、ちょっとした論議を醸し出しているらしい。

 でも、私にはわかる。

 貴明様は、何もかも手放して、奪われて、抜け殻のようになっておいでなのだ。そのような人間には、総務二課のような無くても困らない部署は、うってつけだったのだろう。

「御曹司が心配ですか?」

 肩を叩かれてはっとした。久しぶりに見る中宮だ。

 ひどく胸が騒いだ。

 中宮は、ここでは話がしづらいからと、空いている部屋へ私を案内させた。

「数ヶ月ぶり……でしょうか」

「はい」

 ソファに並んで座り、中宮は私のほうへ身体をずらして微笑んだ。

「思ったよりお元気そうでよかった。御曹司の件は……大変でしたね」

「……私は、何もできませんでした。結局」

「いやいや、無事に会社勤務されているんです。貴女のおかげしょう」

「…………いいえ。どちらにしろこうなったんだと思います。私は、貴明様に何もできていませんでいた。むしろ。暴挙を止めるべきだったのにできませんでした」

「……暴挙?」

 中宮の口の堅さはわかっているので、私は恵美様に乱暴された件を話した。中宮はうなずいた。

「そこまでになっていたのですか。御曹司は、よほどの情を、求めておいでだったようだ」

「……でも、結局は何にもなりませんでした。恵美様は……」

「お二人は仲睦まじいご様子でしたね。皮肉なものです。御曹司がお二人をより強く結び付けてしまった……」

「ええ」

 数日の命の営みのために、口を持たず、卵が詰まっただけのお腹を抱えて生き続ける蜻蛉を思わせる、貴明様を思い出した。

 誰か、誰かあの方を助けて……。混じり気のない愛情を注いで差し上げて欲しい。

「願いにせよ、行動にせよ、思ったとおりになるのはほんの僅か。ましてや他人の思いなどどうにもならないと思ったほうがいい。よくわかっておいでだと思いますが」

 そう、わかっている。

 私の望みなど、叶わないほうが圧倒的に多い。叶ったのは、貴明様のお傍に行けた事位だ。

 中宮は、深くソファに沈んだ。

「ご家族が、貴女に会わせろとうるさいのですが、いかがされます?」

「私に? どうして?」

「お金が欲しいのでしょう。ほんの僅かでも。彼らは今、生活保護を受けられず、市営住宅の狭い3DKのアパート住まいなんです」

「私の知ったことではありません」

「私もそう思います。ですが、外出の際は……これからは気をつけてください」

「これから?」

「ええ。貴女はご存じないでしょうが、実は今まで貴女がご無事でいられたのは、御曹司が貴女に密かに見張りをつけておいでだったからです。ですが、今回の件で、圭吾様がその者さえも追い払ってしまわれた……」

 見張りって……。気づかなかった。私は監視されていたのか。

「何を考えておいでなのかわかります。でも違います。御曹司は本当に貴女を心配されていたのです。あの藤田という女の雇った連中に襲われた事件以来、ずっと。外出時には必ず見守るようにと……ね」

「…………」

「何故知っているか、と、思われるでしょう。それは、私も同じようにしたかったからです。でも、御曹司の方が素早かった」

「そう……ですか」

 ちっとも知らなかった……。

 結局、私は貴明様の重荷になっていただけみたいだ。そんな手間をおかけしていただなんて。

 中宮はため息をついた。

「彼はよく人を見ている。そして、どうすれば利益を生むかもよくご存知だ。人をどう動かせば、その能力を発揮させられるかということも……。そんな彼が、どうしてそんなおろかなまねをしたのでしょうね」

「きっと、それは、唯一恵美様だけが思い通りにならなかったからでは?」

「違いますね」

 中宮はきっぱりと言った。そんな物言いの中宮は珍しかった。

「本当に恵美さんを、どうこうしようと思ったのではないでしょう。決着をつけたかったんですよ。御曹司には多分、最初から得られない恋だとわかっていた……、そう、最初から。だからとんでもない行動をとった」

「貴明様らしくありません」

「でしょう? 私は会長のお悩みがよくわかります。息子を狂わせる女など、認められるわけがありません」

「社長はどうなんです。十分おかしいではないですか?」

「まあ……。ですがやはり、社長はしっかりしておいでだ。情に流されてばかりの御曹司とは違う。御曹司は情が深すぎるのです。それが彼の唯一の弱点だ」

「…………」

「程度の差はあれ、御曹司は貴女も愛しているでしょう」

「まさか……私は、恵美様の代わりの道具で……。それに私は一度だって貴明様に、本当の姿を見せていませんでした。愛ではなかったんです。愛だと信じていただけで」

「彼が今生きていられるのは、貴女の献身の賜物です。それは愛だと言えるでしょう」

「でも……」

「いろんな愛があります。どれが正しくて間違っているだなんて、考える必要もない」

 は……と、中宮は笑った。

「世間では御曹司のような男性を、節操なしとかいうんでしょうね。愛する女がいるのに、ほかの女にまで手を出すのですから」

「そうなんですか。真面目な方なのに」

 貴明様を浮気者のように言われるのは、どうにも我慢ならない。

「真面目だから、どちらも大事にされているんでしょう。今、御曹司が貴女に近づかないのは、貴女の家族に金づると思われないためです。先日など、貴女が借金だらけだという偽の報告書を、匿名で、貴女の親にわざわざ郵送していたぐらいですから」

 そんな……事まで。知らなかった。

 なのに私は、貴明様を裏切っていた。

「ですが、貴女のご両親は信じないらしくて。どうします?」

「では、借用証をあちらへまわしてください。偽物を。そうすれば近づいてきません」

「そう思いましたから、確認をと思ってきました。そうします」

 中宮はにやりと笑い。作ってきたという偽の借用証を、スーツケースから取り出して、私に見せた。三千万とある。ほかにも数枚取り出して見せたので、心底おかしくなって笑ってしまった。

「どれだけ私ってば、お金借りてるんです?」

「内緒ですよこれは。見つかったら罰せられる類ですから。貴女のご両親を追い払ったら即処分します」

 そこで疑問が湧いた。中宮はいつも私を助けてくれる。危険が身を及ぼそうとしたらいつだって知らせてくれる。

 今もこうして、忙しいだろうに会いにきて、面倒くさいことを引き受けてくれる。

 聞かずにはいられなかった。中宮に一体何の得があるというのだろう。

「どうしてですか。どうしてこんなにしてくださるんですか?」

 心底不思議そうに言うと、まだわからないんですかと中宮は困ったように言い、それらをケースにしまった。

 そしてじっと見ている私に、優しい笑みを浮かべた。

「貴女を愛してるから」

 一瞬何を言われたのかわからなくて私はなんども瞬きをした。中宮は目を細めて笑い、その反応が貴女らしいですね、と言った。

「えっと……、私は」

「気にしないでください。貴女は御曹司が第一ですからね。ただ、私は……、チャンスを逃さない主義なものでね。ああ違うそうでもない。土壇場まで来ないと決断ができなかっただけか」

 なにやらぶつぶつと中宮は一人で言っている。私としては、目隠しして料理を食べ、一体何を食べさせられているのかと考え込んでいるような気分だ。

 ……一体、何?

 中宮は、そんなに考え込むことでもないでしょうにと言った。

「私は、近いうちに北海道へ帰って、父の不動産業を手伝うことになったんです」

「北海道……、不動産?」

「ええ。そこそこあちらでは名の知れた会社です。こちらへは今までのようには来なくなるでしょう。ですから、これは賭けです」

「賭け?」

 見上げる私の両手を、中宮は両手で握り締めた。

「一ヶ月待ちます。……どうか、私と一緒に来てください」

「……一緒?」

 中宮はうなずいた。

「私はもう十分に待ったと思います。近々御曹司の恋も結論が出るでしょう。貴女はまだご存じないようだが、恵美様は記憶を取り戻されたそうです」

「…………」

 今朝、サンルームでお見かけした恵美様は、圭吾様と仲良く笑っておいでだった……。

 つまり、恵美様は圭吾様を選ばれた。

 記憶を取り戻してもなお、貴明様の元へ戻られないのは、そういうことだ。

 中宮は腕時計を見て、立ち上がった。

「もう行かなければ……。ではまた」

「中宮さん……、私」

 中宮は立ち上がろうとする私を、手で制した。

「ゆっくりでいいんです。急がないでください」

 そう言って、部屋から出て行った。

 一人残された私は、とんでもない難題を押し付けられて、しばらく放心状態だった。

 中宮と北海道へ……行く?

 貴明様から離れて……?

 私に、そんな事ができるのだろうか。

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