アイリーンと美獣 第10話

 壱夜は赤いスープが煮えている鍋を見下ろしていた。珍しく明るい笑顔で無気味なほどだ。作っているのはミネストローネで、トマトとスパイスの食欲を誘う香りがキッチンに広がっている。
 相変わらず左足首には銀の枷が嵌められていて、壱夜が動くたびに繋がれている鎖がじゃらりと音を立てている。もうあれから何日も経つが外される気配はない。幸い鎖の長さがこの部屋一帯の長さに変更されたのでトイレもお風呂も不自由なく行けている。不満なのは仕事をはじめ外出が一切禁止になっている事だった。
 香草焼きチキンをオーブンレンジから取り出して皿に盛り付けた壱夜は、対面式キッチンの向こう側のリビングのソファに座って書類を見ている蒼人を見た。相変わらず蒼人は紳士然とした顔で腹が立つ。
(今のうちだぞその余裕面! もうすぐ泣かせまくってやるんだからな!)
 突然作れといわれた夕食。暇で暇で仕方が無かった壱夜は喜んで引き受けた。その喜びの中にこれからする復讐が盛り込まれている。サラダを盛り付けて、岩井に買ってもらったフォカッチャを皿に載せてテーブルにセッティングした。そして最後にミネストローネを皿に装いながら、壱夜はフフフと腹からこみ上げる笑いを押し殺した。
「おい、できたぞ」
 普通に話しかけると笑ってしまいそうになるため、壱夜は敢えてぶっきらぼうに蒼人に声をかけた。岩井は蒼人に言いつけられた用事で今夜は戻らない。蒼人が書類をケースにしまい、相変わらず涼しげに微笑みながらキッチンに入ってきた。
「イタリア料理ですか、おいしそうですね。パンまで合わせてあるんですね」
「折角のイタリア料理に食パンなんて嫌なんだよ」
「へえ、壱夜はこだわりがあるんですねえ」
「っせえ。早く食おうぜ」
「はいはい」
 蒼人を向かい側の席に座らせて、壱夜はワクワクしながら自分も席に着いた。スプーンを手に取って向かい側の蒼人をちらりと見る。蒼人もスプーンを手に取っているところで、壱夜の視線に気づいて蒼人が言った。
「思えば初めての手料理ですね」
「そうだな。早く食えよ」
「言われなくてもいただきます。では」
 ミネストローネの赤いスープと具をスプーンに載せて蒼人が口に入れるのを、壱夜は興奮と期待とでごちゃ混ぜになっている心をドキドキさせながら見守った。蒼人は相変わらず上品に口に含みゆっくりと咀嚼する。そして飲み込んだ。
(……あれ?)
 蒼人の顔に変化がない。壱夜は先程自分が一瓶丸ごと入れた調味料を思い返した。あれはひょっとして別の調味料だったのだろうか。あんなものがまるまる一瓶入っているスープを飲んだら、こんなに平静でいられるわけがない。しかし蒼人はさもおいしそうに二さじ目を食べている。
(っかしーな、失敗? 英語表示だったから読み間違えたのかな……くそ、ただのトマトピューレと間違えたのかも)
 壱夜は期待はずれで不貞腐れながら赤いスープを飲んだ。そして次の瞬間に焼け付くような辛さと痛みが舌と口腔内を襲い掛かり、壱夜は飲んだスープをその辺に吐き出した。
「ぶぁっはあああああああ! ひいいいいいっ。ゲッホゲッホ!!!」
 ついでコップを手にとってミネラルウォーターをがぶ飲みする。しかし焦げ付いた辛味はまったく立ち去る気配がなくて、壱夜は部屋の中を転げまわった。
「ゲホゲホゲホっ……グゥエホっ! ホゲぇ~っ!」」
 蒼人がかがみこんで、苦しんでいる壱夜の背中を擦ってくれた。
「馬鹿ですねえ壱夜は。私は辛いものは平気なんですから……」
「ぐぇほっもごふォ!(化け物)」
 涙が際限なく溢れて止まらない。もう自分の体はダメかもしれないと思うほどの辛さだというのに蒼人はなんともなさそうだ。やっぱりこいつは化けもんだよと壱夜はヒイヒイ言いながら思った。
「ごほ……っ! うぇ?」
 気がついた時には蒼人に横抱きにされていた。そして嫌な思い出がみっちりと詰まっている蒼人のベッドルームに連れて行かれ、部屋の隅にある洗面台で顔や口の中を漱ぐ様に言われた。何度か漱いだ後壱夜は蒼人に顔を拭かれた。
「私にそーんな毒になるものを盛ったんですね?」
 綺麗な顔が怒りを孕んで恐ろしい。だがちりちりに焦げ付いた辛さで涙が止まらないし、何度水を飲んでも治まらない方が怖い。壱夜は思わず蒼人にがっしとしがみ付いてしまった。
「どうひよ……もお……ひはふはえはいはも(どうしよう、もう舌使えないかも)」
「……何を言っているのかさっぱりわかりませんね。どれ、舌を見せて御覧なさい」
 不安でたまらない壱夜は舌を素直に出した。ふーんと蒼人は角度を変えて隅々まで観察する。
「舌炎でしょうね。しばらく熱いものや刺激物は無理でしょう」
「ほんは……っ」
「言っておきますが私は激辛だろうが激甘だろうが耐性ができているので、変な物を食べたって人より多少は平気なんですよ?」
 多少どころではない。どこの世界にサドンデスソースがまるまる一瓶放り込まれた激辛ミネストローネを平気な顔して食べる人間がいるのか!(作者注:絶対に真似しないでください)
「まあ私も二口が限界ですがね……。ああ辛かった」
 そう言って笑う蒼人はサドスープの影響を全く受けていないようで、普通に話して水も飲んでいないしまさしく化け物だ。
(化けもんだ化けもんだーっ! こいつやばいよ半端ねえ!)
 壱夜は心の中で絶叫しながら再び洗面台で顔を洗い口腔内を漱いだ。タオルで顔を拭き終わったらこの化け物の報復が待っている。おびえながらぐずぐずとやたらと丁寧に洗っている壱夜に向こうが焦れたらしく、背後から伸びてきた手に蛇口のレバーを上げられ水を止められた。
「ふふふ。おびえる壱夜はとても可愛いですよね」
 ぐいと腕を取られて振り向かされ顎を上向けにされた。壱夜は蒼人の獲物を嬲る目をまともに見てしまい、後ずさろうとして引っ張られ蒼人に抱き上げられた。

 どさりと落とされたのは蒼人のベッドで、またあの果てしない鬼畜な時間が始まるのかと壱夜は身体を固くさせたが、蒼人は何故かベッドの脇に腰掛けただけで胸ポケットの携帯電話を取り出した。
「今どこにいる? 壱夜が舌炎になったから戻ってきてください」
 どうやら岩井に電話をしているらしい。
 だが電話で会話をする蒼人に頬を何度も撫でられ、壱夜は生きた心地がしない。嬲るのなら早く開始して欲しい。焦らされるというか後になればなるほどその分恐怖が倍増してしまう。それなのに蒼人は、やがてやって来た岩井に治療を任せて部屋を出て行ってしまった。
(なんだ? ひょっとしてこのまま放置してくれるとか? いやいやいやあの鬼畜野郎に限ってそんな事はありえない。ああそれにしても舌が痛え……)
「完全に舌炎ですね。なんだってあんな香辛料を一瓶入れたんですか」
「うっせー」
「放っといたら数日で勝手に治りますよ。ただ胃に優しいもの以外は食べないでくださいよ。この化膿止め……一応飲んどいてください」
 白い錠剤と水の入ったコップを差し出され、壱夜は起き上がって受け取った。
「とにかく大人しくしていてください。何回も言いますけれど蒼人様を怒らせたっていい事など貴方には何一つないんですよ?」
 壱夜は叱言を繰り広げられるのが嫌だったので大人しくうなずいた。岩井は壱夜が薬を飲むのを見届けて一安心したのかすぐに部屋を出て行った。
「ふぃー……」
 気が抜けた壱夜はごろりと左に寝転がった。目の先には暗いベッドランプが照らす真っ白い壁があるだけだ。
激辛スープを一さじ飲んだだけだったのでお腹がぐうぐう鳴り始めた。しかし、舌が痛くて熱くてとても夕食は食べられそうも無い。自分の仕掛けた罠に自分がはまるなんてアホそのもので、壱夜は情けなくなった。
「遅いなあ……あいつ」
 一人になってからもう一時間が経とうとしている。
(ひょっとしてひょっとしちゃったりする? なんだあ奴も結構いいところあるじゃねえか。そうかそうか病人には手を出さないんだな……。良かったあ)
 蒼人をびっくりさせるのには失敗したが、よく考えたら成功したとしてもリスクが高すぎた作戦だった。また気絶するまで後ろを穿ちまくられるのは御免だ。
(明日は真面目にうまい朝食を作ってやるかなー。そうしたら機嫌よくしてこの鎖取ってくれるかもしれないし)
 胸の中に重く圧し掛かっていたものが氷解し、そのままだんだんと眠りの園へ引きずり込まれていく壱夜の耳に蒼人の涼しげな声が入ってきた。
「おまたせしました壱夜。おや、寝ようとしていたのですか?」
 蒼人は何故か真っ黒な革張りの椅子(?)を手にしていた。壱夜はそれを見て一気に眠気が吹っ飛び壁にどんと後ずさった。じゃらんと鎖が鈍い音を立てて抗議するが、そんな事はどうでもいい。
「ふふふそんなにおびえなくてもいいですよ。これは玩具を作ってる知り合いがプレゼントしてくれたものでしてね。壱夜なら必ず喜んでくれると思っていたので、今日使おうと思って物置から持ってきたんです」
「……んだよ、その椅子」
 肘掛にベルトがある椅子なんて明らかに異様だ。しかも足に当たる部分にまでついている。
「食わず嫌いはよくありませんよ。さあこっちへいらっしゃい」
「やだああああああっ!」
 壱夜は必死にベッドのシーツにしがみ付いた。蒼人はそんな壱夜の抵抗が面白いのが無気味なほどにご満悦な笑顔を浮かべ、壱夜の足首から伸びる鎖であっという間に暴れる壱夜を手繰り寄せ、まず腰ベルトで壱夜の身体を椅子に固定して両手両足も固定した。
「やめろっ! なんだよこの趣味の悪い椅子っ」
「そのうち喜ぶようになります。ああしまった……服を脱がせるのを忘れてた。まあいいか……」
「よかねーよ! メシの事はあやまるからこれやめろよ。な?」
 蒼人はうんうんと頷いて壱夜のシャツのボタンを外していく。椅子はかなり重量があるようでどれだけ暴れてもびくりとも動かなかった。
「頼むからやめろよ」
「そんなふうに懇願する壱夜もかわいいですね」
 蒼人の指先が壱夜の乳首を摘んで引っ張った。何故だかわからないが妙に身体が疼いて壱夜は首を横に振った。
「おま……ああっ……やめ! ンああっ……」
 親指にぐりぐりと捏ね回される乳首は蒼人の思いのままに形を変えた。喘ぐ壱夜に蒼人の唇が重なって舌を絡められて吸われ、たちまち唾液が滴っていく。
「んんふ……ふぅ……ふ……んんんーっ!」
 乳首を嬲っていない方の手にジーパンの上から壱夜のモノはゆったりと押さえつけられ、そこからたまらない快感が広がりズクッと下半身が熱く蕩ける。赤くなりつつある耳朶をねっとりと食まれると、壱夜は吐息を熱く吐きながら呻き身体をがくがくとさせた。
「いい……あああ!」
「岩井の媚薬が効き過ぎているようですね。まあそれも一興。さあ壱夜、楽しい仕置きをしてあげましょう」
「……や……蒼…………」
 潤んだ壱夜の目に、舌なめずりする蒼人が映った。