あとひとつのキーワード 第05話
真嗣さんから連絡があったのは、それから数日後だった。当時勤めていた会社で、仕事だった給与計算の処理がちょうど終わって一息ついたところで、まるで見計らって掛けてきたようだと思ったのを忘れられない。
携帯端末に表示された真嗣さんの番号に、就業後とはいえ、まだ社屋にいた私は一旦留守電でやり過ごした。待たせてはいけないと大急ぎで着替え、外で掛けなおそうとして表玄関を出たところで、待っていた靖則に呼び止められた。
「すみれさん」
「……榊原さん、どうしてここに?」
会社帰りの人たちで混雑している駅前通りで、人混みに押されかけてなんとか踏みとどまった。
先日のキスを思い出して、思わず身構えてしまう。
そんな私を物ともせずに靖則は歩み寄ってきた。
「電話のほうが捕まえられるかと思いましたが、留守電だったので直接来ました」
「え? でも北山さんの番号でしたよね?」
「その北山さんに言われて来たんです。もう北山さんは車の中でお待ちです。こちらへ」
急な呼び出しにも応じるように沙彩に命令されていて。逆らえない私は、会社から少し離れた場所に止まっていた高級車に乗るよう促された。
靖則の運転で、車はすぐに動き出す。
後部座席の北山さんは、助手席に座らされた私に申し訳無さそうに謝ってきた。
「突然の呼び出しで悪かったね。沙彩が突然の腹痛で、今日のパーティーに行けないと言うものだから……」
本当に腹痛なんだかどうだか。どうせ気まぐれで行きたくなくなったに違いない。
私はバックミラー越しに、横に首を降った。
「君は私の横で立っているだけでいいから、心配はいらないからね。面倒なことだがよろしく頼む」
「……はい」
立っているだけと言われても心配だらけだ。
生まれてこの方、パーティーなど行ったことないのだから。
大きなお屋敷の、控室にされたお部屋で専門の人に化粧を施されて、着たこともない品のいいドレスを着せられた。沙彩のものらしい。履きなれないハイヒールが歩きにくく、仕切ってあったカーテンから出て、転びかけた私を待っていた靖則が支えてくれた。
「だめじゃないか榊原。それは私の役目だよ」
真嗣さんが言い、私の腰に手を回してきた。
……これはいいのだろうか。沙彩の代わりとはいえ、私は真嗣さんの婚約者ではない。それともこういう上流家庭の人たちは、こういうふうにエスコートするのが当たり前なのだろうか。
恥ずかしくてうつむき加減になる私に、真嗣さんが微笑みかける。
「とても綺麗になったね。これは今日は大変そうだ」
「変な男を寄せ付けないようにしてください」
靖則が嫌に冷たく言う。真嗣さんは笑った。
「私の虫除けでもあるんだから、彼女も私が虫除けになるから大丈夫だよ」
「ならいいのですが」
「そんなに心配なら、君も来ればいいじゃないか?」
「私にも仕事がありますので。では、終わる頃迎えに……」
「来なくていいよ。私が送るから」
突然そんなことを真嗣さんが言うものだから、私は驚いて真嗣さんを見上げた。
「だって当然だろう? 私のために来てくれたんだから。ね? すみれさん」
「え……ええ」
靖則の冷たい視線を感じつつも、私は頷いた。真嗣さんとふたりきりになるよりも、靖則とふたりきりになる方が嫌だ。
靖則はため息をついた。
「それならおまかせしますが、くれぐれも自重してください。スキャンダルはごめんです」
「大丈夫だ。私は沙彩以外好きじゃないから」
あんな女のどこにそんな惚れ込む部分があるのかわからないけれど、真嗣さんは請け負った。靖則はそれならとうなずき、私に軽く手を上げて控室から出ていった。
そろそろと息を吐く私に、真嗣さんが言った。
「余計だったかな? なんとなく君が靖則を苦手そうにしている気がしたから」
「……いえ。特に。でも今日はこれでいいです」
控室には数人の男女が居て、思い思いのおしゃべりをしている。
「私はちょっとあいつが苦手なんだ」
「え?」
真嗣さんは苦く笑った。
「だってほら、あいつはあの通りものすごく顔立ちが整ったいい男だろう? 見劣りがする気がしてね」
「……。あの、北山さんも十分に素敵です」
素直に思ったままを言ったのに、真嗣さんはコンプレックスがあるらしく、そうかなあと首を傾げた。
「昔から何かにつけ比べられる仲でね。北山の家のほうが格が上だから、靖則は私の後ろに立っている方が多いけど、それでも人目はあいつに行くんだ。沙彩は私だけを見てくれているけれど」
「……沙彩とはどこで知り合われたのですか?」
「大学で同じサークルだったんだ。沙彩は人気者で、私と付き合ってくれるなんて信じられなかった。何しろ腐れ縁で靖則も同じだったから。靖則はどこへ行っても人気者だったから、あいつとつきあうと思ってた」
そんな地獄のようなサークル、絶対に嫌だ。
「それで……」
さらに聞こうとしたけれど、生憎パーティーの開始の時間だ。早く行って、すぐ帰るという約束をしているのだと真嗣さんは言い、私に静かに手を差し出してきた。
「君のためにもなるからね。なれない人にはこの手のパーティーは苦痛だろうし。沙彩も悪いと思ってるんだよ」
どうだかと思いつつ、男性と手をつなぐ機会などなかった私は、いいものかどうかと悩みながら差し出された手におずおずと手を重ねた。
小さな手だねと真嗣さんは言い、優しく会場までエスコートしてくれる……。
沙彩のことがなかったら、少しは胸も弾んだだろう。
それくらい、真嗣さんの微笑みは優しく、私の心を穏やかにしてくれた。
どういうパーティーなのかと思っていたら、このお屋敷の主人の奥様に、お子さんが生まれたという記念のパーティーらしい。会場の入り口に赤ちゃんの写真が何点か飾られていた。
人が次々に会場入りするに従って、うるさくなってきて、一気にパーティーらしくなってきた。
ご主人と奥様の挨拶が終わると、より一層賑やかになる。私も一応真嗣さんに連れられてお祝いに伺った。しかし、その他大勢と同じような態度を取られ、ご主人と奥様が私に気を留めることはなく、心底ほっとした。
「すみれさんは、何もしなくてもいいからね。あと、すぐ帰るから、立食コーナーには行かないようにね。私とはぐれて、面倒事が起きそうだから」
「はい」
私も面倒事はごめんだ。素直に頷いた。
真嗣さんは人気者らしく、ひっきりなしに人が話に来ては、去っていく。隣りにいる私に人目が突き刺さるのは、真嗣さんの隣りにいるのが婚約者の沙彩ではないからだろう。しかし、それをわざわざ聞いてくる人はおらず、聞いてきたのは、だいぶ年配の、ちょっとスキャンダラスな事件が好きそうな目をした、どこぞの社長夫人のおばさんだった。
「今日は沙彩さんはどうされましたの? 皆さん気にしておりますのよ?」
真嗣さんはニコリと私に笑う。
「ちょっと体の調子が悪くて来れなくなったんです」
「そちらの方は……?」
「沙彩の姉になった方です。無理に来ていただいたんで、今日はご容赦を」
「まあ失礼ね。なにもしないわよ私は」
おどける真嗣さんに、わざと怒ったふりをするおばさんは、それでも私に鋭い視線を投げかけてくる。場違いなところに来ている、卑しい女と思っているのがまるわかりだ。このおばさんだけではない、私を目にする人すべてが、そういった蔑みをどこか目のどこかに宿していた。
「気疲れするだけでしょうに。よくいらしたわね」
声をかけられても、私は何も言えずに愛想笑いを控えめに浮かべるしかない。話したところで大失敗しそうだ。真嗣さんが話題を逸してくれ、ようやくおばさんは私へ興味を持つのを止めてくれた。
おばさんが目の前から居なくなっても、私を眉をひそめて見る人の視線は強く突き刺さる。
おかしい。
たかが代打で、ここまで注目されるような覚えはない。認知された姉という点を差し引いてもだ。敵意すら感じる。
どういうことだろうと思っていたら、美しく着飾った令嬢が、
「沙彩さんの婚約者を取ろうとするなんて、身の程知らずな乞食ね」
そう耳打ちして通り過ぎた。
婚約者を取る?
振り返った時には、令嬢は、もうたくさんいるパーティーの客の中に紛れていた。
その耳打ちは私にしか聞こえないほどの小さな声だったので、真嗣さんは気づいていないようだ。同年代の人たち数人と話をしている。
私は視線を上げ、周囲の人たちを見回した。すると、厳しい目、侮蔑を含んだ視線といくつも打つかった。
(私が、真嗣さんを沙彩から取ろうとしている……?)
改めて真嗣さんを見て、沙彩の思惑に気づいた。
沙彩は、わざと私をこんな場に出させて、社会的に私を抹殺しようとしているのだ。
おそらく人を使って、パーティーの前から噂をそれとなく流していたのだろう。
大した策略家だ。
「すみれさん?」
真嗣さんが、愛想笑いすら消した私の様子に気づいた。
「疲れた?外に出ようか?」
「いえ、化粧を直してきます」
確信が持ちたい。沙彩の仕組んだことかどうか。
「……出たところの右の突き当りだけれど、なるべく早く帰ってきてね」
「はい」
真嗣さんも、悪意の視線が私に集中していると気づいていたのだろう。心配そうな目は演技などではなさそうだ。この人は沙彩に騙されているだけの、かわいそうな人なのかもしれない。
私が会場を出るのをじっと見計らっていた令嬢数人が、私の誘いに見事に乗ってきて、あとをついて化粧室へ入ってきた。
どの令嬢も根性が悪そうな目をしている。美しく着飾っていても、性根は化粧できるものではない。
令嬢の一人が鍵をかけるのを見て、ドラマのようだと内心で笑ってしまった。
私は化粧室の隅に追いやられ、その前に令嬢たちが立ち塞がった。逃げやしないのにご苦労なことだ。
「……何か用ですか?」
私が聞くと、リーダー格の黒髪の令嬢が口を開いた。
「倉橋さんと言ったかしら? 沙彩さんのお情けで認知されたくせに、随分厚かましいお心をお持ちね貴女」
あの女に情けなど掛けられた覚えなどない。
「どちらさまですか?」
しかし、賤民に名のる名などないらしい。まるっと無視してくれた。
「いいこと? 沙彩さんの婚約者を取ったり、家を取ろうとするなんて、身の程知らずなことを考えるんじゃないわよ?」
「考えたこともないわ」
「嘘ばっかり。沙彩さんはお優しい方だから貴女をかばってばかりだけど、本当の話は私達の間に流れているのよ。今日はどうしても真嗣さんとこのパーティーに来たいからって、その沙彩さんのドレスを勝手に借りていったそうね? ずうずうしい」
なるほど、そういうシナリオを作って言い広めていたのか。みんなの視線が冷たいわけだ。
「貴女にはそのドレスはもったいないわ、ね? みなさんもそうお思いでしょ?」
令嬢たちが頷く。何やら始まるらしい。
「それで、私達が沙彩さんの代わりに仕置しようと思いましたの。
黒髪令嬢の視線を受けた、隣りの茶髪令嬢が、私のドレスに赤い口紅をざっと滑らせた。水色のそれに赤色はひどく禍々しい。ワインをぶっかけられるのはよく聞く話だけど、口紅は初めてかもしれない。
「貴女にはこれがお似合いだわ」
令嬢たちがさもおかしそうに笑い合う。何がおかしいのかわからない。
「これ沙彩のドレスですけど?」
「あらあら、沙彩さんのドレスに落書きするなんて、とんでもないお姉様よねえ? でもね、そのドレスは沙彩さんにはいらないものだと思うわ。貴女みたいな一般人にはわからないでしょうけど?」
どうやら沙彩は徹底して、自分のことは姉を思いやる優しい妹、私のことを沙彩を脅かす悪い姉と脚色して、言い広めているらしい。そしてこの令嬢たちはそれを真に受け、沙彩の代わりに私を懲らしめているつもりのようだ。
「もう会場には戻れないわね? さっさとお帰りになったら?」
嘲笑を私に浴びせて、令嬢たちは化粧室を出ていき、入れ替わりに入ってきた中年の品のいい女性が私のドレスを見て、ぎょっと目を見開いた。
「あなた……大変じゃない! すぐに落とさないと」
「クリーニングに出すから平気です」
「それならいいけれど、最近の若い人たちときたら全く! でもね、あなたも妹の婚約者を取ろうとするからやっかまれるのよ。こんな場所に出てこないで、おとなしくしていなさいね」
この女性も私を同じように見ているらしい。
馬鹿らしくなった。
同時に、こんな連中に言わせるままにしている自分も、バカもいいところだ。
そうなの、沙彩。
そんなに私が憎らしいの?
前世なんて私は知らない。
生まれる前のことを執念深く恨んで、わざわざ今世で蒸し返して、それで人をいじめようってのは前世の私よりひどいんじゃないの?
私はくすりと笑った。
女性は訝しげに私を見る。
「婚約者を取るな、家を取るな。私に言わせれば、取られる者が悪いんですよ」
乱れた髪を直してみたけど、ドレスにつけられた口紅はどうにもならない。着替える必要がありそうだ。だけど着替えなんかないから、このままタクシーで帰るしかない。会場に戻るなんてまっぴらだ。だけど、真嗣さんにこれ以上心配をかけるのはどうかと思うから、係の人に伝言だけ頼んでおこうかな。
しらっと言った私に、女性は心底呆れたようだ。
「……生まれが悪いとはいえ……、あなたも呆れた子ね」
「そうでしょうね」
女性は、処置なしとばかりに椅子に座り、鏡に向かって化粧を直し始めた。
そのまま化粧室を出て、グラスを運んでいる係の人に真嗣さんへの伝言を頼んだ。
外に出てタクシーを捕まえようとしたところを、外にまだいた靖則に見つかって、例の黒塗りの車に押し込まれた。
抵抗しようとしてすぐ諦めた。あの嫌な痛みを仕向けられたらたまらない。
すぐに車は発進する。
「……帰ったんじゃなかったの?」
「こうなるかと思っていましたから。そのドレスは沙彩はいらないそうですが、どうします?」
「捨てるわ」
「そうするしかなさそうですね。流行遅れですし。一番いらないドレスだったそうですよ」
何から何まで徹底している。大したものだ。でも、それでもなんとも思わない自分もどうかしている。
「ふーん。やっぱり沙彩の考えた、苛めイベントだったんだ」
靖則は私をちらりと見、前に視線を戻した。
「泣いて出てくるかと思っていました」
「そんな女に見える? 蛆虫がどれだけ涌いて蠢こうが、私にはどうでもいいことだわ」
ふっと靖則は笑った。
「ジョゼらしい言い方だ。人並みの感情が欠落している」
「私は倉橋すみれよ。ジョセフィーヌではないわ」
「同じだ。欠落したものを悲しんでいる」
靖則は私より私に詳しいようだ。
「それであなたは、私がこんな反応でしたって、沙彩に報告にいくの?」
「まさか。面倒くさい。彼女が友達から聞くことでしょうよ」
「それでも貴方は、見てみぬふりを続けるのね」
最低だ。
そう思った途端、あの嫌な頭痛が私を襲った。
「やめ……!」
ひどい痛みに声がもう出ない。
頭を抱えて痛みに苦しむ私を横目に、靖則は平然と車を運転し続ける。
「そうやって、苦しむしか脳がないジョゼ。可哀想なことだ……」
アパートに近くなった頃、ようやく痛みは引いた。
「滅多なことは言わないほうがいい。自分の首をしめるなんて、馬鹿げている」
何も言えなかった。
嫌な男だ。
沙彩より悪い男だ。
怖い。
離れられたらいいのに。
それができない私は、なんて弱い生き物なんだろう。