あとひとつのキーワード 第06話
アパートの部屋に戻ってドアを閉めるのと同時に、携帯端末が鳴った。
見ると真嗣さんだ。まだパーティー中じゃないかな。
出てもいいものかどうか迷ったものの、直接謝罪したほうがいいと思い直し、電話に出た。
「はい、倉橋です」
『すみれさん。今どこ?』
パーティー会場から控室にでも戻ったのか、通話はクリアでざわついてはいない。
「もう家です。榊原さんに送ってもらいました」
『……あいつ! 大丈夫だった?』
真嗣さんは、まるで靖則が抜け駆けでもしたかのように、怒り気味に聞いてきた。
「え? 大丈夫とは……」
『榊原に何かされなかった?』
自分の勘違いが恥ずかしくなった。
靖則にはキスやら頭を痛くされるやら、いろいろされているけれども、こんなことで真嗣さんに心配かけたくなくて、私は嘘をついた。
「何も」
『本当?』
「はい」
ややあって、安心したようなため息が漏れ聞こえてきた。
『途中で帰ったから心配してたんだよ。具合が悪くなったの?』
「いえ、沙彩のドレスを不注意で汚してしまって、とても会場へは戻れる状態ではなかったんです。すぐに帰ってくるようにおっしゃってましたのに、ご心配をおかけしてすみませんでした」
『……そう。じゃあ、何もされていないんだね?』
「はい。あの、パーティーは……」
「終わったよ。今は帰りの車の中。ずっと気になってたから、やっと安心できたよ」
この人は本当にいい人だなあ。心底心配してくれているのが、電話口からでもよくわかる。こんなにいい人が、何故、あの沙彩の婚約者なんだろう。何が弱みでも握られているのかな。
『倉橋さん。次からは必ず私に直接言いに来て。今日みたいな場合は人を使って呼んで欲しい。心配でたまらなくなるから』
「はい。すみませんでした」
やっぱり勝手に帰ったのは悪かったんだ。私ったら……。
落ち込んでいると、それを声に感じ取ったのか、格段に真嗣さんの声が優しくなった。
『いや、怒ってるわけじゃないからね』
そこで真嗣さんは一旦言葉を切り、
『正直な話、すみれさんがいろいろ心配なんだ。沙彩が言ってたんだけど、上塚の家は大きな古い旧家で、ちょっとでも品格が下がるようなことをすると、代々仕えている使用人や親類縁者にうるさく言われるらしいんだ。すみれさんみたいに、庶子だった人間がいきなり入ったりしたら、かなり風当たりがきついんじゃない? 現に私と初めて会った日、あの家の使用人に手厳しい対応を受けてたろう?』
と、言った。
「え? ああ……そうですね」
確かに、使用人頭の夢乃という女は、私を思いっきり嫌がっていたっけ。どこから真嗣さんは見ていたんだろう。
『沙彩はすみれさんを歓迎しているけど、上塚社長の奥方の……、ええとつまり沙彩のお母さんが、倉橋さんを社長の子供として認めるのに、かなり抵抗したと聞いてる』
……本当のところは、一番嫌がってるのはその沙彩だ。人を騙す天才だなあの女。大したものだ。
「仕方ありません。私の母とは駆け落ちだったそうですし。だから目立たないようにと思っているんですけれど」
『そんなんじゃ駄目だ!』
真嗣さんが大声を出したので、驚いて思わず携帯端末を落としかけた。
「あ……の、北山さん?」
『駄目だよ。沙彩の姉にあたるすみれさんも幸せにならなきゃ。目立たないとか、そんな消極的な生き方はよくない。もっと自分に自信を持って、上塚の家へ入って行かなきゃ』
「……それは」
さすがにまずいだろう。
というか、私があの家に入りたいと全く思っていない。近寄りたいとも思わない。あんな窮屈で高圧的で、選民意識の高い連中の巣窟なんて……。
戸惑っている私に、真嗣さんは続けた。
『倉橋さんは上塚社長の長女なんだ。行動にはそれなりの責任を伴うけれど、それを引いて余りある恩恵を受ける権利がある。正直、今日のドレスはひどい。綺麗だったけれど流行遅れすぎてね。倉橋さんはとても品があるから、招待客にもあまり気づかれてはいなかったみたいだったが……』
なんだ、真嗣さんもあれが流行遅れって気づいてたのか。
黙っていると、真嗣さんはごめんと何故か謝ってきた。
『恥をかかせたらと思って、言わなかったんだ。次からこんなことがあったら、その場で違うドレスを用意するよ』
「いえ、いいんです。北山さんが悪いんじゃないし。あの。私は悪くなかったと思ってるんで……」
『それだよ。そこでもっと倉橋さんは怒らなきゃ! 沙彩にも怒りたいぐらいだ。彼女らしくないよ。こんな失敗をするなんて』
真嗣さんは心底沙彩を信じて、そして今は私のために怒ってくれているみたいだ。
心がふんわり温かくなった。
そっか……、この人はこんなに、私を心配してくれているんだ。
そんな人が、何故あの沙彩の婚約者なのだろう。
「いいんです。私は沙彩に感謝しているくらいですよ。だからドレスを汚してしまって申し訳なくて」
心にもないことを言ってしまうのは、沙彩を好きなこの優しい人を傷つけたくないからだ。
本当のことを知ったら、真嗣さんは傷ついてしまう。
……なんて、嘘をつくな私。
私はまだ真嗣さんの信用を勝ち取ってはいない。私が沙彩の正体を暴いたとしても、真嗣さんは、付き合いの長い沙彩の言葉の方を信じてしまうだろうから、言わないだけなんだ。
そんな打算に、当然ながら人のいい真嗣さんは気づかない。
『汚したドレスについては、私から沙彩に謝っておくよ』
真嗣さんから言わなくても、あの令嬢方がタレこんでるんじゃないだろうか。沙彩だって、いらないドレスだったそうだから、気にもしないだろう……。もっとも、沙彩のことだから、何か新たな意地悪を思いつくかもしれない。ま、そっくり返せとは流石に言わないだろう。そんなことをしたら、自分が裕福なお嬢様ではないと言っているようなものだ。沙彩の性格上考えにくい。
でも真嗣さんから言われたら、私が真嗣さんの気をうまく惹こうとしていると、自分の妄想に拍車をかけかねない。面倒だ。
「いえ、榊原さんが言ってると思います。さっき送ってもらったときに指摘されましたから」
靖則の名を聞いた途端に、真嗣さんの声のトーンが僅かに冷たくなった。
『榊原が? ああ、そうだな。わかった』
「……北山さん?」
『ああ、ごめんね』
すぐに優しい元の声にに戻った。
『これからもこうやって、電話やメールをしてもいいかな?』
これにはちょっと驚いた。
「え? でも、沙彩の婚約者でしょう? よくないんじゃ」
普通。姉や妹や友達の恋人と、こんなふうに電話したりはしないだろう。真嗣さんの立場も悪くなる。
でも真嗣さんは平気そうだ。
『倉橋さんは義姉になる人だ。私は上塚の婿養子に入る身分だから、新しい家族も大切にしたいと思ってる。だからそんなの気にしないで。沙彩も了承してる』
沙彩が、私と真嗣さんが連絡を取り合うことを了承? 怪しいな。何を企んでいるんだろう……。
そう疑いつつも、好人物の真嗣さんなら、こうやって話すのも悪くはない。確かに義弟になる人だから、変に気構えるのもよくないだろう。
「わかりました。待ってます。じゃあ今日は本当にありがとうございました。……おやすみなさい」
『こちらこそありがとう。おやすみ』
通話が切れた。
なんか……久しぶりに、まともな人間と話をした気がする。
携帯端末をテーブルに置き、汚れたドレスを脱ぎ捨てて、化粧を落とし、シャワーを浴びる。流れていく湯が、沙彩や靖則、彼らとつるむ選民意識の高い連中がつけた汚れを、私から落としてくれているみたいで、とっても清々しい。
北山真嗣。
……沙彩にはもったいないほど、素敵な人だ。
あんなにいい人が沙彩みたいな悪い女と結婚したら、不幸になる気がする。ううん。絶対になる。そんなのあきらかだ。
なんとかならないだろうか。
シャワーの湯を止め、頭にタオルを巻いて濡れた身体を拭き、夜着に着替える。
姿見に映るのは、美人だったジョセフィーヌと前世に持つとは思えないほど、平凡な、魅力的なものを探すのも困難な、ぱっとしない若いだけが取り柄の女だ。
「……見かけは大事ね」
誰もが美しい沙彩の言い分を聞くわけだ。本性に気づかずに。
だけど、パーティー会場の化粧室で、私は何を言った?
家も恋人も取られる者が悪い。そう言ったはずだ。
私も所詮、沙彩と同じ穴の狢なのだ。
冷蔵庫からワインを出してグラスに注ぎ、少しだけ飲んだ。冷やしておいたおかげで、喉を通り過ぎるアルコールが心地良い。
そしてじんわりと温まる。
真嗣さんを思う温度と同じ優しさで。
同じ狢でも、私は人を大切にしたいという気持ちはある。沙彩にはないものだ。あの女にもあるかもしれないけれど、それは絶対に己の保身に関わっている、限りなくエゴイスティックで自分本意な我儘が、仮面を被っているにすぎない。
沙彩は真嗣さんを、自分が幸せになる道具の一つとしか思っていない。だから私とパーティーに行かせたりするのだ。
本当に愛しているのなら、そんなことを許すはずがない。それも大嫌いな私に。
おまけに、私が真嗣さんを奪おうとしていると、周りに思いこませようとしている。
それなら……。
その企てに乗っかったふりをして、私が真嗣さんを奪ってもいいはずだ。沙彩にとって、この仕打ちは、趣味の悪いゲームなのだから。庶子と嫡子という違いはあっても、父が認知した今では私も上塚の娘で、立場は同等。
なんの遠慮も必要ない。
真嗣さんの妻になれるなら、面倒だけれど、上塚の財産も地位も狙ったって構わない。真嗣さんと結ばれるには必要なものなのだから。
「そうよ。私にはそれが許される」
鏡に映る双眸が翳った。
とてつもなく大きな闇が私を襲い、捉えていく。
もう後戻りはできない。
真嗣さんへの想いと反比例するように、治まりようがないほど強く燃え上がった、上塚の家への憎悪。
真嗣さんと結婚して、私と母を馬鹿にし続け侮っている輩を見返してやりたい。悔しがらせてやりたい。母を見捨てた父に復讐してやりたい。
それなのに、次いで襲ってきたのは、同じくらいの大きさの罪悪感だった。