あとひとつのキーワード 第10話
女に刺されて数日後、目覚めた時には処置は全て終わっており、麻酔が施されている身体には違和感しか無かった。
一番先に目に入ったのは、病院の薄暗い白の天井で、次に目に入ったのは点滴を取り替えている看護師の女性だった。
「あら、お目覚めになりましたか。今先生をお呼びしますね」
すぐに医師がやってきて診察を受けた。致命傷は免れたものの、数カ所刺された身体はかなりの重症で、中でも車にぶつかった左膝は複雑骨折しており、最低でも半年はリハビリの必要があるのだという。また、金具を入れて処置したため、膝はある角度以上曲がらず、また、二度と走ることはできないのだと言われた。
熱で朦朧としながらそれを聞き、これが沙彩の策略なのだと悟った。あの女はこのために私を身代わりに仕立てたのだ。沙彩と私は異母姉妹だけれど、父に似たのかどことなく似ている……。
警察が来ていろいろ調べを受けた。その時は沙彩がよこした弁護士が同席して、対応した。私はほとんどの発言を許されておらず、また警察も聞いてこなかった。沙彩は自分が身代わりを立てたことを知られたくないようだった。
誰も見舞いに来てくれないまま、かなりの日数が過ぎて、熱も下がり点滴や足を固定していたギプスが取れて、起き上がれるようになった頃、待ち焦がれていた真嗣さんが御見舞いに来てくれた。
二月に入ろうとする、雪の降る午後だった。
真嗣さんは、私のそばまで来ると、頭を深く下げた。
「仕事が忙しくてずっと見舞いに来れなくてごめんね。こんなことになって……。わたしにできることはなんでもするから。あと、すみれちゃんが何も心配することはいらないから」
つらそうに話す真嗣さん。私はじっと真嗣さんを見つめた。
「真嗣さんは何も悪くないです。気にしないでください」
「悪いさ! 助けることができなかった……。責任はすべて私にある。本当にすまない」
「もういいんです……」
私はこれ以上の謝罪は不要と首を横に振った。まだ痛むのでいつものように首を動かすことはできなかったけれど。
「病院からの請求は皆私が受け持つし、ああ、会社は休職扱いになっている。だけど、君には申し訳ないけれど、君を刺した女性の家がそれなりの資産家で、事件は極秘扱いになっていてね、新聞には事故とだけ掲載された」
あれから弁護士が来ないから、どうなっているのかと思っていた。そうなったのか。
「でも……ドライバーの方は」
「そちらもこちらで処理した。事件が事件だし、少々難航したけれど、もう何も心配する必要はない」
心配とかではない。何故、真嗣さんだけが謝罪しなければならないんだろう。謝らなければならないのは、仕組んだ沙彩だろうに。
「会社の皆には……」
「ああ、もう来てもらっても構わないけれど、事件のことは内密にして欲しい。もちろん誰にも。ごめん、君は被害者なのに」
他の人間が言ったのなら、都合が良い話だと笑うところだ。でも心底辛そうにしている真嗣さんには何も言えない。
それより。
私は期待を胸に真嗣さんを見上げた。
「……真嗣さん、本当に私の望みを叶えてくれるの?」
「ああ、言って欲しい。やっぱり何かあったんだね。君は何も欲しがらなかったのに」
どくどくとうるさい鼓動を押さえ込むように、胸に手のひらを当てた。
「私と、ずっと一緒に居てくれますか?」
「当たり前じゃないか。君は沙彩の姉だ。だから」
「そうじゃなくて!」
「すみれちゃん?」
「私と結婚してください!」
真嗣さんは驚いて目を見開いた。
次いで、残念そうに私の両手を取った。
「それは……できっこないよ。それだけはできない」
そう言いながらも真嗣さんの目は揺れていた。ここに付け込まなければ。今付けこまなければ。私に申し訳ないと思っている、この人の良心に訴えれば!
「私は、真嗣さんとずっと一緒に居たいです! もう二度と私は走れない。あちこち刺された身体はこの先もきっといろんな後遺症を残すんです。そんな私を置いていくなんて、貴方にできるわけない! 私、私……も、上塚の家の人間です。政略だって構いません。お願いです。私と結婚してください! 私を見捨てないで!」
「すみれちゃん……」
真嗣さんは残念そうに私の両手を離して、席を立った。そのスーツの裾を私は懸命に掴んだ。
「君は沙彩じゃない。私は沙彩以外とは結婚できない」
そう言わされているんでしょう? 貴方はきっとあの女に騙されているの! どうしてわからないの?
「私を見捨てるの!? お願いだから私を一人にしないでっ!」
恥も外見もなく叫ぶ。だって今を逃したら、真嗣さんは二度と私と会ってくれない……!
突然ドアが開いた。入ってきたのは沙彩だった。
「呆れ果てた女ね。そこまで増長してるなんて」
真嗣さんは、はっとして、私の手をスーツからさっと振りほどいた。
沙彩はハイヒールの靴音を高く響かせて歩いてくると、私を見下ろし、平手打ちしてきた。
口の中が切れて血の味がする。
私は沙彩を睨みつけた。そして次いで入ってきた靖則を。
「沙彩、話が終わるまで入ってくるなと言っただろう。それにすみれちゃんを打つなんて……。彼女はけが人なんだぞ」
真嗣さんはそう言いながら、私を心配そうに見下ろして頬に手を伸ばしてきた。それなのに沙彩がその手を払った。
「この人の増長を躾ける必要があるのは、今の言葉でよくおわかりよね? 結婚式場の打ち合わせの時間が押してるわ。真嗣さんが頼むから仕方なくこちらへ来たのよ。真嗣さんだけでも先に行ってくださるかしら?」
「沙彩。すみれちゃんはまだこんな風なんだ。これ以上無茶なことや……」
「わかっているわ。それより早く行ってください。貴方のご両親、うちの両親、仲人様、待ってるの」
「わかった……」
どうしてこの女の言うことを何でも聞くの? おかしいわよそんなの! 私の手を振り切るように真嗣さんは、早足で部屋を出ていってしまった。
ぱたんと閉じたドアの音は、幸せを謝絶した音に聞こえた。
くすくす沙彩は笑いだした。
「ふふふ。ねえ……貴女って本当にお馬鹿さんよね。身の程を弁えている辺りお父さんは余程立派だわ」
「私が馬鹿なのは自分が一番良く知っているわ。それより貴女、最初からこのつもりで、私に身代わりを命令してきたのね?」
「そうよ。なんか私につきまとう馬鹿女が居てね。脅迫状やら影口やら不穏な行動がエスカレートするから、私は屋敷に引っ込んで貴女に私になってもらったの。あの女が精神を病んでいることはわかっていたから、周囲は私じゃないってわかってても、あの女は貴女を私と思い込むのはわかっていたから」
「事件を起こすように仕向けたのね……」
「そう。なかなかあの女、実行に移さなくてやきもきしたわ。屋敷にずっと引っ込んでる私のほうが気が参りそうだった。でもあの女はやっと塀の中。うちの権力で、出てこれてもずっと精神病院で飼い殺す予定よ」
「…………」
「ねえすみれ? 貴女、私から真嗣さんを取ろうとしたわね? とってもいけないことだと知っているでしょう? 前世の償いを仇で返そうとするところだったのよ?」
突然、あの刺すような頭痛が襲ってきて、声にならない悲鳴が飛び出す。怖い、痛い、嫌だ嫌だ。
靖則がじっと私を見ている。蛇のような、じっくりと獲物を締め上げていく粘着質な、嫌な恐ろしい目。
激痛に苦しむ私に沙彩は笑いながら言った。
「でも私はとても心の広い妹だから、横恋慕した貴女を許してあげる上に、これからの生活を保証してあげる。結婚だってさせてあげるわ。だってそんな大怪我を負ったんだもの。流石に可哀相よねえ? うふふふ」
「やめて……いや! 痛い、痛いの………」
痛みに震える私を見て満足したのか、沙彩が靖則に止めるように言った。全身汗にまみれ、荒い息を吐きながら私は沙彩を見上げた。
「貴女なんかに、真嗣さんはふさわしくないわ……!」
沙彩は鼻で笑った。
「馬鹿ねえ。それは貴女がそう思ってるだけ。私達はとてもお互いがふさわしいのよ。ふふふ。ねえ、そんな身体ではとてもあの会社で仕事なんてできないわよね? しょっちゅう歩いたり書類を届けるために外出もあるんでしょう?」
「貴女に関係ない!」
「あるのよ。困るのよね、庶子でも一応は上塚の家の者が、他の会社で馬鹿を晒すなんてことは。だから、真嗣さんの会社に入社させてあげる。結婚したら真嗣さんは社長になるの。会社で会うこともあるかもね?」
「……、勝手に決めないで」
「決めるわ。だって上塚の面子に関わるもの。安心なさい。無能な貴女にふさわしい、朝から晩まで簡単なデータを入力をするだけのお仕事。それだけで今の会社の倍のお給料をあげる」
「そんな仕事……」
「そして、この靖則さんと半年同棲して愛を育んで、結婚しなさい。どう? 素晴らしい報酬でしょう?」
ぎょっとして私は沙彩を見、靖則を見た。靖則の目は私を見ていたけれど、蛇のような熱は消え、なんの感情のゆらぎも見られなかった。
冗談じゃない。どうして私が靖則なんかと結婚しなければいけないの?
「靖則さんはとある企業の、オーナーをやっていらっしゃるって、前に言っていたでしょ? 北山には遥かに及ばないけれど、貴女に比べたら財産をたっぷり所有されているわ。がめついあなたには願ったり叶ったりよね? ねえ、靖則さんは、この人のそういう意地汚い所がお気に召したのよね?」
「……ええ」
靖則は冷たくそう言って私に近づいてきてかがみ込み、睨む私の左手を取って口付けた。
「貴女のその身の程知らずなところと、下手に高いプライドをへし折るのが好きでしてね。愛していますよ……ジョゼ」
腐敗した肉を押し付けられた気がして、その手を振り払いたいのにできない。拒絶したら、またあの頭痛で私を懲らしめる気だ。
何も言わない私を諾と取ったのか、沙彩はよかったわと心からうれしそうに笑った。
「おめでとうお姉さん? もう会うことはないでしょうけれどお幸せにね? 私はできた妹だから、会社で真嗣さんとすれ違うことは許してあげる。でも話しかけるんじゃないわよ? だって、貴女は妹から婚約者を奪おうとして失敗した、身の程知らずな庶子の姉って北山の会社で有名なんだもの。貴女自身のために止めたほうがいいってものよ。あはははは!」
ようやく靖則が手を放してくれ、私は逃げることもできず、震えながらベッドに潜り込んだ。恐ろしくて震えも汗も止まらない。
「リハビリも靖則さんがつきあってくださるそうよ? じゃあ私は真嗣さんとの結婚式の準備で忙しいから、これで失礼するわ。ごゆっくり」
扉の閉まる音がしても、私は布団の中に潜り込んだまま動けなかった。靖則が立ち去る気配がしない。早く出ていって欲しい。リハビリなんて一人でやるし、会社だってなんとかしてみせる。誰の力も必要ないし、ましてや結婚なんてしたくない。
上掛けに手の触れる気配がして、大げさに身体が跳ねた。
「そう怯えなくても良い。もう、あの頭痛を起こしたりはしない、さっきのが最後です」
それでも汗は止まらない。ますますひどくなった。きっともっとひどいことをする気だ。頭痛よりももっともっと……。
ドアをノックする音がした。看護師だろう。
果たして入ってきたのはいつもの看護師だった。
「あら今日はここまでいらしてたんですか? 倉橋さんとご結婚されるとか。先程沙彩さんから伺いましたわ。おめでとうございます」
「ありがとうございます」
さもうれしそうに靖則が言う。
「倉橋……あら? どうされたのかしら? 倉橋さん、どこか痛いのですか?」
「いいえ、ちょっと喧嘩してしまって、すねてるんです」
「あらあら早速? 喧嘩するほど仲が良いって言いますわね。邪魔者は退散します」
そのまま看護師は部屋を出ていく。
震えが収まっていく一方で、心が冷たく凍りついていく。ああ、皆、皆、仕組まれていたのか。私が不自由な身体になって、靖則と結婚させられるところまで……!
馬鹿な私は踊らされていただけだった。
私は会社を辞め、靖則と結婚するしかないんだ。
「……貴女の会社へは、さっき、結婚のため退職する旨を伝えてきました」
「…………」
靖則がため息をつくのが聞こえる。
「だから言ったでしょう? いずれはこうなる運命だったのに……。でももう何も心配はない。私にはうるさい親族はいませんから、ずっとあのアパートに住んでいたって構いません」
「…………」
「北山と沙彩は、近々結婚式を上げますが、貴女は出席する必要はありません。貴女は堪えられないでしょう……、式場で、貴女は今度こそ社会的に抹殺されます」
「…………」
何も言わない私に、靖則はずっと話しかけてくる。反抗しないのだから、もう一人にして欲しい。
「ジョゼ。貴女にもともと償うものなどない。レイナルド王子はソフィアと結婚する。前世でもそうだった。貴女の沙彩たち親子への罪はすべて未遂。安心なさい」
「……未遂」
未遂をさもやったことのように言うなんて、どこまでもひどい話だ。私は悔しくて、ぎゅっと口元の右手を握った。
「前世の貴女はレイナルド王子に踊らされていた、可哀想な人形だったんですよ。レイナルド王子は王位に付くために、婚約者として決められていた令嬢ソフィアとの婚約破棄をちらつかせて、貴女に愛を囁き弄び、貴女の魔女としての力を最大限に利用した。ですが、王になるにはソフィア……沙彩の前世の名前ですが、彼女の父の宰相の力が絶対不可欠でした。婚約破棄など有り得ない。貴女は捨て駒にされた挙句殺されたんです」
どちらが被害者なのかわかりゃしない。殆ど思い出せない前世など、私に何の関わりがあるというのだろう。私はただ、真嗣さんが欲しかった。あの優しい人が。その罪だけは私は認める。
「前世でも今世でも利用されて、可哀相ですね。レイナルド王子は北山真嗣、あの人です」
「……うそつかないで」
私は汗で滑った顔を服の袖で拭きながら、上がけから顔を出した。
「貴方がレイナルド王子なんじゃ……」
「違います。私はパザン大佐と呼ばれていた人間で、レイナルド王子の護衛や参謀をしていました」
「だって」
────お前はまるで、夜明けの美しい青に煌めく星。
あれは間違いなく、レイナルド王子だった。それをどうして靖則が知っているの?
「貴女とレイナルド王子が心から結ばれ祝福されることは、未来永劫ないんです。貴女がどれだけ望んでも」
靖則の目は氷のように冷たい。窓の外の降り積もる雪よりも。
その冷たさは私の心を冷やし、諦めへと導いていく。
私の足はもう走ることはできない。致命傷にならなかったものの、付けられた傷は生涯渡って私を苛むだろう。
愚かで馬鹿な私への報奨は、妹の婚約者を取ろうとした姉という汚名と、この榊原靖則。
私を苛むことに歓びを感じる、沙彩と同類の最悪な人間。
だけど、私のような人間には相応しいのかもしれない。
腫れ上がった左の頬に、濡れたハンカチが押し当てられた。
私にとって愛とは、手に入れた瞬間に消えていく幻だ。
そんなものはこの世に存在しない。
だからこそ欲しかった。