あとひとつのキーワード 第13話
退院の日の朝、いつも午後に来る靖則が朝食を取っている間に来た。
「ずいぶん早いわね」
「仕事は休みました」
靖則は私の荷物をちらりと見て言った。殆ど私物など無いのだから、小さなバッグ一つで事足りる。この男がわざわざ来る必要など無い。タクシーで帰ればいいのだから。
「アパートに帰るだけよ」
「部屋は昨日掃除しておきました。貴女は本当に何もお持ちでなくて、気の利いたものは殆ど北山からの贈り物でした」
勝手に合鍵を作って、勝手に人の部屋を掃除するなんて信じられない。私のプライバシーは婚約者という肩書きだけでゼロになるようだ。それ以前から無いようなものだったけれど。
「……それは皆捨てるわ」
「捨てたって北山は貴女のものになりませんよ」
「もう自分のものにしたいとか考えてないわ」
そう言いながらも胸がチクリと痛む。
どうしてあんな最低女を選んだんだろう、真嗣さんは。それが聞きたい。絶対何か理由があるはずだ。
じっと靖則が見つめてくるので、食べる気がせずに箸を置いた。
「少食ですね」
「食べる気が無くなったわ。食べさせたいのなら出ていって」
「どのみち食べないのでしょう?」
看護師達が、逐一私の情報を流しているらしい。まったく、女の集団とは変なところで結束している。男の看護師には、私に誘惑されると困るということで、一度もこの病室でもリハビリでも世話されなかった。
馬鹿げた話だ。真嗣さん以外に誰が誘惑したいと思うものか。下衆な顔と馬鹿な頭で私を妄想しないで欲しい。もっとも、一番下衆で馬鹿なのはこの私なのだけれど……。
看護師たちは靖則が来るとそわそわしている。見かけだけは美しい男だからたまらないのだろう。仕事を疎かにはしていないけれど、私だけの時とは違って、笑顔がとっておきにきらきらしている。結局この女たちも、私から靖則を奪えないかとチャンスを伺っているのだ。同じ穴の狢のくせに私を軽蔑し尽くしているのだから、集団意識とは恐ろしいとつくづく思う。皆でやったら悪くない行為になってしまうものらしい。
靖則が毎日世話しに来るので、看護師たちに、いじめや、適当に扱われることもなかった入院生活だったけれど、温かいぬくもりとも皆無だった。私らしいと言えば私らしい。
看護師たちは靖則を見送るために正面入口まで集まってきて、靖則は彼女たちに丁寧に礼を言って頭を下げた。嬉しそうに挨拶をする彼女たちの目には私の姿はないことにされている。私は無言で靖則の車の後部座席に座り、ドアを閉めた。
やがて靖則が車に乗り、車は久しぶりに見る街中を走り始めた。梅雨空で今にも雨が降りそうだ。
「……その足は、とうとう治らないようですね」
ぽつりと靖則が言う。
「歩けるけれど、走れないそうよ」
「天候が悪くなると痛むとか、聞きました」
「そうね」
曇り空の今日は、鈍く痛む。でも我慢できないほどじゃない。これがこれから一生続くのだ。
「リハビリの病院を変えると聞きました」
「あの病院は、私を嫌っているから」
雨粒が車に当たり始めた。足の痛みは少しだけマシになった。雨が降る前、低気圧が発達し尽くす前が一番痛いのだ。
「どの病院へ行っても同じでしょう」
「へえ、病院同士の横の連携ってわけね」
「沙彩が広めたようです」
「いたれりつくせりね」
雨はあっという間に勢いを増し、靖則はワイパーを回した。
珍しく靖則は煙草を吸っていいかと聞いてきて、私は勝手に吸えばいいと返した。ケントの箱を取り出して一本咥え、靖則は紫煙を燻らせ始めた。
「貴女が来週から勤める予定になっている北山の会社では、貴女の悪評が蔓延しています。注意なさい」
「何に注意すれば良いのかしら?」
「ありとあらゆることに。命の危険は無いと思いますが」
「悪口と、仕事の妨害と、謂れのない濡れ衣と、下手したら強姦があるってことね」
「そう言っては見も蓋もありませんが」
バックミラー越しに見る靖則は、いつもと同じで感情が見えない。
「真嗣さんの会社にも、沙彩の息がかかってるのね。あんな小娘の意向を受けるなんて、腑甲斐ないんじゃないの?」
「私の会社と同じで、資金源が上塚なんです。数年前に潰れかけましてね。当時の役員たちはほぼ責任を取って辞職し、上塚の会社から派遣された人材がそこに入り込んでいます」
「それでもよ。おかしいんじゃないの? あの女のずる賢さは知っているけれど、たかだかお金のためだけにそこまで隷従する?」
日本という国の企業は、実質的に男が実権を握っていると私は思っている。根強い男尊女卑はたかだか100年やそこらでは瓦解しない。
「……そうですね。貴女はそこには深入りしないほうがいいでしょう」
「したくなくてもあの女が向こうから来るのよ。魔女ってのは、あの子の方じゃないの? ジョセフィーヌがソフィアを害したなんて信じられない。あの令嬢の前では無力だったわ」
急ブレーキが突然かかり、前へ嫌というほどつんめのった。幸い前後に車も歩行者もなかったからよかったものの、居たら事故に繋がったかもしれない。
「突然止まらないでよ!」
靖則は車を路肩に止め、私に振り向いた。
「……無力だったと、何故わかるんです?」
靖則の目は、今まで見たこともない激情に覆われていた。真剣の鋭さを思わせる危険な光が瞳に宿り、その威力に圧倒される。シートベルトに阻まれていなかったら、逃げたくなるほど怖い顔をしている。
父も沙彩も怖くないのに、この男だけはやっぱり怖い。震えないようにするのもひと苦労だ。怖がっているなんて思われたくない。弱みを見せたくない。
「何故って……、見たのよ」
「どこで?」
「どこって……、昨日、沙彩に乱暴された時に」
靖則は力任せにハンドルを叩き、車を再発進させた。ハンドル操作にいつもの冷静さはなく、事故に遭わないのが不思議なくらいだ。後ろ姿を見ているだけでわかる、靖則は何かに対して怒っている。
私ではない。私のために誰かに怒っている……。
あっという間にアパートに着き、大雨の中荷物を降ろした。足が傷んで歩きにくいのに、部屋へ急かされ、鍵を開けさせられた。
アパートは昨日靖則が勝手に掃除したので、空気が淀んでおらず、また埃臭くもなかった。
でも、私は玄関で靴を脱いだ途端動けなくなった。
ご丁寧に、六畳一間に布団が敷かれている。
昼間っから靖則は、その気なのだ。この部屋を掃除した時からそのつもりだったんだ。
「早く入りなさい」
「だって」
「その覚悟をする時間は、半年ほど与えたはずですが」
「だからって……」
「往生際が悪いですね」
靖則に部屋に押し込まれ、荷物を置いた靖則に強引に口付けられた。真嗣さん以外は嫌なのに。
唐突に口付けは終わる。息があがった私は靖則を睨んだ。それを靖則は受け流し、先程からのいらだちを隠そうともしない。ギラギラした目で私を見つめ、両腕を離してくれない。
「……貴方は、だって、私を好きでもないんでしょ……。それなのに」
「好きでなくても女は抱けます。貴女だってそうだ。好きな男と結ばれるなんて、金輪際有り得ない。沙彩が居る限り……」
「だって」
「北山以外、皆同じでしょう? 貴女にとって」
靖則は私を布団に押し付け、乱暴に服を剥いでいく。嫌でたまらなかったけれど我慢した。だって、この男は私の婚約者なんだから……。
同じだと言った靖則の目が、とても悲しそうに揺れたから……。
男を初めて知った。
男を受け入れた痛みは想像を絶するもので、あまりの痛さに声を抑えて泣いた。薄い壁のアパートだから、大声を上げたらきっと人が集まってくる。それが嫌だった。
足の痛みなどたいしたことがないと思わせるほどのそれは、靖則の心の痛みと同じだと何故か思った。
「……貴方が、パザン大佐、なの?」
貫かれ、揺さぶられる痛みに耐えながら聞くと、靖則は一瞬動きを止めた。
聞かされた事実の、それは確認だった。どうして聞こうと思ったのか自分でもわからない。
見つめ合った後、靖則は静かに頷いた。
「ああ、そうです」
「レイナルド王子は……真嗣さんなの?」
「そうです」
妙に儚げに微笑む靖則は、己を嘲るようだった。何がそんなに辛いのかわからない。ここまで私を貶めて楽しいはずなのに。ちょっと私が前世のことを口にしただけで、こうも惑乱するなんておかしい。
パザン大佐と正体が割れて、苦しいのだろうか。
わからない。
車からアパートの部屋に入る間に濡れた身体は、僅か数分なのに冷え切っていた。だけど今は酷く暑い。
また前世での映像がよぎる。
精神を病んだのかと思うほど、また鮮明に浮かぶそれは、先日の続きだった。
ジョセフィーヌは誰かに抱かれて同じように熱くなっていた。
やっぱり、暗闇の中だから相手が誰かわからない。
でもきっとパザン大佐だ。匂いが、靖則によく似ている。
ジョセフィーヌはパザン大佐にしがみついて、善がった。王子以外は抱かれたくないだろうに、壊れてしまっているのかもしれない。
「好き、好き……!」
身代わりにされたパザン大佐は何も言わず、優しい愛撫を重ねていく。
「ジョセフィーヌは……、私と同じくらい、馬鹿だったのね」
やっと達した靖則の重みを感じながら言うと、靖則が声もなく笑った気配がした。
「馬鹿なほど純粋で、美しい女でした。貴女と同じで」
雨はやみかけているようで、ぽつぽつと窓に当たる音が妙に温かく聞こえた。
「私が見る夢や映像では、王子とパザン大佐だけ顔が見えないの」
「きっと思い出したくないのでしょうね。二人に殺されたのですから」
私の身体を離し、靖則は手早く私の始末をして服を着せた。とてもじゃないけれど痛くて立てそうもない。そう思っていると、靖則があとで風呂へ連れて行くと言う。
私が初めてみた夢で、確かにジョセフィーヌは二人に殺されていた。そして、二人が綺麗な顔立ちをしていた記憶がある。それを思い出そうとすると、決まって二人の顔はぼやけてわからなくなる。
服を来た靖則が私を起き上がらせて、温かな飲み物が入ったカップを手渡してくれる。私は黙って受け取って、それを啜った。妙に香ばしくて甘い。
飲み物をゆっくり飲み干して、布団に横たわった。靖則が上がけをかけてくれる。
「これで、名実ともに、貴女は私の婚約者です。北山のことなど早く忘れなさい。不幸にしかならない」
「……貴方と居ても不幸だわ」
「それは間違いない」
ふ、と靖則は笑い、食材を買いに行くと言って部屋を出ていった。
身体の痛みと心の痛みで、とても眠れそうになかった。
初めては、真嗣さんに奪って欲しかった。
すべては後の祭りだけれど……。