あとひとつのキーワード 第21話
ものすごい量の前世の記憶がなだれ込んでくる。さすがに辛くてしゃがみこんだ私を靖則が抱き上げて、寝台に腰掛けさせてくれた。沙彩がぎゃあぎゃあ喚いているけれど、結界の中では然程気にならない。
ジョセフィーヌの前世は辛いものだ。
魔力が大きな者が尊ばれる世界でも、差別はある。ジョセフィーヌは貴族の父親が街の女に産ませた子供だった。表向きには貴族の養女を迎えたと言っていたけれど、実際のところは違う……。
貴族は自意識が平民と比較ならないほど高い。そんな彼らが、魔力に秀でているジョセフィーヌに嫉妬して、いじめぬくなど想像に固くない。もっと最悪なのは、正妻の子ども……兄も魔力が秀でていた事だ。まったく無ければそこまでの嫉妬や妨害も、なかったかもしれない。
魔力に秀でた人間を探しているということで、レイナルド王子が屋敷へやって来たのはそんな頃だった。
ジョセフィーヌは馬小屋に閉じ込められていた。それも全裸という恥辱極まるもので、絶対に王子に会わせないという正妻の底意地悪い意思が強く働いていた。服を転送するなどなんでもないことだったが、王子に選ばれるなど恐れ多いという気持ちが大きく、ジョセフィーヌは逆らう気はなかった。
それなのにレイナルド王子は、兄に見向きもせず、もう一人馬小屋に居るだろうと言い当て、パザン大佐に命じて迎えを寄越してきた。パザン大佐は、ジョゼの背中やお腹など、普段なら服に隠れて見えない部分の虐待の跡を見て、全てを悟ったらしい。恥ずかしがるジョセフィーヌに己のマントをかけて、優しく言った。
『王子に仕えないか? このようなところでお前のように美しく、魔力に秀でた女が一生を終えるなど、王子はお悲しみになるだろう』
『家族に反対されております。それに私など……』
『これからは私と王子がお前の家族だ』
パザン大佐が合図を送り、レイナルド王子が瞬間転移で現れた。
『名はなんという?』
美しいレイナルド王子の前で、ジョセフィーヌは蚊の泣くような小さな声で名乗った。
『……ジョセフィーヌと申します』
レイナルド王子は、誰も投げかけてくれなかった温かな微笑みで、ジョセフィーヌを真っ直ぐに見つめ、両手を差し出してきた。
『おいで、ジョゼ』
突然の愛称で呼ばれるそれは、まるで人間が捨て猫に対する動作だったが、ジョセフィーヌにとってはどうでもいいことだった。
初めて優しくしてくれた人間であることに代わりはなく、間違いなくこの辛い屋敷から連れ出してくれる、心強い味方だったからだ。
沙彩が言うほとではないが、ジョセフィーヌは国の法律すれすれの容赦のない魔法の行使を、レイナルド王子に命ぜられるままにやってのけた。
レイナルド王子の政敵を次々と葬り去る手腕は見事なものだったが、敗れた人間の悪意は、実行したジョセフィーヌへ集中する。貴族達の誹謗中傷がいつもジョセフィーヌを傷つけていた。
そのたびにレイナルド王子は、ジョセフィーヌを抱いて慰めてくれ、パザン大佐が悪意のある人々から庇ってくれた。
それが二人の計算とも知らず、ジョセフィーヌは二人に盲従した……。
そんなジョセフィーヌは、ある日、レイナルド王子の婚約者であるソフィアに未来視と遠視の術を伝授された。
ソフィアにしてみれば、レイナルドとパザンの本性を知って、二人の前から去れという無言の命令を下したに過ぎないが、それで二人の正体を知っても、ジョセフィーヌは変わらなかった。いや、変われなかった。
誰からも嫌われているこの世で、自分を必要としてくれたのは、この二人だけで、事実を知ったからと言って二人の前から去るのは、自分の生きる価値が消えるのと同じだったからだ。
去らないと知ると、宰相を初め、他の男たちが次々と求婚してきたが、やはりジョセフィーヌは拒絶した。
二人に比べると、彼らはあまりに魂が汚れきっていた。二人に比べると……だが。
あの処刑された日。
結婚式だと知らされていたジョセフィーヌは目を閉じ、戴冠式を先に行っているレイナルド王子を遠視していた。
ふと細い眉が上がる。
『どういうことだ宰相!』
レイナルド王子が怒っている。パザン大佐がその後ろで拘束され、近衛兵と思われる数人に二人は剣を向けられている。
様々な式典、謁見、舞踏会などが行われる王の間だ。
戴冠の晴れがましい儀式が中断され、レイナルド王子に戴冠しようとする大神官を宰相が止め、近衛兵たちに命じて、そのまま王の座から臣下の席へ引きずり下ろしたのだ。
代わりに戴冠したのは、宰相だった。
王座からレイナルド王子を見下ろし、宰相だった男は愉快そうに哄笑した。
『どうしたもこうしたも、王子、貴方は王子のままで、この先もお過ごしいただく……、貴方抜きの貴族会議が昨夜開かれ、全員一致で承認されたのです』
クーデターだ。
宰相は、レイナルド王子を使って政敵を全て排除し、王弟である身分を利用して国王の位についたのだ。
居並ぶ貴族たちは、誰一人抗議の声をあげない。宰相の手下しか残っていないのだから当たり前だ。
『お気の毒なレイナルド様。あのような娘を后になどとおっしゃらなければ、国王に即位できたかもしれませんのに』
新たに用意された王女の席に座り、優雅に微笑みながら、ソフィアが扇を仰いだ。
『お前は……、隣国のポーム・ドレーの王子に嫁ぐことになり、后は辞退すると数日前に宰相を通して言ったではないか』
『ええ。そうでございます。王女として、これから嫁ぐ予定でございますの。でもね、御土産がひとつ必要になりましたのよ』
『土産だと?』
これから自分が口にする言葉の威力をよく知っているソフィアは、ゆっくりと楽しむように言った。
『貴方の御命か、魔女ジョセフィーヌの命』
衝撃を受けたレイナルド王子は、怒りで全身を震わせた。
『そのようなもの……!』
『貴方もそのおつもりで、処刑の間にジョセフィーヌを住まわせておいでなのでしょう? 魔力の強い者の血を吸って、処刑の間はこの国の繁栄の魔力を放出するのですもの。さ、あの女とご自分の御命。どちらを取られます? もちろん御自分の御命のほうが大切ですわよね……?』
くっとレイナルド王子は唇を噛み締め、拳を握った。見ているジョセフィーヌの心はとても静かだ。もう、わかってしまっているのだ。己のこれからたどり着く先が。
然程迷わず、レイナルド王子は頷いた。
『……わかった』
宰相が得体の知れない笑みを浮かべた。
『酷いお方ですな。あんなに尽くしてくれた女を、あっさりとお見捨てになる』
『あの女と私の命は重みが違う。当然のことだ』
『まあよかった。貴方の妻になれなくて』
ソフィアが同じように笑う。
思いついたように宰相が付け加えた。
『ああ、いきなりお優しいお心が蘇るかも知れませぬので、申し上げておきますが、あの部屋からはジョセフィーヌは連れ出せぬように、魔法が掛けております。無理に連れ出せば死ぬるかも知れませんので、ご注意を』
『そのような面倒事はせぬ』
レイナルド王子は冷たく言い放った。
宰相とソフィアは、二人が何も出来ないとわかっているようで、二人だけでジョセフィーヌの部屋へ行くのを咎めなかった。入り口にも、窓にも、宰相とソフィアの魔法が掛けられている上、それぞれに近衛兵が立っている。万が一にも脱出はあり得ない。
『パザン』
『はい』
扉を前にするレイナルド王子に、その後ろ姿に向かってパザン大佐が頷く。兵たちはそれを、パザン大佐が暴発するのを止めているのだと思った。
ジョセフィーヌはそこで遠視を止めた。
入ってくる二人の前で、白い簡素な衣装で出迎える。花嫁衣装なのだと朝に来た侍女が言っていた。
扉が閉まるなり、パザン大佐がジョセフィーヌを羽交い締めにし、レイナルドは剣を抜いた。
ああだめだ。それではレイナルド王子もパザン大佐も、己の血でけがしてしまう。
二人の負担にはなりたくない。自死を試みたジョセフィーヌは神経を手のひらに集中させて、魔力を溜めようとした。
『きゃあ!』
次の瞬間、部屋の床一面に魔法円が浮かび出て、ひどい逆戻りが起きて身体中に痛みが走った。
封じの魔法円だった。
『おとなしく運命に従いなさい。ジョゼ』
パザン大佐の冷酷な腕が、ジョセフィーヌをレイナルド王子に向かわせる。
ジョセフィーヌは涙を流した。
ああ本気なのだ。
本気でレイナルド王子は自身の手で、ジョセフィーヌを殺そうとしている……。
『愛しているというのは、嘘だったのですか……?』
嘘だったとわかっていながらも、それでもジョセフィーヌは聞きたかった。
レイナルド王子の美貌は何もうつさなかった。感情をすべて殺している彼は、大理石の彫像のようだ。
『いいわ。死んでもかまわない、でも、どうして結婚式だなんて嘘をついたの?』
最初から言ってくれていれば、ちゃんとその手順を踏んで死んで見せて、レイナルド王子の手を汚すことはなかったのに。
『もう話すな』
レイナルドがそこで言葉を初めて発し、同時に剣で深々とジョセフィーヌの胸を貫いた。
剣はゆっくりと抜かれていく。
真っ赤な血が迸り、口腔内にも血が上ってきて、ありえない量のそれをジョセフィーヌは口から吐き出した。
パザン大佐の腕は緩まない。倒れることすら許してくれない。
魔女であるジョセフィーヌが、最後になんらかの呪いを施すのを警戒しているのだろう。
傷口が痛くて熱い。
同時に手先も頭も重たくなってくる。
床へ血が広がるほど重だるさはひどくなり、ジョセフィーヌはじっと自分を見ているレイナルド王子から床へ視線を降ろした。
『……そんなに私を、お厭いでしたか……? 死ねと……命令をくださった、な、ら……、す……ぐに死にましたのに…………』
涙が一筋伝って落ちていく。何十倍もの赤い血が床に広がっているのに、その涙は嫌に煌めいて見えた。
『す…ぐに』
こんなだまし討ちの、用意周到な処刑を仕組む必要もなく、どこかの山奥でひっそりと死んだのに。処刑の間の人柱による国の繁栄呪法など形骸化しているものだと、この部屋がジョセフィーヌにわざわざ教えてくれたのだ。王家の人間が発動すればどの場所でもできるのだと。
ただ、ただ、己に命じてさえくれれば!
パザン大佐の腕がようやく緩み、ジョセフィーヌを床の上へ横たわらせる。
顔を覗き込むのは、死んでいくのを確かめるためだろう。
とても、それが悲しい。
身体から開放され、ジョセフィーヌは魂の状態でふわりと部屋の隅に立った。
二人は、死んだジョセフィーヌを寝台に優しく寝かせた。
『王子……』
『これが、身勝手な私にくだされた天罰だ。私は、ずっとジョゼを都合のいい女だと思っていた。だがそうではなかった。宰相に裏切られた今、気づくとはな……』
レイナルド王子の涙が、ぽとりと死んだジョセフィーヌの頬に落ちた。
予想外の言葉がレイナルド王子の口から飛び出し、ジョセフィーヌは驚いた。何かが違う。
パザン大佐は沈痛な面持ちで瞳を揺らした。
『お気づきでなかったのですか? 彼女を愛されている御自分に』
力なくレイナルド王子は頷いた。
『気づいて……いなかった。ジョセフィーヌを繁栄魔法の生贄として住まわせたものの……ずっと決心がつかなかった。今日こそは、明日こそはと思いながら、どうしてもできなかった。ジョゼの汚れなき、疑いを知らない目が、私の野望をいつも挫かせて……』
血に濡れた剣を、再びレイナルド王子は握った。
『すまないが、先に逝ってジョゼを護ってやってくれ』
『……やはり御自分が身代わりになるのですね』
『宰相の望みどおり、私の生命を断つ。この処刑の間の生贄として。この国の繁栄のために。あの者たちが好き勝手に国民を支配しないよう、黄泉の国から制御する』
『100年もの間、貴方はここに縛り付けられるのですよ?』
レイナルド王子の顔は、とても清々しいものだった
『ジョゼにかけようとしていた呪法を己にかけるだけだ。私は、そんな辛い年月をジョゼに科すところだった』
『私が代われるものでしたら……』
『なに、来世までの間だけだ。100年などすぐに過ぎよう』
レイナルド王子の剣が今度はパザン大佐の胸を真っ直ぐに貫いた。
魂の状態のジョセフィーヌの悲鳴は、二人には届かない。
剣が抜かれ、胸から血が滴り落ちていく。血を流しながら、パザン大佐はレイナルド王子に縋った。
『天国で、ずっと……お待ちしております』
『ああ』
崩れ落ちながら、パザン大佐は涙を流した。
『……ジョ……ゼも』
にこりと微笑み、パザン大佐も息絶えた。
レイナルド王子は、そっとその遺体に己のマントをかけてやり、寝台に腰掛け、横たわる美しいジョセの頬を、愛おしさを込めて優しく撫でた。
『ジョゼ。愛している……。私の、夜明けの美しい青に煌めく星』
最後までお前の目は美しいままだったと、レイナルド王子は呟いて、想いを断ち切るかのように立ち上がり、宰相とソフィアが居る方角を強く睨んだ。
『国王に見合う政をするよう、黄泉から制御してやろう。今のうちに喜んでおくことだ』
繁栄の魔法の陣を描き、その真ん中に立って詠唱を始める。
やめてとジョセフィーヌは懸命に叫ぶのに、やはり届かない。
レイナルド王子は長い詠唱を終えると、剣を己の首に当てて命を断った。