ディフィールの銀の鏡 第03話

「やれやれ……最後まで解くつもりはなかったのに」

 ジュリアスはそう言いながら、解けてしまった髪を再び後ろに纏めた。ジュリアスが万梨亜の腕を放したせいなのか、あんなに光っていた魔力の石は輝きを鎮めて行き、部屋に入った時と同じように灯りの光のみになった。

「殺されますか?」

「そなたは直ぐに極端な事を口にする。そなたは魔力の石がどういう類のものか存じておるのか? 大事にしこそすれ、殺す馬鹿者はこの世界にはおるまいよ」

 くすりと笑い、ジュリアスはいきなり万梨亜を抱き寄せた。

「なっ……」

「魔力の石があろうがなかろうが、こんなに美しい女を誰が殺すか……」

 熱っぽい目をした美しい顔が近づいて、素早く唇が奪われた。それはほとんど一瞬の触れ合いで、すぐにジュリアスは万梨亜を放したが、万梨亜の驚きはかなりのもので、本棚にべったりとはりつくように後ずさった。

「……醜い男に口付けされるのは嫌だろうから、ずっと我慢していた。この姿なら唇を拭かずとも良かろう?」

「うぬぼれが強いのではないかと……」

 万梨亜は手の甲で唇を拭った。僅かに顔を赤くはしているが、それはうれしいからではなくて怒りからくるものだった。睨みつける万梨亜に涼しい視線をジュリアスは注ぎ、ドアの取っ手に手をかけた。

「この部屋の本は好き勝手に読むがいい。……あと、仕掛けるのなら早いうちがよいぞ。時間が過ぎれば過ぎるほど、そなたの敗色が濃くなっている」

 言われなくても万梨亜は、唇を奪われた事で実行を早める決断をしていた。部屋に取り残されて、そのまま椅子に座り込み、先程ジュリアスの唇が触れた自分の唇を指でなぞった。

「奴隷を相手に、いつも主人達はこのような事をなさる。ジュリアス王子もそのような方なのね……」

 惹かれてはならない。

 万梨亜は自分をきつく戒めた。

 次の日から、ジュリアスは万梨亜に魔法をかけなくなったので、万梨亜だけがあの麗しい王子を見る事になった。彼の魔力はかなり半端なもので、彼以上の魔力が持つ者が現れるとたちまちすべてがバレてしまうらしい。

「自分より上位の者が居たら、どうなさっているのですか?」

 万梨亜はタマネギに似たような野菜を包丁で刻みながら、卵を浅い鍋で焼いているジュリアスに話しかけた。

「余より上の魔力を持つ者は、この国には存在せぬ」

 この程度で最強を誇るとは、ディフィールの国運も先が知れている。万梨亜が知るところでは、ケニオンにジュリアスの十倍以上の魔力を持つ者が何人も居る。

「でも、他の国から来たらいかがされるのですか? 奴隷ごときに露見しておりますのに」

 ジュリアスは皿に卵を盛りつけ、空いた浅い鍋に様々な野菜を入れて炒め始めた。

「……その時は、いかにしようか? 万梨亜、そなたはどうすればいいと思う?」

 困った問題をふられて万梨亜は困った。切った野菜に味を付けた。

 それにしても困った王子様だ。

 雑用は万梨亜がすべて致しますと言っても、頑として自分がするのだと言う。皆されてしまっては私は仕事がないと言うと、ようやく軟化した。だが軟化しただけで、結局雑用の主導権は彼が握っている。万梨亜はあくまで助手なのだ。

 彼にとって万梨亜は奴隷ではなく、同居人らしい。そして家族だと言う。王族の家族などとは恐れ多くて困るのだが、主人が望む事なのだからそれに従うしかなかった。

 こんなに身分制度がはっきりしている異世界で、彼のような人物はいないだろう。

 完全にいいようにおもちゃにされていた万梨亜を、救い出してくれた人が……。

(いいえ)

 万梨亜は軽く首を横に振った。

 これは駆け引きなのだ。敵同士でこんなふうに仲良く見せかけて、内心ではいつ計画を実行するか、じっと見計らっている。

「さて、できたことだし食べるか」

 ジュリアスが前掛けを外して、万梨亜に笑いかけた。

 

 食卓もお茶もジュリアスと同席している。こんな事をする王族はこの異世界では彼だけだ。場所はこの世界の一般の農家のような感じなのだが、ジュリアスは王子だけあって品というモノが半端ない。気高いオーラがばしばし出ている。ケニオンでも同じような状況下にあった。ケニオンでは、いつも緊張して食べていた。それなのに、ジュリアスは緊張というものを取り払う雰囲気の持ち主で、気高くはあっても緊張は強いられない。それがジュリアスの作戦なのかどうかはわからない。

「……来た」

 唐突にジュリアスが言った。万梨亜が料理から顔を上げると、険しい顔をしている。音もなく立ち上がり、ジュリアスは万梨亜に決して出てこないように言いつけ、厨房から出て行った。

 一体誰が来たのだろうか。

 万梨亜はこっそりと騒がしくなっている玄関口をのぞいて、見なければ良かったと激しく後悔した。

 なんと王太子テセウスがキラキラしい格好で立っていた。その後ろを従者たちが着飾った軍服で控えている。

 それに対しジュリアスは一人で王太子に応対している。衛兵たちは王太子一行に押されて、遠巻きに見て様子を窺っているだけだった。衛兵たちはジュリアスを護る為に居るのではないのだろう。

「マリア王太子妃の望みであっても駄目だ」 

「何故万梨亜に会わせてもらえないのだ? あれは確かに貴方の奴隷だが、我々への貢ぎ物でもあるのですがね?」

 テセウスは尊大な言い方をしている。彼の目には、兄のジュリアスは醜い何もできない鼻つまみ者なのだろう。しかしジュリアスは首を横に振る。

「できかねる。そうそうに立ち去るがいい」

「たいそう気に入ってしまわれたか?」

「そなたには関係ない。このような所にいつまでも居ると、陛下にとやかく言われよう」

「その陛下の望みだと言ったら?」

「それでも断る」

「陛下の命令を断る事は、反逆と同じだぞ」

 ジュリアスの青い瞳に青い炎が燃えた。

「そなたは嘘を言っている。陛下はそんな命令は下されてはいない」

 舌打ちしたテセウスは、覗き見ている万梨亜に気付いた。つかつかと歩み寄って来て、強引に玄関前まで引きずり出した。

「お前もこのような醜い男と一緒に、居たくないだろう? 私と一緒にくればマリアにも会えるし、お前には身に余るほどの生活を与えようぞ?」

 万梨亜はテセウスの目を見てぞっとした。人間蔑視が横溢している嫌な眼差しだ。万梨亜が思わず睨むと、テセウスは顔を歪めて万梨亜の頬を打った。

「何をするか!」

 ジュリアスが怒り、倒れた万梨亜を抱き起こしてくれた。

「人の奴隷に勝手に手を上げるとは、思い上がりもほどほどにするといい。このような狼藉ぶりを見せられては、ますます万梨亜をそなたの所へはやれぬ。立ち去れ!」

 滅多に怒らないと有名なジュリアスに怒鳴られ、テセウスは鼻白んだ。だがどこまでも兄を馬鹿にしているような眼差しは変わらない。

「何度でも来ますよ。貴方が執着されるその女に興味が湧きました……」

 そして万梨亜を見てふんと鼻を鳴らした。

「お前も薄情な女だな。親友のマリアが逢いたがっていると言うのに。そんなに自分が奴隷で彼女が王太子妃だというの妬ましいか」

「……!」

 嫌な笑いを浮かべてテセウスは去っていった。しばらくそこに立っていた万梨亜は、ジュリアスに促されて館の中に入ろうとした時、衛兵たちが言った。

「あの女も馬鹿だな~。テセウス様の所へ行けば贅沢し放題なのに」

「親友が王太子妃だから悔しいんだろうな。意地汚い根性だぜ」

 万梨亜はぼんやりと、そうかもしれない、自分はマリアが妬ましいのかもしれないち思った。

 マリアは万梨亜と違って学校でも会社でも人気があった。そして万梨亜が好きだったあの人も、マリアに心を奪われてしまった。

 マリアは自慢の友達だった。二人はいつでも一緒だった。学校も会社も……家も。

 万梨亜の母親は、マリアの家に雇われている住み込みの家政婦だった。

 マリアは万梨亜を友達と言ってくれて、とても優しくしてくれた。しかし、王宮での彼女の態度を思い返すと、友達と言ってくれたのは同情か何かで、本気ではなかったのだろうと嫌でも気がつく。そう思っても万梨亜はどうしてもマリアを信じたいち思った。あんなに冷たいマリアが本当だとは思いたくないのだ。

 すっかり冷めた料理が置かれている厨房へ戻った時、ジュリアスが目にキスをしてきたため、びっくりして万梨亜は乱暴にジュリアスを押しのけた。

「な、な、何ですか!」

「悲しそうにしていたからな」

「……悲しくなんか……」

 言った後から、涙が青い光を放ちながら、ぽろぽろと厨房の床に落ちていく。落ちると光は消えていった。

「お前はマリアが好きだったのだろう? お前がマリアの所へ行かないのは、変わってしまった彼女を見るのが辛いからだ。悔しいわけではない」

 ジュリアスが優しい笑みを浮かべて、万梨亜の涙を指で拭う。マリアとの関係までばれている。この青い瞳はどこまで見通しているのだろうか。魔力の小ささの割には、見えすぎていて、なんだか釣り合わない

「出てきてはならぬと言ったのに……」

「王子が心配で」

「それでそなたが暴力を振るわれたのでは、立つ瀬がない。少し腫れているぞ。治してやる」

 優しい気が頬を包み込み、痛みが引いていった。

 万梨亜は優しい人間が嫌いだ。いじめられたり馬鹿にされるのには慣れているが、優しくされるのには慣れていない。熱いものが胸を張り裂けんとばかりにこみあげてきて、我慢できなくなってしまう。

 ジュリアスの優しさは万梨亜には猛毒だ。これ以上近寄ってはならない。

「申し訳ありませんが、一人になりたいので……」

 万梨亜はジュリアスの胸を押し返して自分の部屋に入り、寝台に突っ伏した。

 いけない、駄目だ。

 自分には心に決めた男性が居る。

 この世界に来て初めて優しくしてくれた、万梨亜の最愛の男。

 ケニオンの王子、デュレイス。

 漆黒の髪と瞳を持つ、端正な顔立ちの優しい彼は、国一番の剣の使い手でもあり、魔力の持ち主でもある、素晴らしい戦士だ。

 万梨亜はデュレイスに懇願されて、この国にやってきた。

 ” 真実の眼 ” を持つ、ディフィールの第一王子ジュリアスをケニオンへ誘拐してきて欲しいと ―― 。

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