ディフィールの銀の鏡 第07話

 万梨亜はデュレイスの館の廊下を、一人で雑巾がけさせられていた。

 

 ケニオンに帰ってきてからもう一ヶ月が経つ。デュレイスは奴隷の身分から万梨亜を解放したつもりらしかったが、現実は以前よりひどくなっている。以前の万梨亜の仕事はデュレイスの身の回りの雑用と部屋の掃除だったのだが、すべてそれから外され、男奴隷五人がかりでする館の掃除を一人でやらされ、ヘレネーの服の洗濯までまかされている。

 冬に入ろうとしているケニオンで、冷たい水を使っての掃除はかなり辛かったが、万梨亜は奴隷で従うしかないため従事していた。

「万梨亜、そこが終わったらヘレネー様のご衣装の洗濯よ。早くしないと日が暮れるわ、まったくとろくさいんだから!」

「すみません」

 ヘレネー付きの侍女は横柄に言うだけ言って、そのまま立ち去った。万梨亜は一心に床を拭き、終わる頃にはもうお昼が過ぎていた。ご衣装を早く洗って干さないと、今日中に乾かない。万梨亜は大慌てで王宮の東側にある井戸にご衣装を持っていって、井戸から重い桶を持ち上げてたらいに水を汲み、洗濯を始めた。建物の外は身体に凍みいるような風が吹いていて、真冬の到来を感じさせた。

「痛い……な」

 万梨亜はしもやけとあかぎれで赤くふくれあがった手のひらを見て、泣きそうになるのをこらえた。ジュリアスに無理矢理はめられた指輪も、持ち主の体調に変化させられるのか、どす黒く炭のような色になり、元の光輝く銀色でなくなってしまった。

 ジュリアスは地下牢にずっと閉じ込められている。大丈夫かどうか心配で何度か塔の近くまで万梨亜は訪れたが、監視する兵達にいつも睨まれるだけで様子を伺う事はできなかった。塔の地下牢に居るジュリアスは、地上にいる万梨亜よりずっと辛くて劣悪な環境に居る事は間違いない。ディフィールは南の国だったので、ケニオンの寒さは耐え難いだろう。食事はちゃんと支給されているのだろうか……。

 デュレイスは今ケニオンにいなかった。国王の命令で西のサーミに戦争に行っているのだ。彼の正妃ヘレネーは、デュレイスの側妃になった万梨亜にとても親切にしてくれていたのだが、デュレイスがいなくなった途端、奴隷の様に扱いだした。万梨亜より少し年下の可憐な少女を思わせていたヘレネーは、恐ろしい女主人に変貌した。

「何故お前ごときが側妃なわけ? 異世界の娘のくせに」

 側妃にあてられる豪華な部屋から引きずり出され、最下級の奴隷達が住む小屋に放り込まれた。

 それだけではない。

 ヘレネーは魔力の石の持ち主であると同時にその力を自ら操れる。変化の呪文がいくつも織り込んである魔法を使って、万梨亜をやせ細った醜い女に変えた。

「その髪もぼさぼさでみっともない。切っておしまい」

 腰まであった黒髪も、侍女達によって坊主に刈り上げられてしまった。無惨な姿になった万梨亜を満足そうに見下ろし、ヘレネーは残酷に笑った。

「デュレイス様がお戻りになっても、お前など近づけさせはしないわ。お前は一生最下層の奴隷として生きるのよ! ほほほ……」

 万梨亜はご衣装を洗って干し、やっと自分の部屋に戻る事ができた。部屋の中にあるのは木の椅子とテーブル、地べたに直接敷いてある落ち葉の布団だけだ。本当にひどい有様だが、一人になれる場所があるのはありがたかった。

 固いパンと冷たいスープが置かれていたので、それを食べて空腹を満たした。食事は一日にこれ一回で、万梨亜は枯れ木のような容姿にされていたのに、さらに痩せてしまった。この容姿は一ついい事があった。男達の慰み者になる危険がなくなったのだ。だれもこんな貧相すぎる女に手を出したくはないらしい。

 石造りの壁から冷たいすきま風が入ってくる。奴隷達には火も支給されない。万梨亜は寒さに耐えがたくなって、落ち葉の中にもぐりこんだ。

(王子にちゃんと布団があればいいのだけれど……)

 またジュリアスの心配をしている自分に、万梨亜は一人苦笑した。デュレイスを愛していたはずなのに戦場に行っている彼の事は全く心配せず、牢に閉じ込められているジュリアスばかりを心配している。

 僅か数日過ごしただけのジュリアスの色に、万梨亜は染め上げられてしまったのかもしれない。優しいくせに意地悪で、勝手に自分を奪って妻にするような卑怯さを持つ一方で、戦争が無い平和な世界を望むおかしな王子。

『万梨亜、そなたは余の為に生まれてきた女だ』

 万梨亜は嫌われこそすれ、あれほど真剣に一途に想われた事は一度も無い。デュレイスの愛を疑うわけではないが、沢山の女の一人より、一人の女として愛してくれる(?)ジュリアスに、心を傾けてしまうのは仕方が無い事だった……。

 数刻ほど眠っていたらしい。わあっと歓声が王宮の方角から聞こえ、その声で万梨亜は目覚めた。小屋の外で男の奴隷達が、デュレイスがサーミに勝利し、凱旋してきたと叫んでいる。

 そうか、ちゃんと帰ってきたんだ……と万梨亜はホッとした。こんな惨めな姿にさせられたので会いたいとも思わない。また眠りにつこうとした時、部屋の戸がどんどん叩かれた。

「万梨亜、いるのでしょう?起きなさい!」

 その声はヘレネーの使いの少女の声だった。万梨亜は落ち葉のベッドから這い出て、落ち葉を落としてからドアを開けた。ヘレネーと同い年の少女は、貧相で汚い格好の万梨亜を見て顔をゆがめた。

「ヘレネー様がお呼びよ。そのままで構わないからいらっしゃい」

「え? でも……」

「とっととなさい!」

 急かされた万梨亜は、デュレイスの館にあるヘレネーの部屋に連れて行かれた。万梨亜を寄せ付けようとしないヘレネーだったのに、一体何の用があるというのだろう? 華麗な館の廊下を掃除時間外に歩くと、身分の高い女達が扇で口もとを隠して、眉をひそめる。万梨亜は短く刈り上げられた髪とぼろぼろの灰色の服がみじめで恥ずかしかった。

 ヘレネーの部屋のドアの前で、使いの少女が中にいるヘレネーの侍女に声をかけた。

「お召しの者を連れてきました」 

「お待ちかねよ、お入りなさい」

 入る様にうながされ、おおよそ場違いな豪華なヘレネーの部屋に、万梨亜は足を踏み入れて戦慄した。そこには変わらない凛々しさのデュレイスが、赤いビロードのソファに腰を下ろしていた。横に美しく着飾ったヘレネーもいる。ヘレネーは万梨亜を見て優雅に笑った。

「一応ご紹介しておきますわ。彼女はマリアと申しますの。私の郷の家に仕えていた奴隷なのですけれど、もっとお金が欲しいとか申しましたので、王宮の部屋の掃除や洗濯をさせております」

 唇をかみしめて万梨亜は俯いた。デュレイスは万梨亜をさも汚いものがいるという風に、ちらっと見ただけで片手を払った。下がれという意味らしい。ヘレネーはその様子を見て満足そうに微笑み、扇で口元を隠した。

「万梨亜は何故いないのだ?」

 万梨亜はそのデュレイスの声にぎくりとした。しかしもうデュレイスの目は万梨亜には向いていないので、その万梨亜に気づいたのはヘレネーとヘレネー付きの侍女だけだった。

「マリアはデュレイス様が遠征に行かれてから逃亡しましたの。奴隷の男と一緒だったそうですわ」

「まさか……」

「ディフィールの王太子妃様が、軽蔑されただけありますわね。異世界の人間で同じ発音の名前でも、マリア王太子妃は気高い精神と容姿に恵まれた方、一方の万梨亜はデュレイス様を捨てて、奴隷男などと行方をくらます恥知らずですもの」

「何故そんな事を! ヘレネー、そなたは何故もっとしっかり見張らなかったのか?」

「だって、それはそれは巧妙にここを抜け出したんですもの。私みたいな世間知らずではとても」

「…………」

 意地の悪い視線を背中に浴びながら、万梨亜はとぼとぼと部屋を出た。

 デュレイスは万梨亜に全く気づかなかった。あんなに愛してくれた彼だから、きっとこんな自分でも気づいてくれると思っていた。彼の魔力はケニオンで一番強大ではなかったのだろうか? わかってはいる。彼にとって自分は沢山居る女の中の一人で、居なくなったら補充される存在なのだから。奴隷の身分で、元の世界と同じように一人の女として愛されたいと思った自分が愚かなのだから。

 ひどいショックに苛まれながら、雪が舞い始めた外に出て、自分の小屋に戻りドアを閉めた。

「……それでも見破って欲しかったな」

 涙が一筋、俯いたマリアの頬を滑り落ちていった。

 自分に容赦なく襲いかかる孤独感が、過去の辛い記憶を甦らせた。人によってはいつまでも覚えているとは、なんと暗い人間だと笑われそうなものだが、万梨亜の心に染み付いたそれは未だに取れずどす黒く居座っている。

 小学校の昼休み、同じクラスの女子だけで『花いちもんめ』をすることになった。

 ――あの子が欲しい。じゃんけんぽん! わーいマリアちゃん欲しい。

 

 クラスメイトの誰からも好かれているマリアが真っ先に指名された。マリアは万梨亜の手を離して、残念そうに相手側の女の子と手を繋いだ。端っこの万梨亜の片手は同じ組の子の手と繋がれる事は無い。万梨亜はただ繋いでいる振りをして、動きを合わせるだけ。

 ――負けて悔しい花いちもんめ。

 同じ組の女の子達は次々に相手方にとられていく。だれも万梨亜を欲しいとは言ってはくれない。最後の一人になった時、必ずこう言われるのだ。

 ――もう花いちもんめ止めよう? 取りたい人いないし。

 運動会のチーム決めで、同じチームになった男の子達が嫌そうに言う。

 ――万梨亜と同じチームかよ、ちぇ! またリレーはビリだぜ。お前走ってるのと歩いているのと同じだからな!

 ――迷惑なんだよお前、運動会なんて休めば? 足手まといなんだよ。

 万梨亜は走るのが遅かった。だからそう言われるといたたまれなくて、ただ消えてしまいたいと思いながら俯く。運動会も体育も大嫌いだった。だが出ないとマリアや、やさしくしてくれるマリアの父である旦那様が寂しそうなので、いつもなんとか頑張っていた。

 マリア以外に友達がいない万梨亜は、グループ活動や団体行動が苦手だった。容姿がどこか日本人離れして、ハーフのような感じだったせいもある。青白い肌の茶色の色素の薄い目は気持ち悪いとよく言われた。

 ただ髪の毛だけが美しいと言われ、まるで源氏物語の末摘花のようだと中学生の時思っていた。

 母子家庭で世間体を重んじる母の為に、いつも我慢して学校に通っていた。だがそれだけだったら我慢できなかっただろう。我慢できたのはマリアがいてくれたからだなのだ……。 

 ――止めなさいよ! 万梨亜を悪く言うと許さないんだから!

 ――もう、マリアちゃんたらなんでそんな子庇うのよ。変なの。ほっときゃいいじゃん。

 ――万梨亜は私の友達なんだから!

 しかしマリアは変わってしまった……。母も死んだ。万梨亜は本当にひとりぼっちだ。この異世界でデュレイスという愛してくれる人が見つかったのに、その人にも見捨てられてしまった。

「……だから王子に縋るなんて、厚かましい」

 万梨亜は涙を手の甲で拭った。きっとジュリアスは魔力の石が欲しいだけなのだ。自分を美しいというのは黒髪が珍しいだけで、本心ではないだろう。

「あの魔術師みたいな男の誘惑に、乗った私が馬鹿だったのよね……」

 この世界に来たきっかけの夜を、万梨亜は思い出した。

大好きなマリアが、万梨亜が恋していた取引先の男性を自分の恋人だと紹介した夜、ひとりぼっちのアパートの部屋でぼんやりとしている所へ、その魔術師は現れた。

『お前、この世界にいるのは苦しかろう? お前を待っている人間がいる世界に行ってみないか?』

 黒いフードを深くかぶったその魔術師は、部屋にいきなり現われた人間に驚く万梨亜に話しかけた。驚くに決まっている、アパートの部屋がいきなり真っ暗闇の見知らぬ空間に変わったのだから。

 でも不思議に、その魔術師の姿は暗闇の中で明るく浮かび上がっていた。

『虐げられ、鼻つまみ者にされ、辛くはないか? 全てお前が望んでそうなったわけではないのに……。美しくて賢くて明るいマリアと常に比較されて辛いだろう? 彼女から解放されたくはないか?』

 

 万梨亜は目を見張った。この男には何もかもが見えているらしい。夢かと思いながら、万梨亜は小さく呟いた。

 

「そんな事……思ってないよ。マリアは友達だもの」

『お前が恋していると知っていてあの男を恋人にしたマリアだ。憎くはないか?』

「マリアは優しい人よ! そんな事するわけない」

 マリアだけが万梨亜の味方だった。万梨亜はマリアの恋人になった男がマリアを独占するのが許せなかった。醜い心が湧き上がるのを必死に万梨亜は押さえようとしたが、どうしてもできなかった。胸の奥が熱い。

 それを見抜いた魔術師が、誘惑の声に変えた。

 

『お前が望むなら、マリアも一緒に連れて行ってやろう』

「本当?」

 惨めな万梨亜を誰も知らない異世界に、マリアと二人で行けると万梨亜は心躍った。

 魔術師がうすく笑った気がした。魔術師の合わせられた手のひらに虹色の光の玉ができ、大きくなっていく。やがてその虹色の光の玉は万梨亜の方へ転がってきて、万梨亜を吸い込んだ。虹色の輝きが眩しくて万梨亜は目を瞑る。真っ暗闇の世界からどこかへ誘われようとしているのが分かった。遠のいていく意識の中で魔術師の声が微かに聞こえた。

『……だが、お前はそこでマリアの正体を知るだろう。魔力の石をもつ乙女よ』

 そして意識を取り戻した万梨亜は、ケニオンの王宮の中で倒れていたのだった。空間が歪んだ中から万梨亜が現れたのを見ていた人間が大勢いて、得体が知れぬ異世界の娘という事で奴隷にされた……。異世界から迷い込む人間は珍しい事ではないらしいが、ケニオンはそれらの人間全てを奴隷にしてしまう。そして今に至るのだ。

「どこに行っても同じじゃない。私は……。おまけに何も関係ないマリアを巻き込んで、こんな目に遭っても当然だわ。でも、でも……」

 こんな事なら、もとの世界の方が遥かにましだったのかもしれない。弱虫で臆病で、今の境遇を人のせいにばかりする自分に、万梨亜は嫌気がさした。

 夕方になった。万梨亜はヘレネーのご衣装をたたみ、ヘレネーの部屋の隣の侍女の部屋に行った。しかし、横を向きながらおしゃべりをしていたご衣装係の侍女は、ご衣装を取り損ね、テーブルの上に置かれていたお茶のカップの上に落としてしまった。ご衣装に飲み物がかかって茶色の染みができ、その場に居た者全員が顔面蒼白になった。だれもが女主人のヘレネーを恐れているのだ。

 受け取り損ねたご衣装係の侍女は、責任転嫁をして激しく万梨亜を責めて詰った。

「貴女なんて事するのよ!」

「今すぐ洗ってきます。お許しください」

「落ちるわけ無いでしょう! どうするの」

 騒ぎを聞きつけたヘレネの第一侍女がやってきて、万梨亜が手にしている汚れたご衣装を見て顔を青くした。

「なんてこと……。そのドレスはヘレネー様のお気に入りなのに……!」

「万梨亜がやったのよ。私が受け取ろうとした時にはそのシミがついていたわ。その部分を隠して私に渡そうとしたんです。私に罪をかぶせるつもりで!」

 身分制度がこの異世界では重く存在しているため、ご衣装係の方の意見が重視される。最下級の奴隷の言う事など誰も信用してくれない。だから万梨亜は何も言えずに黙っていた。

 侍女は重々しく言った。

「……ヘレネー様に謝罪なさい、万梨亜」

「はい……」

 万梨亜はかぼそく返事をして、その侍女とヘレネーの部屋に入った。

 お気に入りの衣装を台無しにされたヘレネーは、烈火の如く怒った。

「万梨亜、お前は地下牢へお行き、あの暗闇の中で当分過ごすが良いわ!」

「そんな……」

 地下牢は男の囚人が入るところだった。女の囚人は地上の牢に皆入る事になっているにも拘らず、万梨亜をいじめる格好の言い分ができたヘレネーは、意地悪くそう言い渡した。そして微笑みながら豪華な椅子に座り、優雅に扇を開いて静かに口元を覆った。

「本当なら目をえぐり出してやるところだわ。はやく連れて行きなさい。その姿は誰が見ても反吐が出そうよ。私が言いというまで絶対に出しては駄目よ。わかったわね」

 侍女達は女主人の言葉に震え上がった。だが誰も万梨亜の弁護はしない、そんな事をすれば自分達まで同じ目に遭う。実際ヘレネーがここに来た時から、幾人もの侍女や奴隷達が悲惨な目に遭って辞めたり、牢に入れられたり、家族を殺されたりしているのだ。

 侍女達が地下牢の兵士を連れてきた。兵士は二人で万梨亜の両脇を抱えて歩き出す。ヘレネーのあざ笑う残酷な声が背後から響いてきた……。

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