ディフィールの銀の鏡 第09話

 ある日、ジュリアスがどこからか馬を調達してきた。王子様定番の白馬ではなく、真っ黒な強そうな感じのする馬だ。馬具も質素そのもので、太陽の光を受けて銀色に輝くかに見えるジュリアスとは、おおよそ釣り合っていない。

 兵士達は休憩中で家の表には誰もいなかった。相変わらずいい加減な連中だ。主人が出かけようとしているのに、見送りにも供にも出て来ない。でもやはりジュリアスは涼しい顔をしていた。

「どちらか、行かれるのですか?」

「近くの農家に野菜の種をもらいに行くのだ。そなたも連れて行く」

 黒馬は、万梨亜を見るとブルルと嘶いた。ジュリアスがくすくす笑う。

「ニケ、この女は余の妃の万梨亜だ。そなたの背に乗る事を許してくれような?」

 まるで友達に話しかけるかの様に、ジュリアスは優しく黒馬の顔を撫でた。万梨亜はまた好き勝手を言っているジュリアスに頭に来て、目をいからせて反論した。

「奴隷ふぜいが妃などなれません!」

「そなたがどう言おうが、その指輪をした今では、誰もが余の妃として扱わざるをえないのだ。何度も身体を重ねておいて、強情な女子だな」

 ジュリアスはどきりとする艶っぽい流し目をする。その左手薬指には万梨亜と同じデザインの指輪が輝いていた。万梨亜は自分の手とジュリアスの手を交互に眺めて、わたわたと言葉をどもらせてしまった。

「あ、あれは、王子が勝手に……!」

「最後にはせがんでおいて、何を言うやら。さ、そのバスケットを余に貸さぬか。早う行かねば日が暮れるまでに帰って来れぬわ」

「王子がお一人で行かれてください」

「……そなたの好きな、天人唐草の花が沢山咲いているところを通るぞ? あの林檎の菓子などもその農家では用意できるのだが、残念だな」

 ジュリアスはバスケットを万梨亜から取り上げて、馬に結びつけた。

 心を読まれて万梨亜は顔を赤くした。万梨亜は元の世界では春先に咲く青い小さな花、天人唐草が好きなのだ。あの優しい青色は幼い頃から万梨亜の心を癒してくれる。ジュリアスは普段は心を読まないようにしているらしいが、たまに、嗜好や過去の出来事は読んでいるので困る。心が読めないようにする魔術は万梨亜が自分自身に掛けたものだったのだが、どうも魔法を学んだ時間が少ない為かかりが悪いようだ。

 ……それよりも重要なのが大好物のアップルパイ。それがジュリアスがこれから行く農家で食べられるのだと言う。この異世界は、時々もとの世界と同じものや単語が出てくるのでそれが驚きだった。言葉も何故か日本語なのだ……。異国の名前や風習があるにも関わらず。

「……行きます」

「そう来なくてはな」

 ジュリアスが万梨亜の片手を引っ張り、馬に跨がらせた。日本にいた時にも、マリアの父親に何度か乗せてもらった事があるが、馬に乗ると地面が遠くに感じていささか心もとない。何となく緊張していると、ニケが嘶いて万梨亜をじろりと見た。万梨亜の背中でジュリアスがおかしそうに笑った。

「落とすような間抜けな真似はせぬと、ニケが怒っているぞ。謝っておけ」

 ……馬にまで気持ちが読まれてしまうとは、いささか情けない気もする。

「ごめんなさいニケ。貴方がどうこうってわけではないの」

 ニケは大丈夫ですよという感じで首を振ると、すっと歩き出して、すぐに並足になった。ジュリアスはあまり手綱を操っていないが、ニケが主人の行く先を分かっているようで道を誤らずに進んでいるようだ。あっという間に森の中を抜け、広大な畑の中に入った。農作業している人達がちらほら見え、皆ジュリアスに挨拶をし、ジュリアスも挨拶を返していく。

「皆、ジュリアス様が王子だって知っているのですか?」

「知らぬよ。知っているのはこの先に寄る家の者だけだ」

「……そうですか」

 のどかな田園風景の土の道を、ニケはゆるやかな並足で駆けていく。太陽が穏やかな陽射しを投げかけてきて、その暖かさが万梨亜を幸せな気持ちにさせた。大分ジュリアスの家から離れたかと思われた頃、天人唐草が乱れている野原に出た。見渡す限りの優しい青に、万梨亜は思わず歓声をあげて喜んだ。

「すごいっ……」

「この辺りの土地は神へ捧げられているから、開墾が禁止されている。だから野の花が好き勝手に咲き、獣達も時々あの山から顔を出すのだ」

 平和そのものの風景は、何故か万梨亜にケニオンでの寒くて苦しい奴隷生活を思い出させた。北にあるケニオンは真冬のまっただ中で、こんな春めいた時間は何ヶ月も先だろう。

 デュレイスは無事だろうかと万梨亜は案じた。本当に彼は石目当てで、万梨亜を手に入れようとしたのだろうか。どちらにしてもこれだけは確かだ、彼ほど戦争を嫌がっていた人間はあの国にはいない。

 やがて山の麓にある灰色の石造りの農家の前で、ジュリアスはニケを止めた。

「テーレマコス」

 ジュリアスが開かれている戸口から男の名を呼んだ。万梨亜はバスケットを持って、家の前を好き勝手に歩き回っている茶色の鶏達を眺めた。

 ややあって、家の中から、肩まであるくすんだ金髪を後ろ一つに束ねた、三十歳前後の若い男が粗末なみなりで現れた。

「ようこそジュリアス様、……そちらは?」

 テーレマコスの青緑の目が、万梨亜を鋭く見た。あまりの鋭さに万梨亜が怖気つくと、ジュリアスが万梨亜の腰を抱き寄せて紹介した。

「つい先日結婚した。万梨亜と言う」

 幾分かテーレマコスの表情が和らいだ。

「……そうでしたか、それはおめでとうございます。申し遅れました万梨亜様。私はこのティキラ村の村長を務めております、テーレマコスと申します。以後お見知りおきくださいませ」

 深々と頭を下げるテーレマコスに万梨亜は慌てた。

「いえっ、あのっ、私はただの奴隷ですのでっ」

「奴隷? ジュリアス様は妃だと……?」

 不思議そうにテーレマコスはジュリアスを見た。ジュリアスはくすくす笑いながら、テーレマコスに説明した。

「もとがケニオンからの貢ぎ物の奴隷だったのだ。だが今は余の妃だ」

「王子! 私は……っ」

「このように頑固な女でな。誓いの指輪をはめたというのに妃としての自覚が未だに芽生えぬ」

「王子が勝手にはめたんですっ!」

 今度はテーレマコスが吹き出した。ずっと無表情に近い暗い感じだったのが、ぐっと人間らしくなる。

「万梨亜様にその指輪が填まったという事は、貴女もジュリアス様を愛しているという証なのですよ? そういう指輪なのです。嫌がっている気持ちがあると、決してその指輪は貴女を認めず、填めることは適わなかったでしょう」

「私は嫌がっております!」

 噛み付くように万梨亜が反論しても、二人はおかしそうに笑うばかりで相手にされなかった。むうっとしている万梨亜を見て、テーレマコスは言った。

「ああ、いけませんね。どうぞ中へお入りください」 

 家の中は二部屋しかない小ささで、万梨亜はいささか窮屈な思いをした。日本の万梨亜の家も狭かったが、この家は物がところ狭しとならんでいてさらに狭く感じる。農作業に使うざるや、農機具や、壷や、袋が、壁といい床といい、埋め尽くしている。

 万梨亜は持参したバスケットの中の、サンドイッチやサラダ、焼き肉をテーブルに並べながらもテーレマコスから目が離せなかった。確かにいくつもの野菜の種をに選り分けして袋に詰めていくところは農夫に間違いないのだが、いささか目つきが鋭すぎるし身のこなしが妙にすっきりしている。

 足音を立てずに歩くのが最も怪しい。動作に隙がないのとたくましい身体つきから盗賊かもしれない。素性を偽って暮らす盗賊なんてものは、この世界では当たり前のように横行している。

 野菜の種をお金と交換したジュリアスは、万梨亜の目つきに気づいてテーレマコスに言った。

「テーレマコス、万梨亜がお前を怪しんでいるぞ。ただの農夫には見えないとな」

「さすがにジュリアス様の前で農夫のようにはいきませんよ。お妃様も真実の眼をお持ちなのですか?」

「……彼女には魔力の石がある」

「ちょっと……ジュリッ」

 驚いた万梨亜をジュリアスは手を挙げて制した。

「テーレマコスは余の味方だ。信頼に値するゆえ構わぬ」

「…………」

 魔力の石を持つ女を、この世界では血眼になって探している。何故ならその女を手に入れたなら、世界を制する魔力を得る事ができるからだ。万梨亜が持っているとばれたりしたら、即刻王宮に連れて行かれていいようにされてしまう。あんなケダモノだらけの人間がいる所に行って、戦場に連れ出されるのは、万梨亜はまっぴらごめんだった。

「お妃様、私は確かに農夫です。この国が農業で成り立っている事はご存知でしょうか?」

「はあ……まあ」

「そして村の長である私は、農産物を売りさばく権利があります。その為、商人として他国へ自由に出入りできるのです。これは私だけではなく、ディフィールのどの村の長も等しくその権利を有しております」

「はあ」

「……商人が売るのは、農産物だけではありません。対価を積まれたら情報を売る事もできますし、またその逆も然り。ただ、私がほかの者と違うところは、私の出身が貴族であり、ジュリアス様の乳母の息子だということ……。私が諜報活動をするのはこのディフィール国王や貴族達の為ではなく、ジュリアス様の御為のみ、つまりはジュリアス様の手先なのです」

「……うそでしょう?」

 テーレマコスをじっと見たが、その青緑の目は嘘をついているふうでもなかった。

「ジュリアス様の前ではうそはつけません」

 テーレマコスはそこで初めて、ふわりと優しい笑みを浮かべたのだった。

 呆気に取られている万梨亜に、ジュリアスはテーレマコスと内密の話があるから先に食事をしろと言い、万梨亜を残して部屋の奥に行ってしまった。

 一人で食べるご飯はおいしくないので、万梨亜はいくつかのサンドイッチとサラダを皿に載せて外に出た。庭の隅でニケがおとなしく草を食んでいる。近寄るとニケがサラダの人参を欲しがったので、万梨亜は広げた掌に人参を載せて差し出した。ニケは喜んでそれを食べていく。

「ねえニケ……? 恋ってしたことある?」

 牡馬さんだから、雌馬さんを好きになったりする事はあるよねと万梨亜は思った。ニケの顔を撫でながら深くため息をついた。 

「……正直なところ、王子が好きかどうかなんてわからないのよ。だって最近までデュレイス様が好きだったんだから。いくら妃になったって言われたって、心までついていかない」

 ニケが万梨亜の頬をべろりと舐めた。

「好きだって王子はおっしゃるけど、本当かどうかわからないもの。王子だってこの魔力の石が目当てなんじゃないかなって思うの。愛してるのは石で私ではないのかもしれない……。こんな石が無かったら信じられるのだけど……」

 ふっと、ニケの顔の毛並みの感触が消えた。というよりニケが消えた。万梨亜はきょろきょろと辺りを見渡す。

「あれ? ニケどこ行っちゃったの?」

「どこ見てんだよ、こっちだ」

 後ろを振り向くと、ニケの色そっくりの黒髪の青年が立っていた。なめし皮の様に肌がよく陽に焼けている。

「ぼけてんのかよ。ニケは俺だよ」

 次の瞬間、万梨亜は腰が抜けるほどびっくりした。万梨亜と目が合ったとたんに青年が再び黒馬の姿に戻り、そしてまた目の前で青年の姿に戻ったからだった。

「ええええええっっ?」

 魔法とか何でもありの世界だとは思っていたけが、馬が人間に変身するなんて驚きすぎる。この数ヶ月一度も見た事がない。

 あわあわしているだけの万梨亜は、精悍な顔つきのニケにあっさり抱き寄せられた。

「お前可愛いな。気に入ったよ」

 そしてニケに熱いキスをされてしまった。

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