ディフィールの銀の鏡 第16話
夕暮れ時、テーレマコスは村人達の畑を見回った後、自分の畑の草を取ったり成長具合を調べていた。遠くの神殿で時を告げる鐘の音が響き、いつも通りの牧歌的な夕暮れ時の風景が広がる。赤く沈んでいく太陽が山の端に見え、東の空は星が瞬きだしていた。
今年の小麦も成長が良さそうだ、どの畑も青々とした葉を広げているし今の所病気の心配もない。東側にある国エラトも同じように小麦が育っていると商人が言っていた。しかし、戦乱がところどころで起こっていて畑が踏み荒らされたりしているらしい。
戦乱が治まり、ディフィールもこのまま何事もなければいいがとテーレマコスは思いながら、土が踏み固められているあぜを歩いた。
「む」
鐘の音が止み暗く静まり返っていく中、沈黙が唐突に破られた。
「来たか、思ったより早い……っ」
自ら張った結界に何者かが触れたのを察知したテーレマコスは、鎌を投げ出して自分の家の前に瞬間移動した。土と埃で汚れたまま家の中に入り、蝋燭の灯りの下で本を読んでいるジュリアスに歩み寄った。
「王子、今すぐ地下室にお隠れになってください」
「何故だ」
「とにかくです、さ、早く!」
からくりの扉になっている床の一部が開けられた。そこには狭い地下への石の階段があり、テーレマコスは蝋燭をカンテラに入れてジュリアスに手渡した。
「真っ暗でむさくるしいところでございますが、ご容赦を」
「そなたも来い」
「それはできかねます。時間がありません、早く」
「テーレマコス!」
何かを言いたげなジュリアスをそこへ押し込み、テーレマコスは扉を閉じた。床のタイルの一部と化したその扉は、余程注意深く見ないとわからないようになっていた。テーレマコスはさらに厳重な魔法をかける。
果たして、すぐに宮廷魔術師とわかる風体の老婆と、10人ばかりの近衛兵が家の前に現れた。野太い声で誰何する声が響く。
「家の者はおるか!」
「はい、ただ今……」
テーレマコスは愚鈍な農夫を装うためにさらに汚れた服を着て、くすんだ美しい金髪の髪に砂をかけた。ぐしゃぐしゃにすると家の木のドアを開ける。
「私めに何か御用でしょうか」
隊長格の近衛兵は、汚い風貌のテーレマコスを見ると顔をしかめた。
「この辺りに、国王が見つかり次第処刑するために手配中のジュリアス王子が居ると聞いた。お前は知らぬか?」
「ぞんじませんが……」
近衛兵が数人家の中に入り、ジュリアスが居ないか確かめだした。隠れているかもしれないと手当たりしだい物を床にぶちまけて引っ掻き回している。テーレマコスはじっとその様子を見ながら、いかにも農夫が家の中を好き勝手されて動揺しているようにふるまった。
「止めてください、そんな方はいらっしゃいません……」
小さな家の中から、直ぐに近衛兵達は出てきた。
「おりません、隊長」
「ふーむ……、キュティーレ」
隊長格の近衛兵が魔術師に向き直る。魔術師は深いフードを被り表情が判りにくかった。
「はい」
「おらぬではないか」
魔術師はゆっくりと首を振る。
「いいえ、確かにここにおりまする……。その男が隠したのでしょう。汚い農夫に見せかけておりまするが、騙されてはなりませぬ。魔法を使います上におそらくは貴族! ジュリアス王子と繋がっておることは間違いございませぬぞ」
しわがれた老婆の魔術師に、テーレマコスは背筋が凍った。陰って見える魔術師の双眸が赤く、魔族であることはあきらかだった。近衛兵はテーレマコスの胸倉を掴んで地面に叩き付けた。
「隠し立てすると殺すぞ! 言え!」
そのまま蹴り飛ばされ、テーレマコスは土の上を転びながら歯を食いしばった。反抗すれば魔術師の思い通りになってしまう。
「本当です……知らないのです」
別の近衛兵が、テーレマコスのぼさぼさの髪を掴んで身体を引き上げた。
「まだ懲りないか! 言え!」
「本当に私は何も……」
キュティーレは家の中に入り、くまなく家の中に眼を配った。程なくして床の扉に張られている魔法を見つけ、その赤い目に喜色を浮かべた。
「ここにおるわ……」
にや……と笑いこじ開けようとする。しかし開かなかった。どんな解呪も力づくの魔術も跳ね返されてしまう。
「これはどうしたことじゃ……」
キュティーレは狼狽した。そして庭で暴力を受けているテーレマコスの元へ来ると、テーレマコスを魔法の綱で縛り上げた。
「ぐ……っ」
「正直に申せ、あの魔法をかけたのはお前だな?」
しわがれた老婆のキュティーレが鷹の様に鋭い声で詰問する。だがテーレマコスは知らないとしか繰り返さない。イラついたキュティーレが綱の締め付けを強めた為、さらに首を絞められたテーレマコスは息がつまって喘いだ。苦しむテーレマコスを嬲るのが楽しいらしく、ひっひっひとキュティーレは笑う。
「そらそら……話さねばこのまま死んでしまうぞ」
「知……らない」
絶対にジュリアスを護りぬきたいテーレマコスは、このまま死ぬ覚悟をした。己の主君のためなら命など惜しくはない。ジュリアスが生きていてくれなければ自分の生など意味がないのだ。
苦しむテーレマコスに、ジュリアスの思念がなだれ込んできた。
『ここを開けぬか、そなたが死んでしまう』
『お断りします……』
『愚か者が、そなたが死んだら王都に居るそなたの家族が悲しもうぞ』
ジュリアスはかなり怒っているようだ。だが魔力がないためどうすることもできない。それでいいとテーレマコスは思っている。開けることができるのは魔界に帰っているニケだけなのだ。
『開けよ! いい加減にせぬとそなたを許さぬぞ!』
『……おしかりは遠い未来に受けます、わが君……』
『テーレマコス! 余の命令が聞けぬか!』
『この事に関しては聞けませぬ』
『…………っ!』
キュティーレは、一向に口を割らないテーレマコスに痺れを切らした。
「ええい……この……」
「どうしたのじゃ」
夕陽が沈んだ闇の中から、彼女の恐ろしい女主人ヘレネーが現れた。近衛兵達はいきなり現れたケニオン王妃に驚愕する。国王テセウスから、ヘレネーは魔女で、その行動を邪魔しないように言われている。とはいえ、ここは自分達の面子に関わる。
しかしそんな矜持も、ヘレネーの地獄の底を映し出す赤い瞳の前には吹き飛んでしまった。禍々し過ぎて不吉この上ない。
「……ここにおるのがわかったのに、何をぐずぐずしておるのじゃキュティーレ」
キュティーレは土の上に平伏する。
「恐れ入りまする。強固な魔法がかけられておりまして」
ヘレネーは地下へ通じる扉に歩み寄り、取っ手に手をかけた。するとばちばちと雷のような光と衝撃が走り、彼女の手を跳ね返した。
「ほう……大したものじゃ、己の命とひきかえのものかえ。その者が死に絶えてもなお効力を発揮する禁呪じゃな」
「そのようなものを」
くっと笑うと、ヘレネーはテーレマコスに向き直った。もうテーレマコスは意識が途切れかけている。顔は土気色だった。
「だが残念じゃな。わらわにはこのような魔法、赤子がかけたも同然」
ばちばちと凄まじい火花が飛び散る中、ヘレネーは細腕を突っ込み扉をこじ開けた。その眼には赤い炎が燃えている。
禁呪が解かれた衝撃で爆風が起きた。家が木っ端微塵に砕け、同時に近衛兵もテーレマコスも吹き飛ばされた。砂塵が舞う中で平気な顔で立っているのはヘレネーだけだった。キュティーレはうずくまって衝撃に耐えている。
地下の石の階段から、ジュリアスがゆっくりと上って来た。内側から懸命に叩いたのか両手に血がにじんでいる。
収まりかけている風の中で彼の銀の髪が揺れた。
「穴ごもりかえ? 半神殿」
あざ笑うヘレネーに、ジュリアスは冷たい視線を向ける。
「余に何か用か」
「わらわではないわ。王妃がお前をご所望じゃ」
「マリアが?」
不快気に顔を歪めるジュリアスに、ヘレネーはすっと手を上げた。
「承知したなら、忠実な下僕の命は助けてやろうぞ」
ヘレネーの人差し指の先に、死に掛けているテーレマコスが倒れていた。ぼろぼろで身体中から出血している。ジュリアスは駆け寄って膝に抱き上げた。
「テーレマコス……」
か細い呼吸をしているテーレマコスの頬についている土をぬぐい、ジュリアスはヘレネーに深くうなずいた。魔力がない自分はヘレネーの言う事を聞くしかない。
「助けよ」
「それでこそそなたじゃ」
ヘレネーはしたりと笑みを浮かべ、テーレマコスに気を注ぐ。みるみる顔に生気がもどり血色がよくなったテーレマコスをジュリアスは抱え、枝が吹き飛んだもののなんとか木の形をかたどっている大木の根元に、気を失ってそのまま眠っている彼を横たわらせた。
王妃マリアはいらついていた。ついている女官達は、テセウスが側妃の部屋に入り浸りだからと思っている。
しかしそうではない。せっかく愛しいジュリアスを手に入れたのに、頑として拒絶されているからだ。ジュリアスは、甘い言葉も宝石もめずらしい食べ物も、そのほかのさまざまな高価な物にも興味を示さない。それがマリアのいらつきの原因だった。
手には、ヘレネーからもらった小瓶が握られている。
ヘレネーからジュリアスを捕獲して連れ帰ったと報告があった時、浮き立つ心を抑えながら、マリアは地下の隠し部屋に急いでいた。
向かう途中ヘレネーが立っていたので、マリアは礼を言った。ヘレネーは手を軽く振った。
「わらわもこうなったほうが都合がよいゆえ、礼には及ばぬ。それより……」
ヘレネーは紫水晶で出来た小さな小瓶をマリアに手渡した。中に透明な液体が入っている。
「これをジュリアスに飲ませよ。ほれ薬じゃ」
「…………必要ないと思うわ。私は美しいのだもの」
「念のためじゃ、とっておけ。重宝するぞ」
「わかりました」
それを手にしたマリアは目を暗い情熱でたぎらせる。足早に通り過ぎていくマリアにヘレネーは満足そうに笑い、姿を消した。いつも彼女はディフィールに自分の分身を送っているのだった。
隠し部屋は豪華な作りだったが、地下に作られているため窓がなかった。歴代の王妃達が国王に隠れて情人を住まわせてきた部屋で、その在処は王妃とごく一部の人間しか知らない。磨かれた黒の大理石と散りばめられた宝石が壁になっているその部屋に、彼女が恋しているジュリアスは居た。
マリアは高鳴る胸に片手を置き、黒いビロードのソファに座っているジュリアスにゆっくりと歩み寄る。
「ジュリアス様……」
「余になんの用だ」
氷のような深い青の瞳にマリアはうっとりする。似合うだろうと思っていた華麗な王族の衣装も良く似合っていて、あまりの神々しい美しさに恐れを抱くほどだ。
「マリアと呼んでください」
妖しく微笑みかけて横に座り抱きついたが、ジュリアスはなんの反応も示さない。
「何故?」
「呼んで欲しいのです。そして……」
首に両腕を回したマリアは、冷たい瞳のままのジュリアスに口付けた。
「私を抱いてください」
「…………」
この方法でマリアは今まで男を落としてきた。マリアの空色の青い瞳で甘えられると、大抵の男はぞくりと甘い戦慄が背筋を走るのだ。ダメ押しのごとく柔らかな手で身体を撫で回されると確実に理性が飛び、気が付いたらマリアを組み敷いている……。
だがジュリアスは何の変化もなく、マリアを冷たく見ているだけだった。
「そなたはテセウスの妃であろうが。奴が知ったらどうするのだ」
「テセウスはもう私など愛していないのです。あの方が求めているのは魔力の石。私になかった段階で私は用なしのようなものでした。でも異世界の美しい娘は利用価値があるとにらんでいるから、離縁もない。これから愛されない一生を送るんです。そんなの耐えられない」
涙ながらに訴えても、ジュリアスはマリアの手を邪険に振り払った。
「それと余とどう関係がある?」
「貴方も美しい女が欲しいでしょう? お気の毒だと思っていたのです、あんな万梨亜などあてがわれて……」
「何を言っている」
「誰だって美しい私のほうがいいはず。あんな何のとりえもないつまらない子より……」
縋ろうとしたのにジュリアスはマリアを突き飛ばし、そのまま部屋を突っ切ってドアの前に立った。
「ここを開けよ。そなたと一緒の部屋になど居たくはない」
マリアは一向に自分に興味をしめさないジュリアスに苛立った。
「なにもあんな子に義理立てすることないじゃない! もうあの子はいないのよ」
「魔界にいる」
「魔界で男達に嬲られていると聞くわ」
「それがどうした。余には関係ない」
「貴方は……!」
背中にしがみついてきたマリアを、一向にジュリアスは見ようとしない。銀色の波打つ美しい髪も神々しい美しさも、自分を拒絶しているとマリアは悲しくなった。
「ジュリアス、ジュリアス……、私、貴方が好き! だから……」
「埒もない。テセウスの妃なら恥と思え」
吐き捨てるように言うジュリアスに、マリアはなおも食い下がる。
「こんなに言っているのに、どうして? 万梨亜のどこが良いわけ? あんな馬鹿で愚図で、誰からゴミのように思われてるブスな女のどこが良いと言うの?」
ジュリアスが振り返り、マリアを冷たく見下ろした。
「万梨亜は美しい女だ。聡明な魂を引き裂いたのはお前だ。それを悪いとも思わぬそなたは、いずれ馬鹿で愚図で誰からもゴミの様に思われるであろうよ」
「この私に……っ!」
馬鹿だの愚図だの言われたのが初めてだったマリアは、恐ろしい魔物のように目を吊り上げた。
「万梨亜のほうがいい女だと言うの?」
「当たり前だ。そなたのように腐った性根の女は虫唾が走る」
「言うことを聞かないと、殺すわ! 扉の外には忠実な男の奴隷がいるんだから」
ついに脅しだしたマリアを、ジュリアスが哀れむような眼で見た。
「誰もそなたの病を治そうとしなかった結果がこれだ。せめて万梨亜の優しさを、真に受け止めておればなんとかなったであろうに。愚かな女だ、そなたは……」
「おだまり!」
マリアはジュリアスを睨みつけた。
「どの道貴方はここから出られないわ。貴方は私のもの。これから先、一生私に尽くすのよ」
言い捨てたマリアは男奴隷にドアを開けるように言い、外へ出てジュリアスを部屋に再び閉じ込めた……。
そして一か月が経過した今日も、マリアは隠し部屋に入る。
ジュリアスは部屋の中で本を読んでいたようだが、いつものようにマリアを見ると顔をしかめた。そしてふたたび本に眼を落とす。マリアを確実に無視して拒絶しているのだ。こういった状態が繰り返されている。
マリアはヘレネーからもらった小瓶を握り締めた。
使いたくはない、自分の魅力で簡単に篭絡できると思っていた。でもジュリアスは絶対に振り向いてはくれない。もう我慢が出来ない……。
「貴方のお気持ちは判りました……。どうあっても私を無視なさるのね」
マリアの異様に低い声音を疑問に思いジュリアスが本から顔をあげた刹那、抱きついてきたマリアの唇が重なり、何かを口腔内に流し込まれた。普段の状態であったなら避けられたはずだが、まだ体力が完全に戻らないジュリアスはできなかった。
「ん……!」
マリアをジュリアスは突き飛ばし、飲まされたものを懸命に吐き捨てる。胸がはげしく痛みだし、ジュリアスは服の上からかきむしった。激しい動悸と共に眼がやたらとかすんでくる。
何かが心に生じると同時に、とても大切なものが消えていく……。
消えていくのは万梨亜の静かな立ち姿、憂いを帯びた儚げなまなざし。
「万梨……亜」
ジュリアスがその場に崩れ落ちていき、銀の長い髪が床に散らばった。高熱が襲いかかり苦しみ続けるジュリアスの隣に膝をつき、マリアはジュリアスを抱きしめて微笑んだ。
「ジュリアス……私の愛しい人。私のものよ、私のもの……」