ディフィールの銀の鏡 第17話

 万梨亜は鏡に映る映像から眼が離せなかった。

 魔王ルキフェルが持っている秘宝中の秘宝である、あらゆる世界が見られるという魔法の鏡。寝室の奥に真っ暗な財宝部屋があり、部屋の一番奥にその魔境は置かれていた。金の縁取りがされたその鏡はかなり大きく、縦横1メートルくらいはあるだろうか。

 昨夜の昼淫魔のサティロスに抱かれ、夜は再び魔王に抱かれ、万梨亜は疲れきって眠っていた。昼過ぎに目覚めた万梨亜に、ルキフェルが面白いものを見せてやろうとにやにや笑いながら、この鏡の前に万梨亜を立たせたのだった。

 鏡に映っているのはジュリアスとマリアで、テレビの映像の様に動いている。どこかの豪華な寝台の上で、熱烈に愛し合う恋人同士の様に裸で抱き合っている二人が鮮明に映し出されていた。

『愛しているマリア……マリア……、もっと余を求めよ』

『あ……ああ、ジュリアス……あ』

 声まで聞こえてきて、万梨亜は両耳を手でふさいだ。とても聞いていられない。。

 胸の中心に、先の尖っていない太い棒で貫かれるような痛みが走った。歯をかみ締め、手を握り締める……。

 痛い。

 痛い。

「やはり神の子だけあって、こういう輝かしい女を愛してしまったようだな」

 万梨亜の首筋を触りながら、背後でルキフェルが含み笑いをした。

「わかっただろう? 光の中で生きる人間はそういう人間を最終的には選ぶんだ。お前は最初からわかっていたようだが」

「…………」

「万梨亜?」

 万梨亜はその部屋を飛び出した。本当は城からも飛び出したかったが、ルキフェルの寝室からは出られない。金の鎖はルキフェルの思念で伸びたり縮んだりするのだ……。

 寝台に突っ伏して泣いている万梨亜の頭を、戻ってきたルキフェルが優しく撫でた。

「光は光の人間同士、闇は闇の者同士、仲良くすればよいではないか。なあ……万梨亜?」

 光?

 闇?

 そんな事はどうだっていい。

 

 嫌だ、嫌だ、ジュリアスが他の女を抱くなんて嫌だ。あの手は自分だけのものだったはずなのに。どうして近くに居る時にもっと触れなかったんだろう。愛してると言えば良かった。そうしたらあのマリアに向ける笑顔を、自分にもたくさん向けてくれたに違いない。

 遠く離れてから、こんなに好きだったと気づいた自分が愚かしい。沢山の男に嬲られた自分では手も届かないし、心も届かない。

「万梨亜」

 ルキフェルの手が足の間に割り込み、一気に万梨亜の中にルキフェルのものが入ってきた。さんざん抱かれて潤っているそこは何の苦もなくそれを飲み込む。

「は……んん……」

 心はとても冷えているのだが、ルキフェルと繋がっている部分が熱くとろけていくのが罪深い。

「ああ!」

 

 ルキフェルを締め付けて、万梨亜は両手を寝台についてのけぞった。激しく腰を打ち付けられ、嬌声をあげながら惨めな気分に浸されていく。

 好きになりたくなかったのは、こうなる事がわかっていたから……。

 どうしてジュリアスを愛してしまったんだろうか。

 向こうは王子で自分は奴隷。元の世界ではゴミくず。

 もう何も望まない。

 手に入れようとしても、手に入れたとしても、それは自分を傷つけるばかりだ。

「はああんっ……ああーっ」

 一番奥を突かれて、万梨亜はたまらない甘い痺れでがくがくと膝を振るわせた。秘唇は収縮を繰り返し、ルキフェルをもっと深く飲み込もうと蠢いている……

 くすくす……。

 嫌な笑い声が響く。

 万梨亜の一挙一動を意地悪く見ている嫌な視線。

 口を開けば珍獣を眼にするように、見世物を見るように万梨亜を見る。同じ人間と思っていない態度だ。

 

 お腹の底から、ふと怒りがわいてきた。

 いまだかつてこんな感情がわいてきた事はないのに、どうしたのだろう。

 

 許せない。

 何をしたというの。何故虐げるの。好きで愛人の子供に生まれたわけじゃない。好きでこんな境遇に生まれたわけでもない、ただ運が悪かっただけ。

 迷惑をかけたからっていじめられる筋合いはない。謝ろうが償おうが無視する貴方達は一体何様のつもりなの。人のコンプレックスを刺激してあざ笑って、ストレスを解消していただけではないの?

『貴女のせいで、リレーがビリになったのよ』

 その通りだけど、じゃあなぜそんなに意地悪そうに笑っているの?

『戸田さんがしっかりしてくれなきゃ、この資料は見れたもんじゃないわ』

 そのいたぶる様な目に侵食している優越感は何?

『ブスは近寄るんじゃねえよ』

 貴方だってたいした顔してないじゃない。それを言われている私を庇うどころか、見て見ぬふりをして笑っている奴らも許せない。

 許せない。

 許せない。

 許せない!

『馬鹿ね、私は初めて会った時からあんたが大嫌いだったのよ』

 大嫌いなのは私もだわ。

 よくも騙してくれたわね!

 

『万梨亜、そなたは余の為に生まれてきた女だ。愛している』

 ではなぜ裏切ったの! どうしてよりにもよってマリアを抱いているのですか王子!

 光の人間? 神の息子? 馬鹿にしないで、闇がなければ存在を主張する事も出来ないのよ。第一何が光よ、闇を踏みつけて犠牲にしてその涙で光っているくせに。あんな人達、不幸になってしまえばいい。あの人達が馬鹿にしている自分が優位になって、あの人達の運命を指先ひとつで決められるようになったら、どれだけ愉快いいだろう。

 

 不幸も幸せも自分の望みのまま。あの人達がやったように、思い切り不幸に突き落としてやりたい。その時に笑ってやる……思いっきり笑って踏みにじってやるから!

 ルキフェルは、万梨亜の夢を操作しながら会心の笑みを浮かべた。邪魔者だったジュリアスはヘレネーがうまく始末したようで、前回の様に邪魔をしてこない。それどころか憎しみを煽る材料になってくれた。

 寝台で仰向けになって眠る万梨亜の魔力の石が、今までにないほど光り輝いた。万梨亜の思いが強ければ強いほどその輝きは増していく。

 だがその光は清涼な青ではなく、まがまがしいどす黒い深紅の赤だった。

 それはルキフェルに囚われた事を意味する。

 マリアは至福の毎日だった。

 

 テセウスが振り向いてくれなくても、ジュリアスがいる。情熱を宿した熱い瞳で自分を見つめて抱きしめ、愛を囁いてくる。

 

 仲睦まじそうにしている二人を見やりながら、ヘレネーが黒い扇を静かに扇いだ。。

「どうじゃマリア、上手くいったであろうが」

「……ええ、最終的にはこれでよかったと思っています」

 二人にしかわからない会話で、ジュリアスが不審そうに見た。

「何の話だ。余に隠し事をするか」

「そういうわけではありません、ジュリアス」

「ではなんだ」

 強くソファの上で抱きしめてくるジュリアスに、マリアはうっとりしながら笑う。

「貴方を深く愛していると言う事ですよ」

「ならばいい。ヘレネー、そなたは出て行け邪魔だ」

 冷たく睨むジュリアスを平気で見返して、ヘレネーはジュリアスの左手薬指の指輪を見た。それはあの王家の指輪ではなく、幅広のダイヤモンドの指輪に変わっている。

「その指輪はなんじゃ」

「しれた事を、余とマリアの指輪であろうが」

「ほう、熱い事じゃな。国王にばれたらどうなるやら……」

 ほほほとヘレネーは意地悪げに笑い、ジュリアスは顔を翳らせた。マリアはそんなジュリアスを抱きしめて胸に顔を埋める。

「ばれぬようにしております。ご心配なさらないで」

「マリア……」

 ジュリアスの気弱そうな態度がマリアの不安を駆り立てた。この王子は何も持ってはいない、王子という身分のほかには何もないのだ。王妃である自分が守らなければならない。

 慌しいノックの後、ドアが開いて腹心の侍女のメラントが入ってきた。

「王妃さま、テセウス様がお探しです、お戻りになってくださいませ」

「まあめずらしい、どういう風の吹き回しなのやら」

 マリアはジュリアスから身体を離して立ち上がろうとして、きつく抱き寄せられた。

 

「いくな、マリア」

「……いけません。いかないと……貴方があぶないのですよ」

 ジュリアスは不愉快そうにため息をついた。

「いっそ奴がいなくなれば、こんな所に居ずに済むものを」

 マリアは息を飲み、ヘレネーは目を輝かせた。危険な雰囲気をまとったジュリアスに、マリアは細い声で注意した。

「そのような事を考えてはなりません。お願いですから、私を愛しいと思うのなら、ここにいらして……」

「嫌だ、嫌だマリア」

 ダダをこねる子供の様にジュリアスが嫌がるので、マリアはヘレネーに目で助けを求めた。ヘレネーはうなずき、ジュリアスを魔法で眠らせる。程なくしてジュリアスはマリアの膝にずり下がり、眼を閉じて眠りについた。

 眠ったジュリアスにキスをして立ち上がったマリアに、ヘレネーが言った。

「夕方までは寝ていよう。しかし、そうとうそなたに熱を入れているようじゃな」

「……ほれ薬の効果よね……」

 暗い顔のマリアに、ヘレネーは笑う。

「何を気にしておるのやら。自分の物にできればよいではないかえ? このジュリアスはそなたに夢中じゃ……、弟を亡き者にせんと企むほどに」

「やめて!」

 頭を振るマリアにヘレネーはささやく。

「じゃがそうなればジュリアスは国王。そなたと遠慮なく過ごせようぞ?」

「…………」

 考えるのも恐ろしいとばかりに、マリアは足早に部屋を出て行く。ヘレネーはドアが閉まると、寝台で眠っている美しいジュリアスを眺める。そして左手を取った。

「ほお、あの万梨亜との指輪はとれてしもうたようじゃの。ほれ薬は完璧に効いておる」

 くっと笑い、ヘレネーは自分の企みがうまく進行している事を確認し、部屋から姿を消した……。

 テーレマコスは自分の家がなくなってしまったため、新たな小屋のような家を村人達と一緒に建てた。ヘレネーの回復魔法で健康体に戻ったものの気分は優れない。忠誠を誓うジュリアスが自分の命の為に、愚かしい事になってしまったのだから。

 激しく落ち込んでいるテーレマコスに、ニケが暢気に言った。

「まあまあ、王子の事だから何かお考えがあったんじゃあありませんか?」

「あったにしても、あの魔女にほれ薬など飲まされたら、すべてが駄目ではないか。皆忘れてしまうのだぞ」

 昼の陽射しが明るく差し込み、木の香りも芳しい家の中だというのにテーレマコスは不機嫌なままだ。昼間から赤ワインなどを飲んでいるニケにもイライラしている。

「大体お前は、なぜあの時助けに来なかったのだ!」

 作られたばかりの木のテーブルをテーレマコスが叩いた。その振動で上に載っていたパンなどが床に落ちかけ、すんでのところでニケが落ちるのを防いだ。

「危ないなあ、落ちるじゃないですか」

「暢気にものを食べてる場合か! お前とて感じていよう? 万梨亜様の変化を。地上にまで魔力の石の負の力が届いているのだぞ!」

 最近、疫病が発生したり、旱魃や洪水が起こりだしている。それらはほとんどが万梨亜の魔力がほとばしって発生したものだった。

 ニケは焼かれた鶏のもも肉を食いちぎってもぐもぐと食べ、ごくりと飲み込んでからうなずいた。

「わかってますよ、お妃様をルキフェルが完全に取り込んじゃったみたいですからねえ。うまくやりましたね、あの魔王」

「感心している場合か馬鹿者!」

 怒り心頭のテーレマコスを、ニケはまあまあと両手で押さえた。そしてテーレマコスの木のコップに赤ワインを注いで勧めながら言った。

「とりあえずは冬至まで様子を見るしかないじゃありませんか。魔王ルキフェルはその日にお妃様を自分の妃にすると公言しました。前から練られていた計画っぽいです。きっと王子はその事をご存知であったに違いませんよ、なにしろ『真実の眼』をお持ちの神の子であられるのですから」

「……予言できたとしても、防ぐ手立てがもうないではないか」

 テーレマコスは辛そうにコップの中の赤ワインに眼を落とした。赤ワインの赤は、ヘレネーの禍々しい赤い瞳と重なる。万梨亜の負の波動が同じ色を帯びているのが、テーレマコスにとってはたまらないほどの悲しさだった。ジュリアスの愛情に包まれていた時は、ジュリアスと同じく青く清らかなものだったというのに。本人は気づかなくとも彼女がいるだけで空気が浄化され、すべてのものが生き生きと輝いていたのだ。

「あの魔王の妹が作った魔の薬だ。効き目が衰える事はあるまい……。王子はお妃様の事をお忘れになってしまわれ、あのくそ忌々しい女狐めに夢中だ」

 遠隔で遠くにいる人間を見る事ができるテーレマコスは、王宮の地下で繰り広げられているジュリアスとマリアの痴態を見てしまっていた。あまりのジュリアスの変わりようにショックは隠せない。子供の様にマリアに愛情を求め、愛情を注ぐジュリアスは彼の主君ではなかった。

 彼の知っているジュリアスは、溢れる愛情をいつも穏やか押さえ、いかなる時も感情の起伏を見せない男だったのだ。

 髪の毛をかきむしってぶつぶつ言っているテーレマコスを見て、ニケがにんまりと笑った。

「まだ救いはありますって、お妃様の指輪は外れておりませんからね」

「……それがどうした」

 ついにくそまじめなテーレマコスが昼間に赤ワインを一気に飲み干した。投げやり気味らしい。やれやれと思いながらも、ニケはテーレマコスの空になった木のコップに赤ワインを注いだ。

「あの指輪は想いがある限りは外れないんでしょう? まだ外れていないという事は、お妃様は王子をまだ愛しておられるという事です。というより俺は、あのお妃様の負の波動はすべて王子への愛ゆえと思っておりますよ」

「……だが……」

「そうです。おそらくはそれこそを、王子は望んでいらしたのかもしれません。お妃様は今まで逃げる事ばかりを考えておいでだった。負にしろ正にしろ、とにかくあの弱虫なお妃様が牙を剥かれた。これは大きな進歩だと思いますよ」

「確かに……そうだが」

 向かい合って座っているテーレマコスの肩を、ニケがぽんぽんと叩いた。

「光の力も闇の力も、原動力がないと発揮できません。そのスイッチがやっと入った。それは素晴らしい事です」

「だが操るものが邪悪ではこの世界は滅びる。そしてお妃様がいらした世界もただでは済むまい」

 ニケはオレンジに手を伸ばし、皮を剥かずにそのままむしゃむしゃと食べた。

「どちらにしてもですね、俺は王子が何の策もなしに王宮に行ったとは思えないんです」

「……そう信じたいものだ」

 赤ワインの酩酊感に包まれながらテーレマコスは息をついた。どちらにせよ今彼がするべき事はジュリアスが帰ってきた時のために田畑を耕し、国外の動向を見張り続ける事だ。今はこのディフィールを除いてどこも騒乱が起きている。この国で起きないのは、あのヘレネーがなんらかの手を打っているからに違いなかった。

(あの魔女がこれ以上何かをしないように、なんとかしたいものだが……)

 テーレマコスは、ヘレネーがジュリアスの魔力を封印したように、彼女の魔力をなんらかの形で封じる事はできないものだろうかと考えを巡らせ始めた。 

 国王テセウスの変わりようが一番気になる。確かに彼は傲慢な所があったが、それは高貴な人間に特有なもので、テーレマコスは問題視していなかった。ジュリアスのように分け隔てない人間のほうがめずらしい。

 王宮内に勤めている人間から聞くと、テセウスは後宮に入り浸りで政務をおろそかにしがちだという。傲慢なりにも、前国王のやりたい放題の浪費振りをいつも苦々しく思っていたはずのテセウスにはあり得ない事だ。彼は権力には貪欲だったが、女遊びには淡白すぎる性質だとテーレマコスは見抜いていた。

 ジュリアスが盛られたような薬を、テセウスも盛られた可能性は大きい。誰が盛ったかまではテーレマコスにはわからないが、作った者はヘレネーに違いない。

(後宮の洗い出しをしないとなるまいな。あと、王子を魔の薬から解放する手段も調べてみよう。魔王も敵が多いのだ、彼に反抗する魔族達が知っているかも知れない)

 やっとテーレマコスらしく考える事始めたのをニケは見やり、安心したようにがははと笑った。

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