ディフィールの銀の鏡 第22話

 案の定、会社に行った万梨亜は、社員達にジュリオと婚約した事をもてはやされ、まだ見習い建築士の田淵は子犬のような目をきらきらさせて言った。

「そうなると思ってたんですよ。ジュリオさん、ずっと戸田さんを優しい目で見てましたから」

 万梨亜はどきりとした。そうなのだろうか、と……。

 小さな建設会社なので、昼は誰もいなくなってしまう。万梨亜は雑務をしながらぼんやりと思い返していた……、マリアの会社を辞めたあの日の事を──。

 純一郎とマリアが婚約し、それを職場の皆が祝っている一方で、万梨亜は一人でぼーっと夜の街を歩いていた。

 万梨亜をあばずれと言った純一郎。それを止めながらも何故か意地悪い笑みを浮かべたマリア。万梨亜を苛めるために廃屋の店舗に呼び出した同僚達……。母親は何年か前に事故で亡くなっていて、父親は誰だか未だにわからない。友達も家族もいない。信じていたマリアは万梨亜を裏切っていた……。

 悲しくて、涙が胸が痛くなるほど溢れて止まらない。悲しいのはマリアを信じられなくなった自分だ。大好きだったのに、大嫌いになりそうな自分だ。こんな醜い気持ちは認めたくなかった。こんな最低な自分は、生きている価値などないと思った。

「お姉さん一人で泣いてるの? あったまりに来ない?」

 肩を優しくつかまれて見上げると、いかにもホスト風の男が笑いかけてきた。客引きなのだろう、いつの間にか歓楽街を歩いている自分に気づいた。ちかちかと派手な看板が光っていて、夜でも昼間のように通りは明るく、人通りも激しい。

 万梨亜は肩に置かれた手を払った。いつもなら震え上がって何も言えなかったが、投げやり気分の万梨亜に怖いものなど無かった。

「冷えてるほうが好きなの、放っておいて」

「うそうそ。そんな綺麗な顔で嘘言っちゃいけないな」

「嘘言ってるのは貴方でしょ。私のどこが綺麗なのよ……」

 本当に綺麗だったら、マリアのように華やかに生きて、愛されているはずだ。万梨亜はまた涙が湧いてくるのを感じた。男はそんな万梨亜の顔を覗きこむ。

「許せないねー、君にそんな顔をさせる奴。なおさらうちに来なって! あっためてやるよ……なにもかも。そんで忘れちゃおうぜ」

「……忘れる?」

「酒飲んでわいわいはしゃいだら、忘れられるって!」

 万梨亜は心が動いた。忘れてしまえばこのみじめな気持ちも消えてくれるかもしれない。だがホストクラブはお金がかかる事を知っているので、万梨亜は躊躇った。

「でもお金ないから……」

「大丈夫! 君ならサービスしちゃう!」

 そのまま店に入りかけた万梨亜だったが、相手のホストの肩を、誰かが掴んでぐいと横に押しやった。ホストの男は怒って押しやった男性に噛み付くように言った。

「何すんだよ! 邪魔すんじゃねえ!」

「客として店に引き込んで、多額の借金を背負わせてソープランドに売り飛ばす、か。えげつない商売だな」

「だれが……っ!」

 反論しようとしたホストの男は舌打ちをして、そのまま店に入ってしまった。どうやら図星だったらしい。万梨亜は憂さ晴らししようとしていたところを邪魔され、文句を言ってやろうと顔を上げて固まってしまった。

 自分を見下ろしているのは日本人ではなかった。店の照明に照らされて煌く長めの銀髪と青い目。美しいとしか形容できない顔つきの若い男だ。

「このあたりをそんな無防備な顔で出歩くと、さらに不幸になるよ」

「……貴方には関係ないでしょ」

 万梨亜はわけも無く腹が立って男性を睨みつけ、そのままきびすを返した。するとからかうような声が追いかけてきた。

「……夜の街を歩いた事のない子猫ちゃんか? 昼は普通に行けるだろうが、夜はそっちは危険だよ。やばい連中が君みたいなカモを狙ってて、手薬煉引いて待ってる。さっきのホストなんかやさしい部類だ」

 万梨亜はその声を無視して歩いた。果たして男性の言うとおりに別のホストが声をかけてきた。さっきのホストより油断がならない感じを漂わせていたが、もうどうでもいい、自分などめちゃくちゃになってしまえばいいとやけになっていた。

「綺麗な姉ちゃん。お酒飲まない?」

「いいわ……」

 万梨亜は男に肩を抱かれた。そして先程と同じように店にそのまま入ろうとしたが、ぐいっと後ろから乱暴に身体を抱き込まれた。見上げるとやっぱりさっきの銀髪の男だった。怖い目でホストを睨んでいる。

「あ? なんだてめえ。営業妨害しやがって」

「この娘は僕の恋人なんでね。返してもらうよ」

 恋人など嘘だ。腹を立てた万梨亜が言い返そうとすると、その男はいきなりキスをしてきた。

「うううう! ……んんんー!」

 そのキスは巧みで振りほどけないものだった。冗談じゃないと思うのに抱きしめられて、男性の力は強くなすがままにされてしまう。

「……なんだ、のろけかよ。他でやれよ馬鹿っプルが!」

 ホストはしらけたのか、別の客を引くために人ごみに消えていった。ようやく唇を離してもらえた万梨亜は文句を言った。

「貴方、なんの権利があって……」

 しかし、そのまま男は万梨亜の腕を掴み、タクシーを呼び止めた。そして有無を言わさず万梨亜を押し込み、自分も乗り込む。男が運転手に告げたのは知らない住所だった。

「おろしてください。貴方なんなんですか?」

「心配しなくていいよ、僕は君を知ってる、カワサキハウスの本社に勤めてた戸田万梨亜さんだろ? うちの得意先だからよく君の事見かけてた」

「は……?」

「会社を辞めたんだろ? 今日そっちの会社行って資材課覗いたらいないから、その辺の奴らに聞くとそう言われた」

「…………」

 こんな美形が会社に来ていたら、女子社員達が大騒ぎなはずだと万梨亜は思ったが、よく考えたら万梨亜は親しい人間など会社にいなかったので、気づかなかったのだろう。万梨亜はひたすらメモを切る毎日で、会社の人間や来客に気を向ける事がなかった。

「メモ用紙切ってるの見てた。それで住宅の模型図を作るのに手を貸して欲しいんだ。あれだけ正確に紙が切れるんなら多分向いてる。……これから会社に行くから、社長に会って面接してほしい。君を雇いたいんだよ」

 話が唐突過ぎて万梨亜は面食らった。だが男の顔は至って真面目で、そのやたらと綺麗な顔はじっと万梨亜に向いていた。怪しんでいる万梨亜を見て今頃気づいたように、男性は名刺を差し出した。

「紹介が後になってごめん。僕は、ジュリオ・フォンダート。日本の池谷大学の建築科を卒業してから、父のバルダッサーレ・フォンダートの会社で一級建築士として働いてる。父の名前、聞いた事無い?」

「……すみません、何も知らなくて」

 万梨亜がうつむくと、タクシーの運転手が口を挟んできた。

「その筋では有名な建築家ですよ。最近できた鳥沢美術館、フォンダート氏の設計でしょ?」

「ええ」

「俺、ファンなんですよね。なんというか、古代的な中に現代的なものがあるでしょ? ミステリアスで」

「ははは、父に伝えておきます。喜びますよ」

 どうもかなり有名な人の会社らしく、万梨亜はそんな人のところで働くのは向いていないと思った。

 名刺には、バルダッサーレ株式会社と書かれていた。そしてさっきジュリオがタクシーの運転手に告げた住所と電話番号が書いてあり、一級建築士ジュリオ・フォンダートとある。

 メモ切りしかできない自分が、高名な建築家の会社で働くなどとんでもない事だ。社名が落ちそうな気がする。

 やがてタクシーは小さなビルの前に着いた。なんとしても断ろうと万梨亜は決心し、ジュリオと二人、タクシーから降りた。緊張している万梨亜の横顔を、ジュリオがじっと見ていた事を万梨亜は知らない……、その青い瞳が僅かに青く光った事も。

 時計は二十時を回ったところだった。

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