ディフィールの銀の鏡 第29話
「ひさしぶりだね、万梨亜。元気にしていたかね?」
まだ四十三歳になったばかりの健三は、相変わらず若々しい声で話しかけてくれた。万梨亜と亡くなった万梨亜の母は健三の世話になりっぱなしだった。母親は川崎の家で使用人として働いていたし、万梨亜も手伝っていた。健三は使用人である万梨亜達に、家族同様の扱いをしてくれた大恩ある人間だった。
母親が近年亡くなってからも、大学や生活の面をいろいろと心配してくれた。学費を出すとの申し出は断るのが大変だった。それでも健三は何かに事つけて万梨亜の部屋に訪れ、降るようにプレゼントをくれたり、食事に誘ってくれた……。
『万梨亜が恋人ができるまではね』
『マリアがいつも世話になっているから、お返しに』
『お誕生日おめでとう』
『会社ではどう?』
太陽のように暖かくて優しい健三を、万梨亜はこっそり見知らぬ父のようだと思っていた。万梨亜は父を知らない。物心ついた頃から父親の姿は無く、母親は何も教えてくれなかった。だからこそ健三の優しさに父親像を重ねていた。
それなのに万梨亜は、健三のおかげでカワサキハウスに入社できたのに、自分のせいであっけなく辞めてしまったのだ。
健三は万梨亜を一目見るなり言った。
「少し痩せてしまったのかな? ……新しい会社で苦労しているのか?」
「……いえ、そんな事は」
「突然辞めてしまったものだから、心配していたんだよ? マリアの婚約披露パーティーには来てくれるだろうね? マリアが君に話していたようだから、相手は誰か知っているだろうが」
「………………」
行けるわけがない。でも大恩ある健三からのお願いだったら行かねばならないだろうと、万梨亜は胸が鉛がついたように重くなり、さらに俯いた。
一瞬しんと静まり返った空間を破るように、大島が健三に話しかけた。
「それで、今日は何故こちらに?」
「ああ、挨拶が遅れてすまんね、玲君」
「いえ、父とはいつも懇意にしていただいておりますから。でもこんなふうにいらした事はなかった様に思います」
「……君にかこつけて、万梨亜に会いに来たんだよ。私は万梨亜の父親代わりのようなものだからね」
もったいなすぎるその健三の言葉に、万梨亜は涙が出そうになった。健三はいつも優しい。
「そうでしたか。……実は、唐突で申し訳ないのですが、万梨亜と私は結婚したいと思っているんです。ですから彼女にここに住んでもらおうと思ってます」
「大島さんっ!」
また強引に話を進めようとする大島に、万梨亜は思わず鋭く声を投げかけてしまった。大島は意に介する風もなく、ゆったりと微笑む。
「必ず幸せにしたいと思っているんです」
「しかし、玲君は婚約者がいなかったかね?」
こほんと咳払いをひとつして、健三が言った。やはり健三も唐突過ぎると思ったのだろう。
「明日にでも破棄しようと思っています。それにこの婚約はもともと望んでいないものだったんです」
「それは知っているが……」
「川崎さんが万梨亜を薦めて下さったら、父も納得すると思うんです。お願いできないでしょうか?」
「う……ん……」
健三は考えあぐねているようだった。そりゃそうだろう、社長令嬢でもない万梨亜と社長令息の大島の結婚だなんて、薦められるわけがない。
「万梨亜はどう思っているのかな?」
「万梨亜は……」
大島が言おうとするのを、健三が止めた。
「すまないが、万梨亜の気持ちを直接聞きたいのだよ。万梨亜が望むのなら力になろう」
「…………」
二人がじっと見つめるので万梨亜はますます俯いた。二人は根気強く万梨亜の返事を待っていてくれたが、一向に口を開こうとしない万梨亜を見て、健三が言った。
「とりあえず、万梨亜は自分のアパートに帰った方がいいだろう。玲君の気持ちはわかるが、万梨亜はまだ心の整理がついていないようだから。婚約の話はそれからだね。玲君も今の婚約者の方に失礼のないように意思表示をして、綺麗に清算しなさい」
「はい……」
大島は納得がいっていないようだったが、年齢的にも立場的にも上の健三に言い含められて、しぶしぶといった感じで頷いた。
健三の車に乗って帰ろうとする万梨亜を大島が引きとめ、背後から抱きついてきた。万梨亜は人前でのこの行為に困ってしまった。耳元で大島は低く囁く。
「あきらめないぞ。そのうちお前は俺の后になるのだからな。ケニオンに帰ったら離宮に住まわせる、わかったな……」
「…………」
「もとの世界に戻れるまで、頻繁に逢いに行く事にしよう……。万梨亜」
背後から万梨亜の頬にキスをすると、大島は万梨亜を車の後部座席に座らせた。見上げる彼はもう優しい大島に戻っている。ばたんとドアが閉じられ、運転手が車を走らせ始めた。
流れていく景色を見る事もなく俯いている万梨亜に、健三が言った。
「……フォンダート君が電話をくれてね。なんでも玲君は、嫌がっている君を無理やり連れて行ったそうじゃないか」
「フォンダートさんが……?」
私は心がほわりと暖かくなった。
「フォンダート君は玲君を止めようとしたが、気絶させられたとか言っておったよ」
「…………そう……ですか」
「玲君が嫌なのなら、しばらくうちの屋敷に住むか?」
恐れ多い提案に万梨亜はびっくりした。
「いえ……っ、そんな。それは……」
「私は父親代わりとして、嫌がっている娘を助けてやりたいのだが……」
「いいんです、そんな事は。旦那様には奥様もマリアもいらっしゃるし、私みたいなのが」
「じゃあ、私の仕事場のマンションに住んだらどうかね? バルダッサーレの会社にも近いし、セキュリティは万全だよ」
「それは、私は、今のアパートで……」
かたくなに断ろうとする万梨亜に、健三は呆れたように笑った。
「とりあえず、今夜は泊まっていけばいい。アパートに帰って玲君に押しかけられて困るのは君だろう?」
万梨亜は頷くしかなかった。
車が止まった場所は、驚くべき事にジュリオのマンションだった。
「ここは……」
「なんだ万梨亜。知っているのかい?」
万梨亜は久しぶりに訪れるそのマンションを眺めた。そして健三に促されるままに入り口へ入ろうとした時にエレベーターが降りてきて、中からごみ袋を持ったジュリオが現れた。
「わっ……」
「うわっ……戸田さん、なんでここにっ」
ジュリオも驚いている。お互いびっくりしていると健三がおかしそうに笑った。
「なんだね、面白い偶然じゃないか」
「は、はい……」
万梨亜がとまどっていると、ごみをごみステーションに捨てて戻ってきたジュリオが、優しい微笑で見下ろした。
「大丈夫そうで良かったよ。嫌がってたみたいだったから、川崎さんに頼んだんだよ」
「なんで旦那様に……」
「いや、たまたまあの後会社に川崎さんから電話かかってきて、君の事聞かれたんだ。君、いい父親代わりの人が居たんだね」
健三に振り向くと、健三は立ち話もなんだからと言って、自分の部屋へ二人を誘った。
健三の部屋は最上階でかなり広かった。こんな贅沢な部屋は絶対に断らなければと万梨亜は思いながら、勝手ながらキッチンで湯を沸かして、健三がお好きな紅茶を入れて、リビングのソファに座っている二人へ持っていった。
万梨亜がトレイをテーブルに置いた途端、健三が万梨亜の両手を握って謝罪した。
「すまなかったね万梨亜。うちの会社の者がとんでもない事をしたそうだね」
「え……?」
「君の持っていった書類を勝手に廃棄したくせに、君が持ってきていないと難癖をつけたそうじゃないか」
万梨亜はジュリオを睨んだ。なんで終わった事を健三に言うのだろう。でもジュリオは厳しい目のままこう言った。
「会社の信用問題に関わる事だよ。これはいくらうちが立場的に下で、大した事のない取引先だって言ってもね、懇意のところと同じようにしなくちゃいけない。当たり前だ。あの課の連中はあの事件を揉みつぶしたんだ、すべてをあの佐原に押し付けてね」
「でもそれは佐原さんが」
「確かに事件の主犯は彼だが、同時に上司の責任でもある。監督不行き届きだよ」
深く頷いた健三が申し訳なさそうに、また万梨亜に謝罪した。
「本当にすまなかったね。ひょっとしていきなり会社を辞めたのにも、なにかあったからではないのかね?」
「いえ、それは……」
言いよどむ万梨亜の背中に、ジュリオの手が温かく添えられた。その熱さとやさしさに、万梨亜は顔を赤くした。大島に対しては恐れと嫌悪が広がるばかりなのに、この差は何なのだろう。
ジュリオは、これまでにないほど優しい顔だった。
「僕は君を誤解してた。でもあの時思ったんだ。あれくらいの責任感があるのに、なんでいきなり前の会社を辞めるようば事をしたんだろうって。仕事もできるみたいだし、誠実だし、……ひょっとしたら、あいつらに苛められてたんじゃないのか?」
「……いいえ、いいえ、そんな事は」
万梨亜は首を左右に振った。健三を傷つけたくはない。
「正直に言えよ」
「正直に言ってます。私、どうしても仕事についていけなくて辞めただけなんです。本当です……」
「…………」
自分の事で、優しい健三が傷つくのは見たくない。
「マリアもみんなも良くしてくれました。私の我侭なんです」
「万梨亜……」
ジュリオは残念そうに背中を覆っていた手のひらを外した。健三はそんな二人を不思議そうに見ていたが、やがて言った。
「……どうも、会社は大きくなると目の行き届かないところがあるようだね。大きくしようとそればかりを若い頃は考えていただが、考え直さなければならないのかもしれない」
反省にも似た言葉を健三が言うと、ジュリオがこう返した。
「その通りだと思います……」
それからは三人は遅い夕食を摂り、いろいろと話し合った。万梨亜は久しぶりにジュリオや健三の言う冗談に笑う事ができた。やっぱり家族のような健三がいると安心するのだろう。もちろん心の片隅でマリアに悪いと思ってはいたが……。
いろんな事があってとても疲れていた万梨亜は、健三に部屋を案内してもらい先にベッドで横になった。お酒を飲んだせいか眠りにあっという間におちていく……。
その夜は闇夜で月が出なかった。
ジュリオは帰り、皆が眠りに落ちてしんと部屋は静まり返っている。しかし、ひたひたと足音がして、万梨亜が眠っている部屋のドアが静かに開かれていく。廊下の明かりが部屋に薄暗く差し込み、真っ暗だった部屋が少し明るくなった。
人影はそろそろと入ってくると、眠っている万梨亜の横に立った。
「ん…………」
万梨亜が寝返りを打って仰向けになった。長く波打つ髪がさらりと流れる。彼女は深い眠りについていて侵入者に気づかない。もっとも彼女が目覚めないのにはわけがある。彼女が飲んだ酒のグラスには薬が入っていたのだ。
侵入者の手は、いとおしそうに万梨亜の頬を撫でると首筋へ指を這わせ、彼女のために用意されていた夜着の前ボタンにかかる。
「万梨亜」
恍惚とした声で侵入者が名を呼びながらボタンを外していく。侵入者は彼女の横に寝転がると、彼女の肩と腰を抱えて抱き寄せた。
薬が良く効いているようだと思いながら侵入者は微笑み、まろびでた乳房をしつこく愛撫する。
「……あ……は…………ん、ん……」
眠っているのにも関わらず身体は反応して、万梨亜の呼吸は荒くなり熱くなった。たまらなくなった侵入者は、万梨亜に口付けをしながら下腹部に手を伸ばす。
「万梨亜、万梨亜、お前を誰にも渡しはしないよ……」
男の顔が、廊下からの明かりによって浮かび上がった。それは万梨亜が父と慕っている川崎健三だった。先ほどまでの自愛に満ちた父親の顔ではなく、劣情に満ちた男の顔になっていた。
「大島の倅などに渡すものか。安心しなさい万梨亜、徹底的につぶしてやるから。お前は安心してここに住んでいたらいいんだよ……」
健三は普段から年齢よりかなり若く見える。下手をすると娘であるマリアの兄と見えるぐらいに。マリアは彼が十九歳の時の子供だった。
「ああんっ……はあ……っ……あ……あ……や……」
万梨亜は眠りながらも声をあげる。彼女は目覚めても、こんな事をされていたとは覚えていないだろう。それを知っているので健三は大胆な事を繰り返す。柔らかな乳房にしゃぶりつき、固くなった先端を甘く歯噛みしては吸い付く。そして下着をすべて取り去って股に手を差し込み、秘められたそこを指でなぞった。
「……ふ……うん……んんん」
「いい声を出すね万梨亜。あの大島にもこの声を聞かせてしまったのか? 許せんな」
固くなった肉の芽をいらいながら、ぬかるんだ秘唇へ指を押し込み、じゅぶじゅぶと抜き差しをしながら、健三は万梨亜の身体を跳ねさせた。
「あは……っ……いっ……や、や、も……ああっ!」
「君が欲しくてずっと我慢していた……、万梨亜、なんて君は綺麗なんだろう。ここはやわらかく溶けて……ああ……熱い」
蜜で潤みきっている中へさらに指を増やし、かき回しては万梨亜を狂わせていく。健三は着ている服を邪魔に感じ、万梨亜を攻めながらせわしなく上下を脱ぎ捨てた。まだ若い肉体が現れ、熱くなっている万梨亜の柔肌に絡みつく。
その二人を見下ろす黒い影が部屋の隅に現れた。
「浅ましい事じゃ、娘のような女に……。じゃがお似合いかも知れぬ、わらわのデュレイス様は渡しはせぬぞ、万梨亜」
影は人の形になり、ヘレネーになった。
やがて健三は万梨亜の足を抱えて広げると、その間に自分の身体を沈めた。そしてそのまま揺さぶり始める。眠っているのに万梨亜は声をあげ、健三に応える。
「どこまでもデュレイス様を翻弄しおって憎らしい女じゃ。今に死ぬより辛い目に遭わせてやろうぞ」
ヘレネーは健三の狂宴から、漆黒の闇へ視線を移した。そこにデュレイスである大島玲が眠りに入っているところが見えた。ヘレネーは歩いていき、空間を飛んで玲の枕元へ跪く。
「つれないお方じゃ。このわらわがこんなに愛しているというのに、何故あの女のほうを求められるのか……。いかにすれば貴方様をわらわだけのものにできるのじゃ……」
玲の手を取って頬ずりするヘレネーの腕に、ひんやりとするものが当たった。ヘレネーはかっと目を見開いたが、腕に当たったのは室内だというのに、溶けていく雪の結晶だった。
「……まさか。あの王子は何もかも失っておるのじゃ。じゃがこの気配は……」
「ヘレネー、そろそろ遊びは終わりにせよ」
背後にルキフェルが立った。やや気まずげにヘレネーは立ち上がる。
「じゃが兄上。この気配は」
「その男にかまけるな。万梨亜の親代わりの男など焚き付けて何を考えている」
「…………」
ばきりとヘレネーは持っていた扇をへし折った。それはヘレネーの手を離れると同時に赤く燃えて消える。
「悋気はほどほどにするがいい。デュレイスの邪魔をするなヘレネー」
「…………承知した、兄上……」
「この世界に長く居れば居るほど、我々は不利になる。覚えておけ」
「何故じゃ。兄上がこの世界を握ったのでは?」
ルキフェルは面白くなさそうに顔を歪め、冷たくヘレネーを見返した。
「あまりに事がうまく運びすぎた。警戒するべきだろう」
「……ほほほ、兄上でも怖いものがあるとはおかしいのう」
「なぶるな。驕ればジュリアスのように身を滅ぼす。とにかく余計な事はこれ以上するな」
「しかし兄上。万梨亜に芽生えた青い魔力を打ち消す好機やもしれませぬぞ。父と慕っていた男が、劣情にまみれた汚らわしい男だと知った万梨亜は絶望するはずじゃ。我等の手に落ち易くなりますぞ」
「どちらにしろ時間はあまりない、これ以上は何もするな」
ルキフェルははき捨てるように言うと、姿を消した。ヘレネーも姿を消し、眠り続ける大島だけが部屋に残された。
その玲にも、先ほどと同じような雪の結晶が、一片舞い落ちて消えていったのだった……。
翌日、目覚めた万梨亜は幸福にも似た思いでいた。すでに部屋には健三の姿は無く、万梨亜はベッドの上で大きく伸びをしながらキッチンへ向かった。そこには健三のメモが残されていた。
”おはよう、お寝坊な万梨亜。私は先に会社に行くからね。君は早くこちらへ引っ越してくるように。 健三”
「お寝坊とはひどいわね、旦那様ったら」
万梨亜は微笑みながらキッチンのテーブルの椅子に座った。その身体は昨夜、健三によって丹念に洗い清められ、用意してあった同じ種類の夜着を着せられていた。だるさを感じるものの万梨亜の気分は晴れやかだった。大島の家に帰らなくてもいいのだから。何よりジュリオと同じマンションに居るのだ。
「……越してきても、いいかな……」
ぺたりとテーブルに片頬をつけ、ぼんやりとジュリオの顔を思い浮かべる。
できる限り近くに居たい、そう思いながら万梨亜は小さく微笑んだ。