ディフィールの銀の鏡 第36話

 新幹線の終点は名古屋だった。万梨亜はそこで新幹線を降りて駅前のホテルにチェックインした。もっと先に行きたかったが、残っている普通列車はどれも皆田舎過ぎてホテルなど無い所が終点だと駅員に説明され、仕方なく諦めたのだった。

 会社はもう深夜で誰も居ないだろうから、明日朝早く電話したほうがいいだろう。

 ビジネスホテルの空調が響くだけの静かな客室の中で、万梨亜はバッグをベッドに放り出して寝転んだ。

 携帯の電源を入れると、予想通りずらりと並んだ着信通知とメールが七件表示された。いずれもジュリオで、万梨亜が何処に居るのか心配しているものだった。留守番電話に入っている数件の録音の声は、とても静かだったが語尾が乱れていた。

 唐突に携帯が着信をつげ、万梨亜は心臓が跳ね返った。時計は夜の一時を指している。表示画面に浮かぶ名前は、”ジュリオ”だった。万梨亜は出るかどうかしばらく迷った。だがどのみち会社を辞めることは告げなければならないと思いなおし、通信ボタンを押した。

「もしもし……」

『万梨亜、どこにいる?』

 感情を押し殺したような不機嫌な声だった。気が小さい万梨亜は電源を切りたくなったが、言うべき事を言わなければとなけなしの勇気を出した。それでも携帯を持つ手が震えるし、声も掠れがちになる。心臓がうるさいので少しは静まって欲しい。

「ジュリオさん、私、会社を辞めさせていただきたいんです」

『…………』

「あの……、身勝手なのはわかってます」

『……それで今何処にいる?』

 万梨亜は一瞬言葉が詰まった。

「……、言えません」

『万梨亜っ……!』

 とても心配しているジュリオの声を聞くと駄目だった。あふれ出る感情で何もかも投げ出したくなる。これ以上聞いてはマリアとの約束が反故になりかねないと、さらに問いかけるジュリオを無視して電源を切った。万梨亜の携帯電話はとても機種が古いのでGPS機能はついていない。これでジュリオに探し出される心配は無い。

 とても怒っているだろう。呆れているだろう。それでいい。いい加減で無責任な女だと、思ってくれたほうがいい。ジュリオみたいな素敵な男性にはもっとお似合いの人がいるはずだ。そう思っているはずなのに、胸になにか重い塊がぶら下がって、気持ちが沈んでいく。

「……ふっ…………」

 泣きそうになった万梨亜は、首を乱暴に横に振った。彼はこれで幸せになれるんだから、うれしくて幸せな気分になるはずだ! こんな未練がましい自分は嫌だ。だからマリアに嫌われるような醜さを持つんだろう。

(ごめんねマリア。ごめんねジュリオ。ごめんね会社の皆。ごめんなさい)

 翌日、起きたのは朝の九時過ぎだった。万梨亜はゆっくりとベッドから起き上がり伸びをした。昨日の夕方までは満たされたものがあったのに、今日は何故か空っぽだ。万梨亜はため息をついた。でも仕方が無い、マリアと約束したのだから……。

 荷物をホテルに預かってもらい、万梨亜はそのまま街へ繰り出した。もっと西へ行ってもいいが、このあたりで自分にふさわしい職が見つかるかもしれない。

 ホテルがある駅前通りは人が多かった。そしてこの時間帯に私服の若者が多い事で、今日が土曜日だという事に気づいた。

「今日はハローワークやってないわ……」

 昼過ぎになると、さらにこの駅前は人でごったがえすのだろう。

 朝食がまだだったので、取りあえず目に付いたカフェに入った。なかなかお洒落な内装で、ジュリオが見たら喜びそうな感じだと思ってしまった後、万梨亜は俯いて額を押さえた。

(駄目だな……)

 どうしても彼に想いが繋がっていく。どうしたら自分の心は彼を忘れてくれるのだろう。

 やってきたウェイトレスに、サンドイッチとアールグレイを頼んでぼんやりと窓の外を眺めていると、背後の席から焦っている男の声が聞こえた。

「どう言う事さ来れないって? はあ? 彼女を見つかるまで探す? 馬鹿かお前、そんなんでお得意様を逃す気か? は? 構わない? こらっ、待てって、おいっ……くそ!」

 後ろの席の男の声に聞き覚えがあるなと思いながら、そっと振り向くと、一度だけ会った事のある人間だった。万梨亜は見なかった振りをして、席の間にある観葉植物の陰に隠れた。

 バルダッサーレ・フォンダート。

 ジュリオの父親であり、株式会社バルダッサーレの社長だ。

 何でこんな所で、朝から携帯電話で喧嘩してるのだろうか。今の話内容からすると、ジュリオは仕事を放り出して万梨亜を探しているらしい。昨日の言い方はまずかったようだ。やはり直接会って、辞職を申し出たほうが良かったのかもしれない。でもそんな事をしたら決心が鈍るかもしれないから、やはり駄目だ。

 サンドイッチを食べていないが、ここで捕まるほうが問題だった。万梨亜はそっと席を立って店を出て行こうとした。しかし、相手の方が素早かった。万梨亜は知らないが、この社長は神なのだから……。

「あれえ? 君ってうちの会社の万梨亜ちゃんだよね? 何でこんな所に居るの?」

 タイミングが早すぎる。ひょっとすると、店に入ってきた時からばれていたのかもしれないと万梨亜は思った……。

「いえ。そんな名前じゃ……」

「こんな美人を間違えるわけない。あ、私もご飯まだなんだ、一緒に食べようよ」

「あの、困るんですが……」

 だが社長は勝手に同席してしまった。人の言う事を全く聞いていないようだ。社長はジュリオと同じ端正な顔立ちだが、性格はちっとも似ていない。ジュリオはおそらく母親似なのだろう。

 おまけにちっとも社長らしくない。年齢にふさわしくない口調で話すのだ……。

「ジュリオは万梨亜ちゃんにベタぼれみたいでね。昨夜から警察みたいに探しまくってるよ。イケナイ子だなあ」

「……すみません」

 万梨亜が頭を下げると、社長はテーブルに頬杖をついてくすくす面白そうに笑った。

「でもま、ちょうど良かった。今日の昼に昼食会があってさ、ジュリオが来られないって言うから困ってたんだよね。基本パートナーと参加なもんでね。私は妻が死んでるもんだから、ジュリオと参加するつもりだったが、美女の方が楽しそう♪」

「あの、私は辞職したので……」

「そんなの受理してないから。ジュリオも私も」

「困ります!」

「困るのはこっち。勝手に一方的に止められても困る。次の人員なんてそうそう確保できないんだからね。君が受け持ってる仕事いくつかあるだろ? あれを多忙なほかの連中にやらせる気?」

 勝手なのは十分承知だ。しかしこれ以上万梨亜がバルダッサーレにいたら、迷惑がかかるのは間違いない。建築大手のカワサキハウスの令嬢のマリアを敵にしたら、父親である社長を通じて、バルダッサーレは業界から閉め出されるかもしれない。健三は万梨亜にはお優しいが、バルダッサーレにまで優しいかどうか分からないのだから。それにマリアは社長同様顔がとても広く、あの美しさと頭のよさで、とても評判がいい。そんな彼女の言う事は板金の重みを持つ。カワサキハウスではただの秘書でも、社交界では誰もが一目置く存在なのだ。

 頼んでいたサンドイッチとアールグレイがやって来たが、手をつける気にはなれなかった。万梨亜はアールグレイに映る自分の顔に視線を落として、膝の上の拳を握る。

「……無責任で構いません。とにかく私はもう辞めると決めたんです」

 社長はため息をついて、しばらくテーブルを人差し指でトントン叩いていたが、やがて言った。

「わかったよ。でも今日一仕事して。それが終わったら辞職を受け入れるから」

「……その昼食会に出る事ですか?」

「そ。ジュリオが来れないって言うから仕方ない。それは君のせい。少しでも責任を感じているんなら出てくれるよね?」

 痛いところを突かれ、万梨亜はしぶしぶ受け入れざるを得なかった。 

 それから万梨亜は、昼食会に行くのに衣装合わせをしないといけないと社長に言われ、名古屋のレンタルショップを回る羽目になった。最初は社長が皆買ってあげると言って、ブランドショップに入ったのだが、万梨亜は慌てて断った。どちらにしてもお金がかかるが、そんな高価なものはいらない。

 だいたい昼食会で、なぜそんなにドレスアップが必要なのか? 普通のスーツで十分だと万梨亜は思う。

 結局、社長に強く勧められた、ヴェルサーチのロングワンピースドレスを着る事になった。マリアが貸してくれたのと同じノースリープだが、これはさらに大人っぽい……、というかスタイルが良くないと似合わないデザインだ。全体に細やかなドレープが縦に入っていて、それが体型をそのまま浮き彫りにしてしまう。

「……しゃ、社長……これは、ちょっと……」

 大きく開いた胸元も気になるし、普段から気になっている大きなお尻が、さらにクローズアップされているのが嫌だ。だが社長は万梨亜の頬にキスをして(!)、笑い、満足そうに言った。

「このドレスも幸せだね、やっと着るにふさわしい人に出会えたようだよ」

「本当に……、惚れ惚れしますね」

 着せ付けてくれたショップの店員まで、そんな事を言う。万梨亜は恥ずかしいのに。その気にさせるのが上手な人達だ。

 別室に移り、メイクをされている万梨亜に社長が言った。

「君は宝の持ち腐れ過ぎるよ? えーと、あの川崎マリアのお古の服も悪くは無いがね、あのお嬢さんみたいな寸胴スタイルの子のドレスは、イマイチなんだよね。昨日着てただろ?」

「マ、マリアは寸胴なんかじゃっ」

「はいはい、動かないでくださいねー」

 メイクをしてくれる男が、万梨亜にファンデーションをはたきながら言った。万梨亜は他人にメイクされるなど初めてなのでもどかしかった。何をそんなに念入りに、塗ったりはたいたりするのだろう。

 社長は、黙らざるを得なくなった万梨亜に言った。

「君はね、しっとり系のたおやかな美女なんだよ。まああの娘も悪くは無いが、口達者なおしゃべり女の服は、君には似合わないな。ああ、どこで見てたかって? 昨日、パーティーに呼ばれたから行っただけ。すぐ帰ったがね……。あの男も気の毒だよねえ……あんな根性悪女と結婚だなんて。未練がましく君を見てたの知らない? あれは後で、あのおしゃべり女にしぼられたんじゃないかなあ」

「…………」

 万梨亜は素敵なドレスだと思っていた。それにそんなにマリアを悪く言わないでほしい。

 化粧が終わると髪を整えられた。それはそのまま流したほうがいいと言われ、スプレーをかけられた後、ブラッシングだけで終わったのでホッとした。

「おお、これはすごい美女ができたねー。ふふふ。気分よく過ごせそうだ」

 社長はなにやらご満悦だが、万梨亜は二時間近く人にあれやこれやされてくたびれただけだった。これからさらにくたびれる昼食会に行かねばならないかと思うと、履かされたハイヒールにため息をつきたくなる。だいたい自分のどこが美女だと言うのだろう。あからさまなお世辞はいっそう不快になる。

 昼食会があるという市内のホテルへタクシーで移動し、連れて行かれた控え室になっているホテルの部屋で、万梨亜はいらいらしていた。社長は先ほどからテレビを見て、くだらないバラエティを見て笑っている。息子のジュリオと違って、どうも子供っぽいし落ち着きが無い。ジュリオの真面目さを分けてあげたいくらいだ。

「おっそいなー。せっかくの機会なのに」

 テレビを見ながら、社長がぶつぶつ言っている。そんなに他社とのつながりが欲しいのなら、万梨亜などパートナーにしても逆効果だというのに。

(昼食会など無くなってしまえばいいのにな……)

 万梨亜は窓辺で外の景色を眺めながら、場違いな所にいる自分が嫌になった。

 

 ふと、そよいだ風と共に爽やかな匂いがした。

 ここで匂うはずがないはず、それは別れようと決めた人の香りだった。あるかなきかのその香りは、抱きつかれるほど接近されないとわからない……。

 

 万梨亜の身体に腕が回された。肌がこの温かさを覚えている……。ゆっくりと背後を見ると、怒りと切なさを湛えた目が万梨亜を見下ろしていた。

 ジュリオではない。長い銀の髪が揺れるジュリアス王子。

 青い光を放ちながら荒い息を吐いている。万梨亜は驚いて声も出ない……。ジュリアスがそんな万梨亜の肩を掴んで自分に向けさせた。

「やっと見つけた、万梨亜」

 激しいキスが、そのまま万梨亜に降って来た。

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